天秤が傾くとき(2)

 新しいホールの工事は急ピッチで進められている。内装の仕上げ作業がまだ続行中だが、今日から合わせの練習は新ホールで行われることになっている。

 華音は学校が終わる時間を見計らい、夕方近くになってからようやく新ホールへとやってきた。

 足場や建材の脇をすり抜けるようにして、仮の控室となっているリハーサル練習室へと向かった。



 部屋に入ると大小の荷物が散在していた。楽屋の内装工事がまだ終わっていないため、団員たちの荷物のほかに、据付前の大きな備品にはビニールがかけられたまま、部屋を区切るようにして壁のように置かれている。

 本来であればこの部屋は最終リハーサルを行うために使用される予定で、フル・オーケストラが配置できるほどの広さがあった。しかし今は、半分ほどの余裕しかない。


 部屋の中に人の姿はなかった。

 華音は腕時計を確認した。合わせの練習が始まるまで三十分ほどある。

 おそらく新しいステージの見学に団員たちがこぞって繰り出しているに違いない――華音は近くにあった椅子に腰かけた。


 ドアが開く音がした。

 座ったまま振り返ると、そこには厳しい顔をした音楽監督が立っていた。


「なにボーっと座ってるんだよ。あとで県連の理事長が挨拶にみえるから、来たら応接室に通しておいて。あ、応接室は事務管理室の横だから、間違えるなよ」


 華音は返事をするのも忘れ、突然目の前に現れた鷹山の顔をじっと見つめていた。

 二度と同じ過ちは繰り返さない――華音は努めて冷静を装い、富士川と会っていたことを鷹山に悟られぬよう、何度も深呼吸を繰り返す。


「ちょっと芹沢さん、僕の話聞いてる?」


「聞いてません」


「開き直るなよ。まったく……君がちゃんとしてくれないと僕が困るんだからな?」


「へえー、鷹山さんが少しくらい困ったところを見てみたいですけど」


 鷹山は片眉を引きつらせた。そして大袈裟に両手を広げると、わざとらしく華音の座る椅子の周りをぐるぐると何周も歩き回りながら、嫌味を込めて言い放った。


「うわー、何この生意気娘。可愛くない。ムカつく。最低最悪。その減らず口を今すぐ塞いでやろうか?」


 鷹山は華音が逃れられぬよう、背後から椅子の背ごと抱きついた。不自然な体勢のまま、鷹山は無理矢理華音の頬に自分の頬をすり寄せる。

 この状態では、わずかでも華音が左に顔を向けると、コトは簡単にすんでしまう。

 誰かがいつ入ってくるか分からない。華音は鷹山の行動に焦っていた。

 しかし、先程まで自分がしていた行動の後ろめたさもあり、簡単に束縛を解く力が出てこない。


「し、仕事中でしょ。公私混同しないって言ってるくせに」


 理性を振り絞ってそう言うと、鷹山は腕の力をいっそう強め、華音の耳元でキッパリと言い切った。


「口で塞ぐとは限らないだろう。ガムテープで充分だガムテープで!」


「ええ? そ、そんなのヤだ……」


 この男なら本当にやりかねない――そう思っての弱気な返事が、鷹山にはそうは取られなかったらしい。その束縛を解くと、鷹山は華音の正面に回りこみ、失敬にも顔を指差していきなり笑い出した。


「何だよその顔! ハッ、冗談に決まってるだろう? ガムテープ探してる時間だって惜しいんだから。ほら、口開けて」


 鷹山はポケットから大きな飴玉を取り出しフィルムを素早く取ると、それを親指と人差し指でつまんだ。

 ビー玉のように透き通った綺麗な水色をしている。


「何するんですか?」


「いいから早く、ちゃんとほら」


 飴玉を目の前にちらつかせ、空いているほうの手を華音のあごにかけ、無理矢理口を開かせようとする。

 華音は思わず顔をそむけた。


「ヤだ、止めてよ恥ずかしい!」


「別に口移しじゃあるまいし……ああ、そっちのほうがいい?」

 鷹山はふざけて自分の口に飴を放り込むフリをした。もちろん本気ではないはずだ。その証拠に目が笑っている。

 しかし、華音は必死だった。


「わーっ! ごめんなさい、ちゃんと食べるから! ほら早く!」


 華音がツバメの子供のように大きく口を開くと、鷹山は満足げに微笑み、華音の唇の上から転がすようにしてその中に飴玉を入れた。


「糖分摂ったら少しはやる気が出てくるだろ。それ食べ終わったら、ちゃんと働けよ? 僕はまたステージで打ち合わせしてくるから」


 そう言って、鷹山はまたリハーサル練習室から出て行ってしまった。




 ソーダの味がする。

 鷹山とはいつもと変わらないやり取りだった。飴をくれたのは、疲れを見せている華音を気遣った鷹山なりの優しさなのだろう。

 その疲れの原因が「富士川祥と密かに会っていたこと」だとは、さすがに気がつかなかったらしい。


 ――祥ちゃんに、ひどいこと言った、私……。


【華音ちゃん、俺のことをそんなふうに思ってたのか?】


 ――違う。それは違う。


 鷹山に対する後ろめたさよりも、富士川を傷つけ関係を壊してしまったことに、華音は心を痛めていた。

 椅子に座っていても、富士川とのやり取りばかりが頭の中を反芻する。



 そのときである。


「それ、おいしい?」


 壁のように置かれている備品と備品の間から、突然一人の男が顔を出した。

 ヴィオラの安西延彦だった。携帯電話を片手に、無邪気に手を振っている。

 華音は驚きのあまり飴玉を飲み込みそうになった。喉に詰まらせる寸前で何とかくい止め、喋りやすいようにそれを右頬に収める。

 華音は怖々と尋ねた。


「あ、あ、安西さん……いつからそこに?」


「華音サンの登場する少し前くらいから、かなあ。俺、ここの陰でメール打ってたから」


「じゃあ、ひょっとしてその……ずっと聞こえてた?」


 華音はすっかり無人だと思い込んでいたのだ。先程の鷹山とのやり取りを聞かれていたとしたら――。


「口を塞いでやろうか、ってくだり?」


 飄々とした安西青年の言葉に、華音は全身の血が引いていくのを感じた。


「安西さん、本気にしないで! 鷹山さんってね、ああいうことを平気で冗談言う人なの!」


「華音サンには、でしょ? 誰にでもってわけじゃないよね? なーんか怪しいと思ってたけど、やっぱりそうなんだーって感じ」


 完全に疑われている。安西青年は妙に納得したように華音の顔をしげしげと見つめて頷いている。


「誤解しないでください! だから違うって」


「別に隠さなくったっていいんじゃない? さっきみたいな監督を見てると、何か安心する。厳しいだけの人間じゃないんだなーって」


「違うって、言ってるでしょー!?」


 もう何を言っても無駄のようである。



 華音と安西青年が言い合っているところへ、再びリハーサル練習室のドアが開いた。

 入ってきたのは、コンサートマスターの美濃部だった。


「二人ともなんだか楽しそうだね。何の話?」


「あ、美濃部サンお疲れ様です。いや、それがですね。華音サンと監督が――」


 華音は慌てふためき、安西青年の続く言葉を遮るようにして説明をした。


「いつもの罵詈雑言のことですから! 気にしないでください美濃部さん!」


 華音の必死の形相を見て、安西青年は告げ口する気を無くしてしまったらしい。軽くため息をつき、肩をすくめてみせる。

 そんな安西青年に、美濃部はコンサートマスターらしく助言をした。


「安西君、まだステージ見に行ってないんだろ? いま鷹山さんとあかりさんが、団員たちの配置をチェックしてるから、行ってくるといいよ」


「そうなんですか。んじゃ、そろそろ行ってきますかー」


 安西青年は意味ありげな愛想笑いを華音に向け、自分のヴィオラを携えて、リハーサル練習室を出て行った。


 ――絶対、気づかれた……。


 華音はどっと疲れを覚えていた。

 美濃部は特に気にしているふうでもない。それが唯一の救いだった。


「華音さん、手帳を貸してください」


 美濃部は華音が学校へ行っている間、代わりに鷹山のスケジュール調整などのサポート業務をしている。華音が楽団の練習場所へやってくると、引継ぎと称して二人で打ち合わせを行うのが恒例となっていた。

 二人がそれぞれ持っているスケジュール帳を二つ並べて、内容が同じになるよう互いの空欄を埋めていくのである。


「ねえ、美濃部さん」


「どうしたんですか、華音さん?」


 美濃部が華音のスケジュール帳を写す作業を、鷹山からもらった飴を舌の上で転がしながら、じっと眺めていた。

 そして、戯れに聞いてみる。


「美濃部さんは祥ちゃんと鷹山さん、どっちが好き?」


「それって、もちろん人間としてってことですよね?」


 美濃部は顔を上げず、文字を書く手を止めることなく淡々と答えた。


「どちらもそれなりに……じゃ、今の華音さんの助言にはならないのかなあ」


「助言だなんて――そんなつもりじゃなかったんだけど」


 どうして華音がそんなことを尋ねたのか、おそらく美濃部には分かっているはずだった。

 深い部分は知られていなくても、華音の心の迷いが透けていて、それが美濃部の目には見えているのだろう。


「私が客観的に見た意見を述べてもいいですか?」


「うん」


 富士川祥と鷹山楽人という、二人の弟子の間に挟まれた少女の心の葛藤を、美濃部は理路整然と解いていく。


「華音さん、鷹山さんに負い目を感じているんじゃありませんか?」


「……え?」


「そして、それが富士川さんに対しての負い目にもなってるのかな、って」


 華音は言葉を失い唖然としたまま、美濃部青年の顔を食い入るように見つめた。

 負い目――負い目だなんて。

 鼓動が早まっていくのを華音は感じていた。


「無理しないでいいんですよ、華音さん」


「美濃部さん……」


「華音さんにとって富士川さんがどんな存在であるか、私はよく分かっていますよ」


 それはまさに天の声にも等しかった。


 鷹山のそばから絶対に離れたくない。

 そして、鷹山と一緒にいるためには、富士川の存在を切り捨てなければならない。

 しかし。

 華音にはどうしても、富士川を切り捨ててしまうことなど――できないのである。


「あの二人が、いつか和解してくれたら――いいんですけどね」

 二人の弟子をよく知る美濃部の言葉が、今の華音には何よりの救いだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る