若き音楽監督の悩み(1)

 世の中は師走と呼ばれる季節となり、新しいホールのこけら落としはとうとう明日に迫った。

 華音が学校へ行っている間も、鷹山をはじめとする楽団員たちは、多忙な日々を過ごしている。華音が夕方ホールへ出向いても、鷹山は打ち合わせやら来客の相手やらで忙しく、落ち着いて言葉を交わすことすらままならない状況だ。

 すれ違いの生活が、かれこれ十日あまり続いている。


 今日は土曜日で、華音は学校が休みである。鷹山に指定された時間は十時だったが、華音は早めに家を出て、新ホールへと向かった。


 すでに中には、見知らぬ大人がたくさんいた。

 それぞれが首から身分証明書を提げている。そこには、『RAMP』と大きなロゴが印刷されてあった。

 オーナーの赤城と音楽監督の鷹山がかねてより設置をすすめていた、イベント用運営スタッフチームである。


 RAMPとは、レッド・アート・ミュージック・プランニングの頭文字を取ったと、オーナーの赤城が数日前、華音にそう説明をしてくれた。

 レッドとは、『赤城』の赤を意味するらしい。

 それを悪魔な音楽監督ときたら、「リッチ・アカギ・マネー・プリーズ」のほうが的を射ている、などと相変わらずの毒舌を披露してみせていたのだが――もちろんそのことは、オーナーには内緒である。


 それにしても、華音があらかじめ聞いていたよりも、随分と人数が多いようだ。どうやら、こけら落としのためだけに雇われた臨時スタッフも混じっているらしい。




 華音が慣れぬ雰囲気に途惑っているところへ、高野和久が悠々とやってきた。

 黒のダウンジャケットの下には、Tシャツを重ね着し、下はすり切れたジーンズとスニーカーという普段着姿だ。手には何も持っていない。ときおり車の鍵と小銭が、ポケットの中でぶつかり合う金属音がする。それが高野のすべての所持品だ。

 ピアニストなのに、楽譜すら持ち歩かない。暗譜しているといえば聞こえはいいが、高野の場合、単に面倒くさがっているだけである。


「ノン君、随分早いんじゃない? 言ってくれれば、俺も一緒に家を出たのにさあ」


 いつもの飄々とした口ぶりに、華音は肩をすくめてみせた。


「高野先生は一応客演のピアニストなんだから。一緒に行動なんかしてたら、鷹山さんに怒鳴られちゃうもん」


「まあ、それもそうだよなー。で、楽ちゃんは今どこ?」


 高野にそう問われたものの、今日はまだ鷹山と顔を合わせていない。

 悪魔な音楽監督様はいったい今どこで何をしているのか――華音は持っていたカバンの中からスケジュール帳を取り出し、ページをめくった。


「今は赤城オーナーと打ち合わせ中……かな。予定通りに行動してたらの話だけど」


「大丈夫なの? 二人っきりにさせちゃって」


 高野は心配そうにして華音に尋ねてくる。

 確かに、オーナーの赤城と音楽監督の鷹山は、和気藹々とした関係ではない。


「まあ、鷹山さんは相変わらず毒吐いてるけど、赤城さんもここぞというときにはちゃんと言うし。鷹山さんの暴走を止められる唯一の人だから、赤城さんは」


「楽ちゃんだって、麗児君の強引な無茶振りにも耳を貸さずに我が道を行く唯一の人だと、俺は思うけどなあ」


 結局のところ、似たもの同士なのである。

 衝突するとなると確かに厄介なのであるが、そこは赤城オーナーの年の功だ。無駄な争いは得策ではないということをきちんと踏まえており、物事を円滑に進めるためのノウハウをしっかりと持ち合わせている。


「稲葉さんは今日の午後に来日するって。そのまま成田のホテルに泊まって、当日のお昼前にはこっちに入るって言ってたよ」


「てことは、明日の俺のリハーサルはないな、きっと。……まあ、いいけど」


 高野と華音は、運営スタッフたちの邪魔にならないよう、エントランス正面の大階段を上っていき、真新しい革張りのロビー椅子に並んで腰を下ろした。


「和奏のヤツ、稲葉のほうがいいって言ったら……俺どうなるんだろ」


 高野はどこか寂しげに、愛娘の名を口にした。


「どうなるもこうなるも、もう俺は仁美ちゃんとは別れたんだし、関係ないんだけど」


 高野の元妻は無邪気に言っていた。


【和奏にね、選ばせてあげる】


【演奏会で上手だと思ったほうと一緒に……】



「稲葉は世界を舞台に活躍してるんだから、俺みたいに日本の片隅で小さな楽器屋やりながら、お遊び程度に演奏してる人間じゃ、とても比べものなんかにはならないし」


「ひょっとして引き受けたこと、後悔してる?」


「いいよ、もう。これで稲葉が納得するんだろ? そんなに仁美ちゃんのことが好きなら勝手にすればいい。和奏もそこそこ懐いてるみたいだしさ。あいつ金持ってるから、いい暮らしもさせてもらえるだろうし」


 勝ちたいという気持ちはどこにもないらしい。

 普段から口ぐせのように「音楽に優劣をつけるのはおかしい」と言っている高野である。明日のこけら落としも、なりゆきで弾かされる程度の認識なのだろう。


「家族を幸せにできなかった俺が、いまさら何も言えないから」


 それはきっと違う――華音は感じた。


 元妻の赤川仁美が。

 愛娘の和奏が。

 因縁のライバル・稲葉努が。


 どうしても高野和久という男にピアノを弾いて欲しい――たったそれだけの、純粋でひたむきな思いの存在に、当の本人だけが気づいていないのだ。


「でも、これで本当に終わるんだなーって。ちょっと未練たらしく、寂しく思う気持ちもある」


「まったく、意味が分からんな!」


 高野と華音が会話をしているところへ、別の男の声が挟まってきた。

 二人は声のほうを同時に振り返った。まだ幾分距離がある。しかしこの男は、とにかく迫力のあるよく通る声の持ち主――。


「あれ、麗児君?」


 赤城は仕立てのいいスリーピースとパステル調の派手なネクタイを身に着けて、磨き上げられた靴のかかとを小気味よく鳴らし、二人のもとへと颯爽と近づいてくる。

 その赤城の後ろから、鷹山が面白くなさそうな仏頂面でついて来ている。

 どうやら二人はホール客席で打ち合わせをし、それが終わって出てきたところらしい。


「和久、お前と稲葉氏は大学の同門なんだろう? ともに切磋琢磨し高めあった仲じゃないのか? 国際的に活躍してるからとか、家柄が良くて金があるとか、ホントお前は小さい男だ。だから、女に捨てられるんだ」


「麗児君、あのねえ……というか、地獄耳」


「お前のピアノは誰よりも上手い。それはこの俺が保証する!」


 赤城は、珍しく自分のことを『俺』と呼んだ。

 高校時代の若き二人に逆戻りする。


「麗児君の保証かあ……あんまり説得力ないんだけど。聴衆は麗児君より確実に耳肥えてるから」


 高野は珍しく、赤城に嫌味を放った。


「聴衆なんか関係ない。お前が思ったように弾けばいいんだ! 分かったか?」


「赤城オーナー、聴衆をないがしろにする発言は聞き捨てなりませんよ」


 後ろのほうから、鷹山がもっともらしいことを言った。


「ないがしろにするつもりはないがね、万人を満足させるなんて絶対に不可能だ。今回のように、稲葉氏の演奏のほうが楽しみだと思う客が大半を占める演奏会では、特にな。和久は、弾いて聴かせたいと思う『一人』のために演奏すればいい」


「ハッ、珍しくいいことを言いますね。あなたにそんなロマンティシズムを解する心があったなんて、驚きましたよ」


 鷹山の棘のある言葉に、赤城は冷ややかに眉をひそめた。しかし、いつものこととすぐに受け流す。


「一応、誉め言葉として受け取っておこう。さて……私はこれからあさってのこけら落としへ向けての最終チェックに専念する。気づいたことがあればその都度、確認させてもらおう」


「必要以上にうろうろされるのはハッキリ言って邪魔ですから。楽団員への口出しは最低限にしてください」


 また始まった――華音は半ばうんざりとなりながら、傍らの高野に目配せをした。

 音楽監督の毒に、当然オーナーはひるむことなどない。いつの間にやら、そのあしらい方は華音以上に上達している。


「演奏前にモチベーションを下げるな、だろう? 私だって、これでも少しは学んだよ」


「口だけではなく行動にも移してくれると助かるんですが」


「鷹山君」


 赤城は鷹山の牽制を遮るように、力強くその名を呼んだ。


「何でしょうか?」


「いよいよだな」


「そうですね」


「今の芹響は、君の楽団だ。この新しい本拠地のあるじだ」


 赤城は、広々とした吹き抜けのエントランスをゆっくりと見回していく。やがて、天井のモダンなデザインのシャンデリアに目をとめると、未来に思いを馳せるように、ゆっくりとその目を細めた。


「芹沢の名に恥じぬよう――期待している」




 高野は指慣らしをするため、一人リハーサル練習室へと姿を消した。

 赤城オーナーは新ホールをくまなくチェックするために、場内を回り始めたようだ。

 鷹山と華音は二人連れ立って、一階ロビー左翼の奥へと進み、関係者以外立ち入り禁止と記された、スチール製の重い扉の中へと入った。


 ここから先は楽屋棟だ。すぐそばには階段があり、四階まで繋がっている。

 一階はおもに裏方スタッフ専用、二階は楽団員専用で大楽屋と中楽屋が連なっている。

 目指すは三階である。音楽監督専用控室および客演ソリスト用の楽屋がある。


 華音は落ち着きなく辺りを見回しながら、先に階段を上っていく鷹山の背を追いかけた。

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