天秤が傾くとき(1)

 命日から数日が過ぎた、ある平日の午後のことだった。

 華音は制服にコート姿、そして通学用のカバンを携えたまま、とある場所を目指していた。

 晩秋の木枯らしが肌に刺すようにして吹きつける。

 もうここへ来ることはないと、華音はそう思っていた。しかし、以前ここを訪れたときとはまったく気持ちが異なっていた。


 見知ったマンションのとある部屋のドアの前に立ち、念のためドアの引き手に手をかける。

 金属同士がぶつかる鈍い音がする。やはり鍵がかかっている。

 華音はドアに背を預けるようにして、そのまま冷たいコンクリートの床に座り込んだ。



 どのくらい時間が過ぎただろう。

 やがて遠くから誰かがやってくる気配がした。その聞き覚えのある歩調に、じっと耳を澄ます。

 間違いはない。

 華音は息を吸い込んだ。冷たい空気が肺に詰め込まれる。


「……華音ちゃん?」


 ピクリと華音の身体が反応する。とても懐かしい、自分の名を呼ぶ声に、華音の心は震えた。

 声のするほうを振り向くとそこには、驚きの面貌でたたずむ富士川青年の姿があった。

 部屋のドアの前に座り込んでいる華音の前に、富士川はすぐさま片膝をついてしゃがみ込む。そしてそっと華音の頬に手を伸ばし、優しくなでさすった。


「どうしたの……こんなに冷たくなって。いつからここに?」


「お昼に学校早退してから、ずっと」


「えっ、具合が悪いの? 中に入って待っていてくれれば良かったのに」


「祥ちゃんとこの鍵、取り上げられちゃったの」


 華音の言葉に、富士川はさらに驚いたように眼鏡の奥の瞳を見開かせた。

 誰に、などと説明をするまでもない。


「夕方にはね、戻らないといけないから、祥ちゃんに会うためには早退するしか――なかったの」


 愛しむような柔らかな眼差しが、華音のすぐそばで揺れている。


「前もって電話してくれれば、もっと早く帰ってきたんだよ……それなのにこんな」


 富士川はもう一度優しく頬をさすった。

 もうすでに、華音は崩れてしまいそうだった。




「お昼ご飯は食べたの?」


「ううん、食べてない」


「今作るから、ストーブにあたって待ってて」


 富士川祥は非常に器用な男だった。食事もできる限り自炊をしており、一通りの料理は作れるようだ。芹沢家に居候している頃から、執事にお茶の給仕の仕方を習ったり、家政婦に料理を教わったりしているのを、華音は昔からよく見ていた。

 キッチンで手際よく支度をする富士川に、華音は電気ストーブを前にして、背中越しに問いかけた。


「聞かないの?」


「何を?」


「私がここに来た理由」


「聞かないよ。聞かなくても分かるから」


 昔と何も変わらない。

 しかし、どうも素直になれない。華音はあえてつけ離すように言った。


「ふうん……藤堂さんからいろいろ聞いたりしてるんだ?」


「あのさ。俺は華音ちゃんのこと、誰よりも詳しいんだから。そんな、誰かに聞かなくったって、華音ちゃんの顔を見れば大抵のことは分かるさ」


 手早く調理を続けながら、富士川はキッチンから言葉を返してくる。


「じゃあ、藤堂さんに聞いてないの?」


「特になにも。別に聞くこともないし。俺のことを心配してくれるのはありがたいけど、もう別の団体のメンバーだしさ。藤堂は鷹山といろいろやり合ってるみたいだけど、あの二人は歳も近いし、結構いい組み合わせなんじゃないか?」


 スッキリしない答えだった。

 別にあかりの肩を持つ気はなかったが――彼女は誰よりも富士川を尊敬し、いつか芹響に帰ってくることだけを信じて、鷹山に真っ直ぐ向き合いぶつかっているのである。

 それなのに、当の富士川がこんな調子では、その思いはまるで報われない。

 華音は富士川に気づかれないように、小さくため息をついた。



 しばらくして、富士川が二つの皿を携えてリビングへ移動してきた。

 センターテーブルの上に出来立てのチャーハンを並べ、富士川は華音と向かい合うようにして腰を下ろした。


「ほら、冷めないうちに食べて」


 華音は、自分に差し出された皿をじっと眺めた。

 卵とたまねぎとハムの芳しき匂い。そして、その見た目が富士川と自分の皿とで違うことに気づく。


「大丈夫だよ、俺のにしか、入ってないから」


 華音は顔を上げ、驚きをあらわにしながら富士川の顔を見つめた。

 言葉に出さなくても考えていることが伝わったらしい。富士川はその答えを淡々と説明し始める。


「俺が今いる団体のオーボエがさ、山歩きが趣味なんだって。冷蔵庫はもらい物のキノコだらけだよ。華音ちゃんは嬉しくないだろうけど」


 どうしようもなく胸が痛む。

 たった、これだけのこと。

 富士川祥という男は、華音にとって他人であっても、家族と同じだったのだ。食べ物の好みくらい、当たり前のように知っている。


「どうしたの、華音ちゃん?」


 富士川の声がどこか遠くで響いている。その声に被さるようにして、先日の出来事が鮮明によみがえってきた。


【それ、好きなの嫌いなの?】


 二人で初めて食事を共にしたとき、華音がプレートの隅に除けたキノコを見て、鷹山はそう言った。


【あの男はいったい何なんだよ】


【――僕は君の、……何なんだよ】


 その答えが存在するのであれば、華音自身がそれを教えて欲しいくらいだった。

 富士川祥という人間が華音にとって、どんな存在であるかということを。

 そばにいるのが当たり前の『他人』。

 祖父の愛弟子。

 華音のすべてを受け入れてくれる、かけがえのない存在。

 どんなことがあっても華音をかばい、いつでも守ってくれる。

 守ってくれていたと、今はそう言うべきなのだろうが――。


 当たり前――それが当たり前、なんて。


 胸が締めつけられる。

 鷹山の声が、華音の脳裏をよぎっていく。


【僕が知らないことを、富士川さんが知っているのか、ってことだよ】



 華音は手付かずのままのチャーハンの皿の上に、静かにスプーンを置いた。そして、向かいに座る富士川に向かって頭を下げた。


「あの……鷹山さんが、祥ちゃんに失礼なことをして、ゴメンなさい」


「どうして華音ちゃんが謝るの」


「本当に、ゴメンなさい」


 鷹山が兄弟子の富士川の顔にコーヒーをかけた、その原因が自分にあったと知った今――。

 華音にはこうする他はなかった。


「華音ちゃん、ひょっとして……鷹山の奴に辛い目に遭わされてるんじゃないのか?」


「違う。そんなこと、ない」


 確かに、平穏な日々とは縁遠い。口悪く罵られることもある。喧嘩することもある。

 だが、決してそれだけではない――。


「鍵を取り上げられたり、こうやって見つからないように学校を早退してまでここまで来たり」


 華音は否定しようと何度も首を振った。

 しかし、富士川にはそれが上手く伝わらないようだ。


「まったく鷹山の奴、俺にたてついて反抗するのはまだしも、華音ちゃんにまでそれを強要してどうするんだ!」


「どうして……祥ちゃんがそんなこと言うの?」


 違う。

 それは違う。


「どうしてって、華音ちゃんのことが心配だからに決まってるだろう!?」


「心配? 私がおじいちゃんの孫だから? そうなの?」


 富士川は呆気にとられた顔をしたまま、言葉を返さない。

 華音はさらに、たたみかけるように言った。


「そうなんでしょ? だったら、おじいちゃんがいなくなっちゃったらもう、関係ないもん。私のことは、祥ちゃんには関係ない――」


「関係ないわけがないだろう!?」


 突然の大声に驚き、華音はとっさに両目をつぶった。

 富士川が華音にここまで声を荒げるのは、華音の記憶の中では初めてのことだった。

 華音は思わずひるんだ。しかし、ここ数ヶ月で随分と免疫がついている。もちろん饒舌な音楽監督の影響なのだが――。

 華音は再びゆっくりと両まぶたを開き、じっと富士川の顔を見据えた。


「私は……私は、関係ないなんて思ってない。思ってなかったって、言うべきなのかな。関係なくなったって思ってたのは、祥ちゃんのほうでしょ」


「華音ちゃん、俺のことをそんなふうに思ってたのか?」


 目には見えないヒビが、瞬く間に大きな亀裂へと変貌を遂げた瞬間だった。


「だから、だからあのとき、私をひとり置いて出て行っちゃったんでしょ? 違うの?」


「……」


 崩れ落ちていく。

 音もなく。

 揺るぎないはずの二人の絆が壊れていく。

 いま自分が、富士川の心を傷つけそして――壊しているのだと。


「祥ちゃんから見たら、鷹山さんはおじいちゃんに反抗ばかりしていた不義理の弟子なのかもしれないけど、祥ちゃんだって今同じことしてるじゃない!」


「俺は芹沢先生に不義理を働いたことなんかない。絶対にない!」


 富士川は驚きのあまり、混乱を隠せずにいる。幼い頃から妹のように面倒を見てきた少女の変貌ぶりに、少なからず途惑いを覚えているようだ。

 誰よりも師を敬愛している自分が、まさか『不義理を働いている』と言われてしまうなど、思ってもみなかったことだろう。


「新しい楽団を率いていくのはもの凄く大変なことなの。おじいちゃんがいなくなって、古くからいた団員たちも辞めていって、今じゃ芹沢という名前を残し続けるのが忍びないくらい。でも――」


 分かって欲しかった。

 華音が富士川に伝えたかったことは、たった一つ――。


「それでも鷹山さんは楽団を背負ってくれてる。『芹沢』の名前を残そうと頑張ってる。だから、鷹山さんのことを悪く言わないで」


「華音ちゃん……」


「今ここに祥ちゃんがいてくれたらって、何度思ったか……でも祥ちゃんはいなかったじゃない!」


 富士川がずっとそばにいてくれていたら――。

 鷹山とも深入りすることなく、それなりに平穏な暮らしを送っていたに違いない。


 ナイフで彼の腕を刺すこともなく、彼から強引に関係を迫られることもなく、彼に芽生える愛情に悩むこともなく、彼と実の兄妹だという現実に苦しむこともなく――。


「祥ちゃんがいつまでもそんなんだから、そんなんだから、私……」


 華音はとうとうこらえきれずに、両目から涙をあふれさせた。

 わずかな沈黙が二人を包む。

 やがて富士川は、哀しげな面貌で呟いた。


「……すべては俺の弱さのせいだ」


 富士川は華音のそばへと移動し、両手で優しく華音の涙を拭った。


「俺が華音ちゃんをこんなにも苦しめてしまった」


「祥ちゃん」


 この男が、世界のすべてだった。


【華音ちゃんを困らせるような真似をしたら、絶対に許さないからな?】


 この男は、自分のすべてを預けることのできる、唯一無二の存在なのだ。

 この男の存在を否定されることは、華音の過去をすべて否定されることと同じなのである。

 見つめ合う二人の瞳に、互いの姿が映る。


 次の瞬間。

 華音は、富士川の膝の上に抱え上げられるようにして、半ば強引に抱き締められた。


 背中に回される富士川の腕と掌の力強い感触に、華音は気が遠くなりかけた。


 ――駄目。このままじゃ……。


 鷹山に対する義理立てでもあったが、それだけではない。

 肉親としての情愛が別のものに変化していることに、華音は気づいた。

 華音は両腕にありったけの力を込めて、富士川の身体を引き剥がそうと抗った。

 富士川は途惑う表情を見せながらも、すぐにその束縛を解いた。


「私はもう子供じゃないんだから、簡単に……そういうことしないで!」


 華音は富士川の作ったチャーハンに手をつけることなく、半ば逃げ出すようにして彼のマンションを飛び出した。

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