絆(3)
娘は驚いている。
両親の勝手な都合で離婚家庭となってしまったが、しかし、今は幼稚園児ではない。
大方の事情が飲み込め、和奏は呆れたように言った。
「お父さん、お母さんのこと大好きなんでしょ? だったらさっさと謝ればいいのに」
愛の結晶として存在しているはずの娘に図星を指され、高野は複雑な面持ちで言い訳をする。
「何で俺が謝るんだよ。好きとか嫌いとかさ、そういう問題じゃないんだよ……子供には分かんないと思うけど」
「あのね、私は『高野和奏』のほうがいいの」
「…………何で?」
和奏は高野の脛に思い切り蹴りをくらわした。
鈍い音がし、やわな中年男はその場へうずくまる。
「こらこら、女の子がそんなことするんじゃない……いててて」
「何で? じゃないでしょ! それでも父親か!」
「らしいね。和奏は嫌味なほど俺に似てるしな……」
高野はくたびれたようなため息をついた。
そして、なぜか和奏も同じようにため息をつき――。
「あのおじさんが言ってたよ。今度お父さんとピアノで勝負するんだ、って」
高野は恨めしそうな顔を娘に向けた。
「稲葉のやつ、いつまで経ってもくだらないことを……あのさ、音楽ってのは勝ち負けじゃないんだよ」
「お母さん、喜んでたよ」
その娘のひとことに、高野は鋭く反応した。
「……うそ。あいつ、何て言ってた?」
気になるらしい。高野は真剣な面持ちで、娘にすがるように尋ねる。
愛する女性が産んでくれた自分の子供に、わざわざ問う内容としては――余りにも頼りない。
「稲葉君のピアノが聴けるなんて、とっても感激って。…………それを私に、今度お父さんに会ったら、そう言ってたってお父さんに言えって。ホント、二人ともアホらしいんだから」
「相変わらず、ノーテンキなこと言いやがって……まったく、人の気も知らないで!」
「あー、なんか仁美さんらしいな」
華音は高野の元妻の性格を思い出し、妙に納得した。
「いいの? お父さん! お母さん取られちゃっても知らないよ」
「知らないよそんなこと。お母さんがいいならそれでいいよ。俺にはもう関係ないんだし」
「だから私は、『高野和奏』のほうがいいって、さっきから言ってるじゃないか! お父さんの馬鹿!」
分かっている。
それは高野にも分かっているのだ。
「……なあ、和奏。お父さんさ、別にお前やお母さんが嫌いでこうしてるわけじゃないんだよ。もうお前も大きいんだから、分かるだろ? でもな、稲葉のことは嫌いなの。稲葉が仁美ちゃんに言い寄るのはもちろん嫌いなの。でも一番嫌いなのは――仁美ちゃんがいつまで経っても稲葉稲葉って俺にうるさく言うことなんだよ。俺は稲葉の話なんか聞きたくない、関わりたくないんだ。本当に勘弁してくれ」
高野は半ばうなだれながら、娘の頭をゆっくりとなでた。
「美濃部ちゃん、悪いんだけど和奏のこと車で送ってやってくれる?」
「あ、別に構いませんよ。私もいま帰るところでしたので」
「ヘタに俺が送っていって、仁美ちゃんにぐちぐち言われるのも嫌だし。今度は、ちゃんとお母さんに行き先言ってから来るんだぞ?」
父親の問いに、和奏は黙ったままだ。
「返事はどうした? ん?」
「――また、来ていいの?」
二つの目が父親を見上げる。
「ダメって言ったって、どうせ来るんだろうが、和奏は」
高野は、和奏の鼻をいたずら半分につまんだ。そのまま軽く左右に振る。
あしらい方が慣れている。今までも何度もこうしてきたのだろう。
和奏もそれを嫌がらずに弄られたまま、照れたように笑った。
「へへ、よく分かってるじゃん」
「父親だからなあ、これでも」
ひたすら濃い親子のやり取りをただ眺めていた美濃部と華音は、お互い顔を見合わせて苦笑いをした。
高野親子と美濃部が書斎から出ていってしまうと、書斎は一転して静寂に包まれた。
ふと窓の外に目を向けると――先程と変わらず、前庭にある樫の樹の木陰で、鷹山が日除けのために顔にスコアを載せて、半ば居眠りをするかのようにくつろいでいる。
華音は二階の書斎の窓から身を乗り出すようにして、下に向かって叫んだ。
「鷹山さん! ずっと聞こえてたんでしょ?」
「……あれだけ大きな声で騒いでたら、嫌でも聞こえるよ。というか、君のその声もうるさいよ、昼寝の邪魔だ」
鷹山の不機嫌そうな声が、はっきりと華音に返ってくる。
やはり横になっていただけ、らしい。
華音は困った素振りを見せながらも、内心可笑しくてしょうがなかった。
天邪鬼な鷹山が『邪魔だ』というときは、もっと構って欲しいという意思表示なのだ。
受けてたってやる――そう意気込んで、華音は急いで書斎を出て一階へ下り、前庭へと回った。
横たわる音楽監督のもとへと、華音は芝草を蹴散らしながら走り寄る。
そして、華音はそのまま鷹山の顔を覗き込むようにして立ち、起き上がる手助けをしようと、片手を差し出した。
「昼寝って、今は仕事中でしょ? ほら、早く起きて」
鷹山は顔にかけていたスコアを取った。わざとらしく迷惑そうに眉間にしわを寄せ、大きな目を何度も瞬かせ、華音を見上げている。
「……白のフリフリが丸見えだよ。もっと視線を気にしろよ。君、女の子だろ?」
華音は一気に顔面蒼白になり、差し出した手で慌ててスカートの裾を押さえた。
「へえ、やっぱり白なんだ」
鷹山はアザラシのように芝生の上を転がって、ひたすら身体を揺すって声もなく笑っている。
蒼白の顔がみるみるうちに紅に染まっていくのが、華音には分かった。
この男は。この男ときたら――。
「君のその反応さ、最高だ。色と合わせて、九十五点をつけてやる」
「…………あとの五点は、何なの?」
「本当に見えてたら、だろ。やっぱり」
まるで子供だ。
華音は肩をすくめ、今度はスカートに細心の注意を払いながら、鷹山が寝転がる隣へ腰を下ろした。
「ねえ鷹山さん、やっぱりこれ以上……溝を深めるようなことは止めましょう?」
鷹山はようやく起き上がった。服についた芝生を軽く払い落とす。
日除けにしていたスコアを華音に差し出し、目線の動きだけで華音に指示を出す。取り出したところへしまっておけ、ということらしい。
こうやって、言葉のないやり取りができるようになったことは、出会ったばかりの頃から比べると、まるで奇跡のようだ。
「来週ね、また稲葉氏が来日するときに、直接二人を引き合わせてみようと思うんだ」
「高野先生と稲葉さんを? そんな、高野先生は稲葉さんと顔を合わせたくないって言ってるのに」
華音の心に一抹の不安がよぎる。
しかし、鷹山は大きく綺麗な二重の瞳を、ゆっくりと瞬かせるばかりだ。
「溝が深まる? いや、むしろ音楽でつながっている。だから、分かり合えるんだ」
つながっている。分かり合える。
こういうことを苦もなく言える人なのに――どうして鷹山自身は、それができないのであろうか。
もちろんその原因が自分の存在であることに、華音は罪悪感を覚えずにはいられなかった。
「和久さんたちのやりとりを聞いていたら、昔の自分を思い出した」
膝と膝が触れ合うところで、穏やかな涼しい風に吹かれながら、華音は鷹山の言葉に耳を傾ける。
「あれが本当の親子の姿だ」
「へえ……そうなんだ」
華音は曖昧な返事をした。
曖昧にならざるをえなかったのだ。
『本当の親子の姿』という記憶は、華音の中には決して存在しないものなのだから。
――思い出せるものが、ない。
親を亡くしてしまった哀れな兄妹――しかし、共有するはずの思いが、二人は通じ合えないのである。
鷹山はどこか淋しげに、天高い秋の青空を仰ぎ見ている。
「どうしたの、鷹山さん」
「もう失くしてしまったな――僕と君は」
自分の何気ない一言が鷹山を追い詰めていることに、気づかされた瞬間だった。
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