絆(2)

 華音は先行き不透明の未来を憂い、大きなため息を吐き出した。

 この調子では、こけら落としの実現には、まだまだ程遠い状況と言えよう。


「あー……やっぱり高野先生、拗ねちゃった」


「説得するのには、時間がかかりそうですねえ。私も鷹山さんと相談して、何か対策を練りますから。華音さん、そんなに落ち込まないでください」


 相変わらず、鷹山の姿はない。

 いつもであれば、そろそろコーヒーを欲しがる時間だ。

 ちゃんと鷹山の所在を確認しようと、華音がようやくソファから腰を上げたそのとき、書斎のドアが開いた。

 やっと帰ってきた――そう思って顔をそちらに向けると、そこに立っていたのは芹沢家の老執事、乾であった。

 珍しくノックをせずに一歩部屋の中へと入り込んだ執事は、いつもと変わらず落ち着いた佇まいで、華音に緩やかに話しかける。


「華音様に、可愛らしいお客様がお見えでございますよ」


「お客? 私に?」


 すると、執事の背後から、華音よりも頭一つ分ほど背の低い女の子が、元気よく飛び出してきた。

 人懐っこい笑顔を見せて、手を振っている。


「やほー、カノちゃん」


「和奏(わかな)ちゃん!? どうしたの、久しぶりだね。すごい、おっきくなったー!」


 突然目の前に姿を現したのは、華音がよく知る少女だった。



 その昔は別の姓を名乗っていたが、現在の名は赤川和奏。

 高野和久が離婚した元妻に引き取られた、正真正銘の高野の一人娘である。


 幼い頃は、本当の姉妹のようにしてよく遊んだ仲だった。

 もう小学校高学年であるはずだ。離婚でもめていたときは、和奏はまだ小学校に上がる前だったと、華音は記憶している。

 その少女が久しぶりにここへやってきた理由は、至極単純なこと――。


「お父さん、カノちゃんちで暮らしてるって聞いたから」


「ああ、うん。そうなの。事情を話すと長くなるんだけどね……」


 すべてを説明するとなると、祖父の死までさかのぼらなくてはならない。

 しかし、ここでわざわざ身内の不幸を口にするのは、華音にはためらわれた。

 すると。

 それまでそばで成り行きを見守っていた美濃部が、二人に近づいてきた。好奇心をあらわにして、親しげに少女に笑いかける。


「へえ、高野先生の娘さんですか! はは、ホントそっくりですね。私、部屋まで行ってすぐ呼んできますよ」


 ふて寝すると言っていたが、それはついさっきの話だ。まだ寝入っていないはずだ。


 美濃部が意気揚々と書斎から出ていってしまうと、華音と和奏は二人きりとなった。

 和奏はなぜか落ち着きがない。何かしらの違和感を覚えているようだ。


「あの人も、カノちゃんちのオーケストラの人?」


 あの人、も。

 和奏が何を言わんとしているのか、華音はようやく分かった。しかし、華音はあえて触れずに、軽く頷く。

 さらに和奏は、無邪気に尋ねてくる。


「あの、背のおっきいメガネのお兄ちゃんは? 出かけてるの?」


 幼い頃に何度も芹沢邸に遊びに来ていた和奏は、富士川祥のことも当然よく見知っていた。

 やはり、聞かれてしまった――華音は心中複雑な思いで、和奏に説明をする。


「祥ちゃんならもう、ここにはいないんだ。いろいろあって」


 そう。

 いろいろと、ありすぎたのだ。

 事情を知らない小学生の女の子には、とても説明しきれないほど――。


「ふーん。じゃあ、さっき庭で寝てた男の人も、いろいろっていう中に入ってるの?」


「庭?」


 和奏の言葉を聞き、華音は窓辺に寄った。

 すると。

 悪魔な音楽監督が、前庭の木陰で柔らかな陽の光を浴びながら、気持ちよさそうに寝転がっているのが見えた。

 どうりで、先程からずっと姿が見えないはずだ。


「そうだね。いろいろあって、の中に入ってる」


 華音は窓を大きく開けた。爽やかな秋風が心地よく部屋の中へと吹き込んでくる。



 そこへ、美濃部に連れられるようにして、再び高野が書斎へとやってきた。

 高野は完全に取り乱している。


「お前、どうしてここに……」


「どうして、じゃないでしょ。可愛い娘がせっかく会いに来てあげたのに」


 離婚してからは学校の長期休みになると、半月ほど高野の部屋で二人一緒にすごす程度だった。しかしこの夏は、高野が芹沢邸に居候し始めたため、会わずじまいだったらしい。


「お母さんは? 一緒じゃないの?」


「内緒。だから、ひとりで来た」


「勝手にここまで来たのか!? 危ないだろ、お前。そういうところがあいつそっくりなんだよな、まったく」


 高野は無鉄砲な娘を叱った。しかし、どうも迫力に欠ける。娘にはついつい甘くなってしまうようだ。


「カノちゃんちは何度も来てるから、分かるもん。お父さん、今度の演奏会で、ピアノ弾くんでしょ」


「え? 何で和奏が知ってるの」


 意外なことを、娘は突然口にした。一人驚く高野をよそに、和奏は得意げにしゃべり出す。


「お母さんが友達としゃべってたの、聞いちゃった」


「……友達? お母さんがそう言ってたのか?」


「うん。お父さんとお母さんの友達だって」


 高野は愕然とした表情で、両手で頭を抱え、髪を激しくかきむしった。

 娘の説明で、高野にはすべての事情が飲み込めたらしい。

 よみがえる五年前の忌まわしき記憶――。


「ひょっとして稲葉? あいつ、また家まで行ったのか!?」


「玄関先で話してただけだよ。すぐに日本を発つって言ってたから」



「……またなの?」


「また、なんですか?」


 傍観者を決め込んでいた華音と美濃部の呟きが、ほぼ重なった。



 離婚に至った事の顛末を、高野は怒り収まらない様子で、息もつかせぬ勢いで語り始めた。


「五年前のあの日、あいつが日本へ帰ってきたことを俺は知らなかった。いや、別に連絡してこなかったことを怒ってるわけじゃない。きっと稲葉は、俺たち家族の前に突然姿を見せて、驚かせようという気持ちがあったんだろう。でも、あの日は俺がたまたま芹響の定演のリハーサルで、家を留守にしていたんだ。仁美ちゃんにしてみれば、大学時代の懐かしい同期だ。家に招き入れたのも、まあ、しょうがないことだと思うよ。でも。でもさ。それで、娘と一緒になってはしゃいで、俺が彼女のために特別に作らせたスタインウェイをあいつに弾かせた! 俺のいないときにだよ!?」


 華音は和奏を後ろからしっかりと抱き締める。

 おそらく和奏にとって初めて聞く話だろう。少なからずショックを受けてしまうのではないか――そんな考えが華音の脳裏をかすめた。

 傍らの美濃部はしきりに頷いて、淡々と聞き返している。

 状況適応力はピカイチらしい。


「あー、ひょっとして、高野楽器に置いてあるあのスタインウェイがそれですか?」


 街角の小さな楽器店に、スタインウェイという一流ブランドのグランドピアノがひっそりと置いてあるのは、店主自身がピアニストだから――という理由ではなかった。

 あまりにも生々しい離婚劇の、『遺物』に他ならないのである。

 高野は滅多に出さない大声を上げて幾分すっきりしたのか、トーンを落としてさらに続けた。


「そんなことでって思われるかもしれない。それだけなら、いくらなんでも離婚しようだなんて思わなかったかもしれない。和奏のためにもね。でもそれをさ、彼女はずっと隠してたんだよ。俺が怒ると思って、気を利かせたんだか何だか知らないけど。俺は一ヶ月も後に、当時幼稚園児だった和奏の口からその事実を聞かされて、唖然としたよ」


 ――おかあさんがね、しらないおじさんに、ピアノをひいてっていったらね、おとうさんみたいにじょうずだったの。ワカナのことね、おとうさんにそっくりだねって、そのおじさんがいってたよ。


「昔からそうなんだ仁美ちゃんは。『言っても行かないって言うと思って』とか『言ってもダメだって言うと思って』とか、そうやって決めつけるんだ、俺のこと!」


 高野が元妻の下の名を口にした。

 どうやら無意識らしい。まるで恋人同士の痴話喧嘩のようだ。


「でも仁美ちゃんは言うんだ。私にくれたピアノなら、私の自由にしていいってことでしょ? って」


 そう、たったそれだけのこと。他人から見ればそう思えてしまうことでも。

 当の本人にとっては、重要なことなのだ。


 ピアニストが、同じくピアノを愛する婚約者のために、特別に作らせた楽器を――。

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