女神の旋律(1)

 芹沢家の朝食風景。

 華音は朝から緊張しながら食卓についていた。

 寝癖のついたぼさぼさ頭のままの、居候の高野が向かいに座っている。

 華音は慎重に高野の様子をうかがっていた。


 ――上手くできるかな……気が重い。


 高野は執事に温めのカフェオレを所望し、いまだ覚め切らぬ眼を両手で擦り上げている。

 そして、これから待ち受けているであろう出来事などまったく知らずに、のん気に焼きたてクロワッサンをかじっている。


「ノン君さー、久しぶりにドライブでもしようか。天気もいいしさあ、山のほうは紅葉しはじめてるんじゃない?」


「え……高野先生、出かけるの?」


 予想外の展開だ。

 華音はウインナーにフォークを突き刺したまま皿の上に放り出し、慌てて高野に食らいつく。


「ノン君、今日は完全オフって言ってなかったっけ? 友達と遊ぶ約束でもしてるの?」


「そういうわけじゃ、ないんだけど」


「あー、やっぱ俺と二人じゃつまんないか。いつもは富士川ちゃんと三人だったからなー……そーか、俺と二人じゃ」


「拗ねないでよ、先生」


「なんなら、楽ちゃんでも誘ってみる?」


「…………え」


 ますます予期せぬ展開へと進んでいく。

 華音は今の状況をどう修正し、ある人物に指示された任務をこなせばいいか、必死に考える。


「最近、仲がいいみたいだし」


「そ、それは、あの」


 華音が絶句しかけたのを、高野はどうやら勘違いしたらしい。


「やっぱり、富士川ちゃんと同じってわけには、いかないか」


 そういう問題ではないのだ。

 しかし、説明に困ってしまう。


 どうして鷹山が自分に優しくなったか――なんて。


「ごめんなさい、先生。私、鷹山さんに言っちゃったの」


「え? てことは、お互い兄妹だってことを? いつ? どうやって?」


 高野は驚きをあらわにしている。至極当然の反応だろう。

 華音は曖昧に答えた。


「えーと、いや、何か話の流れで何となく……だったかな」


「てことは。……ひょっとして、十五年前のことも聞いた?」


 高野の探るような問いに、華音は素直に頷いた。


「でもほら、他人みたいなものだから、特に兄妹ということは意識しないでフツーに監督とアシスタントということで仲良くやっていこうって、あの、そんな感じだから」


「そりゃあ、良かったじゃないの。お互い知ってて上手くやっていけるなら、それに越したことはないからさ」


 心苦しかった。

 嘘は言っていない。


 話の流れで――無理矢理。

 他人みたいな――兄という意識などまるでなく。


 仲良くやっていこう、と――――鷹山の愛を受け入れた自分。



 嘘は言っていないはずなのに、高野を騙しているという罪悪感で一杯だった。

 監督とそのアシスタントという関係が、うまい具合に盾となっていることが、唯一の救いだった。


「あのね高野先生、ピアノを……弾いて欲しいんだけど」


「別にいいけど、どうしたの? 珍しいじゃない」


 華音は冷静を装うのに必死だった。不慣れな挙動に不信感を抱かれぬよう、たった今思いついたかのようにさらりと言う。


「サロンのピアノで聴きたい、かな」


「サロンって、ババアの? あそこにピアノなんか置いてたんだ」


 五年前に他界した華音の祖母を、高野は生前からババアと陰で呼んでいた。それが今も抜けていない。いろいろと因縁があるらしい。


「死んでからほぼ開かずの間状態だろ、あの部屋。まあ、生きてるうちもほとんど入ったことなかったけど」


 芹沢家のサロンと呼ばれる部屋は、緑の木々や噴水のある前庭に面した、景色の良い場所だ。芹沢夫人が精神を患ってからは、夫の英輔氏の私室と書斎から一番遠くに位置するサロンで、好きな花々に囲まれ日々を過ごしていた。

 高野の言う通り、夫人が亡くなってからは使われておらず、執事や家政婦がときおり掃除をするために入る程度だ。


「高野先生って、ホントにうちのおばあちゃんが嫌いだったんだ?」


 気まぐれに聞いてみた。時間稼ぎのため――でも、ある。

 高野はカフェオレでクロワッサンを流し込むと、フウと息を一つ吐いた。


「ノン君が十五年前のこと知っちゃったんなら、もう隠しておくこともないよな」


 華音はゆっくりと唾を飲み込んだ。続く言葉をひたすら待つ。


「ノン君の両親って、実はさ、俺の大学のOBなんだよ。二人とも俺が入学するずっと前に中退しちゃってたから、先輩の先輩ってくらい歳は離れてるけどさ。それで、教授を通して何度か顔を合わせたことがあって、芹沢のオヤジと知り合う前から、二人のことは知ってたんだよ」


 初めて聞く話だったが、別に驚くことではなかった。

 高野が華音の両親に当たる人たちと、生前、何度か顔を合わせたことがあったということは、聞いたことがある。同じ大学で、教授を通して顔見知りとなったというのは、充分信憑性のある話だ。


「そのあと、二人が事故で亡くなったときにさ、俺、ちょっとした経緯で知り合ったばかりの芹沢のオヤジに招かれてて、ちょうどこの家にいたんだよ。いきなり修羅場を目の当たりにさせられて、驚いたのなんのって。小さい楽ちゃんとノン君が連れて来られて、ババアは楽ちゃんにきつく当たって……」


 鷹山が以前言っていたことを、華音はぼんやりと思い出した。

 お前のような悪魔は要らないと――そして芹沢の名を捨てさせられた、と。

 その一部始終を、高野は偶然居合わせて、目撃してしまったということなのだろう。

 十五年前の、あの日の悪夢を――。


「でもさ、もっと驚いたのは楽ちゃんのことだったんだよ。だって、楽ちゃん、鞠子さんにそっくりだったからね。……芹沢? ああ、そういうことか、って。そのとき初めて、あの芹沢先輩夫婦はこの芹沢家の人だって分かったんだよ」


 以前オーナーの赤城から見せてもらった写真の母は、本当に鷹山によく似ていた。高野がそっくりで驚いたというのは、決して大袈裟な話ではないだろう。

 鷹山は、男性であれだけ綺麗な顔をしているのだから、実物の母は写真以上に美しかったに違いない。


「で、そのとき俺も止せばいいのに、鞠子さんをかばうようなことをさ、ついついババアに言っちゃったんだよな。それからババアは俺に冷たくなった。富士川ちゃんはその一件を知らないから普通に話していたけど、俺はずーっと冷たくあしらわれてた」


 思い出して憂鬱な気分になったのか、高野は虚ろな目で長い長いため息をついた。


「おばあちゃん、高野先生がだらしがないから、いい顔していないだけかと思ってた」


「芹沢のオヤジも、ババアも、ノン君のお父さんのことを盲目的に溺愛してたんだよ。一人息子だったしね。それがまあ――窮屈だったんだろうなあ、卓人さんは。温かな家庭を人一倍夢見ていたのかもしれない。音大の在学中に鞠子さんに子供ができたときも、迷わずに大学を辞めて鞠子さんとの子供を育てようとしたっていうから。それなのにあのババアは、息子をたぶらかされ奪われた、なんて言って鞠子さんには相当辛く当たったらしいし……」


 胸の鼓動がわずかに早まっていくのを、華音は感じた。

 今まで誰も教えてはくれなかった自分の『両親』という人たちの人間像が、リアルに浮かび上がってくる。


 大学在学中に子供ができて――そのとき、華音の兄は生まれた。

 そしてその兄は、八歳になるまで両親と三人で暮らし、やがて妹が生まれて四人家族となり、その一年後――すべての家族を失ってしまった。


「だからさ、楽ちゃんがああいう性格になっちゃったのも、それ相応の理由があるんだよ」


 きっと兄である鷹山は、いろいろなことを知っているのだろう。そして、いろいろなものを持っていて、いろいろなものを失くしてしまった。

 しかし華音は、持っているありがたさが分からないため、それを失った悲しみもまた理解できない。

 それが、鷹山と華音の『現実』なのである。

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