信頼は時間に比例するか NO.(2)

「私は……反対です。同じ曲を聴き比べさせるだなんて、どうかしてます。別に、稲葉さんに頼まなくたっていいじゃない。今までと同じように、高野先生だけに弾いてもらえばいいんだもん。誰かと比べられるのが嫌だってことくらい、鷹山さんだって分かってるでしょ?」


 こんなことを言いたいわけじゃない。

 どうして分からないのだろう。どうして、分かり合えないのだろう――。


「芹響は和久さんとの共演に慣れているんだ。慣れすぎてしまっていると言ったほうがいい。国際的な演奏家と共演する機会を作りたいと思うことの、どこに反対なんだ君は」


 どうして、伝わらないのだろう。

 どうしてこの想いが伝わらないのだろう

 こんなにも――こんなにも。


「じゃあ、稲葉さん以外にしてください。そしたら高野先生と同じ舞台になんて変な条件もなくなるし。有名なピアニスト、他にも一杯いるでしょ!?」


「いい加減にしてくれよ!」


 鷹山はソファから立ち上がると、立ち尽くす華音のもとへと歩み寄った。

 大きな二つの瞳が、威圧的に華音を見下ろす。


「私情を交えるなよ! どうしてそんなにむきになるんだ? おかしいよ、君」


 ――おかしい? 私が? どうして、そうやって怒鳴るの?


 もう、我慢の限界だった。

 華音は、目の前の男をじっと睨みつけた。


「……いったい、誰のための音楽なの?」


「音楽は、聴衆のためのものだ。それは英輔先生が僕に教えてくれた」


「じゃあ、演奏する人の気持ちはどうだっていいって言うの? それが本当に聴衆のためになるの? おかしいのは鷹山さんのほうだよ!」


 怒鳴り返される――華音はとっさに目をつぶり、身構えた。

 しかし意に反して、鷹山の口調は穏やかなものだった。


「音楽に情が必要じゃないとは、言っていないよ。むしろ切っても切れない深いつながりがある」


「だったら!」


「僕の話を聞いて、芹沢さん」


 突然、鷹山の両手が伸ばされ、華音の腕をしっかりととらえた。そして、華音はそのまま強引に引き寄せられる。

 気づくと、鷹山のシャツの肩に自分の頬が触れていることに、華音は気づいた。

 しっかりと鷹山の胸に抱きとめられてしまっている。


「やめてよもう! 放して!」


 引き剥がそうと懸命になるも、感じる温もりに、抵抗する力がどんどん失われていく。

 彼の香りがする。


「聞いてくれ、頼むから」


 壊れる、自分自身の何かが。

 どうして自分がこんなに、鷹山に感情をぶつけているのか、華音は分からなかった。


 いつのまにか華音は、鷹山という男に翻弄され尽くしてしまっている。


 鷹山はしっかりと華音を抱きしめたまま、耳元で静かに説いた。


「プランナーにはね、聴衆のことだけを考えて欲しいんだ。聴衆が聞いてみたいと思う素直な意見をカタチにするのが、プランナーだよ。それが実際にできるかできないか――演奏家のすべてを受け入れて、導いて創り上げるのは、僕の仕事だから。君が気にかけることじゃない」


 馬鹿だ。

 比べていたのは自分だ。


 ずっとずっと、こんなにも彼のことを――。


 幾分落ち着いたのを確認するようにして、鷹山はようやく腕の力を緩めた。そして、先程まで腰かけていたソファへと誘導し、その端に華音を座らせる。

 鷹山は、華音の左隣に並ぶようにしてソファに座った。

 膝の上に置かれている華音の左手に、鷹山の右手がそっと重ねられる。


「僕たちは組んでまだ日が浅い。確かに信頼しあえる仲とは言い難いよ。君が不安になるのも仕方がない。だけど――」


 はっきりと言い切った。


「僕のことが、そんなに信じられない?」


 手の温もりとは正反対のその鷹山の冷たい言葉に、華音は心臓を打ち抜かれてしまったような、強い衝撃を受けた。


「できない言い訳を考えるよりもまず、できる方法を考えるのが先だ。君に、最初にそう言ったよね」


 高野が弾かずにすむ理由を探すよりも。

 どうすれば弾いてもらえるかを考えるのが先だ、と。


「というか、君のほうこそカルシウム不足だな。小魚食べたほうがいいんじゃないの?」


 そう言って鷹山は軽く笑いながら、シャツの胸ポケットから小魚の小袋を取り出して、華音の眼前にちらつかせた。

 律儀にも、常に持ち歩いているらしい。


「アーモンド混じっているやつがさ、結構美味しいんだよ。ほーら、食べさせてあげようか?」


 いったい何なのだ、この男は。怒鳴ったり、冷たくあしらったり、からかってみたり――。

 たった数分の間によくもここまで人格を変えられるものだと、呆れを通り越して感心さえしてしまう。

 どこかでが本気でどこまでが冗談なのか。華音はいまだに理解しきれない。


「そんな頬膨らましたって、可愛くないよ。フン、それじゃ『イノシシ』じゃなくて『フグ』だ」


 今度はこれか――人を小馬鹿にするのにも限度がある。


 しかし。敵わないのだ、結局のところ。

 どんなことがあっても、この男にだけは――。



 華音は深い深いため息をついた。


「本当に……大丈夫なの?」


「そんなの僕にだって分からないよ。それは、君がちゃんと僕を支えてくれたら、きっと大丈夫」


 お互いがお互いを必要としている。

 それだけが、二人の間の真実なのだ。


「言っておくけど、僕は悪くないから」


「え?」


「あの男が悪かったんだから。君が食べろって言うんなら、小魚だってなんだって食べるけど――でも、あの男のことはどんなことがあっても許せないから。絶対に、許さないから」


 鷹山は悪びれずに言った。

 口をへの字に曲げて、恨めしそうな顔で華音を見つめてくる。


「君も悪いんだ、あの男のかたを持つようなことを言うから……」


 悪魔が、拗ねている。

 小魚を延々食べ続けていたその理由は、あまりにも単純明快だ。


「君がいつでもそばにいてくれないと、絶対に嫌なんだよ、僕は」


 鷹山の大きな瞳が、華音にしっかりと向けられた。まるで気まぐれな子猫のようだ。


「絶対って……そんなこと言ったって、四六時中一緒にいるなんて不可能でしょ。そんなわがままは、叶えられません」


「そんなことは僕だって分かってる。そういう意味じゃないよ」


 もちろん華音もそれは承知している。

 要は――心の在り処の問題だということを。


 しかし、ここで仕返しの一つもしてやらねば、華音の気がすまない。


「ふーん……『小生意気なイノシシ』で『可愛いくないフグ』でも、いいんだ?」


 鷹山は眉を寄せた。綺麗な顔が微かに歪む。

 雄弁な悪魔が、すぐに二の句が継げないでいる。

 やった――華音は、えも言われぬささやかな喜びに包まれ、心の中でほくそ笑んだ。


「何なんだよ君……ホント、減らず口だな。いったい、誰に似たんだか」


 もちろん鷹山さんでしょ――と言いかけた華音の言葉は、本人の唇で素早く阻止された。

 鷹山と華音の間のどこからか、小魚とアーモンドの小袋が床へと落ちていく。そのわずかな音が、沈黙の室内に響いた。


 鷹山の唇は、すぐに離れた。ふざけたような可愛いキスだ。

 吐息を感じる至近距離で、華音は久しぶりに彼の嬉しそうな顔を見た気がした。


「立場をわきまえずに手を出したりしないって、言ってたくせに」


 華音が照れ隠しに訴えかけると、鷹山はおもむろに立ち上がり、ソファから自分のデスクまで移動した。そして、チェアに腰かけふんぞり返りながら、言う。


「今は昼休みだからいいんだよ。そんなことより、コーヒー淹れてくれないか。君みたいな素人のコーヒーでもね、十日も飲まずにいると禁断症状が出てくる」


 ――そんなことより……か。


 たったひと言ですまされてしまう、なんて。

 けれど。

 細かいことはもう、どうでもいい。

 これが、鷹山楽人という男なのだ――華音はすべてを飲み込んで、その気まぐれな音楽監督のために、愛情を込めてコーヒーを淹れ始めた。

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