絆(1)

 それから一週間ほど過ぎた、中秋の昼下がりのことである。

 芹沢邸では、芹響の首席陣を集めた会議が招集されていた。


 華音は書斎で一人、のんびりと本を読んでいた。

 自分のものではない。鷹山が読みかけている本だ。

 特に急いでする仕事がなければ、華音は鷹山がいつもカバンに入れている本を取り出して、それを読むことにしていた。自分の部屋に戻ればマンガ本も置いてあるのだが、取りに行くのが面倒だというのと、もう一つ。

 鷹山が普段どんな本を読むのか、興味があるからだった。

 もちろんこのことは彼も知っていて、華音が勝手にカバンを漁ることを許してくれている。むしろ嬉しいらしい。自分に関心を持たれている証だからであろう。


 鷹山は職業柄、音楽関係の書籍はどんなに小難しいことが書かれてあっても苦もなく読みふけっているが、私的な時間になるとまったく別種のジャンルを好んで読んでいる。

 かなりの読書家であるらしい。カバンを覗く度に、いつも違う本が入っている。同じ本が入っているのを華音は見たことがなかった。


 本の香りがする。それは本屋に並んでいるような新しい紙とインクのそれではなく、持ち主のまとう香りだ。

 ページをめくるたびに、鷹山の香りがした。

 それはシャツの香りだったり、髪の毛の香りだったりする。

 秋の日差しのように、鷹山の香りは華音を優しく包み込む。

 そう、これでいいのだ。

 すべてを信じて身も心も預けていれば、鷹山はありったけの愛情を注ぎ込んでくれる。

 華音が自分のすべてを預けてさえ、いれば――。



 半分も読み進まないうちに、慌しい気配が漂ってきた。数人の話し声や邸内を歩き回る音が、階下から響いてくる。

 華音は何気なく壁掛け時計に目をやった。始まってからまだ一時間も経っていない。腑に落ちず、さらに辺りの状況に注意を払っていると、コンサートマスターの美濃部が書斎へとやってきた。


「華音さん、お疲れ様です」


「もう終わったんですか? 珍しい……」


 華音が声をかけると、美濃部は胸に抱えた書類の束を、鷹山のデスクに無造作に置き、軽く伸びをしてみせた。


「天気がいいから、なんだか鷹山さん、やる気がしないみたいで。まあ今日は、こけら落としの構成の再確認だけでしたから。せっかくのオフですしね、長々と会議に時間を割く気分じゃないんでしょう」


「ふうん……で、鷹山さんは?」


 いつもであれば、まず鷹山が気難しい顔で部屋に入ってきて、その後ろから美濃部青年が登場するはずなのだが、今はなぜか単独行動だ。


「さあ……出かけたんじゃないですか? 会議のあと、玄関を出て行くのは見かけましたけど。でもほら、そこに携帯電話置きっぱなしだから、そんな遠くへは行ってないと思うんですけど」


 そう言って、美濃部は音楽監督のデスクの上に視線をやった。確かにそこには、鷹山の携帯電話が無造作に置かれたままになっている。


「まったく、気まぐれなんだから。言ってることとやってることが全然違うし、ホント天邪鬼ー」


 華音はため息をつきながら、鷹山のカバンに読みかけの本をそそくさとしまい込む。

 華音が鷹山の本を――その様子をじっと眺めていた美濃部は、感心するように頷いてみせた。


「すっかり仲良しですよね、お二人」


「仲良くなんかないよ。いつもいつも、振り回されっぱなし」


「いやあ、そんなこともないでしょう? 鷹山さんが華音さんにあれこれ言ってるときは、何だかとても楽しそうですし」


「そりゃあ、ワガママ言い散らすのは楽しいでしょ……」


 そんな嫌味を口にしつつも、華音の心は晴れやかだった。

 だんまりを決めこまれるよりは、好き勝手まくしたてられるほうが、ずっとましだ。そのほうが言い返して負かす快感もある。

 彼と言葉でコミュニケーションが取れるということは、とにかく幸せなことなのだ――華音はそのことにようやく気づいた。

 最初こそ、鷹山のその口の悪さに閉口し、何度も打ちのめされたものだが、今ではその切り返しも堂に入ったものだ。



 そこへ、珍しい組み合わせの男女が、華音たちのいる書斎へと姿を現した。

 芹沢邸に居候中の高野和久と、会議に出席していたはずの藤堂あかりである。


「ああ、あかりさん。まだ帰ってなかったんだ」


 美濃部が明るく答えると、あかりは肩をすくめるようにして、背後の高野に視線をやった。

 会議が終わった後、そのまま芹沢邸二階奥の高野の部屋まで足をのばし、さらにそのあと、この書斎へとやってきたらしい

「ええ。ちょっと気になることがあったので、高野先生にご助言を仰ごうと思いまして。それはそうと……監督はどちらですか?」


 美貌のヴァイオリニストは、訝しげに一通り室内を見回した。

 ふわりと、辺りに甘い香りが広がっていく。


「あかりさん、先生に打診してくれたのか。ごめんね、私の仕事だったのに」


 美濃部がすまなそうに言った。

 すると、後ろにいた高野が一歩前へと進み出た。だるそうにボサボサ頭をかきながら、もう片方の手に握られていた企画書の決定稿を、美濃部と華音に向かって突きつける。

 先程の会議で配られていたものだ。


「ちょっと美濃部ちゃんノン君、どういうこと? 稲葉のやつ、頭おかしいんじゃない? こんな演奏会、とても引き受けられないって」


 企画書にははっきりと『ピアノ協奏曲の同曲異演』と記されている。稲葉努が出した提案を、鷹山はそのまま受け入れたのだ。

 しかしその事情を、いまだもう一人の『客演ピアニスト』に説明をしていなかったのである。

 その役目は、美濃部と華音に任されていた。しかし、会議が終わってからにしようと、先延ばしにしていた。

 美濃部はいい機会とばかりに、淡々と説明を始めた。


「落ち着いてくださいよ、高野先生。とりあえず鷹山さんは、聴き比べをさせるためにメジャーどころの大曲を選ぶようですけど」


「大曲? うわ、それじゃますます稲葉の術中にはまるじゃないのさ。あいつ、自分のテクニックを披露するのが大好きだから。あー、やだやだ」


 高野は顔をしかめ、激しく首を横に振った。

 やはり、華音が予想していたとおりの反応である。

 高野の気持ちを汲み取ると、取り止めようと言ってあげたいところなのだが――とにかく今は鷹山のことを信じるしかない。

 華音は美濃部の援護射撃をすべく、打ちひしがれる高野に補足説明を試みる。


「確かに……稲葉さんって相当な自信家っぽかったけどね。お客さんに投票してもらって、その中から抽選でサインをプレゼントするとか言ってたし。高野先生にも、やってもらうって言ってたよ」


「……はあ? 俺、ただの楽器屋のオヤジだってーの……何がサインだ」


 確かに、高野は稲葉のように演奏家として生計を立てているわけではない。

 それでも、地元に固定ファンが大勢いる。サインを欲しがる聴衆がいてもおかしくはない。

 ただのサービス企画なら、サインくらい快く引き受けてくれるはずなのだが――宿命のライバルにそそのかされるのは、心底嫌らしい。


「でも、高野先生。前向きに考えたらですね、私たちは練習するのが一曲ですむんですよ。しかも違った解釈での演奏を楽しめるわけですし、楽団員にとっては喜ばしい限りです」


 美濃部は嬉々として、持ち前の楽天的な思考を披露してみせた。

 それに対し、藤堂あかりが首を傾げる。


「本当に、そうかしら?」


 美貌の副首席は、コンサートマスターを冷静に諌めた。


「お客様がみんな美濃部さんのような方たちばかりではないのよ。満足していただけるように弾き分けるのは、とても難しいもの。実は、そのことを監督におうかがいしたいと思って、ここまで来たのですけど――」


 あかりは空っぽの鷹山専用のデスクとチェアに視線をやった。そして、困ったような表情で、大きくため息をつく。


「いったい、どうなさるおつもりなのかしら、監督は。団員たちには早目に心積もりをさせなければならないので、演目だけでも先に知らせていただきたいのだけど――」


 美濃部は惚けたまま、じっとあかりを見つめている。

 あかりは不思議そうに首を傾げ、尋ねた。


「どうしたの、美濃部さん? 私の顔に、何か?」


「いやあ……あかりさんって格好いいなあって。あ、別に深い意味はないんだけど。なんか、私よりコンサートマスターに相応しいなあって、よく思うよ」


 その能天気なコンサートマスターの物言いが、可笑しかったらしい。珍しく、あかりは軽く噴き出すようにして笑い出した。


「美濃部さんって不思議よね。確かにコンサートマスターとしては頼りないところもあるんだけれど、まるで反感を買わないのよね」


「ははは、やっぱり頼りないか。そりゃ、富士川さんに比べたら天と地ほどの差があるし」


「そう、ね。でも……」


 あかりは意味ありげに、華音に目配せをした。

 その理由は、続く言葉にあった。


「あの人がいなくなってから分かったこともあります」


 藤堂あかりの冷たくも美しい聡明な顔立ちが、わずかに曇る。


「監督が美濃部さんのことをコンサートマスターに指名したとき、正直私は――失望しました。結局は芹響のことをなにも知らない、芹沢先生の名ばかりの弟子の考えることだって。でも今、こうして数ヶ月経って――」


 あかりは何かに吹っ切れたように、ゆっくりとため息をついた。そして、美濃部の顔をまっすぐに見つめる。


「こういうカタチもありなのかな、と思えるようになったんです。今まで経験したことのない環境ではあるんだけれど」


 華音はじっと、若き楽団員たちを眺めていた。


「芹沢先生という絶対の存在があって、それを崇拝する完璧な実力を備えたコンサートマスターがいて、皆がそれに倣う……それは今でも、私の理想形ではありますけど」


 美濃部はしきりに頷いてみせる。コンサートマスターとしての己の力量不足をかみ締めているのだろう。

 でもね、美濃部さん――と、あかりはさらに続けた。


「気難しくてわけの分からない音楽監督がいて、それに何とか上手くついていこうとするとことんお人好しなコンサートマスターを、なんだか放っておけなくて、みんなが助けてあげようと一つになる。真ん中に強く引っ張る力はなくても、外側から中心へ押していこうとする力が、今の芹響にはある――のかしら、って」


「それは……それは、私が一番感じてるよ。そして、あかりさんもその外側から押してくれている一人だってことも、充分分かってる」


「私は別にそんなつもりでは……では私はこれで。時間を改めて、またおうかがいします。よろしくね、華音さん?」


「分かりました。鷹山さんには伝えておきます」


 あかりの態度がある変化を遂げているのを、華音は見逃さなかった。彼女もまた自分と同じなのかもしれない――心の中に、一抹の不安が過っていく。

 華音はあかりの背中を複雑な面持ちで見送った。

 美濃部はいまだ惚けたまま、あかりの流れるような長くて美しい髪に見入っている。

 そして、一人憤慨するのはこの男。


「俺、今日はもう、ふて寝だ! 引きこもってやる」


 高野和久は、あかりを追うようにして、再び芹沢邸内の自分の巣へと戻っていってしまった。

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