嫉妬に狂う悪魔(3)

 十五年前の、あの日――。


【あのとき楽ちゃんはもう小学生だったからね】


 華音の脳裏に、高野の言葉がよみがえってくる。


「この家のことなんか何も知らない、その辺の小学生と一緒だった。優しい父さんと母さんと……そして、生まれたばかりの妹と、小さなアパートで家族仲睦まじく平和に暮らしていたよ。十五年前のあの日まではね」


 生まれたばかりの妹。それがきっと、私。

 鷹山の声は落ち着いている。


「お前のような悪魔は要らないと、初めて会った父さんの母親という人に言われた。お前は息子をたぶらかして死に追いやったあの魔性の女の分身だと。その場所で、僕の顔の真ん中をこうやって指差してね」


 鷹山は、床にひざまずいたままの華音の真正面に立ち、見上げている顔のちょうど鼻先の辺りに指をつきたてた。

 怖い。怖くてたまらない。

 しかしこの恐怖は、十五年前の鷹山少年の記憶の中の感情とシンクロしている。

 部屋の風景は、何一つ変わっていないはずだ。


 十五年前。大好きだった両親がいなくなった日――。

 初めてつれてこられた広い洋館の、前庭の見える応接間の一室で。知らない大人たちに囲まれて。


 そう。

 あの日、まさにこの場所に、鷹山と華音はいたのだ。


 九歳になったばかりの小学生と、まだ歩くこともできない一歳の赤ちゃんと。


「母さんのことを悪く言うのは許せなかった。引き取られるなんて、こっちから願い下げだった」


 すっかり日が落ちた。

 暗闇の中で、鷹山の声だけが室内に響き渡る。


「英輔先生は……父さんにとても厳しかったようだから、あまりいい印象を持っていなかったよ。それでも毎年北海道まで会いにきてくれた。初めは鷹山の父さんも僕と会わせようとしなかったけど。君と離れてから三年かな、僕が中学生になろうというときにね、英輔先生は僕の前にあのストラディバリウスを持って現れた」


 遠い遠い昔の話をするように、鷹山は淡々と説明を続ける。


「英輔先生がどんなに父さんを愛していて、そして自分の愛用したヴァイオリンを使って欲しかったのか。どうして父さんがヴァイオリンをやめて芹沢の家を出たのか――」


 以前オーナーの赤城から聞いていた、左指が不自由だったという父親の話を、華音は思い出した。


「母さんと、まだお腹の中にいた僕を守るためにね。ひょっとしたら、ヴァイオリンをやめる理由を必死に探していたのかもしれないけれど」


 両親の話をするときの鷹山の顔は、天使のような穏やかさだ。

 華音の知らない、自分「たち」の両親の話。


「だから僕は、ヴァイオリンをやることを受け入れた。君も知っているだろうけど、富士川さんは僕のストラディバリウスをやっかんでいる。ハッ、こればかりは仕方がないじゃないか。弟子の順番が問題なんじゃない。実力の差でもない。あれは僕ではなくて本当は父さんのものだからだ!」


 芹沢先生が現役時代に使用していた特別な楽器。

 どうして。どうして芹沢先生は、あの不敬不遜な二番弟子なんかに。

 一番弟子の気概と内なる情熱。

 あいつがあれを持つ資格はない、と悔しそうにもらす富士川の顔を、華音ははっきりと思い出す。


 ――そういうことだった、なんて。


「僕が実の兄だと知っていたのなら、きっと不思議に思っていただろう? どうして僕が、芹沢の名を名乗ることができずに、二番弟子なんてありがた迷惑な肩書きを与えられているか、ってことを。英輔先生は僕に言ったんだよ。『今はまだ孫として認めてやれなくても、妻もいつか分かってくれる日が来るから』ってね。それを僕は受け入れた。英輔先生の孫としてではなく弟子の一人として扱われることをね。どんなに屈辱でもどんなに無様でもどんなに憎んでいても――この芹沢の家との繋がりを無くしたくなかった」


 これが真実。

 これがすべて。


「君だよ」


 時間が二人を越えていく。

 十五年という長き時間の呪縛から今、解き放たれようとしている。


「君がこの家に引き取られたからさ。たった一人の妹をそばに留め置けない、自分の非力さを嫌というほど痛感させられた。どうして自分は子供なんだろうと――」


 鷹山の声が震えている。その振動が華音の胸まで伝わってくる。


「僕は一日だって君のこと、忘れたことはなかったのに」


 優しい優しい、慈しむような声。


 ――こんなの、嘘。


「気づけばあの男が君のそばで、しかもこの家に居候までして家族同然の暮らしを送っていた。君のはしゃぐ姿を陰からそっと見てどんなに心が締めつけられたか!! 嫉妬と憎悪で狂いそうだった。いや――僕は狂ったんだよ」


 冷たく悲しい、蔑み嘲るような声。


 富士川祥が一番弟子として、芹沢家に居候としてやってきて、華音と実の兄妹のように過ごしていた優しい優しい記憶が今、音もなく崩れゆく。


 ――だって。


 ――だってそんなこと、知らなかった。


「僕ね、あの日までは――芹沢楽人だったんだよ」


 鷹山が、苦しんでいる。

 大きな瞳、長い睫毛、白い肌に栗色のクセのない髪。

 綺麗に整ったその顔が、母親から受け継いだ類い稀なる美貌が、幼き兄妹の運命を分けてしまうことになった。


 自分の息子に似ていた赤ちゃんには、芹沢の名を。

 大切な息子を奪った魔性の女の分身に、その名を名乗る権利はない。

 それまで芹沢楽人として生きてきた少年は、養子に出された先の『鷹山』を名乗ることを余儀なくされ――。


【芹沢芹沢と、なぜあなたが、そこまで名前にこだわるんです?】


【僕はね、芹沢の名を汚すような真似をする人間が、気に入らないんだよ】


【そして、芹沢の名を軽々しく口にする人間もね、気に入らない】




「君と僕は『芹沢』という名で繋がっている。そう――君は、僕のものなんだよ」


 違う。この感情は、絶対に違う。

 華音はわずかに残る理性で、必死に抵抗を試みた。


「そんな……いまさら、お兄ちゃんだなんて、思えるわけないじゃない!」


「それは奇遇だな――僕もだ」


 薄暗闇の中で、彼の焦げ茶色の大きな瞳に自分の顔が微かに映るのを、華音は見た。

 瞬間。

 鷹山は強引に華音の両手首をつかみ、そのまま身体ごと床へと押しつけた。

 突如襲う逃れられぬ恐怖に、華音は半狂乱で叫ぶ。その悲鳴はすぐさま、鷹山の唇で塞がれた。

 重い。鷹山の身体が容赦なく圧し掛かってくる。

 逃れようともがいても、床に後頭部を擦りつけるばかり。

 あまりの恐怖に震えが止まらず、見開いたままの華音の両目からは涙があふれた。


 ――もう……ダメ。


 富士川への想い。

 鷹山との断ち切れぬ鎖。


 ――拒みきれない。


 初めて受ける濃厚な口づけの感触に途惑いつつも、抗う力がどんどん失われていく。

 やがて完全に抵抗を止めてしまうと、鷹山は華音の気持ちの変化を確かめるように、ゆっくりと唇を離した。

 華音の両こめかみに伝う涙を、悪魔は繊細な指先で優しく拭う。


「本当に君だけを愛している。誰の手も触れさせたくないほどに。毎日毎日僕は君のことだけを考え、君のことだけを支えにして生き抜いてきたんだ」


 華音は鷹山の言葉をうわの空で聞きながら、荒い呼吸を繰り返していた。


 鷹山は身を起こし華音を解放すると、すぐそばのソファに華音を腰かけさせた。そしてゆっくりと華音の正面に回り込み、片膝をついて座る。


「僕のそばからもう二度と離れるな」


 鷹山は左手で優しく華音の髪をすくうようにして、頭をなでた。


「祥ちゃんには言わないで……言わないって約束して、お願い」


 それが華音の、精一杯の返事だった。

 しかし悪魔には、その言葉は不服だったらしい。

 華音の髪をすくい上げていた手が止まった。


「僕と君が本当の兄妹で、僕が正当な芹沢の血を持つ人間であることか? 君が僕の腕を刺してヴァイオリンを弾けなくさせたことか? それとも僕が今――君にしたこと? どれだよ、あの男に言って欲しくないことは!?」


 鷹山の吐き捨てるような言葉に、華音は新たな衝撃を受けた。


「い、いま何て……ヴァイオリンが……弾けなくなった……って、そんな」


 華音の髪をもてあそぶようにしていた鷹山の左手に、こわごわと自分の右手を重ね合わせた。


 細く長い繊細そうな指。

 だが、華音の手よりもずっと大きく骨っぽい。やはり男だ。


 鷹山は華音の手を握り返してくる。

 やはり、薬指と小指の力が幾分弱いのが、はっきりと感じられた。


「元通りにはならない。奇しくも、父さんと同じ左手だ」


 鷹山は手の力を緩めると、華音の手は力なくソファの座面へと下ろされた。


 父さんと同じ、左手が。


 鷹山はもはや言葉を失っている華音に寄り添うようにして、ソファに腰かけた。華音の肩に手を回し、そっと包み込むようにして華音の身体を抱き寄せる。

 鷹山の腕の中で、華音は罪の意識に苛まされていた。


 ヴァイオリンを駄目にしただけではなかった。

 鷹山の腕を、弦を押さえるための左指を駄目にしてしまっていた、なんて――。


 忌まわしき一夜の惨劇が、再び華音の脳裏によみがえる。



 あのとき、二人はすでに――堕ちていたのだ。



「別にいいんだよ、もう弾く理由もない。君が僕のそばにいてくれるのなら、そして君と一緒に僕たちの楽団を守っていけるのなら、それでいいんだ」


 優しく耳元でささやく鷹山の顔を、華音は見つめた。


「君を手に入れるためなら腕の一本や二本、惜しくなんかない――あの男のことはもう、忘れてしまえ。これからはずっと、僕が君のそばにいる。そう、ずっとだ」


 鷹山の腕に再び力が込められる。

 華音はもはや抵抗する力もなく、優しい富士川の顔をかき消すように両目を閉じ、鷹山の口づけを受け入れた。


 もう何も見えない。

 月も照らさぬ漆黒の闇の中で、鷹山の重みは徐々に増していく。伴うソファの軋む音を、華音は実兄の温もりの中で聞いた。



   (宿命の章 了)

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