嫉妬に狂う悪魔(2)

 結局、プレイガイド回りはひとつもすませられなかった。

 華音は家に戻り、とりあえずポスターやチラシの入った紙袋を、二階の書斎まで置いてくることにした。


 疲れた。もう――疲れてしまった。

 華音は重い足を引きずるようにして、薄暗い書斎の中へ電気も点けずに入っていった。


「こんな時間まで、どこをほっつき歩いていた」


 華音は心臓が縮み上がるような思いで、とっさに声のほうを振り返った。

 夕闇の中に男の影が浮かび上がる。

 そこにいたのは――。


「た、高野楽器店まで、チケットとポスターを届けに」


 まさか鷹山が芹沢邸に顔を出すとは思っていなかったため、華音は完全に油断しきっていた。とっさに口をついて出た言い訳が、鷹山の声色をさらに強ばらせる。


「そんな陳腐な嘘、僕に通用すると思ってるのか?」


 夕陽の窓を背にして、鷹山の表情が分からない。


「僕は今日、和久さんと一緒だった。高野楽器のプレイガイドは開いてなかったはずだけどな」


 ――しまった。


 さすがに高野の予定まではチェックしていなかった。

 鷹山は立ち尽くす華音のもとへ、一歩また一歩、近づいてくる。

 いつもと何かが違う。

 ようやく薄暗闇に悪魔の顔が浮かび上がった。


「自分の口から言えないのか? やましい心があるからだろう。君が僕に嘘をつく理由は、ひとつしかない」


 鷹山は華音の持っていたバッグをぶんどり、そしてその中身を自分のデスクの上にぶちまけた。


「何するの!?」


「フン。何だよ、こんなもの」


 鷹山は目ざとく富士川のマンションの合鍵を見つけ、つかんで床に投げ落とした。そして、それをさらに足で蹴り飛ばした。

 書斎の床の上を、クローバーのキーホルダーが滑っていく。


 富士川の部屋の鍵のことは、華音は誰にも言ったことがない。

 けれども、それはどう見てもよくあるどこかの部屋の合鍵の形状だ。そして執事のいる芹沢邸では、家の鍵を携帯する習慣がない。

 鷹山はおそろしく勘のいい男だ。それらの状況をすべて踏まえたうえで、真実を導き出したらしい。


 怖い。鷹山の目が、怖い。

 華音は逃げようと鷹山に背を向け、ドアのほうへと駆け出そうとした。

 しかし、ものすごい勢いで腕をつかまえられたかと思うと、そのまま鷹山に背中から抱きすくめられてしまった。


「やめて……お願い……」


 懇願の言葉にも耳を貸さず、鷹山はいっそう腕の力を強めた。

 完全に動きを封じられてしまう。


「どうして僕が君をそばに置くと言ったのか、理由は想像ついただろう?」


 耳元で鷹山がささやくように言った。普段よりも幾分低い鷹山の声が、吐息とともに鼓膜に響き、華音の脳天を痺れさせる。


「いやあああああ!!」


 恐怖で身が張り裂けてしまいそうだった。震えが止まらない。


「誰の手も触れさせたくないんだよ。あの赤城という男も、追い出してやったあの兄貴面している男も。君の口からその名前を聞くのもおぞましいのに――何だよ、僕に隠れて密会か? ふざけるなよ!」


 鷹山は腕の力を緩めると、華音の背中を押してソファへと突き飛ばした。

 体勢を整える間もなく、鷹山は半ば圧し掛かるような形で、華音の両腕をそれぞれの手で押さえつけてくる。


 ――もう……駄目。


「僕のものになってよ」


 大きな大きな琥珀色の瞳。


「僕だけのものになれよ」


 怖い怖い怖い怖い。ああ。

 目の前の男が、壊れていく。


「助けて! 誰か!」


「呼んだって誰も来ない」


「……祥、ちゃん」


 華音の口から出た名前に、鷹山は蔑むようにして目を細めた。


「違うだろ。君がこんな目に遭っても、あの男は助けになんか来ない。君だって充分分かっているはずさ。あの男は君のことを見捨てたんだよ」


 止めて。もう止めて。


「あの男じゃなく、僕の名前を呼べ」


 そんなことを、言われても。


「呼ぶんだ、さあ!」


 もう、限界だ。

 我慢という名の糸が切れた。

 華音は圧し掛かる鷹山の身体の下で、残る力をすべてふり絞り、首を大きく横に振った。


「呼べない……そんな、呼べるわけないじゃない。だって……あなたは私の、本当の……お兄さん……なんでしょ!?」


 華音を押さえつけていた鷹山の手の力がふと緩んだ。


「何で君がそれを知ってるんだよ」



 とうとう――――。



 禁じられた言葉を、口にしてしまった。





 鷹山の両目は大きく見開かれたままだ。瞬くことも忘れ、華音の顔を凝視してくる。

 微かに震える鷹山の唇が、二人の間の空気をさらに張り詰めさせる。


「いつから知ってたんだよ。誰から聞いた?」


 あまりの恐怖に、華音の涙腺は完全に萎縮してしまっている。もはや泣き叫ぶことも、できない。


「放して……ちゃんと言うから――お願い」


 鷹山は呆然とした表情のまま、華音の願いを聞き入れ、ゆっくりと束縛を解き放った。ソファから下り、無作法構わずセンターテーブルに腰かける。

 華音はようやくソファから身を起こし、数度深呼吸を繰り返した。


「鷹山さんがいったんウィーンへ戻る前に……赤城さんが興信所の調査結果を教えてくれたの。高野先生は困ってた。鷹山さんはきっと言うつもりはないから、私に知らないフリを通せって……」


「言ったのかあの男に!? 富士川さんは」


 混乱隠せぬ鷹山に、華音はたたみかけるようにして訴えた。


「言えるわけないじゃない! 言ったら祥ちゃんはもう、ここへは戻ってこない。鷹山さんがおじいちゃんの孫だなんて知ったら、ますます居場所がないと思い込んで……」


「君はまだ、あの男がのこのこ戻ってくることを夢見てるのか?」


 吐き捨てるようにそう言うと、鷹山はまるで気が触れたかのように、突然大声で笑い出した。


「……何がそんなに、可笑しいの?」


「そんなことは絶対に起こりえない。僕がさせない」


 華音は言葉を失った。


「だったらもう、遠慮は無用だな。君には真実を知る権利がある。あの日僕たちの身に、何が起こったのかを」


 ――あの日僕たちの身に。


 鷹山は強引に華音の手首をつかみ立ち上がらせると、書斎の外へと連れ出した。

 華音は半ば引きずられるようにして廊下を歩かされ、階段を下り、やがて一階奥の応接室の前まで連れてこられる。


 華音はそのまま鷹山に応接室の中へと引きずり込まれた。そして、ようやくつかまれていた手が離されたかと思うと、床へと突き飛ばされた。


「な……何するの!?」


「ちょうど今、君がひざまずいている辺りだ」


 見下ろす鷹山の目は、無慈悲なまでに冷たい。


「十五年前、その場所で僕は――『芹沢』の名を捨てさせられた」

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