嫉妬に狂う悪魔(1)
暑くなりそうな一日の始まりだった。
今日は日曜日。定期演奏会まではあと三週間に迫った。
公会堂の一件ではいろいろと揉めたが、音楽監督も定演の日程の変更に渋々同意し、ようやく新しいポスターやチラシ、チケットが出来上がってきた。
「華音様、どちらへお出かけですか?」
夏らしい日除けの帽子に涼しげな編みこみバッグ、ビニールコーティングされた丈夫な紙袋には筒状に丸められた紙が何本か――華音の出で立ちを見て、芹沢家の執事は興味深そうに尋ねてくる。
「あちこちのプレイガイドにね、ポスターの張り替えとかお願いしにいかなくちゃ駄目なの。鷹山さん、今日はどっかの演奏会を聴きにいくって言ってたから、珍しく私は一人、外回り」
「それは大変ですねえ。おひとりではとても回りきれないでしょうに」
そんなことはない。鷹山の相手を始終しているよりは、ずっと気楽な仕事だ。
「夏休みが終わる頃には、正式に運営チームを発足させるって言ってたから、それまでの我慢だよ。それに、それぞれのプレイガイドには、もう電話で古いのを撤去してもらうように頼んであるから、二、三日中に回れば平気だし」
「手際がよろしいですね。感心いたしました」
執事の誉め言葉を聞いて、華音は照れくさそうに笑い、人差し指を口に当ててみせた。
「電話は美濃部さんがしてくれたの。鷹山さんには内緒ね?」
執事は穏やかな笑顔を見せた。
「心得ております。ではお気をつけて行ってらっしゃいませ」
陽炎が揺らめいている。
逃げ水。そうとも呼ばれている。
茹だるような暑さの中、華音はひたすら逃げ水を追いかけるようにして歩いていた。もちろん、いつまで経っても追いつくことはできない。
華音が向かった先は、市内のプレイガイドではなく、よく見知った白亜のマンションだった。
目的の部屋のドアの前で、しばらくの間立ち尽くしていた。
心を決め、インターホンを押した。しかし応答はない。
華音はバッグの中から、富士川からもらった合鍵を取り出した。
――何だか、とても後ろめたい。
それは勝手に部屋に入るという富士川に対する気持ちではなく、むしろ鷹山に対しての気持ちであることに、華音は薄々気づいていた。
富士川はきっと自分を受け入れてくれるだろう。
でもそれが、鷹山に対する裏切り行為でしかないということが、華音の心を苦しめる。
――でも、どうしても確かめたい。
富士川は間もなく帰ってきた。どうやら昼食の買い物へ出かけていたらしい。手には買い物袋を下げている。
富士川は大袈裟に驚くことはなかった。むしろこの状況を予測していたかのような、そんな落ち着きを見せている。
「祥ちゃん。ごめんなさい、勝手に入っちゃって」
「謝る必要なんかないよ。ちょっと痩せたんじゃないか? ご飯、ちゃんと食べてる? 高野さんも、もう少し気遣ってくれないと」
「案外ね、原因は高野先生とひとつ屋根の下で暮らすことによるストレスだったりして」
おどけたように言う華音に対して、富士川の表情は冴えない。
原因はそこではない。それはお互いが分かっている。ただ、それをあえて口に出さずにいるのは、ひどく不自然だった。
華音は一寸考えたあと、聞きたかったことをストレートに切り出した。
「あのね。今度の公会堂での演奏会のこと……なんだけど」
「驚いたかい、華音ちゃん」
美濃部青年が入団してくるまでは、芹響の運営雑用は富士川が一手に引き受けていた。
そのため、公会堂の使用許可申請の流れも、富士川は充分詳しいはずだった。
「じゃあやっぱり、公会堂のことはわざと……なの?」
眼鏡の奥の切れ長の瞳が、わずかに大きく見開かれる。
富士川は肯定も否定もしなかった。しかし逆に、それがなによりの肯定の返事となる。
「前にも言っただろう? あの楽団は、名前は『芹沢』でも中身は別物だ、って」
その答えに、華音の心は虚しさとやりきれなさで埋め尽くされていく。
富士川はさらに続けた。
「でもさ、芹沢という名前にこだわる必要はないといったのは、あいつのほうなんだよ。だったら俺が、芹沢先生が慣れ親しんだホールで、芹沢先生と縁のある大黒先生を指揮者として、芹沢先生を追悼する演奏会をやりたいっていう、それだけのことさ。悪気があってやったことじゃないよ」
祖父を慕う気持ちは変わっていないようだ。それが唯一の救いだ。
「あいつに芹沢先生を偲ぶ気持ちなんて、あるわけがないしな」
富士川は伏目がちにため息をついてみせた。
確かに、この一番弟子は、何も間違ったことは言っていない。
「鷹山さんは、確かにおじいちゃんのことをあまりよく思っていないみたいだけど、でもね――」
「『あまり』じゃなくて『まったく』だろ?」
――それは、違う。きっと。
鷹山は、芹沢という名の重さを誰よりも知っている。芹沢という名を誰よりも愛し、そして憎んでいる。
しかし、それを富士川に上手く伝えることができない。
「あいつに、辛い目に遭わされたりしてるの? いろいろ楽団の雑用を手伝わされてるって聞いたけど」
「また藤堂さん?」
華音が露骨にうんざりとした顔をすると、富士川はそれを優しく諌めるように言った。
「そんな、藤堂のことを告げ口魔みたいに言わないの。チラッとそんな話が出ただけで、詳しくは藤堂も話してなかったし。華音ちゃんが楽団の仕事を手伝うだなんて、俺がいた頃はありえなかったからさ」
詳しく話していない――しかし、何かと富士川に連絡をしていることは事実なのだ。おそらく、現在の芹響のことは、逐一話しているのだろう。
華音のこと、そして鷹山のことを――。
「そう。分かんないことだらけなの。私、ホントに何にも知らなかったんだなーって、毎日毎日思い知らされてるよ。辛いなんて感じる余裕もないくらい。振り回されてるのは確かだけど、美濃部さんも助けてくれるし、大丈夫」
自分の知らないところで、富士川祥と藤堂あかりが繋がっている。
おぞましい。
自分はただの部外者。もう――聞きたくない。
「華音ちゃん」
「大丈夫だから。まだ、頑張れるから。バイト代ね、結構いいんだよ? オーナーの赤城さんってね、羽振りがいいみたい。身寄りのない私に同情しちゃってるのかもしれないけど」
ひとり喋りまくる華音の気持ちを知ってか知らずか、富士川は穏やかに頷いている。
「俺はね、芹沢先生と出会えたことが奇跡的で、本当に嬉しいと思っている。もちろん華音ちゃんともね」
「分かってる」
「俺、芹沢先生の一番弟子だっていうことを、誇りに思えるようになりたいんだ」
「うん」
「辛くてどうしようもなくなったら、俺を頼って。芹響を勝手に辞めた俺が言うセリフじゃないのかもしれないけど」
「ありがとう」
もう、うわべだけの答えしか出てこない。
「どんなことがあっても、俺は華音ちゃんの敵にだけはならないから」
敵ではなくても。
もう、味方でもないのだ――と、華音は悟った。
会いに行かなければよかった。
そうすれば、こんなにも苦しまずにすんだかもしれない。
富士川のマンションを出たあと、華音はひたすら後悔の念に駆られ、自己嫌悪に陥っていた。
どんなに自分が頑張ってみたところで、富士川との以前のような関係は取り戻すことができないのだ。
――分からない。何やってるんだろ、私……。
華音はその辺の適当なファストフード店に入ると、アイスカフェオレを注文し、一杯で延々と粘りながら、夕方までずっと思考の堂々巡りを続けていた。
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