在りし日の思い出 scene-3

 ――八年前。


 過ぎ去りし日々の情景。

 すべてが琥珀色に染まっている。



 芹沢邸には、若き音楽家たちが始終出入りをしている。

 このピアニストも、そんな芹沢英輔に気に入られた若き音楽家の一人――土曜日の昼下がりに芹沢邸に現れたのは、高野和久という青年である。


 高野は市内で小さな楽器屋を営みながら、ピアノの調律師として生計を立てている。基本的に、気ままな自由業だ。

 だから、ヒマさえあればこうやって芹沢邸に立ち寄り、勝手に昼食をともにしたりする。

 今日も、屋敷の主人が演奏旅行に出かけて留守なのをいいことに、執事に頼みこみ、芹沢家のお嬢様と居候の青年に混じって、昼食をたいらげていた。




 食堂と呼ばれる部屋のテーブルに、華音と富士川は隣り合うようにして席についている。華音の向かいには高野和久青年が座っていた。


 本日のメニューは五目あんかけ焼きそばとフルーツサラダ。

 芹沢夫妻には和食中心の別メニューを、富士川と華音は子供に人気のあるメニュー、というのが芹沢邸でのルールだ。


 高野は主人のいないことをいいことに、行儀悪くテーブルに肘をつきながら、焼きそばの麺を豪快にすすり上げるようにして口へと運んでいる。

 その様子を富士川青年は向かい側からじっと眺め、やがて呆れたようにそっとため息をついた。

 子供の前ではもう少し行儀良くして欲しい――そう言いたげなのは、その微妙な表情から伝わってくる。


「どうしたの富士川ちゃん、そんな辛気くさい顔して」


「辛気くさいって……いつもと変わりませんけど」


 富士川青年と高野は、富士川がこの芹沢家に居候を始めた頃からの付き合いだ。かれこれもう、六年である。

 二人は『友達』という間柄ではない。音楽界のキャリアで言えば、高野のほうがずっと立場が上だ。しかし、仲の良し悪しや上下関係だけでは量りきれない、むしろ歳の離れた兄弟のような関係に近い。


「なんかさあ、若年寄って富士川ちゃんのためにあるような言葉だよね」


「若年寄って、そんな……放っておいてください」


 高野は冷やかすように笑うと、今度は華音のほうへと視線を移した。

 そのまましばらく食事の様子を興味深げに眺めていたが、やがて皿の隅に除けられている『何か』に気づく。


「あー、ノン君、また残してる。ジイジイに見つかったら、怒られるんじゃないの?」


「だって……おいしくないんだもん」


「ちゃんと食べないと、ジイジイに言いつけちゃうぞー?」


 華音は怯えたような眼差しを高野に向けた。普段からあまり言葉を交わすことのない厳格な祖父は、少女にとって怖れる対象であるらしい。

 食べる手を止めうつむいてしまった華音に、富士川は隣から優しく包み込むようにして語りかけた。


「芹沢先生は華音ちゃんのことを叱ったりしないから、大丈夫だよ」


 そう言って富士川は、華音の皿に箸をのばし、かじったあとのあるシイタケを挟んで、そのまま自分の口の中へと放り込んだ。

 華音の顔は途端に晴れ晴れとなり、安心したような笑顔がこぼれる。


「じゃあ、これも祥ちゃんにあげる」


 華音は自分の皿に残っていたシイタケの欠片を箸でつかむと、そのまま富士川の口の前へと持っていく。

 富士川はハイハイと差し出されるがままに、まるで鳥のヒナのようにそれを食べた。

 その様子を眺めていた高野は、感心したように大きくため息をついた。


「甘いよねえ、富士川ちゃんは。それ、食いかけでしょ?」


「甘いですか……? 高野さんだってそうでしょう? 和奏ちゃんが残したもの、食べますよね?」


 愛娘の名を出せば納得するかと思いきや――高野はとんでもないといったふうに、激しく首を横に振ってみせる。


「いや、俺は食わないよ。子供が食い散らかしたあとなんかとてもとても……というかさ、富士川ちゃんたちが普通じゃないって。間接キスなんて日常茶飯事だろ?」


「センセイ、かんせつキスって?」


 富士川よりも先に、華音が反応をした。華音は目を瞬かせながら、向かいに座る高野に無邪気に尋ねてくる。

 高野は真面目に説明する気はさらさらないのか、唇を思いきり突き出して、華音の顔の真正面に近づけた。


「チューゥゥゥ、って」


「きゃーっ、先生、タコタコー」


 今にもキスをしてしまいそうなほどの近さでも、まだ小学二年の華音には、緊張やときめきとは無縁のようだ。至近距離での高野の変顔に、はしゃぎまくっている。

 富士川は、しばらく二人のやり取りを黙って眺めていたが、やがて面倒くさそうにツッコんだ。


「……それ、間接じゃないですから。それにしても、高野さんは大袈裟なんですよ」


「大袈裟あ? ……まあ、一緒に風呂にまで入ってるくらいだからね。間接キスくらい、どうってことないか、そっかそっか」


「…………高野さんって、かなりしつこいですよね。その悪意ある言い方、止めてもらえませんか?」


 含みを残したまま適当に相槌を打つ高野に、富士川は言葉少なに反論した。

 事実なだけに説得力はほとんどなかったりするのだが――。


「そりゃそうでしょ。大学三年の男が? 小学二年の女の子と? 親子でも兄妹でもないのに!? 犯罪だよ、富士川ちゃん」


「は、犯罪……って、そんな――」


 もはや二の句が継げず、富士川は唖然としたまま固まった。

 すると何を思ったか――突然、華音は大きな声を上げた。


「いいの! 祥ちゃんとカノンはしょうらいケッコンするんだもん。だから、一緒にお風呂入ってもいいんだもん」


「――え?」


 どこに反応してよいのか、大人の男二人は途惑いを隠せず、思わず顔を見合わせた。

 少なくとも富士川は、そのような感情で華音と入浴していたわけではないのだが――。

 高野は少女の夢を壊さぬよう、穏やかに頷きながら語りかけた。


「結婚して、一緒に風呂かー。じゃあ、ずーっと富士川ちゃんと一緒ってことか。よかったね、ノン君」


「うん!」


 華音はどこまでも嬉しそうな笑顔で、元気よく返事をしてみせる。

 一方の富士川青年は、なんと答えてよいのか分からないのか、皿に残されていたやきそばの麺を、箸でただぐるぐるとかき混ぜている。


「え、いや、まあ、その。ずっと一緒にいるのはともかくとして、お風呂はそろそろアレですよね、やっぱり」


 しどろもどろで言い訳をする富士川青年を見て、高野は声もなくただひたすら笑い続けた。

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