深く脆く美しい世界へ(3)

 華音は応接室から廊下へと出て、先に出ていった美濃部を捜した。

 玄関から入って左側に雑談スペースがある。観葉植物で簡単に遮られた空間で、ガラスのセンターテーブルと一人掛けのソファが、向かい合うようにして置かれている。応接室に通すまでもない、ちょっとした来客に便利だ。

 美濃部はその雑談スペースで華音を待っていた。


「よかった。何だか元気そうですね」


 華音が美濃部と言葉を交わすのは、美濃部がコンサートマスターに指名された夜以来だ。一週間ぶりである。

 相変わらずの社交辞令を交わすだけの関係だが、それでも美濃部はいつもテンションが変わらないので、鷹山とは違い一緒にいて和むことができる相手だ。

 華音は大きく息をつくと、美濃部の向かい側のソファに腰かけた。


「悲しんでいるヒマもないほど、こき使われてるもん。鷹山さんは人使いが荒いし、赤城さんは細かいマナーにうるさいし、高野先生はだらしないカッコでうちの中うろうろしてるし」


「相変わらずなんですねえ、高野先生……。私だったらきっと、同じ屋根の下で暮らせないですよ」


 美濃部の言葉は哀愁を帯びている。

 こまごまと姑のように注意する美濃部と、ばつが悪そうにしながらもそれを適当に聞き流している高野――。

 そんな二人のやりとりを思わず想像してしまい、華音はこらえ切れずに噴き出した。


「美濃部さんと高野先生って、案外好相性かもよ?」


 そう言って楽しげに笑い続ける華音の姿に、美濃部は驚いたように目を瞬かせた。


「何か……華音さんが笑ってるの、久しぶりに見た気がしますね。芹沢先生の告別式のとき、喋っていたこと覚えてますか?」


「そういえば、美濃部さんと二人だったね」


「芹沢先生が亡くなっても悲しくないって、言ってたんですよね。でも、富士川さんがいなくなってからの華音さんは――とても悲しそうだったから」


 美濃部は淡々と言う。理系出身らしい理路整然とした物言いが心地いい。


「何だか、祥ちゃんがそばにいたのが、ずっと昔のことのような気がする」


「そうですね。でも、まだひと月やそこらの話なんですよ」


 そう、たったひと月の間で――。

 華音を取り巻く環境は、がらりと変貌を遂げた。

 あるはずのものがなくなり、ないはずのものが突如現れて。


「華音さん、私も頑張りますから。前向きにいきましょうよ、ね?」


 うつむく華音を励まそうと、美濃部はひときわ明るい声を出した。


「富士川さんほどいいアニキじゃないですけど、団員のことちゃんと引っ張って、鷹山さんがやりやすいようにしっかりとついていきますから」


 その名前を聞いて、突如現実に引き戻されてしまう。

 そう、これが――現実。


「ねえ、美濃部さんは鷹山さんのこと、どう思う?」


 華音は努めて冷静さを保って、美濃部に問いかけた。


「私は高野先生とまったく同じ意見ですね。鬼と悪魔、でしたっけ? 妙に納得させられますよねえ。でも、音楽に対するひたむきな姿勢とか、二人はとてもよく似てると思いますよ」


 あくまで飄々と、美濃部は自分の意見を述べていく。

 どうも腑に落ちない。

 華音から見れば、富士川と鷹山が似ているようには、微塵も思えないのであるが――。


「祥ちゃんって、楽団の中では『鬼』だったの?」


 こんなことをいまさら美濃部に聞くのは変かもしれない、そう華音は思った。

 富士川と長く時間をともにしていたのに、楽団での富士川のことは、演奏会以外では何も知らなかったということを、いまさらながら思い知らされる。


「自分に厳しかったですよね、富士川さんは。決して人当たりが悪いというわけではなかったですけど、芹沢先生のことをリスペクトしてましたからね。こと音楽性に関しては、他の楽団員たちの意見は聞く耳持たないって感じでしたから」


 それがきっと、『鬼の一番弟子』と呼ばれる理由なのだろう。

 富士川は華音に対して厳しい顔を見せることはなかった。そのため、逆にこういう「仕事の鬼」的な富士川の話を聞くと、演奏家としての実力も相当なものなのだと、改めて尊敬してしまう。


「でも、それでよかったんですよ。指揮者とコンサートマスターが絶対の信頼関係で結ばれているってことは、私たち平団員にとっても好ましいことでしたし」


 それは、華音にもよく分かる。

 祖父の芹沢英輔が生きていて、音楽監督として芹響を率いていたときは、揺るぎない結束力でひとつにまとまっていた。


「実際ね、鷹山さんと私がそういう関係になれるかと聞かれたら、答えはノーですよ。師弟関係にあるわけでもないですし、鷹山さんのことを何も知らないし。まあ、それはお互い様ですけどね」


 美濃部は白黒はっきりとした口調で、明るく喋りまくる。


「でも感じるんですよ。彼の中に芹沢先生の音楽が生きている。私は外様の団員ですけど、それでも三年間芹沢先生の下でいろいろと勉強させてもらいました。芹沢英輔という人間を通して、鷹山さんと私は繋がっていると感じるんです――何か上手く言えませんけど」


 華音は美濃部の話にひたすら耳を傾けていた。

 そして、何となく。

 鷹山がどうして美濃部青年をコンサートマスターに指名したのか、分かった気がした。


「どこまで高慢なのかしら! 富士川さんとは大違いだわ……あの男を弟子にした芹沢先生のお気持ちが量りかねます!」


 応接室から飛び出すように出てきたあかりが、華音たちのいる談話スペースへとやってきた。

 あまりの勢いに、二人は呆然と彼女の顔を見つめるばかりだ。

 背中の中ほどまである美しい黒髪を振り乱し、興奮のためか呼吸も乱れている。


「そんなに怖い顔をしてたら、せっかくの美人が台無しだよ、あかりさん?」


 美濃部がいつものようにさらりと言うと、あかりは怒りの矛先をそちらへ向けた。


「からかうのは止めて頂戴。そんなのん気なこと言って……あなたのことを聞かれていたのよ?」


「私のことを? あかりさんに? へえ、鷹山さん何て?」


 あかりは口ごもった。本人を目の前にしては言いにくいことなのだろう。


「……いえ。とにかくあの人は、私が富士川さん寄りなのが気に入らないのよ。何がいけないの? 今まで何年も楽団を引っ張ってきたのは、他の誰でもない、富士川さんなのよ? それなのにとことん排除しなければ気がすまないなんて、まともな人間の考えることじゃないわ」


 華音は、あかりと美濃部のやり取りを、そばでじっと眺めていた。入り込む隙間はない。

 若き楽団員たちの言い合いは続く。


「あかりさん、鷹山さんのことになると何だか、人が変わったように感情的になるよね」


「それは……あの人が本当に芹響に必要な人かどうか、私には分からないからなんだと思います」


「あかりさんが富士川さんのことを尊敬してるのは知ってるし、鷹山さんが富士川さんのことをよく思っていないことも分かるんだけどさ。でもさ、鷹山さんは芹響のことを大切に思ってくれているよ? それはあかりさんにだって分かるよね?」


「音楽性は認めます。楽団員たちを率いていく力もあるんでしょう、きっと。でも美濃部さん、それが誰かの犠牲の上に成り立っているというのに、あなたは黙っていられるの?」


 あかりが一瞬、華音のほうに視線を向けた。目と目が合う。

 心臓の鼓動が、ひときわ大きく高鳴った。


「誰かの犠牲?」


 美濃部はまったく合点がいっていない。しらけたような顔であかりに聞き返す。


「美濃部さんはどうしてそうなんですか。いつだって冷静で、いつだって物分かりがいい。私には到底、真似できないわ。理解できないとまでは……言わないですけど」


 ――誰かの、犠牲の上に、成り立っている。


 あかりの言葉が、華音の胸を締めつける。

 犠牲?

 悪魔な音楽監督の餌食となった、可哀想な犠牲者。


「それより華音さん、あなた――大丈夫なの?」


 あかりは、華音が鷹山の腕をナイフで刺したことを知る、唯一の人物だ。

 大丈夫なのかという問いは、あの夜の一件が負い目になって鷹山の言いなりになっているのではないか、ということなのだろう。

 しかし、二人が切るに切られぬ近しい血縁関係にあるということを、あかりや美濃部を始めとする楽団員たちはまだ、知らない。


「また祥ちゃんに、このことを言うんですか?」


「このこと?」


 あくまで知らない振りを通そうとするあかりに、華音は苛立ちを覚えた。


「私が鷹山さんの専属アシスタントにさせられた、ってことです」


「黙っていたって、いつかは知れることでしょう? 不自然に隠すほうがおかしいわ」


 やはり。

 自分の知らないところで、富士川とあかりは繋がっている――いろいろと楽団の情報を教えているのは、この女なのだ。


「言うときが来たら、自分で言いますから」


「分かったわ」


 あかりは軽くため息をついた。


「あの男に何かされて困ったら、私に相談してください。華音さんの周りは無粋な男の人ばかりだから、心配なんです。女同士でなければ分かり合えないことも……あると思うので」


 そう言い残し、あかりはそのまま芹沢邸の玄関へと消えていく。

 美濃部はしばらくあかりの背を目で追い、一人惚けていた。


「ああ見えて、優しい人なんだよ――あかりさん」


 そう、と華音はそっけない返事をした。


 藤堂あかりが投げかけた犠牲者という言葉、そして彼女と富士川の関係に、華音は一人心を痛めていた。

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