その名を名乗れぬ理由(1)

 新規団員の募集告知から入団試験のオーディションまでは、ほとんど日数はなかった。

 それにもかかわらず、スポンサーとなった赤城エンタープライズという一流企業のブランド効果もあって、募集人数を上回る応募があった。


 その多くは、現在の楽団員たち同様、芹沢英輔が生前に教授として在職していた音楽大学の卒業生だ。

 しかし鷹山の要望で、学歴や経験などを問わずに条件を広くしたため、美濃部のような非音大出も何名かいた。

 会社員や主婦など、それらの応募者は多種多様だ。



 部屋の中央に置かれているテーブルの上には、履歴書と自己調査書をクリップで留めた応募者の書類が、無造作に積まれている。

 上等なスーツに身を包んだ大男は、それを上から何通か手にとり軽く経歴の欄に目を通すと、興味深そうに目を細め、感心したように言った。


「たいしたもんだな。アマチュア団体にも、プロ顔負けの技術を持った人間も、いるということなのだろうな」


 そんな大男の問いかけに、誰も応じようとはしない。

 それも無理のないことである。芹沢邸の二階の書斎は、朝から慌ただしい様相を呈していた。

 書斎は音楽監督である鷹山の居室である。アシスタントの華音以外は、自由な出入りを認められていない。

 来客や楽団員との打ち合わせには、一階にある応接室のいずれかを使用することになっているため、普段であれば間違ってもこの『大男』が二階をうろつくことはない――はずだった。


 しかし。


 この赤城という男は、スポンサーであるという立場を利用して、ときおりありえない時刻ありえない場所まで、平気で入り込んでくる。

 まるで我が家のように振る舞うその遠慮のないふてぶてしさは、赤城が成り上がりの野心家であることを如実に現している。


「よい人材が発掘できるといいですねえ――、オーナー?」


 爽やかな笑顔を見せているのは、コンサートマスターの美濃部青年だ。オーディションの審査員として、早朝から鷹山に呼ばれたらしい。

 美濃部は、センターテーブルで懸命に書類の整理をしている華音の作業を、ときおりうかがうようにして見ている。

 オーディションの告知や日時の設定、応募者への連絡など、華音はすべて美濃部の指示を受け、まるで操り人形のように動かされていた。


 実のところ、鷹山がいないところでは、引き継ぎ中と称して、美濃部が半分以上を作業してくれていたが、さすがにこの鷹山の居室では、あからさまに手伝うわけにもいかず、やきもきしているようだ。

 心配そうな顔で、「そうじゃなくて」とか「そっちが先」など、囁き声を出してくる。



 書斎の窓辺に背を向けるようにして置かれたエグゼクティブデスクに、鷹山は着席していた。

 しつらえのいい黒い革張りのチェアにふんぞり返るようにして座り、不機嫌そうに口をへの字に曲げている。

 もちろん原因は、ここにあった。


「赤城オーナー、立ち会うのは結構ですが、最終的決定権は僕に委ねてください」


 鷹山に鋭く言われると、赤城は微かに片眉を引きつらせた。

 もちろん、黙って引き下がるような謙虚な心など、持ち合わせているはずもない。


「人選に口を挟むつもりはないがね。君が入団希望者に失礼な態度をとらないか、それだけを案じているのだよ」


 真夏の室内が一気に氷点下へと様変わりする。

 鷹山はふん、とそのまま顔をそむけた。


「芹沢さん、希望者の正確な人数を教えてくれ」


 面接資料の準備に追われていた華音は、不機嫌な音楽監督のひと言に慌てふためいた。赤城が手にしていた書類も忘れずに奪い返す。

 しかし見るも無残。

 テーブルの上の書類はあちこちに飛散し、収拾がつかなくなっている。

 パート別に分け、さらにそれぞれ受付番号順に並べていくだけなのだが――。


「ええと……ま、待ってください。大まかなところですと、ヴァイオリンが五人に対して二十人、あと、ヴィオラは二人のところ四人、です。あとですね……」


 鷹山は露骨にうんざりとした顔をした。八つ当たり気味に、鋭く言い放つ。


「入団試験は今日なんだぞ? 正確な人数が把握できてない? どういうことなんだよ」


 勢いに押されて華音はたじろいだ。できない、分からないなどという理由は、鷹山には通用しない。

 返事をしようにも、上手く言葉が出てこない。

 その状況を見かねて、美濃部が助け舟を出した。


「今朝になって飛び入りで入団試験を受けさせて欲しいという人が、何人か来てるんです。そちらのほうの対応が、まだすんでいない――ようですね」


 手馴れたような美濃部の説明に対して、鷹山が何か言いかけた。しかしそれを遮るように、オーナーの赤城が憮然と言い放つ。


「三日前に締め切ったはずだろう。期日を守れないなら、その時点で受験資格はないと思うがね」


 嫌な沈黙が室内を包む。

 華音は鷹山の顔色をうかがった。

 美濃部が華音の仕事を手伝っていることに関して、何かを言ってくるかと構えたが――赤城に遮られ、その気をなくしたようだ。

 鷹山は物憂げにため息をつき、少し考え込んだあと、華音に指示を下した。


「試験の日程は変更しない。ちゃんと楽器を用意してきてるなら、最後に追加してやってくれ。先にヴァイオリン、その後ヴィオラを行うから、そのように調整してくれないか」


「分かりました。ではそのようにします」


 華音が素直に返事をすると、鷹山は満足そうに微笑み頷いてみせた。




 華音は、玄関を入ってすぐのところに折りたたみテーブルと椅子を置き、受付を作った。

 仕事はいたって単純だ。

 控室として設定された客間に、オーディション希望者を順次通していく。それだけである。

 すでにオーディション会場には、音楽監督の鷹山、コンサートマスターの美濃部、そして立会人のオーナー赤城の三人が待ち受けている。


 受付を設置してからすぐに、一人目の希望者がやってきた。

 そのあとも次から次へと、休む間もなく受付作業をしていたが、美濃部が参加者の集合時間を分散させてくれていたため、目立った混雑はなかった。

 二時間ほどかかってすべての参加者の受付が終わり、控室まで案内すると、華音はようやく一息入れることができた。


 あとは鷹山と美濃部が上手くやってくれるはずである。

 華音は受付を設置した場所とちょうど反対側にある雑談スペースへと移動し、身体を投げ出すようにしてソファに身を預けた。




 オーディション会場である音楽練習室から、立ち会っていたオーナーの赤城が出てきた。

 審査はまだ終わっていないはずだった。早々に退室してきたのは、鷹山の参加者に対する応対がまずまずだと判断したからに違いない。


 赤城は、廊下を歩いていた芹沢家の家政婦に二人分のアイスティーを所望し、そのまま華音のいる玄関脇の雑談スペースまでやってきた。

 赤城は断りもなく華音の向かい側のソファに腰かけ、狭そうにしながら気障ったらしく足を組み上げた。


「君もだいぶ慣れてきたようだな。あの鷹山君を上手く扱っているじゃないか」


「全然嬉しくないです」


 華音は姿勢を正し、ソファに浅く腰かけ直した。

 赤城とは知り合ってから日も浅いため、緊張感がいまだ拭いきれない。高野和久と同い年とはとても思えない――むしろ赤城のほうが年相応なのだが、落ち着き払った物腰と佇まいは、酸いも甘いも知り尽くした大人の男を感じさせる。

 しかしそれは、富士川祥とも高野和久とも違う。肉親の情愛などまるで関知しない。冷たくてどこか危険な香りのする、独特の魅惑を有する人間だ。


【富士川さんがいなくなったら、次はあの男か?】


 目の前に座って自分の顔を興味深げに眺めている大男の顔を、華音はおぼろげに見つめながら、以前鷹山に言われた言葉を思い出していた。


 ――祥ちゃんの代わり……だなんて。


 どうして皆一様に同じことを言うのだろうか。

 美濃部もそう。


【華音さん、私も頑張りますから――富士川さんほどいいアニキじゃないですけど】


 鷹山だって、そう。


【あの男じゃ、無理さ。しかし、僕にはそれができる】


 周りから言われれば言われるほど、やりきれない思いに苛まされる。

 しかし――少なくともこの赤城という男にとっては、華音はビジネス取引上の『コマ』にしか過ぎないはず、なのである。




 家政婦が、アイスティーの入ったグラスをトレイに二つ載せて、二人のもとへとやってきた。

 家政婦は会話の邪魔をしないように無言で給仕すると、静かにその場を去っていく。


 赤城はグラスを指し示し、冷たいものでもどうぞ、と勧めてきた。

 人の家で勝手に飲み物を頼んでおいて、「どうぞ」はないんじゃないか――華音は内心思ったが、確かに喉は渇いている。素直に頷き、ストローを手にとった。


 華音がアイスティーを一口飲むのを確認して、赤城はゆっくりと話し出した。


「君たちは和久を挟まないとろくに話もできないんじゃないかと思ったよ」


 赤城なりに心配をしていたらしい。鷹山と華音の本当の関係を知っている分、いろいろと思うところがあるのだろう。


「高野先生は、むしろ逆。私と鷹山さんが一緒のときは、極力一緒にいないようにしてるみたい。赤城さんのせいですよ」


「私の? ははは、手厳しいねえお嬢さん」


 赤城の表情が緩んだ。小娘の戯言が楽しくてしょうがないらしい。

 華音は子供扱いされることが悔しかったが、表情には出さずにそのまま話し続けた。


「高野先生は鷹山さんとも仲がいいみたいだから、私が思いがけず秘密を知っちゃったことで、私と鷹山さんをどう扱っていいのか分かんないんでしょ」


 赤城は相槌を打つように数度、頷いてみせた。そして、そこでようやくアイスティーのグラスを手にとると、豪快にあおるようにして一気に半分ほど飲んだ。氷がグラスとぶつかり、派手な音を発てる。

 グラスをコースターの上に戻し、赤城は渇きが潤され落ち着いたのか、ひとつ息をついた。

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