芹沢家の秘密(1)
藤堂あかりに付き添われ、華音はようやく自分の部屋まで戻ってきた。
ただ呆然と立ち尽くしている華音を、あかりは半ば強引にベッドに腰かけさせる。
「今、高野先生に連絡をとりますから――」
「駄目。誰にも言わないでください」
あかりの言葉を遮るようにして、華音は叫んだ。
自分のしてしまったこと、そしてそれを周りの人間に知られてしまうことへの恐怖に怯え、身体の内側から震え出す。震えを抑えようと何度も深呼吸するも、収まる気配はない。
あかりはそっと華音の肩に手を置いた。ふわりと、神秘的な麝香の香りが漂う。
「あなたがあの男にしたことは、誰にも言いません。でも……このまま、あなたを一人にして帰れませんから。私では、富士川さんの代わりはつとまりませんけれど」
このような状況において、出して欲しくなかった大切な人の名前を、あかりは口にした。
「高野先生がお戻りになるまで――ここにいます」
お互いの心の内を探りあうような危うい沈黙が、二人の間に流れる。
一人にして欲しい、そう言うこともできた。
しかし――。
あの二番弟子がこの芹沢邸にいる限り、心の平安がもたらされることはない。
一人きりでいるのは、とても耐えられそうになかった。
華音が申し出を拒まずじっとしていると、あかりは安堵のため息をついた。そして、華音の隣に並ぶようにして、ゆっくりとベッドに腰かける。
こうやって自分の部屋であかりと一緒にいることに、華音はひどく違和感を覚えた。
あかりは、富士川のそばにいる華音をいつも冷たい眼差しであしらうばかりの、怜悧な美貌のヴァイオリニストである。華音の中における彼女のイメージは、決して良いものとはいえない。
しかし。
今夜引き起こされた出来事が、二人の距離をわずかに縮めることとなった。
二人の心の奥底に流れる、誰も踏み込むことのできない領域が、鷹山という男を通して共鳴しあったのである。
うねり狂う負の感情と、その感情に隠れる一筋の光――。
「悔しいですけれど、私は……あの男と同じ考えなのかもしれません」
長い沈黙を破り、あかりは自分自身の気持ちを確かめるようにして、その思いを口にし始めた。
「富士川さんには、辞めるという選択肢を簡単に選んで欲しくなかった――たとえそれが、あの男の存在のせいだとしても」
きっと、あかりの言うとおりなのだろう。華音はそう思った。
鷹山の慇懃無礼な振る舞いは、決して許せるものではない。しかし、彼の楽団に対する思いの深さは、並大抵のものではない。
それは、分からなくもないのだが――。
「富士川さんは、何でも一人で抱え込んで、悩んで、考えて、勝手に決めて……残される人たちの身にもなって欲しい」
あかりの声がわずかに震えている。
残されてしまった人――それは、当然あかり自身のことであり、大勢の楽団員たちのことでもあり、そして、そばに座っている華音へと向けられた言葉だった。
「だから、ショックだったんです。……今夜のことだって、富士川さんが残っていてくれたらきっと、起こり得なかったことですもの」
華音は思わず、あかりの顔を食い入るように見つめた。
あかりは、すべてに気づいているのだろうか――華音にそれを確かめる術はない。
「昼間あなたに、『富士川さんは自由を手にいれた』と言いましたけど……そんなのきっと、あの人にとっては虚しいだけです。いつか富士川さんご自身もそのことに気づかれると思います。だって、富士川さんは芹響になくてはならない人だもの」
真っ直ぐな想いが、よどみなくあふれ出す。
あかりは、嘘やごまかしのないその真摯な眼差しを、しっかりと華音に向けた。
「だからお願い、華音さん」
あかりは華音のほうを向くようにして、ベッドに浅く腰かけ直した。
「芹響を……私たちの楽団を残して」
――そんなことを、言われても。
「藤堂さん……でも、私は」
「お願い、なくさないで。あの人の帰る場所を」
あかりの懇願するような眼差しに、華音はひどく動揺した。
突如、頭の中をめぐる既視感。
記憶の断片が、少しずつ組み合わされていく。
【僕だって他の団員たちと同じように――】
そう、あのときと同じ。
悪魔の二番弟子が、華音を怒鳴りつけたあとに口にした、迷いのない言葉がふと、思い出される。
【この楽団をなくしたくない、と思っている】
あかりと鷹山の顔が重なって見える。
同じ眼差しだ。
【でもそれを、富士川さんが言い出すのでは駄目なんだ】
あの男の声がこだまする。
どうして。
分からない。
【『芹沢』の名を持つ君が――いいか、君が言わなくては駄目なんだ】
私たちの、楽団を。あの人の帰る場所を。
お願いだから――。
東の空から太陽が昇り、いつもと同じように朝がやってきた。
華音は神経が高ぶってなかなか寝つけずにいた。明け方近くまでずっとベッドの中で起きていたせいか、目覚めはすこぶる悪い。
体調がすぐれない。とにかく身体中が、だるくてだるくて仕方がないのである。
祖父が亡くなってから、華音はずっと学校を休んでいた。
祖父母の忌引は、校則で三日と決められている。しかし華音の場合、祖父が唯一の身内であるという特殊な状況を考慮され、身辺の整理がつくまで休むことを許可されていた。
学校を休みだしてから、かれこれ一週間あまり経っている。
とりあえず今日から普通に登校することを、高野には伝えてあった。しかし、あまりの体調の悪さに、華音は学校に行く気を失くしてしまった。
高野に事情を話すべく、高野が泊まっている芹沢家二階の客間を訪れた。
しかし。
昨夜遅く帰ってきたはずの高野の姿は、客間にはすでになかった。どうやら早々に外出してしまったらしい。
華音は困ってしまった。
このまま家にいて、鷹山と遭遇することだけは絶対に避けたかった。昨日の今日だ。合わせる顔がない。
華音は一人部屋に戻り、だるさと闘いながらのろのろと制服に身を包むと、耳をすませながら慎重に廊下を進んだ。
階段を降り、昨夜の惨劇のあった鷹山の客間のある廊下を、おそるおそる覗き見る。
幸いにも、そこに人の気配はなかった。
華音はその場から逃げるようにして家を出ると、高校へと向かって重い足を引きずるようにして歩き始めた。
どうも落ち着かない。このままで本当にいいのだろうか。
祖父は死に、富士川は華音のそばからいなくなってしまった。
――あの男。あの男が現れなかったら……いや、それは違う。
昨夜一晩頭を冷やし、華音はいろいろなことを考えた。
たとえ鷹山という男が現れなかったとしても、富士川が祖父の後継者として、楽団を率いていくことができたかどうかは分からない。
何の問題もなく、上手くやっていけたかもしれない。
失敗挫折の末に、楽団解散となったかもしれない。
師の存在が大きすぎて押しつぶされそうだと、感情に任せて鷹山にくってかかった富士川の姿は、いまだ華音の記憶に新しい。
いずれにしても、富士川がそのどちらの選択肢も選ばずに去ってしまった今――それらは訪れることのない未来の話となってしまった。
【お願い、なくさないで。あの人の帰る場所を】
いったい、自分に何ができるというのだろうか。
自分がしなければならないこととは、何だというのだろうか。
【『芹沢』の名を持つ君が――いいか、君が言わなくては駄目なんだ】
幾度となく反芻しつづける鷹山の言葉が、華音の胸にとどめを刺した。
華音は心を決め、ゆっくりと立ち止まる。そして、その場で大きく息を吸い込むと、最寄りの駅へと向きを変えた。
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