憎しみがすべてを支配する(3)
華音は自分の部屋を出て、旋律に引き寄せられるようにして薄暗い廊下を歩いていった。
古い洋館の床がときおり鈍い音をたて、辺りに響く。
そのまま螺旋階段を降り、気がつくと、応接室の手前にある音楽練習室兼客間の前までやって来ていた。
ヴァイオリンの調べが途切れた。
華音はただ黙ったまま、ドアの前に立ち尽くしていた。
「どなたですか?」
中から鷹山の声がした。気づかれている。
しばらくすると、目の前のドアが開いた。
鷹山は左手にヴァイオリンを携えたまま、不審げな面貌で華音を見つめている。練習の邪魔をされて気が立っているのか、何か用? と吐き捨てるように言った。
「……あなた、本当におじいちゃんの弟子なの?」
「どういう意味だよ、それ」
「あなたに……弟子を名乗る資格なんかない」
鷹山は華音の言葉に反応しなかった。小娘の戯言と割り切っているのだろう。
それでも華音は、なおも食い下がった。
「それはおじいちゃんの物なんでしょ。……返してよ」
「嫌だね」
鷹山は大きな目を瞬かせ、はっきりと嫌悪感をあらわにした。そしてそのまま華音に背を向けると、部屋の中へと戻っていく。
もう、後には引けないのだ。華音は鷹山の後を追うようにして、部屋の中へと入っていった。
怖かった。怖くて怖くてたまらなかった。しかし、もう抑えることのできない何かが、華音の心を支配していた。
富士川でさえ、この鷹山という男の容赦のない物言いに太刀打ちできないのだ。ましてや華音がかなう相手ではない。
歯をかみ締め唇をぎゅっと真一文字に結び、襲いくるであろう言葉の矢の嵐をひたすら待った。
「君は、僕からこのヴァイオリンをとって、どうするつもり?」
鷹山の心の奥底の触れてはいけない部分に、どうやら火をつけてしまったようだ。
もはや止めることなど不可能だ。その証拠に、鷹山の攻撃はいっそう激しさを増す。
「君はヴァイオリンをやらないんだろう? 大切に金庫にしまっておく? 馬鹿馬鹿しい! ストラディバリウスのような芸術品は弾かないでいるとすぐに音質が劣化してしまう。手入れを怠ってはならないんだよ。そもそも君は、僕がこの楽器を受け継いで、すでに十年もの間演奏活動をしてるってことを、ことごとくないがしろにしてるよね。何なんだよ、またあの男の入れ知恵か?」
怖い。鷹山の目が、怖い。
兄弟子の富士川に対する、並々ならぬ憎悪の心。
そしてその矛先は、富士川を慕う華音に対しても同様に向けられている。
「僕はね、『芹沢』の名を汚すような真似をする人間が、気に入らないんだよ」
「……祥ちゃんのことを言ってるの?」
「他に誰がいるというんだ」
富士川が、芹沢の名を汚す――などと。
鷹山の言っていることが、華音にはまったく理解できない。
「そして、『芹沢』の名を軽々しく口にする人間もね、気に入らない」
華音はあまりの恐怖心に思わず後ずさった。その場から逃げようと鷹山に背を向けると――強引に腕をつかまれ、引き止められてしまった。
振り向くと、そこには今にも飲み込まれそうな二つの大きな瞳。
「触らないで!」
振り解こうと必死に身体をよじる。しかし、そんな華音の抵抗も虚しく、鷹山は腕をつかんでいる手の力を緩めようとはしない。
もう、逃げられないのだ――華音は悟った。
間近に見える鷹山の綺麗な顔立ちが、なおのことその冷たさを際立たせている。
「すべて僕のせい? 英輔先生が死んだのも、富士川さんが芹響を退団したのも、楽団の経営が芳しくないのも」
「……祥ちゃんがいなくなったのは、あなたのせいでしょ?」
とうとう、思っていたことを口にしてしまった。
一気に緊張が高まる。
目をそらすことができない。蛇に睨まれた蛙の如く――。
「あの人には今の芹響を支える力はない。その言葉を撤回する気はないね。英輔先生のゴーストだけを追い求めて、周りが何も見えていない。今この楽団がどうあるべきか、これからどういう方向へ進むべきか……」
すでに喉はからからだった。華音はごくりと生唾を飲み込んだ。
鷹山の勢いはさらにエスカレートする。
「ただ英輔先生しか見えず、英輔先生の言うことだけが絶対で、英輔先生の言うことさえ聞いてりゃ間違いないだなんて、そんな他力本願な奴……人の命は永遠ではないんだ。出会いがあり、そして別れのときがいつか必ずやって来る。君だって心のどこかでは覚悟していただろう? それなのに英輔先生がいなくなったら、どうだ? ガタガタじゃないか! あれだけ英輔先生が積み上げてきたものを、一番弟子であるあの人が、こうも簡単に崩すとは……正直、思い切り失望したよ。僕ね、本当は葬式が終わったらすぐにウィーンへ戻るつもりだったんだよ」
一通り言いたいことをまくしたてると、鷹山はようやく落ち着きを取り戻し、華音の腕を放した。
「どうして君は、そんなにあの男にこだわるんだ?」
「あなたに――私の気持ちなんか分からない。分かるわけない」
自分にとって富士川祥という男が、どれほどの大きな存在であるかを。
この鷹山という男は、知るはずもないのだ。
「両親も兄弟もいない私にとって、祥ちゃんは、父親代わりで兄代わりだった。いつだって、いつだってそばにいてくれたのに――」
すると。
鷹山は何が可笑しいのか、嘲るように鼻で笑った。
「父親? 兄貴? ハッ、笑わせてくれるな。夢でも見てるんじゃないのか。本当の肉親なら、どんなことがあっても君を見捨てて逃げ出したりはしないさ」
この男は。どこまで無責任なことを。
華音は自分自身の感情を、もはや抑えることができなかった。
「何よ! あなたが、それを滅茶苦茶にしたんじゃない!」
華音は部屋を見回すと、手つかずのままワゴンに乗せられたままのディナーセットへ近寄った。
そして、おもむろに果物ナイフをつかみ――やり場のない怒りと悲しみが、涙となって華音の両目からあふれ、両頬を濡らしていく。
「なっ……?」
鷹山のかすかに震えるうめき声――華音はそれを、すぐそば耳元で聞いた。
「あ、あなた! 何をやってるの!」
突然、女の叫び声が、凄惨な修羅場に響き渡った。
部屋の入り口に立ち尽くしていたのは、藤堂あかりだった。
鷹山の両目は、これほどまでにないほど見開かれている。驚き動揺していることは、傍目から見ても明らかだ。
「君、どうしてこんなところに……」
あかりは昼間ここへ訪れたとき、鷹山と話をさせてほしいと華音に詰め寄っていた。芹沢邸に再びやってきたのは、そのためなのだろう。執事がここまで案内してこなかったところをみると、込み入った話をするためにそれを断ったに違いない。
「私はあなたとどうしても直接話がしたかったので……そんなことより」
あかりの続く言葉を遮るようにして、鷹山は必死の形相で叫んだ。
「いいか。今ここで見たことは絶対に他言無用だ! 特にあいつには……富士川さんには」
「何をふざけたことを。あなたの脅しにのるとでも思ってるんですか?」
「君もあの男を愛しているのなら――分かるだろう? 僕の言うことが」
――君『も』、あの男を。君『も』、愛しているのなら。
何てことを――してしまったのだろう。華音は自分のとった行動にただ愕然としていた。
鷹山の左腕を押さえていた右手の指の間から、深紅の液体があふれ流れ伝い、やがてストラディバリウスを染めていく。
この男が悪いのだ。自分から富士川を奪った、この男のせいなのだ。
みるみるうちに、ストラディバリウスに幾筋もの血痕がついていった。
華音は持っていたナイフを床に落とした。絨毯に音を吸い込まれて、派手な音はしない。
華音は鷹山の顔をまともに見ることができず、うつむきじっとしているのが精一杯だった。
「いい加減、覚悟を決めたらどうなんだ」
鷹山は痛みを表情には出さず、しっかりと華音の顔を正面にとらえた。刺された左腕を押さえながら、力強くそして諭すように華音に言う。
「昼間、君も言ってただろう? いまさら英輔先生のもう一人の孫を探してどうするんだって。だったら、君がこの芹沢の名前をもって、楽団の運命を背負っていくんだ。――あの男はそれを放棄したんだからな」
あかりの表情が変わった。何やら込み入った芹沢家の事情と、華音が背負わなければならない宿命の重さを知り、途端に同情する素振りを見せる。
あかりはゆっくりと試すように聞いた。
「あなたが、芹沢先生の後を引き受ける――ということなの?」
「それは……僕が決めることじゃない」
鷹山の発言は、肯定も同然だった。
しかし、誰よりも富士川のことを尊敬しているあかりに、それをはっきり言うのはためらわれるのか、鷹山は言葉を濁した。
曖昧に言ってみたところで、富士川がいなくなったあと、この藤堂あかりのとる道は想像に難くないのであるが――。
「あなたがもし、芹響の音楽監督になるというのなら」
あかりは鷹山を鋭く睨みつけた。
「――私は、残ります」
あかりの口から次に出てきた言葉は、意外なものだった。
華音は驚き、うつむいていた顔を思わず上げた。
もっと驚いていたのは鷹山だった。柄にもなく、唖然とした表情を見せている。
「あなたの好き勝手には、させたくありませんから。今夜のことは『貸し』ですので」
鷹山とあかりの間に流れる奇妙な空気――。二人は不退転の領域に足を踏み入れてしまったことに、お互いが気づいていた。
華音をめぐってこれから繰り広げられるであろう、修羅の道――ここから先は、決して後戻りはできない。
「すまないが、彼女を……連れていってくれないか。頼む」
「――ええ」
あかりに促されるようにして、華音が音楽練習室から出ようとしたとき、鷹山は言った。
「別にこの家を乗っ取ろうと企んだわけじゃないし、君を困らせようとしてるわけでもない」
驚くほど、柔らかな口調だ。
華音が振り返ると、彼は背を向けて、床に落ちた果物ナイフを拾い上げているところだった。
「だからそんなに嫌わないでくれ。――好きじゃなくていいから」
そう言って鷹山は、血に染まったヴァイオリンとナイフを、テーブルの上にそっと並べるようにして置いた。
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