憎しみがすべてを支配する(2)

 それまで黙って話を聞いていた鷹山が、ようやく雄弁な口を赤城に向かって開いた。


「今あなたがおっしゃった芹沢家の私的事情は、この交渉に何の関係があるというんです? いたずらに彼女を動揺させるようなことは、まったくもって感心できませんね」


「彼女はまだ未成年だ。できることなら、その成人しているであろう華音さんの兄姉に、芹沢英輔氏の財産管理を引き受けてもらえると、話を進めるのが楽だと思うのだが?」


 赤城は強硬な態度を、決して崩そうとしない。

 高野はそんな同級生の発言に途惑い気味だ。


「麗児君、そんな無茶な……」


「無茶なものか。優秀な調査員を雇えば造作もないことだ」


 赤城の言葉に、鷹山は首を横に振り、鋭く反論する。


「彼女が希望してるならまだしも、あなたが勝手に調べることではないでしょう。余計な詮索もいいところですよ」


「事実をはっきりさせることが、そんなに罪なことか? 何か困るわけでも? 調査費用を彼女に請求するわけではないのだから、そこまで目くじらを立てないでいただきたいが――」


 分からない。

 いったい何が正しくて何が正しくないのか、まるで分からない。

 目の前の大人たちが話す言葉が、華音にはまるで理解できなかった。


「私は……お父さんもお母さんも、もちろん兄弟のことも、まったく憶えてない。知らない、そんなの」


 赤城、鷹山、高野、三人の大人の視線が、いっせいに華音の顔へ注がれた。

 先ほどまで言葉を失っていた反動であるのか、あふれる思いがどんどん口をついて出てくる。


「物心ついたときには、そばに祥ちゃんがいた。いつもそばにいてくれた。高野先生は暇さえあればしょっちゅうやってきて、ピアノ弾いて遊んでくれた。ドライブや遊園地に連れていってくれるのも高野先生だった。血の繋がっているおじいちゃんよりも安らげる場所なの。……いまさら捜してどうするの? 十五年も経ってるんだよ? もしその兄弟が今もどこかで生きているとしたらもう大人になってるよね。もしかしたら結婚だってしてるかもしれない。子供だっているかもしれない。それをいまさら、お祖父ちゃんが死んだから、芹沢の名を継げといったって、それは無理な話じゃないの?」


 そこまで一気に言ってしまうと、華音の脳裏に富士川の顔が浮かんできた。

 眼鏡の奥の優しい切れ長の瞳。知的な立ち居振る舞い。抱き締めてくれるその胸の温もり。


『華音ちゃんが俺を必要とする間は、……ずっとそばにいるから』


 ――嘘つき。


「それに、そんなの……」


 華音は目の前に座る三人の男の顔を、順番に見据えた。


「血が繋がっているだけの、ただの他人でしょ」


 何をいまさら。

 誰も富士川の代わりになど、なれるはずがないのだから。


「楽団なんて、どうにでもなってしまえばいい」


 この言葉が、華音の気持ちのすべてだった。




 買収交渉は何の進展もないまま、終了した。

 日を改めてもう一度話し合いを持ちたいと、赤城という男は申し入れてきた。しかし、華音の精神状態を考えて、高野は保留することを提案した。


 鷹山は今日北海道から戻ったその足で、成田空港からウィーンへ向けて出発する予定だった。

 しかし、この混乱した状況を収拾するために、もう一日の滞在延長を決めた。そしてこの悪魔の二番弟子は、なんと――芹沢家に宿泊することになったのである。


 その理由は、実に単純なことだった。


 もうじきウィーンで演奏会を控えているという彼には、ヴァイオリンの練習場所が必要だったのである。

 いくら防音が施されているとはいえ、音響も悪く乾燥もひどいホテルの部屋の中で、弦を鳴らすのはためらわれることだろう。しかし、ここ芹沢邸は練習用の部屋が完備されている。

 芹沢邸の練習室は、祖父が楽団員たちを呼んで個人レッスンをしたり、また富士川が居候していた頃は毎日ヴァイオリンの研鑽を積んでいた場所でもある。


 鷹山がヴァイオリンの練習のために、この芹沢家に――華音は不安とも途惑いともつかぬ、複雑な思いに駆られていた。

 富士川のいなくなったこの家に、富士川を追い出した男が滞在するのである。

 いったいどのような態度をとるべきなのか、華音はひたすら迷っていた。


 どんな不敬不遜な態度をとろうとも、祖父の弟子だというのであれば、その立場は一番弟子の富士川と一緒だ。この家に滞在するのは不思議なことではないのである。

 むしろ、当初鷹山がウィーンからやってきたときのように、わざわざホテルを予約するほうが不自然なことだった。


 鷹山が滞在する間は、高野も楽器店の仕事が終わったら、芹沢邸に泊まり込むことになっていた。

 しかし高野は、顧客との会食の約束が入ってしまったため遅くなる、と芹沢家の執事に連絡を入れてきたのである。

 早く切り上げて芹沢邸にやってくるつもりらしかったが、酒席となればあの高野が予定通りに行動してくれるのか――過度な期待はできないだろう。




 華音は一人で夕食をすませ、すぐに自分の部屋に引きこもった。そして明かりもつけず、暗闇の中でただじっと、勉強机に身を伏せていた。


 誰もいなくなってしまった。

 孤独。これが孤独というものなのだろうか。

 闇に飲み込まれそうになる。


 ――祥ちゃん……。


 遠くから、ヴァイオリンの調べが聞こえてくる。

 芹沢邸の音楽練習室は、完全な防音の造りではなかった。ただでさえ敷地の広い洋館である。近所迷惑になる心配はない。


 弾いているのは、鷹山だ。

 華音は身を伏せたまま、その繊細な旋律を聴いていた。


 すごい音だ。ときに激しく、そして繊細な至上の旋律――ツィゴイネル・ワイゼン。

 ヴァイオリンが鳴いている。泣いている、のかもしれない。


 祖父が死んだときも、富士川がここからいなくなったときも出てこなかった涙が、突然、こらえられずにあふれてきた。止まることのない涙がシャツの袖を濡らしていく。

 この哀しくも美しいヴァイオリンの音色は、鷹山という男がただならぬ才能の持ち主であるということを、如実に現している。


 ――なぜだろう。こんなにも、悲しみに満ちあふれてる。


【あいつは、あれを持つ資格はないんだ】


 華音は、涙に濡れたままの顔をゆっくりと上げた。

 富士川があの演奏会の夜に控室で言っていたことを、ふと思い出したのである。

 そう。今まさに鳴っているのは――。


 ――ストラディバリ……ウ……ス? これが?


 祖父が現役時代に使用した『特別な楽器』なのだと、富士川は華音に説明していた。

 一番弟子の富士川が受け継ぐことのなかったヴァイオリンが、今宵、この美しき調べとなって華音の耳へ届いている。


 ――そうよ、どうしてあの人が。

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