芹沢家の秘密(2)

 電車で四つ目の駅のすぐそばに、その目的地はあった。

 赤城エンタープライズ本社ビル。昨日訪れたばかりの建物である。

 高野や鷹山と一緒だった昨日とは違い、今日は一人きりだ。しかも平日の午前に、学校の制服姿で、である。

 明らかに異質だ。


「社長はただいま来客中です」


 淡々とした受付社員の言葉に、華音は途方に暮れてしまった。

 アポもとらずにここまで来てしまったのだから、当然のことである。

 しかし幸運なことに、受付の社員は華音の顔を覚えていたようだった。


「少し、お待ちいただけますか?」


 そう言って、すばやく内線をコールし、二言三言、言葉を交わす。すると、驚くほどすんなり通されてしまった。


 実のところ、これが正しい行動であるのか、華音にはよく分からなかった。

 今、社長の赤城は来客中だということだった。はたして大丈夫なのか――すぐに追い返されることも充分ありえるだろう。


 華音は不安に駆られながら、エレベーターで最上階まで上がった。するとエレベーターの前で、すでに秘書の女性が華音を待ちうけていた。

 華音はそのまま女性秘書に促されるようにして、社長室へと案内された。




 ドアを軽くノックすると、中から『どうぞ』と低くはりのある声で返事があった。

 おそるおそるドアを開けると、そこにいたのは――なんと。


「高野先生? お客って、高野先生のことだったの?」


 華音が驚くのも無理はないことだった。自堕落な高野にしては珍しく、朝早くから活動していると思ったら、こんなところに――。


「あ、ノン君。学校サボったの? こらこら」


 赤城は応接セットの奥の、一人掛けの椅子に座っていた。三人掛けの端、赤城寄りの席に高野は座っている。

 赤城は、高野の向かい側の席を華音に勧めた。


 華音が座るのを待って、赤城は挨拶も交わすとこなく、おもむろに尋ねてくる。


「さて、どうしたのかな。学校をサボってまで私に話したいこととは、いったい何だ?」


 しばし沈黙があった。

 それでも華音が話し出すまで、二人の大人はじっと待っている。

 言うしかないのだ。

 華音はゆっくりと息を吸った。自分でも驚くほど落ち着いている。


 ――言える。今なら言える。


 華音は赤城のほうへ向き直った。そしてしっかりと目を合わせ、胸の内の言葉を迷いなく紡ぎ出す。


「おじいちゃんのものだった楽団を、『芹沢交響楽団』として残したいんです」


 華音の言葉を聞いて、高野の表情が一変した。だらりとした空気が、にわかに緊張感を帯びる。


「の、ノン君それって……」


 高野は、華音と赤城の顔を交互に見つめ、じっと成り行きを見守っている。


「この私に、ただのパトロンに成り下がれと?」


 赤城は眉をひそませ、小娘相手に容赦なく凄みをきかせた。

 しかし、華音は不思議と怖くはなかった。むしろ、昨夜の鷹山の迫力のほうが、数段上だ。この程度でひるむことはない。


「私は、楽団を売るとか買うとか難しいことは分かりません。売ったらどうなるかとか、この先楽団がどうなっていくかなんてまったく想像つかないけど」


 華音は一晩中考えていたことを、すべて赤城という男にぶつけた。

 いま自分が考えることのできる、最上の在り方を。


「オーケストラは指揮者だけじゃない。もっともっとたくさんの楽団員たちがいるんです。おじいちゃんを慕って入団してきた人ばかりなんです。お客さんだってそう。『芹沢』の名前を、そして音楽を愛してくれている人たちがたくさんたくさん、いる」


 芹沢の名のもとに集まる、多くの人々の思いのために。


 そして。

 かけがえのない大切な人がいつか帰る場所を、どんなことがあっても守り抜きたい。

 誰よりも芹沢の名を愛する、一番弟子のために――。


 華音は残る思いをすべて込め、赤城に懇願するように言った。


「だから私たちに、あなたの力を貸してください」


 赤城はしばらくじっとしたまま、何かを考え込んでいる。

 昨日この場所で、華音は言ったのだ。

 ――楽団なんてどうにでもなってしまえばいい、と。


 それが今。


 その変貌ぶりに赤城は驚いたようだ。興味深げに華音の顔を見つめている。


「……君はまだ子供だな。確かにそれは君の弱点だ。しかし、同時に武器でもある」


「武器……ですか?」 


「そう、何も知らないお嬢さんだが、その純粋な思いが逆に人々の心を動かすということもあるんだと、知っておくといい」


 赤城は口の端を上げ、不敵な笑みを見せた。


「あ……ひょっとして麗児君」


 高野は二人のやり取りを聞いて、同級生の大男のこの先とるであろう行動が予想できたらしい。昔から、持ち前の気質は変わっていないのであろう。

 ときに強引。ときに冷血。そして、ときに粋な計らいをする、戦国武将のような男だ。

 華音の『純粋な思い』が、どうやら赤城の『粋』な部分を触発したらしい。

 そして、赤城の口から出た言葉は――。


「君が『芹沢交響楽団』として残したいというのであれば、その心意気を尊重しよう」


 事実上、ここで赤城エンタープライズと芹沢交響楽団との契約は成立した。





「あの二人の弟子のことは、今しがた和久からいろいろと聞いたよ」


 赤城は傍らに腰かける高野を一瞬だけ見た。

 溌剌とした物言いの赤城とは対照的に、なぜか高野の表情は冴えない。

 赤城と高野が朝早くからひそかに話し合っていたのは、二人の弟子たちのことらしい。


「どちらかを選ばなければならない、ということがそもそも間違っている。どちらかを選ぶということが自分を苦しめているのなら、どちらも選ばないまたはどちらも選ぶという選択肢もある。ただ、それには多大な労力を要するかもしれないが……」


 赤城の説明は、華音には難しかった。言いたいことは何となく理解できるのだが、具体的な例えがないと、なかなか話についていくことができない。

 華音は素直に聞き返した。


「私はどうしたらいいんですか?」


「それは自分で考えることだ。ただ私が言いたいのは、どんなことでも、選択肢が必ず複数存在するということだ。たとえ今は一本の道しか見えなくても、その先に広がる世界は無限大だ」


 そう言って赤城は、華音に向けて空中に無限大のマークを書いてみせた。

 赤城は理論的かつ合理的な物事の考え方ができる人間であるらしい。向上心にあふれ、とにかく前向きだ。

 芸術を愛する楽団の人間には、決して見られないタイプだ。


「もっと簡単に言おうか。君は今、どちらか片方を選ぶということができないでいる。であるなら、君はどちらも選ばずに、私にすべての運営権を委ねればいい。あとは私が一流の指揮者と優秀なプレイヤーを引き抜いて、新しい団体として生まれ変わる」


「そんなの、イヤ」


 華音が首を横に振って否定すると、それを予想していたかのように、赤城は笑顔で頷いてみせる。


「ではもうひとつ。それは――どちらも選ぶことだ」


 華音は驚いた。そんなこと、考えもつかなかった。

 まさに一刀両断。のし上がった男の言葉には力がある。

 赤城はさらに表情を緩め、ソファの肘掛に置かれた華音の手の上に自分の手を重ね、しっかりとつかんだ。


「自らの意思を持って引き寄せたらいい。君が、君自身の手で、二人の頑固な弟子たちをね。それができるのは、たぶん――君だけだろう」


 君自身の手で。

 そう言って、赤城は華音の手をさらに強く握り締めた。


「まあ、今すぐにとはいかないかもしれないが、できることから始めるのは悪くない」


 今、できること。


 一番弟子の富士川が去ってしまった芹響を、率いていくことのできるもう一人の弟子。


「鷹山さんに――おじいちゃんの跡を?」


 赤城はその言葉を待っていたようだった。

 すでに赤城の中ではいくつかのシミュレーションができていて、その最善策ともいえるルートを華音が選ぼうとしていることを、見逃さなかった。

 赤城は、ためらうことなく言う。


「むしろ彼が跡を継ぐのが、自然なことだろうからね」


「止めろよ、麗児君!」


 高野が珍しく大きな声を出した。



 芹沢英輔が十五年もの間、隠しつづけてきた秘密――。



「……止めろ?」


 赤城は人に命令されるのが心底嫌いらしい。眉をひそめ、挑戦的な鋭い眼差しを高野に向けている。

 その勢いに押され、高野はしどろもどろになりながら、すがるように言った。


「あ、いや……止めてくれないか。今はまだ」


「お前はどうしてそんなに甘いんだ。じゃあ、いつならいいんだ。いつかその日が来るのをじっと待つ? そんなの私の主義ではない」


 赤城はおもむろに立ち上がり自分のデスクへ向かった。サイドキャビネットの一番上の引き出しを開け、そこから大きな白い封筒を取り出す。


「れ、麗児君、待ってくれ――」


 赤城は高野の懇願にもはや耳を貸さず、ためらうことなくその封筒の中に手を差し入れた。


「君の母親の写真だ。十五年前、君の父親とともに事故で亡くなった、芹沢鞠子さんだ。当時二十七歳、たおやかで美しい人だ」


 赤城はもう一度ソファに戻り腰かけると、華音のほうへその写真を差し出した。

 そこに写った一人の若い女性――。


「……嘘」


 これが真実なのだ。

 すべてを物語っている。

 自分たちのよく知る男に、そっくりだった。大きな瞳、長い睫、透き通るようなきめこまやかな肌に、栗色の髪。


 もう一人の、兄もしくは姉の存在――。


「おそらく、……いや確実に、君の『お兄さん』は母親似、ということだな」


 赤城がとどめを刺すように言った。

 高野はもうどうしてよいのか分からず、ただ困惑の表情を浮かべるばかり。


「嘘だよ、そんなの……だって、あの人は」


 よみがえる鮮血の記憶は、いまだ生々しく脳裏に焼きついている。



 華音の中の何かが、音もなく――崩れ落ちた。


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