世にも奇妙な演奏会(2)

 華音はホール客席をあとにし、富士川のいる楽屋へと足を向けた。

 ホールのロビーから楽屋へ通じるドアには、『関係者以外立ち入り禁止』というプレートが下がっている。華音はためらいもなくその中へと足を踏み入れた。


 階段を上がっていくと、二階の楽屋廊下は楽団員や公会堂のスタッフであふれかえっていた。楽団員の家族や知人友人らしき人物が、手に花束を抱えて、それぞれ目的の人物と歓談している。


 華音はそのまま三階の楽屋へ、階段をさらに上がっていった。

 楽団員たちのいる二階楽屋の雑然とした雰囲気とは一転して、三階楽屋の廊下は閑散としている。

 指揮者用の楽屋の前までやってきて、華音はドアをノックしかけ、やがてゆっくりとその手を下ろした。


 ――かける言葉なんて、見つからない。



 華音は悩んだ挙句、先に向かい側の高野の楽屋へと入った。

 高野はステージ衣装のまま、ソファに寝転がっていた。蝶ネクタイだけはすでに外され、テーブルの上に投げ出してある。おそらく今日はこのまま帰るのだろう。


「高野先生、祥ちゃん……どうしてる?」


「何だか富士川ちゃん、アヤシイ雰囲気なんだよねえ」


 華音はため息をついた。大方の予想はついている。


「そりゃ、あんな演奏じゃ……高野先生、いったいどうなったら、あんなことになっちゃうの?」


「俺に聞かれてもなぁ。正直、ピアニスト生命絶たれるかと思ったよ。いやあ、指の骨折れちゃいそうだった、マジで」


 緊張感のない、相変わらず能天気な物言いだ。

 高野は自分の手をじっと眺め、五本の指を順番に何度も動かしていく。


「一楽章と二楽章が、何だかエラくもたついてたからさぁ、まあ、富士川ちゃんパニくってて流れにノれてないのは分かってたから、親切心のつもりで三楽章を勢いつけて入ったら、今度はオケが加速しちゃってさあ。あとはノン君も聴いてたとおりの結果になっちゃった、と」


 あのスピードについてった俺もスゴいよね、と高野は自画自賛ならぬ自演自賛している。

 確かに、ある意味凄かったと言えるだろう。

 『東洋のフランツ・リスト』と称されるだけあって、そのパワーとテクニックは、普段の自堕落な高野の姿からは想像もつかないほど、素晴らしいものだった。

 ベートーベンを得意としているとはいえ、ミスタッチもなく、いたずらに速まったテンポでも完璧に弾きこなしてみせたのだから。


 そのときである。

 廊下から、若い女性のヒステリックな叫び声が聞こえてきた。

 声の主は藤堂あかりである。

 富士川のいる楽屋の前で、何かが起こっているらしい。


「私、祥ちゃんの様子、見てくる」


 華音は不安に駆られ、高野の楽屋から廊下へと飛び出した。




 あかりが、指揮者用の控室のドアを必死に叩いている。


「富士川さん、開けてください、富士川さん!」


 しかし、中から返事はないようだ。ドアノブを回しても、金属が擦れる不快な音を立てるばかりだ。内側から鍵をかけてしまっているらしい。

 そのとき、あかりがこちらを振り向いた。

 華音の姿をとらえ、あかりは一瞬、困惑したような表情を見せる。


「謝りませんから、私」


 あかりの瞳には力がこもっている。


「私も富士川さんも、間違ったことは何もしていませんから」


「別に私は……何も」


「藤堂」


 ドアの内側から、富士川の声がした。


「俺なら大丈夫だ。疲れているんだ。君は美濃部君と一緒に、後片付けをしてくれ」


 あかりはドアに張りついた。富士川の様子を聞き取ろうと必死に耳を押しつけ、内側に向かって問いかける。


「本当に、大丈夫なんですか」


「大丈夫だ。でも今は、一人にしてくれないか」


 そこで富士川の声はいったん途切れた。そして鍵が外される音がして、ゆっくりと控室のドアが開かれる。

 現れた富士川の姿を見て、華音は思わず息を呑んだ。あかりも目を見開き、言葉を失っている。


 ――大丈夫じゃない。


「君を、責めたりしてないから」


 それがあかりに対する、富士川の精一杯の言葉だった。


「華音ちゃん……送っていくよ。中に、入って」


 あかりの綺麗な顔が、わずかに歪んだ。

 一瞬、目と目が合う。

 しかしあかりはすぐに素に戻り、あとのことは任せてください、と言った。




 富士川は華音を楽屋の中に招き入れると、再び鍵をかけた。

 完全に二人きりとなり、華音はようやく落ち着きを取り戻した。公会堂の楽屋という公共の場所であるが、流れる空気は芹沢邸にいるときと変わらない。


「言いつけを守らなくてごめんなさい。どうしても祥ちゃんのことが心配で……」


「いや……俺もこんなことになるなんて、思ってもみなかったし」


 富士川はそれっきり口を閉ざし、演奏会で使った楽譜の整理を始めた。

 華音は持っていたバッグをテーブルの上に置くと、部屋の隅に投げつけられるようにして置かれていた大きな花束を拾い上げた。

 ふんわりと甘い香りが鼻をつく。

 演奏が終わったあとに、指揮者が通例、舞台上でもらうための花束だ。


「あの……よかったの? 藤堂さんのこと」


「よかったって、何が?」


「だって藤堂さん、祥ちゃんのこと心配してたみたいだから」


 華音は色々な意味を込めて、そう言った。しかし今の富士川には、その意味まで読み取る余裕はないようだ。


 藤堂あかりは富士川に対して特別な感情を抱いている――それは華音も薄々感づいている。

 一部団員の間では、二人は密かに交際しているのではないか、という噂が流れているらしい。

 しかし、富士川は芹沢交響楽団のコンサートマスターという立場上、特定の団員との私情を交えた付き合いは敬遠している。そのため、二人に交際の事実はない。あくまで噂だ。


 ただ、彼の心の内までは、華音には分からない。はたして富士川が、藤堂あかりのことをどう思っているのか――。


「藤堂は責任を感じてしまっているんだ。そして彼女を追い詰めてしまったのは他でもない、俺の力量不足……身の程知らずにもほどがある」


 いつも以上に淡々としている富士川喋りが、自虐の色をいっそう強めている。

 何と言ったらいいのか。かける言葉が見つからない。

 仕方のないことだったのだ。

 不可抗力――。誰が代役を務めたとしても、同じ結果になってしまったはずだ。

 それでも富士川には、一番弟子の気概があったに違いない。


「団員たち、俺のこと何か言ってなかった?」


「別に、何も言ってないと思うけど……」


 そうか、と富士川は軽く頷いた。おそらく信じてはいまい。

 やはり、気にしているのだろう。しかし華音の前では、努めて冷静さを保とうとしている。


「さっきの演奏中に、あいつの嘲笑う顔が――頭から離れなかった」


 あいつが誰のことを指しているのか、華音にはすぐに分かった。富士川が先刻電話越しに怒鳴りつけていた、祖父の『二番弟子』のことに違いない。


「それって……鷹山さんって人?」


「高野さんから聞いた?」


「うん。何となくだけど」


 富士川は楽譜を整理する手を止め、ゆっくりと華音のほうを振り返った。


「鷹山は、芹沢先生が現役時代に使用されていたストラディバリウスを譲り受けてるんだよ」


 ストラディバリウス。

 華音もその名前には聞き覚えがあった。

 祖父の芹沢英輔は、楽器蒐集家でもあった。特に弦楽器は、演奏家として活動していた頃の名残で、名器を取り揃えていた。

 そういう富士川も、数あるヴァイオリンの中から極上の逸品を与えられている。

 ニコロ・アマティ。それが名前だ。

 繊細な音を奏でる、美しい飴色のボディは見るものの心を確実に奪う。

 しかし富士川には、師の愛器に対して、簡単に割り切ることのできない深い思いがあるらしい。


「あのストラディバリウスは、特別な楽器なんだよ。それなのに鷹山は――」


 怒りのためなのか、富士川の唇はわずかに震えている。


「鷹山はいつだって反抗的な態度で、こんな事態になってもとるものとりあえず駆けつける、というわけでもない。ことごとく不義理を働いてるあいつに、芹沢先生の楽器を受け継ぐ資格なんかないんだ」


 いつもの柔らかな物腰からは考えられないほど、富士川の口調は荒々しい。

 華音は何も言えず、ただじっと富士川の顔を見つめていた。

 やがて、富士川は力なくため息をついた。その瞳には、物悲しい光をたたえている。


「俺も、だよな」


「祥ちゃん……」


 いろいろなことが、ありすぎたのだ。

 今朝一緒に朝食を摂り、テーブルを囲んでいたはずの師が、午後には帰らぬ人となり、そしてその夜には――。

 誰も、富士川を責めることはできないはずだ。

 むしろこの状況での代役は、良くやったと褒めるべきであろう。


 ――おじいちゃん、死んじゃったんだ。だから……こんな。


 ようやく実感が湧いてきた。

 そしてふと、華音は気づいてしまう。

 富士川はこれから、どうするつもりなのだろう。

 これから自分は――どうなってしまうのだろう。


 富士川にとって、華音は「師の孫」であるというだけの関係だ。その師である芹沢英輔が亡くなってしまった今、富士川と華音をつなぐ糸は切れたのだ。

 華音のことを面倒見る義理もないのである。


 祖父が死んだ悲しみ以上に、例えようもない不安が華音に襲いかかってくる。

 富士川に好意を寄せる、藤堂あかりのこと。

 悪魔と呼ばれる、不敬不遜の『二番弟子』のこと。

 そしてこの目の前にいる、家族以上の存在であるはずの彼のこと。


 遠くない未来に自分が辿るであろう道筋が、このときの華音にはまだ、何も見えていなかった。

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