世にも奇妙な演奏会(1)
高野を囲んで華音と美濃部青年が話していると、背後から楽屋のドアをノックする音がした。
よほど急いでいるのだろう、部屋の主からの返事を待たずに、ドアは開く。
姿を表したのは、つい先ほど話題に上がっていた、藤堂あかりという女性団員だった。
「あれ、あかりさん?」
部屋の主である高野よりも先に、美濃部青年が反応した。
藤堂あかりは才色兼備という言葉に相応しく、黒目がちの大きな瞳と、くせのない背中までの黒髪を持つ、知的で清楚な美貌の持ち主だ。
あかりは一通り部屋の中を見渡すと、急いたように喋り出す。
「美濃部さん、のんびりしている時間なんかありません。高野先生、ステージのほうへお願いできますか」
高野は、焦っても仕方がないと開き直っているのか、のんびりとした口調で聞き返す。
「ステージって……というかさあ、富士川ちゃんは?」
あかりはため息を漏らした。そして呑気に構える高野に、簡潔に説明をしてみせる。
「今は芹沢先生の楽屋にいらっしゃいます。いろいろと準備もありますので。このあと、すぐにリハーサルを始める予定です」
華音はそれまでじっと、大人たちのやり取りを眺めていた。しかし、富士川の様子を聞かされると、いてもたってもいられなくなってしまった。
祖父が使うはずだった楽屋は、ここと同じ階にある。すぐそこに、富士川はいるのだ。
――祥ちゃんのところに行きたい。
華音は富士川のところへ向かおうと、大人たちに背を向け、ドアへと近寄った。
そのときである。
透明感のある若い女性の声が、華音の背中に鋭く突き刺さった。
「華音さん。すみませんが、今は遠慮してください」
華音は、つかみかけていたドアノブからゆっくりと手を放した。
遠慮――そんな言葉は、自分と富士川の間に存在しえないもののはずである。
それを、どうしてこの人に言われなくてはならないのだろうか。
華音は思わず声を荒げて、強く聞き返した。
「遠慮って、どうしてですか?」
華音の問いに、あかりは一瞬、困惑したような表情を見せた。
しかし、譲ろうとはしない。
「お辛く寂しい気持ちはお察ししますけど、楽団の事情もありますので」
「でも……」
「これは仕事なんですから。富士川さんの集中力の妨げになるようなことは止めてください」
何なのだろう、この人は。
まるで二人だけが、真実の理解者だとでも言うかの如く。
華音の身体の内側から、やり場のない嫌悪感が湧き上がってきた。
――イヤ。何だかすごく、イヤ。
楽屋内には、重苦しい空気が立ち込める。
華音がその場に立ちすくんで黙ってしまうと、高野は緊迫した雰囲気を和らげるべく、のんびりとした口調であかりに語りかけた。
「あかり君さあ、いいの本当に? ちょっと、ハイリスクなんじゃない?」
「でも、富士川さんしかいませんから。いつかは芹沢先生の跡を継がれることになったと思います」
「まあ、そりゃそうなんだけど……」
それっきり、高野も口をつぐんでしまった。
確かにあかりの言うことは正しいのかもしれない。
しかし。
高野の表情はいっこうに冴えない。それが、現在置かれている富士川の状況が極めて難しいものであるということを、如実に物語っている。
それでも、あかりは頑なな態度を崩さなかった。意志の強い真っ直ぐな瞳を、しっかりと客演ピアニストに向けた。
「では高野先生、ステージでお待ちしています。美濃部さんも急いでくださいね」
そう言い残し、あかりは颯爽と楽屋を出て行ってしまった。
あかりが去ってしまった高野の楽屋に、ムスクの残り香が微かに漂った。
美濃部青年は惚けた表情のまま、のんびりと呟く。
「カッコいいなあ、あかりさん……なんか、デキる女性って感じですよねえ」
「まあ、あかり君は富士川ちゃん命だからなぁ」
高野は美濃部のお喋りに付き合いながら、楽屋に用意されていたステージ衣装に着替え始めた。
「……好きなんでしょうかね?」
「とりあえず『尊敬』ってところじゃないの? なに、美濃部ちゃんひょっとして気になる?」
「き、気になるとか別にそういうわけじゃ。好奇心ですよ、好奇心」
「はいはい。じゃノン君、俺リハ行ってくるけど、どうする? 一緒に来る?」
華音は首を縦に振りかけた。
しかし、藤堂あかりに言われた言葉が脳裏に蘇り、返答に詰まってしまう。
【これは仕事なんですから】
【富士川さんの集中力の妨げになるようなことは――止めてください】
華音は力なく首を横に振った。
「……ううん、行かない。演奏会終わるまでは一人で適当にやってる」
「大丈夫?」
高野は心配げに尋ねてくる。
「いつもそうしてるんだから、平気だよ」
華音は無理やり笑顔を造った。
そして、急遽設けられたリハーサルに借り出される忙しい大人たちを、そのまま見送った。
いくら音楽監督の孫娘とはいえ、楽団員ではない華音は、部外者でしかない。勝手な振る舞いは許されないのである。
そう。
部外者である自分は――富士川を助けることはできない。足手まといにならないようにするのが、華音の精一杯だった。
その夜の演奏会は、楽団の歴史に残るものとなった。
芹沢英輔の『指揮者生活四十周年記念』という大舞台で、指揮台に上ったのは、指揮経験ゼロの若き青年であった。
観客たちは詳細を知らされぬまま、その違和感に途惑う表情を見せながらも、若き青年の作り出す音楽に耳を傾ける。
演目はベートーベン作曲、ピアノ協奏曲第5番『皇帝』。
ベートーベンが作曲した五つのピアノ協奏曲の中で、最も有名な楽曲である。
ピアノ独奏を務める高野和久にとって、ベートーベンは最も得意とするレパートリーだった。
それが幸か不幸か、普通に演奏すれば十分はかかる第三楽章を。
高野はなんと、七分足らずで弾ききったのだ。
演奏が終わったあとの公会堂の大ホール内は、異様な雰囲気に包まれていた。
観客たちのどよめきは、客席で演奏を聞いていた華音にも、じわじわ刺さってきた。
明らかに名演奏とは程遠い『迷』演奏、はたまた『珍』演奏とこき下ろされる始末だ。
奇妙な演奏が聴けたと喜ぶものもいれば、金返せモノだと愚痴る好事家たち。
好奇と義理の入り混じった拍手――。
華音はとっさに両手で耳をふさいだ。そして、大方観客がホールを出ていくまで、そのままじっと身を硬くして座席についていた。
華音自身、もう何度も芹響の演奏会に足を運んでいるが、このような観客の反応は初めてだった。
祖父が指揮をしているときには、決してありえなかった空気だ。
代役を務めた富士川の気持ちを考えると、華音はもう胸が張り裂けてしまいそうだった。
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