天涯孤独の意味(2)
高野にあてがわれた楽屋は、楽屋棟三階奥の個室だ。
三階には他に、指揮者の楽屋もある。高野の楽屋は、ちょうどその向かい側に位置する部屋だった。
高野はいまだ芹沢邸に駆けつけたとき同様、上下パジャマに上着を羽織ったままだ。
二人は辺りの様子をうかがうようにして、楽屋棟の階段を上がっていく。
幸いにも、高野の服装をとがめるような人影は見当たらない。
華音は安堵した。
ようやく二人は、高野専用の個室である楽屋の中へと入り込んだ。
楽団員たちの使用する二階の大楽屋と違い、こぢんまりとしている。二人でいるには充分な広さだ。
テーブルの上には、手つかずの弁当がお茶のポットと一緒にして置かれている。
「なんか、予想外に静まり返ってるなあ。どうする? ステージでも覗いてくるか……いや、やっぱり止めておいたほうが良さそうかな」
「どうして?」
「んー、まだ結論が出ていないってことなんじゃないのかなあ、と思って」
華音の心臓が、ひときわ高鳴った。
そう――。
この建物のどこかでは、現在進行形で大騒動となっているに違いないのである。
富士川青年が一人対応に苦慮している姿が、華音の目にハッキリと浮かぶ。
しかし、華音はなんの役にも立たない。ただひたすら、見守ることしかできないのである。
高野はパジャマ姿のまま、部屋の隅に置かれている長椅子に横になった。結局、様子を見に行く気をなくしてしまったらしい。
華音はどうするべきか、一人迷っていた。
そのときである。
ドアを二度、ノックする音がした。
部屋の主である高野が返事をすると、黒い礼服姿の若い男が、客演用の楽屋へと入ってきた。
「ああ、良かった。来てくださってたんですね」
姿を表したのは、ヴァイオリンの美濃部達朗だった。
美濃部はステージマネージャー的雑用を任されている男で、各団員への連絡もこの青年の仕事だ。独特の論理的な喋り口調が特徴である。
美濃部は、高野のそばに華音の姿を捉えると、一瞬驚いたような表情を見せた。しかしすぐに素に戻り、淡々とタイムテーブルの確認を続ける。
「今夜の演奏会、予定通り開演するそうですよ、高野先生」
「はあ? と、いうことは、富士川ちゃんがやる気になったってことか。誰か知らんけど、よく説得したもんだなあ。オヤジの言うこと以外、耳貸すことなんかないのかと思ってたよ、俺は」
やる気があるのかないのかハッキリしない高野を横目に、美濃部は構わず説明を続ける。
「相当揉めてたみたいですけどね。芹沢先生の『指揮者生活四十周年記念』という特別の舞台ですから、代役なんて立てる意味がないと、富士川さんは頑なに拒んでましたし。ただ、今夜はコンチェルトですから、高野先生のピアノを目当てに来るお客様がたくさんいらっしゃるので、簡単にキャンセルできないというのが、首席陣の最終判断のようです」
「そりゃあね、ただでさえオヤジの急死に取り乱しまくってんのにさ、指揮経験ゼロでオヤジの『代役』で振れったって、そんな簡単にウンとは――言えないよなあ」
のそりと身を起こすと、高野は大きく伸びをし、のんびりと頭を掻き始めた。
富士川とは対照的なそのあまりの緊張感の無さに、美濃部は呆れたように大きくため息をついた。
「それより高野先生、問題は先生ですよ?」
そう言って、美濃部は自分の人差し指を高野の眼前に突きつけた。
「は? 美濃部ちゃん、君ねえ、これでも一応、客演のピアニストなんだから。問題児扱いは、どうかと思うぞ?」
「私は先生のこと、信じてますからね? まかり間違っても、あんなことやこんなことは、今夜だけは! しないでください。いいですね!」
「そんなこと言われてもさあ、俺、演奏中のこと、あんまり覚えてないんだよねえ。まあ、今日はまだ飲んでないし」
この高野というピアニストは、アガリ防止の薬と称して、演奏前に必ずお酒を飲むのが常だった。その度合いによって『微酔奏法』や『泥酔奏法』なるものまで編み出す始末だ。
酔っている状態では、自分がどんな演奏をしているのかがよく分からない、と高野は言う。しかし、その演奏は聴衆の度肝を抜くほど素晴らしく、神懸かった音楽を生み出してみせるのである。
だからこそ芹沢英輔も、高野が多少の酒を飲んでステージに上がることを黙認していたわけだが――。
今夜の指揮者は、『代役』だ。
「とにかく! 今日の富士川さんは、いつも以上にナーバスになってますから、それだけは覚えておいてくださいね。今日はお酒を控えて、しらふで! いいですね?」
立場的にも年齢的にも美濃部のほうがずっと下のはずなのだが、いつも高野は言い込められてしまっている。
華音は、目の前で繰り広げられる二人の男の言い合いをひたすら傍観していたが、ようやく重い口を開いて、美濃部青年におずおずと尋ねた。
「祥ちゃんが……指揮をするってことなの?」
華音の問いに、美濃部青年は抑揚のない声で淡々と答えた。
「ええ。まあ、この状況じゃ富士川さんが振るのが妥当でしょうかね」
「そんなのあんまりだよ。何もこんなときじゃなくたって」
高野が言っていた『胸騒ぎ』とは、まさにこれだったのではないか、と華音はようやく気づいた。
富士川にとって、芹沢英輔という存在は絶対的だったのだ。崇拝し、そして敬愛を寄せていた。
突然の死に途惑っているのは、身内である華音以上であるに違いなかった。
それなのに――。
「確かに、華音さんの言うとおりなんですけどね。なんせ藤堂女史が、頑として譲らなくて」
美濃部の説明に、高野が半ば呆れ顔で過剰な反応をしてみせた。
「まーた、あかり君の仕業かあ。富士川ちゃん、ただでさえ楽ちゃんのことで血ぃのぼってんのにさあ」
藤堂あかりとは、去年音大を卒業したばかりの、才能も美貌も兼ね備えた女性団員である。
ヴァイオリンセクションの副首席も務める彼女の、音楽に懸ける情熱は半端ではない。そのことは、楽団関係者の周知の事実である。
「というか、その『ガクチャン』って何ですか?」
美濃部は何やら聞き慣れぬ単語に合点がいかないのか、微妙な曖昧な表情をして、高野の顔を見つめている。
「あれ、美濃部ちゃんは知らなかったっけ? んんんっ、オヤジの秘蔵っ子、かな。ウィーンで修業中の二番弟子」
美濃部は目を丸くした。
「二番、なんていたんですか? 何か隠し子みたいですねえ」
美濃部もまた、華音と同じような反応をしている。比較的新しい楽団員には、ほとんど二番弟子の存在は知られていないらしい。
「悪いヤツじゃないんだけどさ、まあ、なんて言うか、富士川ちゃんとはどうも合わないらしくて、さっきも電話でやりあったばかりなんだよねえ」
華音はその説明を聞き、先ほど自宅で目の当たりにした一連の出来事を思い出した。
「あんなに怒った祥ちゃん、初めて見たもん。ねえ高野先生、その人って、相当問題あるんじゃないの?」
「いや? 才能はピカイチだし、爽やかな好青年って感じだよ。まあ、カゲではいろいろ言われてるけどさ。あの二人、何て呼ばれてるか知ってる?」
華音と美濃部は顔を見合わせた。そして一緒に首を横に振ってみせる。
「『鬼の一番弟子』と『悪魔の二番弟子』。傑作だよねえホント」
「悪魔……なんですか?」
「例えだから、例え。魂売らなきゃ大丈夫――なんてね」
あくまで軽く笑ってみせる高野を前にして。
華音と美濃部は唖然としたまま、瞬きを繰り返すばかりだった。
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