第42節 -空っぽの心-
“目に見えるものだけが全てではない”
それは今この国で起きている出来事に限った話ではない。日常生活における些細なことも含めて全てに言えることだ。
いつも笑顔でいる人間が心の底から幸福な人生を歩んでいるわけではない。
いつも優しい人間が何の怒りも感じることなく生きているわけではない。
逆もまた然りだ。
人の心の内に秘めたる想い、本性というものが表面的なその人の印象とはまるで異なっているなどというのはよくあることだ。
アイリスは自身の持つ力で人の心の声を聞き、人の感情の色を読み解くことでそうした他者の目に見えない真実を見続けてきた。
この国の将来は希望に満ちたものであるべきだと語っていたあの大統領までもがそうだった。
アンジェリカの甘言によって薬物密売組織をこの国に招き入れることで彼は莫大な財源を手に入れた。
しかし、自身が事件に関与していると疑われそうな証拠が出て来そうになるとそれを握り潰し、捜査の手を尽くす警察を悪者に仕立て上げる為の道具にすり替えて保身を図った。
彼が事件に関与していると初めて認識したのは偶然の出来事だった。
アイリスとしての魂がアヤメの中で目覚めて以後のこと。街頭演説する彼の姿を直接見た時に “声” が聞こえたのだ。
国の未来を熱く語る言葉とは対照的に、彼の心の声は自身の罪を責め立てるようなものだった。同時に、どうやって今の立場を維持したまま問題を揉み消すかについての思考が心を支配しているようでもあった。
魂の色は酷く濁り、汚染された海洋のように見えた。
大統領が事件に直接関与していると確信したアイリスはアヤメにそのことを話し、その後の自身と彼女の調べによってついにこの国を蝕む “大きな悪魔” の正体と元凶の真実に至る。
ポーンペイ島のあちこちに存在する彼らの拠点や薬物の密輸方法などに関してはマルティムと繋がりを持つ人物の心の声を聞くことであっさりと判明した。
最後まで分からなかったのは組織の本拠地の場所についてだけで、その情報についてだけは大統領や組織の末端の人間からも聞き取ることが出来なかった。きっと彼らも本当に所在地を知らなかったのだろう。
しかし組織の本拠地に関する情報はこの国に災いをもたらした “本当の元凶” であるアンジェリカからもたらされた。
“悪魔さん達と貴女達が殺り合う様子を眺めているのが今の私の楽しみなんだから。”
学校の屋上で聞いた彼女の言葉が頭をよぎる。
与えられた情報を利用するのは、自分と組織と政府が潰し合いをする様子を楽しみたいという彼女の思惑に加担するような気がして癪だったが、奇跡の実現の為にはどうしても必要な情報だったことも事実であり頼らざるを得なかった。
アンジェリカはそうした他者が抱く僅かな葛藤の様子も含めて面白がっているに違いない。実に悪趣味だ。
アヤメは自室の窓辺に立ち、西に沈む太陽を見つめながらこれからのことに思いを馳せていた。
第一の奇跡から第五の奇跡を経て、2週間後にはいよいよ最後の奇跡を敢行する。
第六の奇跡〈虹の架け橋〉。これで全てが終わる。
奇跡の実現によって、この国に悪意を導いた者達は全員裁かれる。組織に関わる者だけでなく、大統領ですらも。
アヤメの願う平穏は取り戻され、そしてアイリスの願いも同じ空の下にいる最愛の人に届くだろう。
2人の祈りが叶えられる時はすぐそこまで迫ってきていた。
* * *
「よっ、お二人さん。デートは楽しめたか?」
「おかえりなさい。」
支部に戻り通路を歩いていた玲那斗とイベリスをルーカスとフロリアンが出迎える。
微笑ましそうな眼差しを送ってくる2人が言った言葉にイベリスもにこにこしながら返事をする。
「えぇ、とっても。」
「だろうな。その表情を見ればわかるさ。良きかな良きかな。」ルーカスは悟りを開いた表情で頷く。一方でフロリアンは浮かない顔をする玲那斗の様子に気付いて言った。
「中尉、どうしましたか?」
フロリアンの勘の良さには驚かされるばかりだ。玲那斗は内心でそう思った。
帰り道にアンジェリカと遭遇したことについて話すべきなのだろうか。しかし内容が内容なだけに他の隊員たちも往来する通路で話すようなことでもない。
ジョシュアやリアム、ハワードを交えた別の機会を設けて報告すべき事柄だろう。
そう考えた玲那斗はここで話に言及することは避けて話題を逸らすことにした。
「いや、雨の降り方が思った以上に強くてな。ちょっと面食らっただけだよ。」
苦しい言い訳だ。きっと話題を逸らす為の嘘だとフロリアンには伝わってしまうだろう。
「そうでしたか。確かに今朝予測されていたプロヴィデンスのデータより雨量は多いようです。この地域の予測は分単位で変動しますから難しいですね。」
気付いた上で話に乗ってくれたのかは定かではないが、フロリアンは特に深く追及することなく玲那斗の話に応えた。
「ところでさっきからイベリスが大事そうに抱えてるものは?」イベリスが両手で抱き締めるように抱える真四角の包みを見てルーカスが言う。
「市内のアートギャラリーで描いてもらった絵画が入ってるんだ。」
「マークתのみんなと私を描いてもらったの。凄く良い絵画よ。」玲那斗とイベリスそれぞれが答える。
「へぇ!それは見てみたい。」ルーカスが興味津々に言う。
「みんなも気に入るはずよ。でも包みを開くのは別の場所が良いわね。」
「それならラウンジはいかがでしょう。今から僕と准尉で休憩がてらに行こうと思うのですが。」イベリスにフロリアンが提案した。
「良いわね。あそこのミルクティーがお気に入りなの。4人で話すにはぴったりだし、玲那斗も良いでしょう?」
「もちろん。」玲那斗は頷きながら返事をするとイベリスが眩しい笑顔を浮かべて言った。
「決まりね。行きましょう。」
先陣をきって歩き出すイベリスに3人も続く。4人は互いに世間話をしながらラウンジへと向かった。
* * *
思わぬ邪魔が入った。
天におわす主に仕えるなど偽りだ。あれは死神でしかない。少なくとも自分にとってはそう言い切ることが出来る。
玲那斗とイベリスの襲撃に失敗したアンジェリカは唇を噛み締めて怒りに震えていた。
ロザリア・コンセプシオン・ベアトリス
ヴァチカンの総大司教の地位に就く彼女の持つ力は自身にとっては大敵だ。
人の過去の記憶を読み解き、人形を操るしか能がない女だと思っていたが事実は異なっていた。あの女には自身の知らないもう一つの側面があったのだ。
代理執行と言っただろうか。併せてあの女はこの世界において “自然の摂理” から外れたものを破却する “権利” を持っている。
生命に対する絶対の裁治権。自然界の法則から外れた存在をあるべき姿に還す、又は存在そのものを消し去る力。
つまり自分の操る死者の怨魂という本来この世に存在し得ないものに対して、そのものを “どう扱うか” 好きなように決める優先権を持つ無敵の力だ。
ロザリアが〈存在を認めない〉と言えばこの世に存在することは許されない。いくら〈絶対の法〉を用いたところで、その上位能力ともいうべきあの力に対抗することは出来ない。
青い炎に包まれ燃やされた怪物たちの末路というものは、ロザリアが “そうあるべき” とイメージした結果なのだろう。
さらに悪いことにあの女はその裁治権を扱うことが出来る存在を自身以外にも配下として作り上げてしまった。
アシスタシア・イントゥルーザ
ロザリアが創り出した人形であるあの女は、間違いなく彼女の力の一端を受け継いでいる。
おそらくアシスタシアの持つ蒼炎を纏った大きな鎌は不死だと言われる存在に対しても有効で、この世ならざる存在を確実に仕留めるだけの力を持っている。
以前ロザリアに襲撃をかけた際、アシスタシアの鎌が自身の首筋に当てられたが、万一あの時に刃で斬られていれば致命傷となっていたことだろう。
そんな力を振るう彼女らが対抗できない唯一の例外は玲那斗である。肝心の彼はまだ自分の持てる力に気付いている様子は無いが、玲那斗の中に存在するレナトだけがロザリアの持つ裁治権という力に対抗することが出来る。
そしてこれは想像の域を出ないが、無意識下でその加護を受けているイベリスに対してもロザリアの裁治権は通用しない。
リナリア公国の王にのみ与えられた特権。
イベリス、マリア、アルビジア、ロザリア、アイリス、そして自分
リナリアを祖国とする貴族の末裔だけが持つあらゆる力を無効化し従える最上位命令権。
ゴビエルノ・レアル・アブソルート〈絶対王政〉。
レイ・アブソルータと呼ばれる自分の力も元々は彼のもつ力を限定的に使用できるようアレンジしたものだ。
エニグマ《謎》と呼ばれる能力によって自分はリナリア公国出身の者全員が持つ特別な力というものを限定的に “全て” 使うことが出来るが、言い換えればその力は玲那斗が自身の持つ力に気付いてそれを行使すれば “何もかも無力化できる” ことも意味する。
この世界を面白おかしく踏みにじることを生きがいとして活動を続けてきた自分にとって、彼に邪魔されることは当然だが面白くない。
そういった事情から “彼がその力に目覚めてしまう前に仕留めよう” という気持ちもあって今回の襲撃をかけたわけだが、水際で天敵によって防がれてしまった。
この国にロザリアとアシスタシアが存在し、常に監視の目を光らせている以上は今までのように自由奔放に暴れまわるということは出来ない。
唐突に訪れた不自由にアンジェリカは酷く不快な気持ちになった。
時刻は深夜0時。夜という暗闇をさらに助長する裏通りを歩きながら、少しずつ心を支配していく不愉快さに怒りを募らせる。
そんな時、目の前に現れた2人組の男からアンジェリカは声を掛けられた。
「よぉ?こんな時間に小さな女の子が1人で歩いてたら危ないだろ?俺らが送っていってやるから着いて来いよ。」
ニタニタ顔で声を掛けてきた男の隣で別の男もにやにやと薄気味悪い笑みを浮かべている。
アンジェリカが無言で佇んでいるともう1人の男が言い寄る。
「釣れない嬢ちゃんだなぁ。そんな暗い表情をしてたらせっかくの可愛い顔が台無しだぜ。嫌なことがあったなら俺らと一緒に遊んでスカッとしようぜ?大人の遊びってやつを教えてやるからよ。今なら飲むだけで気持ち良くなれる良いものもあるんだよ。」
下衆が。アンジェリカは内心で思う。
こいつらが求めているのは自分の体だ。合成麻薬エクスタシーを女に飲ませて行為に及んだ後、それを売りつける売人でもあるのだろう。
しかし、アンジェリカは先程から治まらない怒りの “良い解消方法” を思い付き満面の笑みを浮かべて言った。
「あら?お兄さん達、私と遊びたいの?そう。それなら、恥ずかしいけど…良いよ?でもでもー、私も久しぶりだし、せっかく楽しむのに邪魔が入っちゃ嫌だからもっと奥に行こ?もっと、お・く・ま・で♡」
腰をひねり短いスカートをひらひらと揺らしながら甘ったるい声で媚びるようにアンジェリカが言うと男たちは興奮を隠しきれない様子で軽々と乗ってきた。
「そう来なくっちゃな。良く分かってるじゃないか、お嬢ちゃん。良いぜ?お望み通り誰の邪魔も入らない奥まで連れて行ってやる。」
気味の悪い笑い声を出す男2人に囲まれたアンジェリカは裏通りの奥地、夜は誰の目にも留まらない袋小路へと共について行った。
離れた場所にある街灯と僅かに届く月明かり以外の光が存在しない暗闇の中、男2人に囲まれ壁際に追い込まれたアンジェリカにはカラフルな錠剤が差し出され、それを飲むように促された。
予想通り、合成麻薬エクスタシーだ。それも限りなく純度の低い紛い物。
アヤメの第五の奇跡によってこの国に貯蔵されていた薬物のほとんどが焼き払われてしまった今、残されたものは既に市場流通済みの残骸ともいえるそのようなものしかないのだろう。
「ほら、これを飲みな。それだけで意識が飛ぶほど気持ち良くなれるぜ?」
相も変わらずニタニタした顔で言い寄る男に対して頬を赤らめ媚びるように体をすり寄せて言う。
「ありがとう。」
少しだけ息を乱れさせ、うっとりしたような表情を浮かべる演技をしつつ自分を眺める男たちに視線を送る。
そうして今日一番の気色の悪い笑みを歪ませる男に対し、ねっとりとした甘い口調で “始まり” を告げた。
「それじゃぁ… “いただきます”。」
アンジェリカがそう言った刹那。男の腕を横切るように光の線が走ったかと思うと周囲には大量の赤い液体が飛び散った。
彼女に薬を差し出していたはずの手は宙を舞って情けなく地面へと落ちる。生肉の塊を地面に叩きつけたような音が路地に響く。
何が起きたか分からないといった様子で男は先程までそこにあったはずの自分の右腕を見る。
そして自分の身にたった今起きたことをようやく理解した男はショックのあまり悲鳴すら上げられずにその場に失神して倒れ込んでしまった。
「…あれれ?もうおしまい?あんまり早いのはー、嫌われちゃうんだぞ☆」アンジェリカは可愛らしい笑みを浮かべたままもう一人の男に視線を送りながら言う。
視線を送られた男が悲鳴を上げながら逃げ出そうとした瞬間、アンジェリカは指を鳴らしてよたよた歩きの怪物たちを周囲に顕現させ男を取り囲ませた。
「だぁめ♡ 私はまだちっとも気持ち良くなってないし、満足もしてないんだから。」
そう言うアンジェリカを振り返りながら見た男は一言も言葉を発することなく尻餅をついてその場にへたり込んだ。
彼女の目に光は無く、そこに映るのは果ての無い狂気だけ。見開かれた宝石のように美しい紫色の瞳の奥に繋がる “地獄” を男は垣間見た。
「さぁ、 “気持ち良いこと” を始めましょう?貴方達が望んだことよ。最期に良い夢を見させてあげるから、約束通り私を気持ちよくしてね?途中で逃げたりしたら、めっ だよ♡」
恍惚した表情でアンジェリカが言った直後、怪物たちが一斉に男2人に襲い掛かった。
怪物たちが手に持つ斧や鉄パイプ、アイスピックやナイフが容赦なく男に振り下ろされる。この世のものではない “ソレ” らは、男がすぐに息絶えてしまわないように、致命傷となる部分を的確に避けて切ったり抉ったり殴ったりを繰り返した。
夜闇にぐちゃぐちゃという生肉が無造作に解体されるような音ともはや声にすらなっていない悲鳴と嗚咽だけが響く。
怪物たちが男に襲い掛かる間、アンジェリカはただ何をするでもなく目の前の生きた人間が生きたまま解体される一部始終をただただ笑いながら眺め続けた。
彼女の “行為” が始まってどれほどの時が経過したのだろう。
月明かりも消え、暗闇が一層深まった裏通りの行き止まりでアンジェリカは1人佇む。大量の返り血を浴びた髪も顔も服も赤く染まり、地面に向けてその雫がぽたぽたと滴り落ちる。
周囲を賑わせていた怪物たちの姿は既にそこには無い。
残されているのは “人間だったもの” の残骸とまだ温かさの残る真っ赤な血だまりのみだ。
楽しくない、楽しくない、楽しくない。
満たされない、満たされない、満たされない。
いつもなら心ときめく解体ショーも今のアンジェリカにとっては滅入った気分の憂さ晴らしにすらならなかった。
イベリスに言われた言葉が脳裏に蘇る。
『つまりただの八つ当たりね。』
あぁそうだ。何をしても満たされない空っぽな自分の心を満たすためにはこうするしかない。
“それしか知らない” 憐れな自分はこうすることでしか欲を満たすことが出来ない。
これが自分が生きる為に与えられた意味であり、これこそが生きる上で求められた意義だったのだ。
最初から全てを持つ者と持たない者。その隔たりは当事者が思う以上に大きい。
憎い、憎い、憎い、憎い…
生を受けた時からこのようにしかなれなかった自分と自由を謳歌できた者達を比較して思うのは常にそんなことだった。
知らずの内に噛み切りそうな程に唇を噛み締め、両手を固く握りしめていたアンジェリカはふと全身の力を抜き天を仰ぐ。
何を見据えているわけでもない瞳は遠い空の彼方へと向けられ、立ち尽くしたまま動かない。
そうしてしばらく茫然自失として立ち尽くした後、返り血の流れた跡とは別に彼女の瞳から一粒の雫が零れ落ち、それが一筋の線を描いて流れた。
その後、何を言うでもなく、何をするでもない彼女の姿は紫色の煙がほどけて霧散するようにしてその場から消え去るのだった。
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