第24節 -色の無い世界-

 先程までは小粒の雨が僅かに振る程度だったコロニア市内も、今や本格的な土砂降りとなっている。この降りようでは中途半端な傘はあまり役に立たないだろう。

 海岸から走ってコロニア市内の小さな通りに出た玲那斗とイベリスはすぐ近場にあった商店らしき建物へと立ち寄った。

 入り口から入ってすぐに見えたのはたくさんの絵画だ。それらが所狭しと飾られている所を見るにここはどうやらアートギャラリーのようである。


 海岸から走り通して息を切らし気味のイベリスに玲那斗が言う。

「なんとか間に合ったね。大丈夫?」

「えぇ、大丈夫。でも、こんなに走ったのは久しぶりだわ。」

 彼女の言う “久しぶり” とは千年ぶりということだろう。セントラルへ来てから彼女が全速力で走る姿を見たことは無いし、リナリアで自分と出会う前に全速力で走る機会もまずなかっただろう。今の状態になっておそらく初めてではないだろうか。

 周囲の目を気にすることなく能力を使って良いような場面では、少し離れた距離でもいつも能力に依存して瞬間的に移動していた為、息を切らせるなどということもきっと初めてに違いない。

「たまには走るのも悪くないだろう?」普段から機構のトレーニングで鍛えている玲那斗は余裕の表情を浮かべて言う。

「そうね。体を動かして気分は良いのだけれど、でも疲れたわ。」イベリスは素直な感想を言う。

「同感だ。雨が止むまでここにいよう。ゆっくりと過ごすには良い場所だよ。」

「ところでここはどこなの?」

「アートギャラリーだよ。絵画専門の美術商だ。」

 玲那斗に言われてイベリスは周囲を見回した。落ち着いた木造のギャラリーにはたくさんの絵画が綺麗に展示されている。

 室内はやや薄暗い。柔らかなオレンジ色の照明と絵画の上にある間接照明による非日常的な空間が創り出されている。

 イベリスは息を整えて落ち着くと壁際まで歩いていき、額縁に収められて飾られている絵画を眺めた。

「素敵ね。これは先程の海岸の絵かしら。」

「きっとそうだろうね。」

 彼女が目にしたのは木々に囲まれた遊歩道入口と海に挟まれるように描かれた浜辺の絵画だ。この特徴的な構図は間違いなく先程訪れた海岸のものである。

 その他にも聖堂や鐘楼を描いたもの、滝や遺跡を描いたものなど多数の絵画があった。これらはケプロイの滝やナン・マドール遺跡といったミクロネシアの観光場所として名高い名所の数々である。

 精巧に描かれた絵はどれも現地の風景を切り取ったかのような静かな迫力が感じられる。

 絵画の端には作者の名前と思われる【ピーター・ルーベン】という署名がされていた。

 2人揃って展示されている絵画を順番に見て回っていたが、ふとイベリスが不思議そうな顔をして言った。

「どれも色が無いわね。」

 確かに今まで見た数点の素晴らしい絵の数々には全て色がついていない。他の絵画を見渡しても色が付いている絵画は何一つなく、そのどれもがモノクロの濃淡のみで描かれた絵画だ。

 色のついていない絵画を見回しながら2人が不思議に思っていたその時、奥の部屋から唐突に男性の声が聞こえてきた。

「これは珍しいお客さんだ。若いカップルがこの店に訪れるなんて滅多にあるものじゃない。こんな酷い雨の中だ。雨宿りで訪れたのかな?」

 玲那斗とイベリスは視線を声の主へと向ける。

 そこに立っていたのは濃い色のサングラスをかけた老齢の男性の姿だった。

 細身ではあるが身長は180センチメートル以上はあるだろう。玲那斗よりも幾分か高い。

 豊かで整った美しい白髪頭にピンと伸ばされた背筋から窺える若々しさとは対照的に、手や顔の目立つ皺は長い人生の中でたくさんの苦労を重ねてきたことを象徴するように深く刻まれている。

「急な雨で立ち寄りました。驚かせてしまってすみません。」

「謝る必要などない。理由はどうあれこの場所を訪ねてくれた君達を私は歓迎しよう。」

 サングラスで目元を見ることは出来ないが、口元の印象と穏やかな声のトーンからは怒っている様子はない。言葉通り歓迎されているようだ。

「君達が私の描いた絵を楽しんでくれている様子は奥のアトリエからも窺えたが、先程の会話で “色が無い” と聞こえてきたものだからね。普段ならこうして出てくることも無いのだが、つい柄にもなく出張って来てしまったのだよ。」

「ここの絵画は全て貴方が制作を?」玲那斗が言う。

「そうだ。長い人生で描いてきた絵の中でも特に私の気に入っている絵画を置いてある。」

「とても素敵な絵画ですね。まるで景色を切り取ったように重厚で。」男性にイベリスが言う。

 すると男性は一瞬イベリスへ顔を向けかけたが眉間に皺を寄せて顔を逸らしてしまった。

「あぁ、ありがとう。そうだ、ここに訪ねてくれたのも何かの縁だ。もしよければ私のアトリエも見学していくかね?この雨はまだ止まないだろうから。」

 玲那斗とイベリスは互いの顔を見合わせて共に言う。

「ぜひ。」

「ではこちらに来たまえ。すぐ奥の部屋が私のアトリエだ。」

 男性はそう言うと奥の部屋へと歩いて入っていった。二人も後を追って部屋へと向かう。


 ほんの短い廊下を越えてアトリエへ足を踏み入れた二人はそこで見た光景に思わず吐息を漏らした。

 周囲を見渡すのに必要最低限の灯りだけが点いた部屋の中は、所狭しと飾られた写真の数々とそれを元に描かれた絵画で埋め尽くされていた。

 隅の方に男性の作業場と思われる場所があり、大きなキャンバスとそれを支えるイーゼルが設置されている。

「片付けがなって無くてすまないな。さて…誘ってみたは良いが、いざ招くとなると座る場所探しもひと苦労だな。いかんいかん。あぁこっちだ。さぁ、こっちの椅子にでも掛けたまえ。」

 2人は促されるがままに用意された椅子へと座る。

 男性はすぐ近くのコーヒーメーカーで3人分のコーヒーを淹れると、2人の元に歩み寄ってそれぞれカップを手渡した。

「ありがとうございます。」コーヒーを手渡された玲那斗とイベリスが順に礼を言う。

「砂糖とミルクはすぐ傍のテーブルにある。好きなだけ取りなさい。」

 その言葉を聞いたイベリスは迷うこと無くテーブルの上に置かれた角砂糖を入れて溶かす。

 作業場近くの椅子に男性はゆっくり腰を下ろすと玲那斗を見据えて言った。

「申し遅れたね。私の名前はピーター・ルーベンという。見ての通りしがない絵描きだ。長年それだけをして生きてきた。」

 男性の名乗りに玲那斗ははっとした表情を浮かべる。

「はっはっは。私の名前を初めて聞いた者は皆一様にそういう反応をするものだ。偉大な画家であり外交官であった彼とほとんど同じ名前なのだからね。」

 玲那斗が反応したのは他でもない。名乗られて改めて感じたことではあるが、彼の名がかの有名な画家、ピーター・パウル・ルーベンスにそっくりだったからだ。

「姫埜玲那斗と申します。」玲那斗も自身の名を名乗る。

「ほぉ、君は日本人か。なぜだろうな。この国が歩んだ歴史がそうさせるのかもしれんが、妙な親近感を抱くよ。」

「私はイベリスと申します。」続けてイベリスも名前を伝える。

「花の名前だね。キャンディ・タフトと呼ばれる小さくて可愛らしい白い花。素敵な名だ。名は体を表すとでもいうのだろうか。貴方から香る甘いキャンディのような香りはとても心地良い。とても安らかな気持ちになる。」

 ピーターはそう言ってコーヒーを一口飲み、視線は玲那斗に向けたまま言う。

「君達はこの地に観光に?」

「いえ、仕事です。W-APROに所属しています。」

「あぁ、機構の隊員か。道理で体が鍛えられているわけだ。君達の活動には私達もよく助けられている。感謝するよ。」

「ありがとうございます。私は普段は大西洋のベースにいますので、今の話は支部のみんなに伝えます。」

「大西洋…セントラル1か。太平洋のセントラル2でもなく欧州からとは。遠路はるばるこの地に訪れているということは “例の事件” 絡みかね?」

 ピーターの言う例の事件とは間違いなくアヤメの起こす聖母の奇跡についてだろう。その言葉に玲那斗は一瞬迷いながら答えた。

「深くお話は出来ませんが、そんなところです。」

「構わんよ。その辺りを深く聞くつもりはない。ここに君達を招いたのは、単に君達がとても珍しいお客さんだったから話をしてみたくなったまでのこと。そう…時に君の隣にいるお嬢さんは…言いづらいが人間ではないね?」

 突然の言葉に驚いた二人は声を出せずに互いの顔を見合わせた。

「警戒はしなくてもいい。私は本当にただのしがない絵描きであり、それ以上でも以下でもない。いや何、私にはお嬢さんの姿が “物理的に” 眩しすぎるというものだ。そんなに光り輝く人間はいないだろう。」玲那斗が瞬間的に身構えたのを見て取ったのだろうか。ピーターはそう思った理由を述べた。

「貴方には彼女がどういう風に見えているのですか?」玲那斗が言う。

「大きな大きな光の集まり、塊のように見える。実の所、私にはその表現以上に彼女の容姿を表す言葉は浮かんでこない。その可憐な声から女性だと分かる程度でね。」

「驚いたりはしないのでしょうか?」

「生い先長くはない人生だ。そう言うこともあるのだろうとなぜか自然と受け入れられた。特に最近この地で起きている奇跡の話を聞いていると、尚のことそんなこともあるかもしれないという気持ちになるのだよ。」

 ピーターはコーヒーをテーブルに置き、玲那斗からも視線を外すと壁にかけられた無数の絵画を眺めながら話を続けた。

「先程、イベリスさんはギャラリーに展示された私の絵画に “色が無い” と言ったね?」

「はい。」イベリスが返事をする。

「おそらくこの部屋にある絵画も全てそのように見えるだろう。しかし私にとってはこれら全てがとても色鮮やかな絵なのだよ。」

 話の内容がいまいち呑み込めないイベリスはきょとんとした顔をする。

 この部屋にある絵画も全てモノクロであり、どれ一つとして鮮やかな色が付けられた作品は無い。しかし、男性はこれら全てが “色鮮やかな絵” だと言う。

 ピーターはおもむろに玲那斗へ視線を向けなおすと、かけていたサングラスを少しずらしながらその理由を話し始めた。

「私はね、生まれつき全ての色彩を認識できない “全色盲” なんだ。」

 その言葉でイベリスと玲那斗はピーターの言う意味を悟った。


 全色盲とは1色型色覚、つまり目で見える全ての景色がモノクロに映る状態のことを指す。

 目に存在し色を認識する役割を担う錐体機能の喪失により、光の強弱による明暗の認識を司る杆体視細胞のみで景色を捉える為にそのように見える。

 通常、目というのは明るい場所と暗い場所において映像を認識する為の機能を切り替えるように出来ている。

 明るい場所においては錐体視細胞が活発になることによって映像を認識する。この細胞は光から異なる波長を読み取り、脳へ “色” を伝達することが得意ではあるが、十分な光量が無いとうまく機能しないという特徴がある。

 その為、暗い場所において目は杆体視細胞と呼ばれるもう一つの機能を活発にさせることによって映像を認識するように出来ている。この細胞には僅かな光量でも映像を認識できるという特徴があるからだ。ただし、錐体視細胞と異なり “色彩を認識することが出来ない”。

 これら2つの細胞の内、全色盲の人々は錐体視細胞の機能が消失している状態である。つまり十分な光量があるところでも杆体視細胞のみに頼って物体を見ることになる為に色の認識が出来ないのだ。

 加えて、本来少ない光量の暗所において活躍するはずの杆体視細胞のみで物を認識する為、強い光の中ではかえって物を見ることが出来ない。

 例えるならば、とても暗い場所からいきなり眩しい場所に出た時に感じる目の痛みが、明るい場所にいる状態では絶えることなく継続するようなものだ。

 寝起きで目を開けた瞬間に太陽の日の光の真下にいるような感覚が常に継続していると言い換えてもいい。

 その為、目を守る為の濃い色のサングラスは欠かせないし、それ無しで太陽の光の下などの明るい場所に出歩くこともなかなかに厳しい。

 先程からピーターがイベリスを一度も直視しようとしないのは、彼女が大きな光の塊に見える為に直視しようとすれば目に痛みが走るということが理由だろう。言い換えれば、見ようとしていないのではなく “見ることが出来ない” のである。

 最初はムード作りの為だと思っていたが、ギャラリーやアトリエに至るまで、この建物の内部がとても薄暗く必要最低限の照明しか設置されていない理由についても合点がいく。

 サングラスをずらしたピーターの目は振り子のように左右に激しく揺れている。この地に訪れた初日に会議でリアムが説明した “眼振” の症状だ。全色盲の人々にはこの症状が強く見られる。


 ずらしたサングラスをかけなおしてピーターは言う。

「私にとっての世界とは、これら絵画に描かれた景色そのものなんだ。多くの人々が色の違いによって世界を認識していることは分かるが、私にとってはこれが全てだよ。例えば私には信号機の色の違いが見分けられないから車の運転は出来ない。だが、人々が同じ灰色というものでも私にはその中に “違う色” を見出すことが出来る。淡い灰色、濃い灰色など分かりやすいもの以外にもたくさん。それを表現したくて、昔は自身に見える世界を多くの人々に伝えたいと思ったこともある。結局、今はただ自身の中にある景色を映し出すことに没頭しているだけで、何かを “伝える” ということは出来ていないのだがね。」

「ごめんなさい。貴方のことを何も知らずに私は。」イベリスが自身の無知を申し訳なさそうに謝る。

「良いんだ。言われなければ知らなくて当然のことだし、説教をするつもりでここに呼んだわけではない。ただ聞いてみたいと思ったんだ。君達の目に、私の世界がどう映るのかを。」

 ピーターはそう言うと再びコーヒーに手を伸ばしてゆっくりと一口飲んだ。


 彼の言葉を聞いた玲那斗とイベリスは共に先程ギャラリーで見た絵画の感想を伝えた。ピーターは2人の話す感想にただ静かに耳を傾けた。



「そうか。君達にはそのように見えたか。あぁ、十分だ。私の見ている世界は確かに君達に伝わっていたようだ。」

 2人から感想を聞いたピーターは満足そうに頷く。そして急に何かを思い出したように立ち上がり言った。

「一つだけ。そういえば一つだけ私の作品で君達がいうところの “色が付いている” ものがある。それを君達にお見せしよう。」

 ピーターは作業場の机から1枚の絵が収められた額を手に取ると二人へ差し出した。

 そこに描かれていたのは朝食の食卓をイメージしたような絵であった。トーストにサラダ、コーヒーが描かれている。

 他の作品とは違いセピア色の濃淡で描かれた絵は、はっきりとした線ではなく水彩画のように筆で描かれたであろう淡いタッチが特徴的だ。

「いつもはペンを使って絵を描くのだがね、この絵だけは別のものを使って描いた。君達が今飲んでいるものを使ってね。」

 玲那斗とイベリスが飲んでいるもの。つまりはコーヒーを使って描かれた “コーヒーアート” だという。

「始まりは飲んでいるコーヒーをキャンバスにこぼしてしまったことがきっかけだ。その時に出来た濃淡の違う染みを見て思ったんだ。元々色の濃いコーヒーを画材として使えば今までとは違った絵画ができるのではないかとね。実際に挑戦してみるとこれがなかなかに奥深くてね。ペンのように筆圧を変えれば色合いが変わるというものでもない。濃淡の付け方が難しい上に真っすぐに線を引くことすらままならない。だから最初は幼児が描いたような絵しか描けなかったよ。でも、何度も線を引いている内にコツが掴めてきたんだ。そうして練習を重ねて描いたものがその絵だよ。」

「とても温かみのある絵画だと思います。香りまで楽しめそうだ。」ピーターの言葉を聞いた玲那斗が心からの感想を言う。

「ありがとう。他の絵画とあまりに違うから、今までギャラリーに飾る決心が付かなかったが君の言葉に勇気をもらえたよ。後でギャラリーの目立つ場所に飾ることにしよう。」

 ピーターはそう言って玲那斗に渡した絵画を受け取ると机の上へと置いた。そして椅子へ腰掛け直すと二人に言った。

「君達と色々な話が出来て楽しめたよ。少し一方的に話してしまったような気もするが…代わりと言っては何だが、君達から私に聞いてみたいことは何かあるかね?このような老いぼれに聞きたいことがもしあれば、だが。何でも答えよう。」

 その言葉を聞いたイベリスが少し迷い気味に言った。

「ルーベンさん、絵画のお話からは逸れてしまうのですが…その、貴方はこの国で起きる奇跡についてどう思っていらっしゃいますか?」

 丁度イベリスがした質問と同じことを尋ねようと思っていた玲那斗もピーターの方へ視線を向ける。

 この国で過ごす国民から直接意見を聞く機会というのはなかなかあるものではない。それも、こうした形で腰を据えてじっくりと話を伺うことが出来る機会などそうそうないだろう。

 ピーターは少し考え込むようなそぶりをみせ、再び椅子から立ち上がるとコーヒーメーカーへと向かう。そして空になったカップに再びコーヒーを注ぎながら言った。

「やはりそう来るだろうな。予感はしていたよ。どんな話を差し置いてでも君達が今一番聞きたいことと言えばあの奇跡の件についてだろうとね。私もこの国の国民ではあるが、詳しいことを知っているわけではない。何せメディアが流す情報を音でしか聞いていないからね。昔風に言うとラジオだ。テレビの光は私には強すぎて見ることが出来ないんだよ。スマートデバイスで見るインターネットの情報も然りだ。」

 カップにコーヒーを満たしたピーターは椅子まで戻ると深く腰掛け、考えをまとめるようにコーヒーを口に含んで飲む。そして間をおいて話を続けた。

「どう思っているかと問われるとなかなかに難しい。幼い女の子がこの国を揺るがしている問題を解決する為に人を殺めようとしている。それも聖母の導きによってだという。主語の大きくなる話をすることは好まないのだが…この国を祖国とする多くの人々は、この地で問題を引き起こしている連中がいなくなることを望むだろう。当たり前だ。だが、それと同時に幼い女の子がその問題に立ち向かうことを皆が良しとしているわけではない。こうしたことは本来、我々大人や政府や警察が何とかするものだからだ。問題の解決を望むが、それが彼女の手によって行われる奇跡と言う名の殺戮によって完遂されることには納得していない。少なくとも私はそのように思っている。」

 イベリスと玲那斗はピーターの話を静かに聞いた。

 彼の言葉は自分達の思っていることと同じだった。やはりこの国で当事者として暮らす彼らにとっても今回の件については複雑な思いで見ているようだ。

「だが、悲しいことにそうした奇跡に頼ることでしか解決することの出来ない問題なのではないかという思いもある。政府も警察もこれまで私達の知らない所で数々の手を尽くしてきてくれたのであろうことはなんとなく分かる。その結果として市街での銃撃や車両爆破などという事件も起きた。国民を守らなければならないという使命がある彼らにとっては、こうなってくると迂闊に連中へ手を出すことが難しくなってくる。違った形で国民に危害が及ぶ恐れがあるからだ。それに政府や警察という組織を形作る者達だって皆1人の人間だ。一般的に暮らす人々とは違った特定の権利を持っただけの同じ人間に過ぎない。密売組織のような暴力的な連中を相手にする為には相応の覚悟というものが必要だろう。我々が連中に対して抱く恐怖と同じものを彼らが抱いていたとしても、私はそれをおかしいとは思わない。彼らにも家族がいる。事実そうしたことが理由となって手が出せないでいるのかもしれない。誰も彼もが何をどうしたら良いのか分からなくなりつつある中…そんな時にあの少女は奇跡を公言した。私達国民の心を救い、導こうとする彼女の力強さに人々の心は皆揃って縋っているのかもしれない。だから倫理的には納得できなくても、現実的には納得するしか無いのではないか。何も出来ない私達はそういう思いの狭間で揺れているというのが正しい表現かもしれないな。」

 そこまで言うとピーターはコーヒーを一口飲みカップをテーブルに置いた。そして椅子の背もたれに身を預けるように寄りかかると天井付近を見上げながら言う。

「生きていくということは、時に不条理を受け入れるということでもある。私達にとっては今がまさにその瞬間なのだろう。悔しいことだがね。」

「ありがとうございます。」話を聞き終えたイベリスがピーターへ例を言う。


 玲那斗とイベリスは彼が抱く複雑な胸中というものがよく理解できた。正しいものが正しいとは限らない。間違っていると分かっていても認めざるをえない時があるということを。

 すると、話を聞いて黙り込む二人に対してピーターは別の話を始めた。

「例の奇跡についてどう思うかという点についてはそうとしか言えないが、 “私の目にどう見えたのか” についてならもっと具体的に話すことが出来る。」

「奇跡を直接見たのですか?」ピーターの申し出に玲那斗は思わず聞き返す。

「あぁ、見たとも。太陽の光は眩しすぎるから、日中に外を出歩くということはなかなか出来ないのだがね。第四の奇跡と呼ばれるあの日の出来事については、この家の前で私も空の様子を見ることが出来た。普通では有り得ない、とても不思議な光景だったよ。」

「その話を聞かせてくれませんか?」やや前のめりになりながら玲那斗は言った。

「そう焦らなくても全て話すつもりだ。言っただろう?何でも答えると。」

 ピーターはそう言うと、一度深く息を吸い込み吐き出す。そして当日に見た光景を頭の中で思い出しながら二人に話した。

「8月13日。巷で第四の奇跡と呼ばれている日、多くの人々がナン・マドール遺跡へと向かった中で私はいつものようにこのアトリエに籠って1人で絵を描いていた。するとその途中、突然雷が落ちたような爆音が響いて家そのものが揺れたのだよ。」

 間違いない。第四の奇跡において赤雷が観測されたという時の話だ。玲那斗はそう思った。

「奇跡とは違う災害か何か起きたのではないか。音と振動が尋常ではないと思い、驚いた私は慌てて家の外に飛び出した。しかし周囲を見渡しても何ら変わったことは無い。いつもより人が少ないということを除いて。周辺に何も変化が無いことを確認した私は家の中に入ろうと思ったが、その時にあることに気が付いた。」

「あることですか?」

「 “眩しいと思わなかった” のだよ。極度に光を見ることに対して弱いはずの私が。太陽の光が降り注ぐ日中に唐突に外に飛び出たにも関わらず。全く眩しいと感じなかった。」


 言われてみればそうだ。

 しかし、そんなことがあるのだろうか。

 彼の話を聞きながら玲那斗はその異常性がすぐに把握できた。

 全色盲である彼は太陽の光が降り注ぐような明るい場所においては、特別なサングラスをかけていたとしても周囲の様子を見回す為に相当な気力を使うはずだ。

 眩しすぎる光は目に痛みとして伝わり、とても一度見回しただけで【周辺に何の変化も無い】ということを認識できるまでの観察が出来るとは思えない。

 それよりも辺りを見回すよりも先に目の奥にのしかかるような痛みに意識が向くのではないだろうか。


「私は家に入ることを取りやめて恐る恐る空を見上げた。そのとき見えたのは澄み渡った普通の空だ。あれは何というのだろう。まるで広大な空に貼られた写真を眺めているような感覚だったというべきだろうか。この目で直接空を見上げて、目を細めることも無く普通に見ることが出来るなんて驚きだったよ。」


 空に写真が貼られていたようだったというところが妙に引っかかる。つまり現実の空とは違う何かがそこにあったということだろうか。テクスチャのようなもの?いやそんなはずはない。

 当日の気象状況を機構のプロヴィデンスで解析したデータでは、コロニア市内において通常とは異なるような異常は何も見受けられなかった。ましてや自然界と自然界の間を遮る不可思議な “何か” があったなどという事実はない。

 その日のその瞬間にも理論上はいつもと同じ空が広がっていたはずなのだ。しかし、であれば彼の言う通り直接空を見上げるなどということがそんなに簡単にできるものなのだろうか。否、出来るはずがない。

 自分達は何か決定的な見落としをしている気がしてならない。それを見つけ出す必要がありそうだ。

 玲那斗は内心でそう考えた。


「だがさすがに見続けることは少し怖くなってね。突然眩しさによる痛みを感じるかもしれないと思った私はすぐに家に戻ってしまった。私の目から見えたあの日の出来事で、君達に伝えられることと言えばそんなところだが、何かの役に立つだろうか。」

「十分です。ありがとうございます。」

「ならば結構。改めて君達に礼を言わせてもらおう。楽しいひと時を過ごさせてもらった。」

 ピーターは満足そうな笑みを浮かべながら言いつつも、一つだけ心残りなことがあるという話を二人にした。

「雨音が小さくなったか。この分だとそろそろ止んだ頃だろうから君達は帰る頃合いだな。だが、このひと時のことで私にはひとつ心残りあってね。もしよければ最後にこの老いぼれの頼みを聞いてくれるだろうか?」

「何でしょう?」ピーターの言葉に玲那斗が答える。

「今の会話を重ねていく中で私はどうしてもイベリスさんの姿がこの目で見たくなった。だが私にとって彼女は眩しすぎる。物理的にというのか、表現しづらいが。」

 玲那斗はイベリスへ視線を向ける。

 望みは叶えてあげたいが、実際にどうしたらいいのかわからないという表情を彼女は浮かべていた。

「そういうことであればぜひ叶えて差し上げたいと思うのですが、どうしたら良いのでしょうか?」イベリスが困った様子で言う。

「そうだな…君は写真には写り込むことは出来るのかな?」

「えぇ、よく彼や彼の仲間と一緒に撮影しています。」ピーターの質問にイベリスが答える。

「ならば話は早い。よし、では姫埜君、君は彼女と一緒に撮影した写真は持っているかね?」

「はい。デバイスの中にたくさん。」

「その中の一枚を印刷してくれないか?そこにあるプリンターを使ってもらって構わない。」

 ピーターが指差した方向には比較的新しいタイプのプリンターが置かれていた。ネットワークを経由せずにスマートデバイスと直接双方向通信が可能なタイプなので、玲那斗のデバイスから選んだ写真を直接印刷することが可能だ。

「分かりました。イベリス、どの写真にしようか。」玲那斗はそう言ってたくさんの写真の中からどの写真を彼に渡すかイベリスに相談した。

「そうね、ならこの写真が良いわ。 “みんなが” とてもよく写ってる。私のお気に入りよ。」

 印刷する写真を決めると、玲那斗は早速デバイスをプリンターに無線接続して印刷指示をかける。

 間もなく、プリンターからは自分を含めたマークתのメンバーとイベリスを写した写真が印刷された。玲那斗はその写真を手に取ってピーターへと手渡す。

「どうぞ。」

「ありがとう。…そうか、この少女がイベリスさん。貴女の姿か。…なんと美しい。まるで天使のようだ。」

 ピーターのあまりの褒めようにイベリスは気恥ずかしくなって少し俯く。玲那斗は隣で笑う。そして満足そうに写真を眺めるピーターに対して玲那斗もひとつ頼みごとをする。

「ルーベンさん、その写真をお渡しする代わりに約束して頂きたいことがあります。彼女のことについては周囲の人にはお話にならないで下さい。」

 ピーターは玲那斗へと視線を向けると深く頷いた。

「承知している。誰にも言うつもりはない。」

「安心しました。では、私達はこれで失礼します。今日は貴重なお話をありがとうございました。それとコーヒー、ご馳走様でした。」

「ありがとうございました。」玲那斗に続いてイベリスも礼を伝える。

 ピーターは静かに何度か頷いた。

 2人が椅子から立ち上がり、アトリエの入口へと振り返って部屋から立ち去ろうとした時、ピーターが声を掛ける。

「姫埜君、イベリスさん。しばらくして気が向いた時にまたここを訪ねたまえ。君達ならいつでも歓迎するよ。」

 玲那斗はピーターへと振り返って深々と一礼をするとイベリスを連れてアートギャラリーを後にした。



 ギャラリーに出た2人は眩しい光に思わず目を覆う。

 外では太陽の日差しが再び地上へとさんさんと降り注いでいる。激しい雨も止み、空一面を覆っていた濃い灰色の雲もどこにも見当たらない。

 見上げた空はどこまでも澄んだ青色をしている。先程までこの地に雨をもたらしていた雨雲の代わりに見えたのは、雨上がりの空にはっきりと浮かび上がる虹のアーチであった。


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