第3節 -神という名の幻想-

 ミクロネシア連邦 首都パリキール。

 ポーンペイ島のコロニア市に隣接するこの地には政府庁舎や連邦大統領府、最高裁判所などの重要拠点が点在している。

 その中で政治の中枢を担う大統領府の一室では、この国のリーダーである大統領と秘書官がつい今しがたもたらされた情報について話している最中だ。


「大統領、先程W-APRO太平洋方面司令の我が国の支部へ例のマークתの面々が到着したとの情報が入りました。」

「結構。予定通りだな。」椅子に深く腰掛ける男性は秘書官の報告に返事をした。

 手元の書類に落とされる厳しい視線は今この国が抱える問題の重大さを物語っている。彼の眉間に刻まれた皺は、この国の大統領となってから今に至るまでの数年に経験してきた苦悩の証明とも言えるだろう。

 数々の難題を克服してきた大統領にとっても、今抱える問題というのは未だかつて経験したことがない厄介な問題であった。

「明日、彼らと直接話をすることが出来るのだな。」

「はい。明日の午前10時に彼らとの会合を実施します。事前にモーガン中尉、並びにウェイクフィールド少佐へスケジュールを確認し承諾も得ていますのでご安心下さい。」

「彼女が行う奇跡は残り二つ。およそ2週間後の9月13日にその内の一つが完遂されるのだろう。目下、彼女の成し遂げようとする奇跡は我々にとって重要な意味を持ち、奇跡によってもたらされるであろう “結果” 自体は私も否定されるべきものではないと考えている。本当に成し遂げられればこの数年の間ずっと悩まされてきた我が国最大の問題が解決に導かれるのだから。だが…」大統領は一度口を閉ざす。

 厳しい視線を書類に落としたまま、苦悶の表情が顔に滲む。

「大統領、私の立場からこう申し伝えるのは憚られるのですが、少しお休みになられた方が宜しいのでは? 正直、顔色も良くありません。本日は以後の公務もありませんし、ゆっくりされるべきかと存じます。明日のこともありますから。」

 張り詰めた様子でうなだれる大統領を目の前にする秘書官の男性が言った。

「ありがとう、すまないな。その通りにしよう。」

 顔を上げ、僅かに緊張を解いた様子で大統領は返事をした。



 事の行方については彼らと共に明日考えよう。

 思うに、こうなれば奇跡には奇跡を持って抗するしか手段は無い。今はただ心を落ち着け、冷静に会合に臨めるように準備をすることが重要だ。



 窓の外ではこの国の現状を映し出すような激しい雷雨が地面を打ち付けている。

 晴天を覆うこの厚い雲がやがて去りゆき、晴れて日の光が差すのと同じように、この国の未来に日の光が差し込むことを信じて挑むしかない。

 奇跡の再来に。 “神という名の幻想” に。


 自ら暗い雲を越えて天の高みまで上る術など、とうに尽きているのだから。


                 * * *


「外に出る時は私達に声を掛けておくれ。心配したんだぞ。」

 雨でずぶ濡れになって自宅へと戻ったアヤメをふわふわのタオルで優しく包みながら、父親のダニエルは言う。

「最近はずっと部屋にいたから海を眺めたい気分になったの。とても広い海は何もかも洗い流してくれるような気がするのよ。」

「アヤメは海が好きだな。」

「うん。 “ずっと昔から” 好きよ。」

 一通り拭き終わったダニエルはアヤメの肩に手を置き微笑む。

「でも、心配をかけてしまったことはごめんなさい。」気まずそうに視線を逸らしつつアヤメは言った。

「お父さんもお母さんも、お前が気晴らしに外に行くことを咎めたりはしないよ。気分転換をしたいと思うのは自然な感情だからね。ただ、今は状況が状況だ。そのことだけはわかっておくれ。」

「うん。」父の優しい言葉に笑顔で頷きながらアヤメは返事をした。

「良い子だ。さぁ、このままでは風邪をひいてしまう。シャワーを浴びて着替えておいで。お母さんが美味しいおやつを作って待ってるぞ。」

「やった!楽しみね!」そう言ってアヤメは浴室へぱたぱたと駆けていった


 アヤメをシャワーへと向かわせたダニエルはリビングへと向かう。

「ダニー、アヤメの様子はどう?」

 リビングへ入って間もなく、母親のサユリから声を掛けられる。

「いつも通り、変わった様子は無いよ。君の用意するおやつをとても楽しみにしながらシャワーへ向かった。」

「そう。」

 少し俯き気味にサユリは返事をした。ダニエルは何も言わずにサユリの隣に寄り添う。

「駄目ね、私がこんな顔をしていたらあの子が楽しみにしているおやつが台無しだわ。」

「今日はアヤメの好きなパンケーキか。とても美味しそうだ。 “あの子” もきっと喜ぶよ。」

「えぇ、そうね。」

 今できる精一杯の笑顔をしながらサユリは頷いた。


                 * * *


 ハワードとリアム、対面にマークתの面々とイベリスが並んだ会議室の中には緊張の空気が流れる。

 いよいよマークתに依頼された今回の調査について伏せられていた詳細が明かされようとしていた。


「では改めて、諸君らマークתのメンバーに応援を要請し、イベリスに対して同伴を求めた理由も含めて今回の調査における詳細な説明をしよう。」

 話し始めて間もなく、ハワードは大きな溜め息をつく。少しの間考えを巡らせ、話しの続きを始める。

「長い話になると言った。調査内容に触れる前に、まずはこの国で起きている問題から知ってもらう必要があるだろうな。結論から話すのが我々の常だが、この一連の出来事については対象となる問題が発生するに至った “前提” を含めた上で順序立てて説明すべきだ。モーガン中尉、頼む。」

「はい。承知しました。」

 ハワードの意向を汲み取ったリアムがバトンを引き継ぎ、対面に座る5人へ向けて説明を始めた。

「今からお話することは、 “異常気象の調査” に対しては一見関係ない事柄と思われるかもしれませんがよく聞いて頂きたい内容です。この事件にまつわる根幹に関わる部分になりますので。」

 リアムはそう言うと、手元の操作パネルを用いて中央モニターにとある画像資料を映し出した。

 モニターには様々な形をした色とりどりの錠剤のようなものが大量に映し出されている。

 有名なアニメキャラクターを模したもの、ハート型や星型などポップな形をしたもの、スマイルマークが彫られたものなど多種多様だ。

「皆さんにはモニターに映るこれらが何かはご存知でしょう。」

「合成麻薬、MDMAだな。」ジョシュアが間髪入れずに答えた。

「その通り。メチレンジオキシメタンフェタミン。世間ではエクスタシーやモリーという名で呼ばれています。主に男女が行為に及ぶ際に使用されることが多く、服用した者に高揚感や多幸感、親近感を抱かせるなど、気分や知覚に対する変化を生じさせ、感覚に対する認識を酷く歪めます。今モニターに映し出されているMDMAですが、これらは全て “この国で押収された” ものとなります。」

「何だって?」

 リアムの言葉に驚愕したのはジョシュアだけでは無かった。麻薬や覚せい剤という存在を知らないイベリスを除いた3人も動揺を浮かべている。

 周りの様子から何となく悪い状況であることを感じ取りながらも、それが指し示す事態を感覚として掴み切れずにいたイベリスがリアムへ問う。

「今の貴方の説明とみんなの反応から、そのMDMAというものは言葉で言われるよりも相当に悪いものだということは私にも認識できました。ただ、私はまだこの時代の知識や事情に精通しているわけではありません。お話を間延びさせるようで申し訳ないのですが、それが悪いと言われる理由をお伺いしても良いかしら?」

「もちろんです。まず、MDMAを含め人間の心身に非常に強い悪影響を与える薬物を現代では危険ドラッグと呼んでいます。危険ドラッグは植物から生成される麻薬、鉱物から生成される覚せい剤、それらと同じような効果を持つ成分を含む薬物などの総称で、その種類は非常に多岐に渡ります。」

「お薬?病気を治療する目的のものではなくて?」

「はい。こうした薬を摂取することで興奮や多幸感、全能感などといった精神的快楽を得ることが出来る反面、身体には幻覚や意識障害、嘔吐、頭痛、けいれん、臓器障害といった悪影響を及ぼします。また、摂取することで得られた快楽を忘れることが出来ず、繰り返し使用することで依存性が生まれ、身体に悪影響を及ぼしていると分かっていても自身の意思で止めることができなくなります。それを使わずには日常生活を営むことが出来なくなる。そうして次第に服用量も増加しった結果、生存の為に必要な臓器や脳が破壊され死に至ることもあります。」

「その在り方はまるで…お薬というよりは毒そのものね。」

「おっしゃる通り。人間の体を蝕む毒そのものです。」

「ありがとう。よく理解できました。説明を続けてください。」イベリスはやや沈痛な表情を浮かべつつ、リアムへ説明を続けるよう促した。


 リアムはモニターに次々と別の画像を表示しながら説明の続きを再開する。

「LSD、コカイン、5-MeO-DIPT、マジックマッシュルーム、ヘロイン、メフェドロン、デソモルヒネ…数多くの危険ドラッグがこの国で押収され、数多くの使用者が摘発されています。以前からこうした薬物の取締まりや摘発はごく僅かにありましたが、これまでは年間を通しても片手で数えられるほどの件数あるかないかでした。しかし、2032年頃からその数は突然増加し始め、2036年現在までの間におよそ50倍以上にも取締り件数は膨れ上がっています。目下、この国では危険ドラッグの密売と使用が重大な社会問題となり政府と警察がその対応に追われ続けているのです。」

「何かきっかけになることがあったのでしょうか?」フロリアンが質問をする。

「そうですね。観光経済に力を入れ始め、その努力が結果に反映され始めた時期と事件が増加し始めた時期が重なる為、海外からの観光客を狙った組織が悪意を持ってこの国へ入り込んできたことがきっかけ、そして原因と言えるでしょう。」

「組織?薬物密売組織か。」リアムの返答に対し、今度はジョシュアが問う。

「はい。ある1つの組織がこの国で起きている危険ドラッグ問題のほとんどに関与していることが判明しています。この組織については後程詳細に説明致します。」

 二人の問いに答えたリアムはモニターに表示していた画像資料を閉じ、今度は動画ファイルを呼び出した。

「では、次の説明に移る前に今からモニターにある映像を流します。正直、誰が見ても目を覆いたくなるような映像です。ですが目を背けずに見て下さい。先程イベリス様がご質問された内容への答えがこの映像で明確に示されるはずです。」

 リアムは手元の操作パネルから動画ファイルの再生を始める。




 場所は屋外のようだ。太陽の日差しが大地に注がれる中、多くの人々が集まり輪で囲む中央に一人の男が映し出されている。

 男は全身を痙攣させ手足を激しくばたつかせながら、上ずった声で途切れ途切れの絶叫をあげる。


『助けて…れ!助…てくれ!俺はまだ死に…くない!畜生!体が言うことを…利かな…!見えない… “色が無い!” 何も色…見えない! “全部灰色だ!” 何な…だ、何なんだこれは!』


 男は自身が発している言葉とは裏腹に笑顔を歪ませたような表情をしている。カメラが男の顔に近付いた時、振り子のように激しく揺れる瞳が映った。

 直後、映像の男は声にならない呻きをもらすばかりで言葉を発しなくなり、体が固まっていくかのように硬直を始め、凄まじく背面に反った体勢のまま動かなくなった。

 口元からは激しく血液を吐き出し、振り子のように揺れていた両目の瞳は左右バラバラに有り得ない方向へと向けられたまま硬直している。

 やがて糸の切れた操り人形のように男は地面へと崩れ落ちた。


 男を囲む人々からあがる悲鳴、怒声、嗚咽…既に助からない命と理解しながらも助けようとする者、あまりの光景に泣き出す者、ただただ狼狽えたまま動けなくなる者がモニターに映し出されている。

 激しい混乱の様子を撮影した映像はそこで終了した。




「これは一体…」ジョシュアが困惑の声で言う。

 玲那斗の隣ではイベリスが先程自身が発した質問が愚かだったとでもいうような表情を浮かべ、口元を押さえながら嫌悪感を顕わにしていた。

「この映像はポーンペイ州警察当局から提供された資料となります。端的に言えば新型の危険ドラッグを服用した人間が禁断症状を起こし、それが劇症化して死に至る過程の “一部” を映したものです。この薬物は名前も、原料も生成方法も、解毒方法も分かっていません。」努めて冷静にリアムは答えた。

「何も分からない?」ルーカスが言う。

「はい。残念ながら何も分からないのです。この薬物は服用してから禁断症状が出るまでの期間がとても短く、さらに劇症化して死に至るまでの時間も現存する薬物の中では最短と考えられています。当然、医療特殊研究支部 ブランチ5 -ゲブラーへも調査依頼を出しました。ですが薬そのものが入手できないことと、症状を発症している状態での検査が出来ないことを合わせ、遺体の調査解剖を行ってすら有効な手掛かりは特定できませんでした。結局この薬の正体は依然として何一つ掴めないままなのです。」

 俯きながら答えるリアムの返答に当惑を隠せないマークתの面々。機構の持つシステムを使用しても解析できない薬物の存在など有り得るのだろうか。

 その場にいる誰もがそう思っていたに違いない。


 機構の調査活動の要となるシステム【プロヴィデンス】。

 これは世界中から収集された莫大なデータや事象を高度にデータベース化し、専用の新型AIによる超高速な予測演算を含めてあらゆる情報解析を行うシステムだ。

 【全てを見通す神の目】。名前の由来はその言葉から取られている。プロヴィデンスにはこの世のありとあらゆる物質の構成材質といったシンプルな基礎データや日々更新される研究データ、過去の気象データや人類の歴史に至るまで “何もかも” と言っていいほどのデータが蓄積され、それら全てを使って要求された指示に対する解析処理を瞬時に導き出す演算能力がある。

 しかし、そんな世界最高の科学の叡智である “神の目” すら欺く薬がこの世界に存在するという。

 何も手掛かりが掴めないということはつまり、情報解析の為に必要な “痕跡そのものが無い” ということを意味している。

 または “そもそもこの世界に未だ存在しないもの” を主成分にでもしない限りこのような結果にはならないだろう。


「モーガン中尉、ひとつ質問をさせて頂きたい。 “薬物についての情報が何も掴めない” と先程言われたが、映像資料の男性が発症している症状が新型の危険ドラッグ由来のものであるという確証はどのようにして得たのでしょうか。」話の内容について疑問に感じたことをルーカスが質問する。

「遺体の解剖検査時の所見によるところが大きいです。この症状を発生する者が現れた当初は未知の病原菌による奇病や疫病の可能性が疑われましたが、体内からはそれらしい細菌やウィルスの類は検出されませんでした。そして同時に疑われたのが薬物使用による禁断症状です。こちらは体内の残留物から、何らかの薬物を使用したと思われる形跡自体はいくつも発見できました。」

「残留物?形跡が発見できたが、原因特定に関する手掛かりは掴めないとはどういうことでしょうか?」訝し気な表情でルーカスは言った。

「厳密には 〈薬の正体を特定する為の手掛かりは何一つ掴めていない〉ということになります。現存する薬物を使用した際に見られる特徴に当てはめれば、該当する成分や特徴は断片的には数多く見つかるのですが、ではそれが一体何なのかについてとなると特定できないのです。あらゆる薬物の同時使用の線も疑いましたが、そういうわけでもありませんでした。また既存の薬物では説明のつかない症状も含まれています。体内に残留する成分と、その成分を持つ薬物から発症する症状としてはあまりに事実と乖離がある。肝心な原因を特定する為の手掛かりだけが消失しているかのような状況です。現状、この世界に存在し得うる薬物を全て使用したと仮定して検証を行っても、その薬物を使用したことが原因であると結論付ける為の妥当性確認がまるで取れないのです。」

「故に未だ確認されていない未知の薬物である可能性が極めて濃厚という結論か。薬物を使用したという証拠はあり、禁断症状から死に至ったことは事実。しかし、どんな薬物を用いたのかについては特定できず、存在そのものも確認出来ていない。結局 “有る” のか “無い” のかすら分からない『存在の謎』。『存在への問い』はもはや科学ではなく哲学の領域だな。」考えを頭の中で整理するようにルーカスは呟いた。

「その通り。悪魔の証明と言えましょう。但し、プロヴィデンスの演算結果でもそうした薬物の生成における可能性を示すデータは見受けられることから、我々はこの未知の薬物が現実に存在し、且つ犠牲者はそれを用いていたと仮定した上で、新型薬物に対して便宜上〈Gray〉と名前を付けることにしました。」

 グレイ。灰色、青ざめた、どんよりとした、曇ったというような意味を持つ単語である。リアムは説明を続ける。

「新型薬物、グレイによって劇症まで禁断症状が進行した者に見られる最大の特徴は色を認識する視細胞などの組織が破壊されるということで、これは他の薬物には見られない特徴となります。先の映像に『色が見えない。全部灰色だ。』という男性本人の証言がありましたが、実際に死亡者の調査解剖をした際に摘出した眼球の網膜にある錐体細胞の状態からも全色盲状態にあったことは明らかになっています。加えて映像でも確認出来た “眼振” も全色盲が起きていることを表す判断材料の一つでした。」


 眼振とは、目が振り子のように左右に激しく揺れ動くことを言う。

 この状態が見られる病気として先天無虹彩、先天網膜色素変性によるものなどが挙げられるが、先天色覚異常による全色盲(生まれつき色の認識をすることが出来ない)の人々にもこの症状が見られる。

 眼振は網膜の中心窩が機能不全を起こすことで発生し “対象を固定して見続けることが困難となる” 。

 リアムの言葉を言い換えると、先程の映像に映し出されていた男性は新型薬物による身体への影響によって後天的に色覚異常を発症し、全色盲になったということのようだ。


「さて、ここまでの説明においてはこの国が抱える一番の社会問題に危険ドラッグ問題が有ること、そして既存の薬物では説明が付かない未知の新型ドラッグによる悲惨な死を迎えている人々が存在する事実を説明してきました。ここからは映像をご覧頂く前にお話しした “悪意を持った組織” の説明に移ります。」

「モーガン中尉、ひとつ質問を良いだろうか。」ジョシュアが質問をする。

「もちろんです。どうぞ。」

「話の腰を折るようで悪いが、今回我々に依頼された調査任務は “異常気象調査” についてのはずだ。確かに今説明を受けている危険ドラッグ問題が社会的に深刻な問題であることは明白だが、そうした薬物を扱う組織に対する密売捜査は各国家の警察が行う任務であるように思う。この説明と異常気象調査にどういう結び付きがあるのかどうにも理解が出来ない。」

「ブライアン大尉の質問はごもっともです。マークתの皆さんにおかれても同様の疑問を抱いていることと存じます。しかし、今回皆さんと共に調査に取り組むにあたっては、どうしても事前にこの説明を行う必要性があるのです。」リアムがジョシュアの質問に返答をした時、隣に座るハワードも意見を述べた。

「諸君、モーガン中尉の言うことは全て今回の件に関して必要なことだ。話の根幹に至るまで、全容が見えてこないことはもどかしいと思うが、今しばらく聞いて頂きたい。この社会問題と関連組織という存在を前提として知っておいてもらわなくては、次に話す肝心な内容が伝わりにくくなってしまうのだよ。」

「承知した。説明を続けて欲しい。」最後まで話を聞くことで目的の内容は明かされると確認したジョシュアが返事をし、リアムは説明を再開した。

「ありがとうございます。さて、この国に危険ドラッグを流通させている存在についてですが、最近の調査によって全てある一つの組織が関与していることが明らかになっています。その組織の名は【マルティム】。アルフレッド・オスカー・ビズバールという男が首領となって統制している薬物密売組織で既存の薬物のみならず、件のグレイに関してもこの組織が関与している疑いが非常に濃厚です。」

「マルティムか。大仰な名前が付けられたものだな。」ジョシュアが言う。

「はい。古代イスラエル王 ソロモンに由来する魔法書【レメゲトン】の第一部である【ゴエティア】に記載のある悪魔 バティンの別名です。警察の捜査によって逮捕された構成員と見られる人物たちの供述から判明しました。」リアムは説明を続ける。

「マルティムは2031年にミクロネシア連邦への入国を果たし、密売活動を開始したと見られています。既にお伝えした通り、彼らの狙いはこの国を訪れる観光客でした。しかし、近年では観光客だけでなく現地民に対する売買も横行していて、特に肉体労働に従事する作業員に対して『疲れを取る強壮剤がある』などと偽り拡散を図っているようです。」

「それだけ大きな規模で密売行為をしているにも関わらず、未だに組織の根絶が出来ていないことには理由があるのでしょうか?」フロリアンが質問をする。

「末端の売人や、薬物使用者の検挙数は増えているのですが、肝心な組織の中心に関しては存在場所なども含め特定が出来ていません。売買行為を実際に行う売人は組織から雇われただけの存在であり、組織の詳しい事情に関しては全く知らされていないことが理由として挙げられます。首領の名前が判明したのは、比較的内部の事情に詳しい人物の取り押さえに成功したからではあるのですが、その人物は警察へ知っていることを全て打ち明ける前に組織によって殺害されてしまいました。車での移送の最中に車両ごと爆破され絶命しています。爆破の実行犯は逮捕されましたが、多額の金銭と引き換えに依頼を受けただけで内部実情に関しては何も知らされていない人物でした。」


 リアムやマークתのメンバーが会議を進めている中、会議室で飛び交う悲痛な話の数々に対し、明らかに落ち込んだ様子のイベリスの姿をハワードは見て取った。

 その瞳に滲むのは悲しみ、不安、恐怖、憤り、やるせなさといった感情であろうか。どことなく心此処に在らずという風にも見える。

 彼女がリナリア島から連れ出されて1年余り。その間に昔と変わったことについては一通りの知識を得たに違いないが、現代で起きている悲惨な事件や事故、人間の持つ醜悪な側面が滲み出ているような話についてはおそらくはあまり聞かされていないに違いない。

 千年前と今と、変わった所と変わらない所を比較して思うところがあるのかもしれない。人の心の在り方というのは今も昔も大きく進化を遂げてきたわけではないからだ。

 人間は今でも相変わらず戦争をしているし、相変わらず他人の不幸を貪って金銭を得るような行為を行っている。それは千年は愚か、数千年より前から何も進化していないことを示しているに違いない。


 ハワードは視線を玲那斗の方へ向ける。この中で彼だけは隣で気持ちを沈めている彼女の様子に気付いているだろう。会議が始まって以降、何も発言をしていないのが良い証拠だ。

 会議の内容については一通り聞いているが、詳しい内容の確認については他のメンバーに任せ、自身はイベリスの様子を観察することに徹している。そんな印象だ。

 すると、こちらの視線に気付いたのだろうか。玲那斗が目を合わせた。そして静かに一度だけ首を縦に振ったのだ。

 考えていることはどうやらお見通しらしい。イベリスの様子については気にしなくても大丈夫という意味だろう。

 この事件の解決にはどうしても彼女の力が必要だ。そしてその為には彼らの力もまた必要である。そのことを改めて強く認識した。

 自身の考えでは、最終的にはイベリスがこの件の解決に関して重要な役割を担うに違いない。リナリアの時と同じように、奇跡に抗するには奇跡の力に頼るしかないのだから。

 彼女を巻き込んでしまうことが正しかったのかどうかはまだ分からない。しかし、彼女と彼らならきっと、この人智を越えた異常現象にも解決の “光” をもたらしてくれることだろう。


 どうしてそう感じるのかはわからなかったが、ハワードには不思議とその確信があった。


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