第28話 初めての悪意1
ローム郊外に広がる公園は一定の階級にのみ解放されていて、今日も少なくない人たちでにぎわっている。冬の長いロルテームでは太陽の光を浴びることが至上の悦びでもあるのだ。短い春と夏の期間、階級を問わず人々は外へ出て日差しを楽しむ。
アマッドの仕立てた馬車に乗って公園へとやってきたが、ギルフォードの姿は無かった。急用かな、とも思ったがそれなら彼の使いの者がやってきているはずだ。ということは予定が遅れているのかもしれない。
アマッドは気を聞かせて三人でのボート遊びを提案してくれたが、そろそろエルセもアマッドとの二人きりの空間に慣れたほうがいいだろう。
「わたしのことは気にしないで。ちかくのベンチに座って待っているわ」
「でも」
「アマッド、エルセのことをお願いね」
にこりと笑うとアマッドは少し逡巡したが「エルセのこと少し借りるよ」と言って彼女に向けて背を差し出す。
エルセは尚も迷うそぶりを見せるのでフューレアはいってらっしゃいとばかりに元気よく手を振った。
ボートはバランスを崩すと横転してしまうから、アマッドだってエルセにそうもおかしなことはしないだろう。いや、フューレアは彼が紳士だと信じている。二人きりになったからといって、こんなにも良い天気の青い空の下でエルセに襲い掛かったりはしないだろう。人口の湖の上には少なくないボートが浮かんでいるわけだし。
公園には運河も流れている。物を運ぶための幅広の運河ではなく、ボート遊びをするための運河だ。大きな運河の支流であり、人口の湖(池と呼んだ方がしっくりくる大きさなのだが)に注がれる運河沿いには等間隔にベンチが設えられている。
フューレアはギルフォードとの待ち合わせ場所からほど近いベンチに座ることにした。
のんびりとした良い天気でこの季節が一番に好きだと思う。北に位置するロルテームの夏は短い。冬になると日の出が遅くなり日の入りも格段に速くなる。夜の長いロルテームでは昔から室内を華やかだが、やはりこの季節の外は眩しくてきらきらと輝いている。
ロルテームに帰ってきて水のある風景をこんなにも身近に感じることに気が付いた。
目の前を流れる運河がフューレアにとっては日常なのだ。
冬になるとハレ湖からの風は冷たくて凍り付くようだけれど、雪が舞う湖も空を覆う分厚い雲も、それがフューレアのなかでは日常の一部になっている。
いま、故国へ帰れと言われたら困惑しかないだろう。リューベルン語はまだ話すことはできるが、語彙力に自信はない。ずっとロルテーム語で暮らしてきたから眠ったときに見る夢も心の中での考え事だってこの言語だ。
そのような環境になるくらいの長い年月をロルテームで過ごしてきた。とくに十代前半からの数年というのは大きい。
この国が好き。この街が好き。ここにはギルフォードがいる。
彼のことを思うと自然と頬がほころんでしまう。
この気持ちに嘘はつけない。彼の過剰な愛情表現に未だについていけないのに、言葉にしてくれる彼の気持ちがうそ偽りがないものだと信じられるから、フューレアの心は昨日よりも今日の方が余計に彼へと傾いていく。
「お母様は、わたしが結婚をすると喜んでくれる? わたしの花嫁姿を楽しみにしていてくれた?」
フューレアはふいに思い立って、いつも持ち歩いているメダイユを取り出した。
本当の母から持たされた、彼らと己を繋ぐ唯一のもの。フューレアがまだ赤ん坊の頃、洗礼式のときに一緒に作られたそれは金色の楕円形で神の使徒のひとりの横顔が彫られてある。裏にはフィウアレア・モテゲルニーの名前。
己の由来を示すただ一つの証だ。どこにいてもフューレアが両親の、モルテゲルニー家の娘であることを教えてくれる。
(あのとき、公国に残っていたら。わたしはギルフォードとは出会っていなかったのよね)
そう思うと不思議だった。あの時の両親の決断がなければフューレアの運命も大きく変わっていただろう。もしも、最後の公太子がゲルニー公国を継承していたら。きっとフューレアは今頃連邦内のどこかの王家の男性と結婚をしていたに違いない。モルテゲルニー家の血を引くどこぞの王家の人間と結婚をして、おそらくフューレアの産んだ子供が次の大公に就くことになっただろう。
それともすでに死んでいただろうか。あの国では暗殺も他人事ではない。
そうなるとギルフォードもフューレアではない誰かと出会って、恋に落ちていたかもしれない。
彼の蕩けた視線をフューレア以外の女性に向けているもう一つの未来を想像しただけで絶対に嫌だと心が瞬時に拒絶をする。ギルフォードの過剰な愛情表現にいつも振り回されているのに、あれを他の誰かに言うのだと想像するだけで独占欲が湧いてしまう。
どっちつかずな己が本当に腹立たしい。
それくらい彼のことを想っているのなら、さっさと覚悟を決めればいいのに。まだこの期に及んで躊躇ってしまうのだ。
もしもギルフォードの身に何かが起きてしまったら。
フューレアは手元のメダイユに視線を落とした。
「あら、こんなところに誰かと思ったら。あなた、ナフテハール男爵令嬢ではございませんこと?」
「え?」
考え事に没頭していたためすぐ近くに人がいることすら気が付かなかった。
いつの間にかフューレアの座るベンチのすぐ近くに仕立ての良いドレスに身を包んだ令嬢たちがいた。合計三人。全員がフューレアと同じ年頃の娘である。
フューレアは三人の少女の顔を眺めたが、心当たりがない。もっとも限られた人としか接してこなかったフューレアの顔はものすごく狭いのだが。全員色の濃さに程度はあるものの金色の髪を持っている。
「ナフテハール男爵令嬢ですわよね?」
「ええ、まあ」
フューレアが控えめに肯定すると、少女たちは一斉に色めき立った。
「では、あなたが恥知らずにもギルフォード・レーヴェン様に結婚を迫った、貰われ子ってことでいいのかしら?」
三人の真ん中に立つ、娘が高い声を出す。薄い紫色のドレスはレースがたっぷりとあしらわれていて、くるくると巻かれた金髪が帽子の下から垂れている。
「なっ……」
あまりの言われようにフューレアは言葉を失う。そもそもフューレアは面と向かって悪口を言われることに慣れていない。ごく限られた人間としか接してこなかったため直接的な悪意に免疫がないのだ。
「まあ、図星で反論もできないのね」
代表して縦ロールの少女がふふんと笑う。
「……名乗りもしない相手と話すことなんてないわ」
悪意にはひるんでしまうが、フューレアとて誇り高く育てられた元公国の姫君だ。相手のペースに飲まれるのは癪でどうにか言い返す。
「ふん。男爵家の娘風情がえらそうに。でもいいわ。名乗ってあげる。あなた、引きこもりで碌にこの国の貴族の名前も知らないのでしょう?」
そう前置きをした縦ロールの少女は胸を反らした。
「わたくしはヴィヴィアン・ローステッド。父は侯爵ですの。あなたとは違って由緒正しい侯爵家の血を受け継いだ正当なる娘よ」
ヴィヴィアンが最初に名乗り、他の二人もそれぞれ伯爵家の娘と子爵家の娘だと名乗った。自己紹介の順番から三人の少女たちの力関係が見てとれた。
名乗られてしまっては仕方がない。
フューレアは立ち上がり小さくひざを折って略式で礼をする。
「フューレア・ナフテハール。父はナフテハール男爵よ」
簡潔に名乗るとヴィヴィアンが「あら、リューベルン連邦の小汚い修道院からもらわれてきた養女って言葉が抜けているわよ」と嘲笑した。
「修道院は小汚くなんてなかったわ」
カチンときたフューレアは即座に反論した。
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