第5話 運河巡り2

「それでね。ダガスランドの港にはときおり大きなサメが水揚げされるのですって。わたし、とっても大きな顎骨標本を見せてもらったのよ。大学で生物学を研究している教授に招待してもらったの」


 それからフューレアはアルメート大陸で見た珍しい動植物の話をした。森に現れる大きな狼や牛の仲間の動物、それから水辺に棲むビーバー。


「絵姿が手紙の中に入っていたね」

「そうなの! 実物を遠眼鏡越しに見たのだけれど、とっても可愛かったわ」


 観光用のボートだが、船頭は何かを喋るわけでもなくボートを漕ぐのみだ。ギルフォードがあらかじめそのように言い含めていたのかもしれない。幅の広い運河では途中何艘ものボートとすれ違う。市民の足としても利用されている運河には辻馬車と同じように駄賃を払えば目的地まで運んでくれるボート屋がいくつもあるのだ。


 水の街とも言われるが通常の道も運河に並走して作られている。

 この時期は街路樹の緑が新緑に芽吹き、一番目に鮮やかな頃合い。


「アルメート大陸から戻ってきてからはこちらの大陸のいろいろな国を巡ったわね。主に南の方。本当はもっと南下をしてジュナーガル帝国のほうにも行ってみたかったんだけど。さすがにそれは危険だから駄目だって言われちゃったのよね」


 はるか南の帝国にはこの地とはまるで違うという。一年を通して熱く、茶の産地でもあり良質な宝石が多く取れる。


「それは……私も賛成はしないな。入植地は男ばかりだというしね」

「いつか行ってみたいわ」


 フューレアはまだ見ぬ世界へ想いを馳せた。

 それは幼いころ別れた母の想いでもあった。別れる前、本当の母はフューレアに言った。あなたにはたくさんの可能性があるの。たくさん、たくさん色々なことを経験することができる。あなたは自由に生きなさい。そう母は望んだ。


「そのときは私が同行をするよ」

「あなた、忙しいでしょう?」


 なにしろギルフォードはロルテームの名門公爵家の嫡男だ。将来は爵位を継ぐ立場だし、現在も公爵の後を継ぐべく宮殿で政治の仕事に携わっている。


「フューは私を働き詰めにするつもり?」

「たしかに適度な休暇は必要ね」


 頷くとギルフォードがそっとフューレアの手を取った。


 きょとんとするとギルフォードは薄青の瞳をこちらへ向ける。懐かしい、優しい眼差しなのに、少しだけ昔の彼とは違うと感じたのはどうしてだろう。


「フュー、本当によく帰ってきてくれたね。二年間、ずっときみを待っていたんだ」

「もう。大げさね。二年なんてあっという間だったわ」


 旅に出て、目に飛び込んでくるものすべてが鮮やかで。

 気が付くと二年も経過していた。過ぎてしまうととても早くて、帰ってきた今となってはあれは全部夢だったのではないかと思うほど。


「きみにとってはそうだろうね。けれど、待っているこちらとしては毎日が一年のごとく長く感じた」


 ギルフォードはフューレアの手を持ち上げて、おもむろに彼の口元へと持っていく。手袋越しに口づけを施されて、胸がどぎまぎした。ただのあいさつ代わりだと思うのに、妙に意識をしてしまうのはどうしてだろう。


 彼がすっかり大人の男性になってしまったからだろうか。

 そういえば二年ぶりに再会をしたギルフォードはフューレアが覚えていた頃の彼よりもどこか顔立ちに鋭さが増して、元の美貌に磨きがかかったかもしれない。


 そんなことを頭に浮かべれば隣という気安い距離がなぜだかむず痒くなった。

 どうして大好きなギルフォードにこんなことを感じるのだろう。


「だからこうしてきみが帰ってきてくれて嬉しい」

「わたしにとってロームは第二の故郷だもの。一度は帰ってこようと思っていたのよ」


「一度は? ということはまたどこかへ行くつもり?」


「うーん……。今年の冬にまたカルーニャへ行こうかっていう話はお母様たちとしていたけれど。冬でもとっても温かいのよ。あと、街路樹がオレンジの樹なの。道にね、たくさんのオレンジが生っているのよ。しかもオレンジジュースがとっても美味しいの!」


 カルーニャの避寒地としても有名なリゾート地でこの冬を過ごしたフューレアはすっかりその魅力にやられてしまった。夜は冷え込むが、日中はとても暖かいのだ。それに空の青色が濃くて美しい。ぽかぽかと温かくて、毎日灰色の空模様のロームとは大違い。あれは確かに虜になってしまい、大陸中のお金持ちが集まるのも無理はない。


「オレンジが美味しかったのはわかった。じゃあ本格的な移住はいまのところないんだね」

「そうね。しばらくはロームでのんびり……ううん、執筆活動に勤しむわ。実は昨日も書いていたのよ」


「執筆?」

「そうなの!」


 フューレアは元気に顔を上下に動かした。是非ともギルフォードにも計画を聞いてもらいたい。


「二年間も世界旅行に行ってきたのよ。これはもう、絶対に旅行記を出版するしかないと思うの」

「……うん?」


 ギルフォードはフューレアの手を持ったまま固まった。


「女性でも冒険が出来るっていうのを発信するのもよいことなんじゃないかなって。だからギルフォードに送った手紙を一度見せてほしいの。あそこにしか書いていないこととかあったような気がするのよね」


 帰国したのだから本格的に活動を始めなければならない。日記と旅行記はまるで別物で、エルセの助言によれば、全部を書ききるのではなくてまずは冒頭部分をまとめて、それを新聞社に持っていくとよいのだという。新聞掲載となれば連載方式になるわけだし、どこの国のどのようなエピソードを書くのかは実際に連載を始めてから担当編集と決めればよいのでは、とのこと。さすがはエルセだ。とっても頼りになる。


 そういうわけでフューレアは旅の冒頭部分を何度も書き直してきた。

 五度くらい書き直してようやく自分なりの文章スタイルがわかってきた。昨日もペンが乗ってしまい、わりと遅くまで夢中になっていた。


「というわけで、女流作家の誕生よ!」


 フューレアが高らかに宣言をすると、ギルフォードは「今度、きみのために新しいつけペンを贈るよ」と応援してくれた。

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