第3話 帰国をしました2

「え……?」


 夫人は穏やかな口調でさらりと提案をした。


「あなたはナフテハール男爵家の娘なのだし、そうもおかしいことではないでしょう? デビューだけして、あとはのんびり好きに過ごせばいいわ。フューレアももう少しロームでお友達をつくったほうがいいと思うの」


「お友達ならエルセがいるもの」

「それはそうだけど……。彼女はあなたの付添人兼話し相手という立場ですからね」


 夫人はちらりと同席するエルセに視線をやった。

 エルセは先ほどから会話には口をはさまず、食後のお茶に口をつけて話の成り行きを見守っている。


「あなた、社交自体は嫌いではないでしょう?」

「それは……まあ」


 むしろ知らない土地だからこそ、エルセと一緒にのりのりでご令嬢を演じていた。あれは楽しかった。歌劇で見た役を参考に二人で互いの役どころを作り合ったり。あれは一種の旅の醍醐味だった。


「あなた、ハレ湖のボートレース観たいって言っていたじゃない?」

「うぅ……そうだった」


 毎年春の訪れとともに行われるハレ湖のボートレース。国民が自国の海軍に親しみをもつようにという趣旨で始められたレースではあるが、今では社交場としてもすっかりと定着をした。この日は階級関係なく、ボートレースで盛り上がるのだ。

男性たちの中には賭けをする者もいるという。ちなみに庶民たちはもっと大っぴらに賭けに興じるという。優勝したチームは一年間ロームで人気者となり、ひとたび街へ行けば酒場から娼館まで最大のもてなしを受けることが出来る。


「ロームでも変に遠慮をすることはないのよ」

「それは……そうかもしれないけれど」


 それでも、フューレアは色々なことを深く考えてしまうのだ。それに、社交デビューを果たしたら今度は結婚の話が付きまとってしまう。


 この時代、女性は適齢期になればだれかよい男性と結婚をすることが常識とされている。必然的に人の集まる場所に顔を出せば話題はおのずと偏ってしまう。


「あまり深く考えないで頂戴。まずは、そうねえ。ボートレース見学を楽しみましょう。賑やかよ」

「……はい」


 結局フューレアは消極的ではあったが、母の言葉に頷いた。

 彼女がフューレアの将来を心配してくれているのは分かっている。


 男爵夫人はフューレアの返事に柔らかな顔を返してから、夫を促した。夫婦そろって席を立ち、サロンを後にした。部屋にはフューレアとエルセが取り残された。 給仕が食後のコーヒーを運んできた。


「わたしまで毎日一緒に食事をとらせてもらっていいのかしら」


 二人きりになった途端に、エルセは少し難しい顔をつくった。


「どうして?」

「先ほども男爵夫人がおっしゃっていた通り、わたしはあくまでフューレア様の話し相手兼付添人として雇われているわけなので。一応立ち位置としては雇われ人なのに、好待遇過ぎるんですよね」


「あら、話し相手もいない食事の席なんてつまらないだけだわ」


 エルセは二年前、フューレアの話し相手として雇われた娘だ。両親の世界旅行にくっついていくにあたり、男爵が雇い入れた話し相手。彼女の父はナフテハール男爵家が経営する海運会社の役員でもある。幼いころから数か国語を学び物怖じしない性格ということで、フューレアとの相性を鑑みて選ばれた相手だった。同じ年頃のエルセがいたからこそ二年間の旅はとても楽しかった。


「エルセはわたしの話し相手辞めたい? 辞めて結婚相手探したい?」


 彼女はこの三月で十九歳になったばかりだ。この時代良家の娘は十七歳の頃には社交デビューを果たし、結婚相手を探すための努力をする。古くからの家の娘の中には十代中頃には婚約が整っている者もいるし、デビュー一年目で婚約をする者もまだ多い。


 要するに、フューレアは世間では立派な行き遅れなのだ。もちろん男爵夫妻に雇われて二年間の世界旅行について行ったエルセも立派な行き遅れの部類に入る。


「わたしは別に急いで結婚するつもりはないですよ。それは二年前にもナフテハール男爵との面談の時にもお伝えしましたし」


 エルセはさっぱりした声できっぱりと言った。フューレアの付添人兼話し相手をするということは若い娘の貴重な二年間を拘束するということでもある。その点エルセは強い結婚願望を持っているわけでもなく、こざっぱりとした性格はフューレアともよく合った。


「父から話を聞いたときに立候補したのはわたしですから。父は、わたしを役人だか商人だかに嫁がせたいみたいですけどね。別に、そこまで急いでもいないですし」

「そう」


 エルセの回答にフューレアはホッとした。まだエルセと一緒にいられるとなって嬉しい。


「それよりも、フューレア様の方こそどうするおつもりですか?」

「どうするって?」

「フューレア様、もうすぐ二十歳ですよね。世間では立派な行き遅れですよ」

「いいのよ。わたしは結婚するつもりないもの」


 フューレアは即答した。


 これはフューレアが養女に来たときから決意していることだった。己の出自と事情は特殊すぎる。その事情のお陰でフューレアは上流階級の人々が集まる場所に出るのを避けてきた。


 周りの人々は大丈夫だ、心配のしすぎだと言うのだが、フューレアはどうしてもいろいろなことを考えてしまう。逆に旅行中の方が自然に振舞えたくらい。旅は恥のかき捨てとはよく言ったものだ。


「その話は何回も聞きましたけど」


「あとね。もう一つあるのよ」

「何がです?」


「やりたいこと。実はね、旅行記を出版したいの!」


 フューレアは高らかに宣言をした。


「……へえぇ」


「あ。本気にしていないわね。いいこと、せっかく二年も旅行に行ったのよ。これからの時代は女性の手記も流行ると思うのよ。わたしが見聞きしたもの、体験したことを書いて新聞の連載にしてもらうの。とってもいい案だと思わない?」


「それで毎日日記をつけていたんですか」

「まあね。旅に出た時から考えていたことよ」


 二年間にわたる壮大な計画だ。フューレアはえへんと胸を張った。


「というわけで、実は社交界どころじゃないのよ。日記を元に原稿を書かないといけないし、新聞社への原稿の持ち込みっていうものをしてみたいの。ねえ、エルセ付き合って」

「だから旅行中に知り合った自称作家とやらの話をやたらと熱心に聞いていたわけですね」


 エルセが目を半眼にする。


「だって、わたしもやってみたいって思ったのだもの」


 雇われた話し相手とお屋敷のお嬢様、という立ち位置ではなく言いたいことをぽんぽんと言い合う友人の様相で、その後も二人は楽しくおしゃべりに興じた。

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