第2話 帰国をしました1
「ニシンの酢漬けを食べると、ああロルテームに戻ってきたなあってしみじみ思うわ」
朝食の席で出されたそれを一口食べたフューレアはしみじみと呟いた。
季節は春。北国ロルテームにもようやく花々が綻び、青い空の下、小鳥が軽やかに歌う季節がやって来た。
「よいことですよ。あなたもロルテームに馴染んだ証拠ね。初めて食べた時のことをよく覚えていますよ」
「ふふ。ナニコレ絶対に無理! って思ったのよね。声にでも出ていたかしら」
元々フューレアは海のない国で生まれ育った。そのため、初めてこの国の郷土料理を食べた時顔を青くしたものだ。何しろ生の魚だ。酢に漬け込んであるとはいえ独特の青臭さが口の中に広がって、あのときは本気で呻いた。
「大人になれば味覚が変わるというからなぁ。私も若いころは麦酒の旨さなどまったく分からなかったものだよ」
確かにそういうことなのかもしれない。フューレアがロルテームに移住したのは十三歳の頃のことだった。それから数年経ち、今年の八月で二十歳になる。月日の流れは速いものだ。
ニシンの酢漬けは海に面したこの国、ロルテームでは広く食べられる保存食である。これを薄く切ったパンの上に乗せて食べるのがごく一般的なのだ。他にもチーズやハム、野菜なども乗せて食べるのだが。
「けれど、やっぱりロームの食事が一番口に馴染むわねぇ。フューレアではないけれど、ニシンを食べて、ああ帰ってきたわって思ったもの」
男爵夫人がしみじみとした声を出す。
「酢漬けのニシンならアルメート共和国でも散々食べたじゃないか」
「たしかにそうですけどね。あそこにはロルテームからの移民も多いですから。わたしが言いたいのは、このお屋敷の味ってことですよ」
「そんなに違いがあるものかねぇ」
「まーぁ。あなたったら。そんな大雑把な舌を持っているなんて知れたら料理長が泣きますよ」
夫婦は娘のフューレアそっちのけで言い合いを始めた。長年連れ添った者同士、間合いが絶妙だ。四人の子供を持つ夫婦は新婚当時の熱々さこそ無いが、互いにぽんぽんと言いたいことを言う仲の良い夫婦だ。
どうして、こんな会話をしているのかというと、昨日二年間の周遊旅行から帰国したばかりだからだ。
息子に事業を引き継ぎ、引退ついでに物見遊山の旅に出かけることにしたナフテハール男爵がフューレアの父である。娘と妻は彼に付き添い、各国をのんびり巡った。
気ままな旅行生活は刺激に満ちていて、見るものすべてが新鮮で楽しかった。
だから、本当はこの国に帰ることに少しだけ不安があった。
あのままずっと、どこか別の土地で暮らしたい。そんな思いが胸の中に浮かび上がることもあった。
(でも……、お母様もお父様もロルテームを恋しがっていたもの。一度は帰国しないといけないわよね)
もしも、自分が彼らの本当の娘だったら。わがままを言って自分だけ別の国に残らせてもらうこともできただろう。
でも、フューレアはナフテハール家の養女で、彼らにはたくさんよくしてもらっていた。
だから、個人的な思いで二人を振り回すことは忍びない。
「帰国して早々だけれど、ギルフォード様から手紙が届いていたわよ。朝一番に使いの者が来たのですって。昨日も港まで迎えに来ていたし、よほどあなたに会いたかったのねえ」
「ん、あとで手紙を読むわね。ギルフォードってば過保護なのよ」
「まあ」
ギルフォードというのはフューレアの年上の友人である。十三歳でこの国に到着して、初めてできた友人、というには色々な感情が混じっているが、おそらく幼なじみとか友人という言葉がしっくりくる相手である。
レーヴェン公爵家の嫡男で、ロルテーム人らしく金髪に空色の瞳を持った青年だ。フューレアよりも六歳年上で、次の誕生日で二十六歳になる。
昔から何かと世話を焼いてくれる優しいギルフォードはしかし、少々心配性でもある。二年間の旅行に出かけると告げた時も、彼はあれやこれや忠告めいたことばかり言ってきた。
少々口うるさいところはあるが、フューレアの出自を知っている彼は心を許せる存在でもある。
「ギルフォード様に会う前に、ドレスを新調しなければね。手持ちは旅行着ばかりで、屋敷に残してあるドレスも流行遅れになっているでしょうし」
「え、ええ。そうね。ではお言葉に甘えて新調させてもらうわ」
「遠慮することはない。いつも言っているが、ドレスも宝石も気前よく買って構わないんだよ」
「そうですよ。この人は、お金儲けするしか能がないんだから」
両親はフューレアを甘やかしてくれる。男爵家の娘として体面を保つくらいの装いはしているつもりだ。過度なドレスは必要ない。そもそも、社交デビューがまだなのだ。
「そうだわ。フューレアも今年は社交デビューすることを考えたらどうかしら?」
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