最終話
会長の一言に「ばっちり!」と答えられる人は誰もいない。その後原稿の話は一切出ないまま、解散となった。
散り散りになると、私は今までなにをしていたのだろうと思った。とても、今すぐ家に帰れるような心境ではなかった。あの中庭は、久々の登校日で人であふれ、とても寄りつける状況ではない。
久しぶりに図書室に顔を出してみると、あの人の姿はそこにはなかった。いてもしゃくに障っただろうけど、いなくても腹立たしい。しばらくの間は、不本意ながらもこんな日々が続くのだろう。
「あら、珍しい。最近全然来なかったじゃないの」
出ていこうとすると、先生が現れた。
「夏休みだったんで」
「夏休み前だって、ここんとこずっと来てなかったじゃない」
そんなことすっかり忘れているだろうと思っていたのに、しっかり覚えらえていた。下手に常連になってしまうとめんどうなものだ。
「今度はなに借りるの? 源氏物語、は長いわよね、枕草子とか?」
「古典は、もういいんです。私は今、漫画が読みたいんです」
「古典の漫画もあるわよ」
貸し出しの実績を上げる必要があるのか、古典の漫画を強制的に借りさせられそうになり、仕方ないので代わりにもっと重量の軽い小説の文庫本を何冊か借りた。借りてしまったということは、いつか返しにこないといけないのだ。草野君が来そうもない日を選ばなければいけないのだった。
まだ家に帰る気になれず、珍しく飲食店Mに入り、百円のコーヒーと、百円のアップルパイを頼んだ。薄幸の高校生には、これが限界だ。
借りてきた文庫本をぱらぱら眺めて、でも今は本の世界に入りこむ気にはなれず、ノートを取り出した。私のお気に入りの、B5サイズで、罫線の間隔がCのものだ。細かい字で買いても書いてもページがなくならないので、節約家の私の性に合っているのだ。
しかし、手を動かしてみて、出てきた文字が、あの「起きもせず」だったので慌てて手を止めてしまった。それ以上に気になる言葉は、今日の私にはないようだった。
この歌を詠んだ人の心境は、そういう対象の人とまずどうにかこうにか会う約束を取り付けて、二人きりで会って、ある程度親密になって、別れて一人になって、たった数時間前までは一緒だったのに、という状況を経て初めて想像できることだった。そういう一連の流れはとうとう私たちには訪れなかったのだから、やはり私は一生この歌についてわかることはないのだろう。彼以外の人に似たり寄ったりの感情を抱くことになっても、そのときはもはや、この歌は私にとっては過去のできごとであり、古いカードは新しい人に対しては使えないのだ。
家だとばくばく食べてしまうであろう小さいアップルパイも、ここではなかなか、そんなにすぐには食べられない。なくなったらここから出ないといけないような気分になってしまう。もっとここでだらだらとしていなければ。まだまだ家に帰りたい気分ではない。
いい歌だったのに、けっきょくこの歌は私の人生とはあまり縁がなかったのだ。私は今後の人生でも、この歌を見る度に、この始まりもしなかったなにかのことを思い出して生きていくのだろう。
そんなことを面白可笑しくさらっと書いてみたらなにやら見栄えのする原稿が出せるのかもしれないが、私はそこまでしたくはなかった。けっきょく、残りの数日間で土佐日記に出てくる和歌を参考にして、こんな歌を作った。
思いやる心は深し海よりも文してもなお伝わざりけり
一応文という言葉が入っているので、文の甲子園に使えそうだった。
元の歌は、こうだ。
思いやる心は海を渡れども文しなければ知らぬやあるらむ
海の向こうに残してきた人たちのことを思う心は海を渡ってしまうほど強いけれど、手紙を書くわけではないので相手がこの思いを知ることはないだろう、という意味のようだ。これは現代の言葉と似ていることもあり、特に訳を見なくても意味をとれた数少ない歌の一つだった。
海なんてないし、海どころか同じ校内にいるんだから、こんな状況、あり得ない。むしろ海の向こうの人だったら諦めがつくのに、なまじ近くをうろちょろしてるからたまったもんじゃない。――どことなくそんな思いが滲んでしまったように思えなくもないが、そんな短歌にとってつけたような文章をつけて、無理やり原稿用紙五枚に水増ししたものを提出したら、なんと三名の候補者のうちの一人に選ばれてしまった。そんな私が本当に考えていることなど誰も知らないまま、「なんかいい短歌だね」「夏休みに海へ行ったの?」などと訊かれたが、この短歌が生まれたいきさつを知ったらみんなどう思ったのだろう。文の甲子園は、思った通り予選落ちだった。
この数か月間は、一体なんだったのだろう。
文の甲子園騒ぎがなかったら、私は図書館で古典の本を借りることもなく、草野君と言葉を交わすこともなく、あの歌を知ることもなく、漫画漬けの夏休みを送ることもなく、自分で短歌を作ろうとしてみることもなく、そうした私のこの短い十七歳の夏は、まったく違うものになっていたことだろう。いずれにせよ、取るに足らない平凡なものであったことは確かだろうけれど。
本の貸し出しを行う場所は、今でも私を引きつけて止まない。
近所の市営図書館へ行って、古典の本が置いてあるコーナーの近くを通りがかると、今でもふとあんなことや、そんなことを、思い出すのだった。
起きもせず 高田 朔実 @urupicha
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