第14話 三歩進んで四歩下がった
「撫川…!」
女性たちから離れて久我は極彩色の海原を探し回ったが、その姿が見当たらない。
バーカウンターに視線を走らせたがその姿はなく、うっかりVIPルームに立ち入ろうとしてVIP担当のスタッフに追い払われた。
撫川と間違えた女性にナンパと思われ、不審な動きに目をつけられて今度はフロアスタッフに睨まれた。
持っていたはずの酒のグラスは何処かに置き忘れてしまったらしい。
テキーラとその場の雰囲気に呑まれて久我は頭がクラクラしていた。
熱気に押し出されるように、久我はトイレの通路の前に出ていた。
気づけばそこだけフロアの空気が違う。壁にもたれて抱き合う人影や、観葉植物の陰で口付ける男女。咄嗟に久我は目のやり場に困った。
だが久我がその場から立ち去ろうとした時、奥の壁でキスをしている二人に視線が縫いとめられた。
「…なつ…かわ…?」
トロリとした眼差しが久我を見た。ゾクリとした感覚と同時に、それを上回る程の何とも例えようのない怒りと正反対の安堵と、様々な感情が無い混ぜになって一気に噴出した。
「オイ!何やってるんだ!」
久我は撫川に覆い被さるような男の肩を掴んで思い切りそいつを引き剥がした。
「…なにするの?せっかくイイとこだったのにぃ〜」
文句を垂れてくる撫川の目は据わり、呂律もおかしい。
「何してんだよ!何杯呑まされたんだ!」
「呑まされた?…あははっ、呑まされたんじゃなくて、の・ん・だ・の!」
久我の肩を叩こうとして撫川はフラリと久我に凭れて来た。
「おい!撫川!」
撫川を支えながら久我は怒りもあらわに、そこにいるだろう男に振り返った。
「アンタもアンタだ!!こんなになるまで呑ませて…っ、」
だが、すでに男はその場から立ち去った後だった。久我はやり場のない怒りを震える拳と共に腹に収めた。
洗面台の蛇口から勢いよく水が流されている。襟首を掴まれた撫川の頭を容赦なく久我はそこへと突っ込んだ。
「ったく、馴れた遊びなんだろうが何やってんだよ!今日はオレを連れてきたんだろう?!一人ではしゃぐな!
こんな事してるとヤクザの親分に半殺しにされるんじゃないのか?!」
久我は怒りに任せて口が滑ったと思ったが遅かった。頭から水を滴らせた撫川が洗面台から顔を上げた。
「どうせ僕のことなんてヤクザのイロだと思ってるんだろう?!何か悪いか!何も知らないくせに!」
そう悪態をつかれ、撫川が改めて人のものだと自覚させられる
感情の引っ込みがつかない久我の口が、またしても余計なことを口走った。
「ヤクザのイロには貞操観念なんて無くても良いって言うのかよ!さっきまでは可愛げのあるやつだと思ってたオレがバカだった」
その言葉を聞いた途端、撫川は見透かしたように嘲笑めいた。
「…なんだ、そうか。ヤキモチ?それなら早く言ってくれたら良かったのに。
一発やらせろって!」
撫川にしてもこんな事を言おうと思っていた訳ではなかった。
ごめんと謝ろうと思っていたのに、勝手にこんな悪態が口をついてしまったのだ。
パン!
久我の平手が撫川の頬に飛んでいた。
図星をつかれた上に撫川に対する自分の気持ちを侮辱され、加えて彼に対しての後ろめたさも手伝って咄嗟に手が出てしまったのだ。
酔っていた撫川は、そのままよろけてトイレの床に尻餅をついてしまった。
「すまん、殴るつもりじゃ、」
久我が我に帰って慌てて手を差し出したが、撫川はその手を払い除けた。
「良いよ、殴られても仕方ない。尻軽と思われてもしょうがない。僕はね、刺青者が好きなんだ。あの匂いを嗅ぐとそれだけで堪らなくなるんだ。無理矢理キスされたんじゃない。僕がキスしたかったんだ」
それを聞かされてどうしろと言うのか。あの男の腕から覗いた鮮やかなトライバルタトゥーが脳裏にチラついた。
気まずい沈黙だけが流れた。
撫川は何処か投げやりに久我の目には映った。
「なあ、お前はカオルの死を悼み、花の死を悲しむのに、自分を大事にしようとは思わないんだな」
「僕は自分が大切だなんて感じたことはないよ」
そんな事を即答する撫川が悲しかった。
「お前が死んだら悲しむ人がいるだろう?」
「ーー周吾さんの事?」
「…そうだ」
「あのさ、勘違いしてるみたいだけど僕、別に周吾さんの情夫なんかじゃ無いから」
「…は?」
久我は耳を疑った。
今の今までヤクザのイロだと吹き込まれて来たのに全てを覆すような衝撃的な言葉だった。
「じゃあ、アイツは…お前の何なんだ…!」
撫川は悩むような素振りを見せ、少しの沈黙の後にこう言ったのだ。
「…セフレ?」
「セフレぇ?!ヤクザのセフレだと?!そんなのあるか!ふざけるな!」
開いた口が塞がらないとはこの事だ。久我の唇が戦慄いていた。
「ふざけて無いよ。本当にそうなんだもの。恋人でも無いしお互いに束縛し合う仲でも無い。身体だけ。そう言うのセフレって言うんでしょ?」
悪びれもせずにケロリとした表情を撫川は見せた。
そんなのはなお悪い。
「セフレ」なんて軽い言葉なのだろう。情と言う漢字一文字あるだけでも情夫の方がまだマシに思える。
撫川に何か言い返す言葉を久我が探していた時だ。
トイレの窓からけたたましくパトカーのサイレンの音が飛び込んできた。
久我は慌てて窓へと飛びついた。
パトカー二台がこのクラブのビルの真下に止まったのが見えた。
目を凝らすと降りてくる捜査員の中には瀬尾の姿もある。
「お前も一緒に来い!」
「えっ?、なんで僕…?」
「一人にしとくと危なっかしいからだよ!」
手首を掴んで瀬尾の元へと走り出そうとするが、撫川の足が縺れて上手く走れない。久我はそのままひょいと撫川を肩に担いで走り出した。
「え?!嘘だろう!?ちょっと!久我さん!!」
外の物々しさに気づいたクラブの客たちが出入り口に殺到していたが、警察が誰一人外へと出さない構えだ。
そこを掻き分けながら久我は瀬尾の元へと近づいた。
ようやく撫川を肩から下ろし、久我が瀬尾を呼び止めた。
「瀬尾さん!」
「久我?」
驚いた顔の瀬尾は久我の隣にいる撫川を一瞥して眉を顰める。
「お前ら何してるんだこんな所で!…それに久我!お前は謹慎食らってた筈だろう!」
「あのっ…、僕が誘ったんです!今回の事で世話になったお礼に」
久我を庇うように前に進み出た撫川の肩を、まるで黙れと言うように引き戻した久我が恐る恐る瀬尾に尋ねた。
「何が…あったんですか…」
瀬尾の猛禽類の様な目が久我を正面に捉えてこう言った。
「今度はヤクザの背中じゃないぞ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます