第10話 刺青
そぼ降る雨の街並みは、黒いカーテンを敷いたように全てを重苦しく包んでいるようだった。
連なる団地の一角、締め切ったカーテンの僅かな隙間から溢れた灯りが、濡れた地面に伸びていた。
灯りの漏れているその部屋では、背を丸めた男が一心不乱にまだ何も知らない無垢な肌へと刺青針を突き立てている。
うつ伏せに寝かされた少年の額には玉の汗。口にはタオルを咥え、切なげに眉根を寄せては呻き声すら立てずに肌を何度も虐める痛みに耐えていた。
「辛いか?」
彫り師の男が言葉少なにその顔を横目で見遣る。
そんな男に少年は黙って首を横に振り、うつ伏せた額を硬い枕の上に埋めた。
肩甲骨の下に針が入れられると、思わずくぐもったうめき声が少年の口から漏れ出し、その背が弓なりに微かにしなった。
「う、ぅ…ッ」
強くなる雨音が室内の唯一の物音だった。
まるで何かの儀式のように、彫り師と少年との無言の対話が続いている。
湿った空気の中に混じる血と染料の匂い。
懐かしい匂い。
愛しい人の匂い。
「こらっ!大人しくしろ!暴れると傷口がデカくなるぞ!」
撫川はハッとした。
明け方、久しぶりにあの夢を見ていると、医務室のドアが突然開いた。
酩酊した上半身裸の男が警察官に連れられてやって来た。
目を凝らすと、肩口の切り傷にタオルを当てた男が隣の寝台に座るのが見えた。直ぐにカーテンが撫川と隣のベッドの間を隔てるように閉められたが、撫川はふと、あの懐かしい匂いを嗅いだ気がした。
分かる者だけが知るあの香り。
きっと、この男は刺青者だ。
その香りは撫川の閉じた痛みを揺り起こした。
「…なんで僕を置いていったんだよ…悠さん…」
撫川の声無き声が、暗く澄んだ夜のしじまに染み入るように溶けて行った。
「何ぃ?カチコミだと?!何処の組のモンだ」
「いえ、カチコミじゃねえんで」
「じゃあ何だ!」
「が、ガサ入れ…?」
とあるシティホテルの一室、女が寝転がっているベッドの上で鹿島は携帯の向こうではっきりしない子分の連絡をイラつきながら聞いていた。
「ガサ入れ?…とは何だ!はっきりしろ!カチコミなのか!ガサなのか!」
「それが…っ、ゴマキの野郎が暴れて騒いでんですよ!倉庫を見せろとか何とかほざいてます!」
「倉庫だぁ?ゴマキ一人がか?!それじゃあガサ入れって訳じゃねえのか!」
「はあ、それが…ぐおっ!テメェ!殺すぞ!!」
携帯の向こうで激しく争う物音と、苦戦している子分の叫びに鹿島周吾は眉間の皺が深くなる。
「ったく!!なんだってんだ!俺は一日も事務所を留守出に来んのか!いいか!お前ら死んでもチャカは使うなよ!分かったな!!」
あんなのでもゴマキは警官だ。そんな奴を相手に拳銃をぶっ放したとあれば、いくら鹿島周吾と言えど収拾はつか無いだろう。
本部のオヤジどもに鹿島興業の子分二人を殺された不始末をネタに嫌味を言われ、たっぷりと小言を貰ったばかりで機嫌の悪かった鹿島は、子分からのしどろもどろな通話をぶった切ると、すかさず違う部屋に待機している若衆へと電話をかけた。
「車直ぐ回せ!帰るぞ!何だか事務所がワケ分からねえ!」
名残惜しそうに纏わりつく女を邪険にあしらい、裸に白いホテルのガウンを羽織っただけと言う姿で鹿島は猛然と部屋を出て行った。
後藤と久我の両名の行動は明らかに職務規定に反していた。
普通なら内偵の後、捜査令状を取ってのガサ入れの筈が中二つすっ
飛ばして強引に、しかも単独での強行捜査だった。
それは捜査の範疇ではなく、もはやヤクザ事務所へのカチコミと何ら変わらない。
しかも当然なのだが、ヤクザの事務所で騒ぎとあっては、近隣の人達が警察を呼ぶのは至極当然。何台ものパトカーが赤色灯を回して鹿島興業に集まっていた。
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