第5話 水底の生き物

結局のところ、刺青皮剥事件は、久我達の努力も虚しく容疑者の一人も上がらなかった。殺人事件には時効が無い。書類送検も出来ずに捜査はそのまま続行となり、いよいよその前途にはカオスが口を開けて待っている様で、捜査に当たっている者たちは一様に長くなると覚悟した。

分かったことといえば、殺されて二十時間が経っていること。

防犯カメラに映る怪しい人間たちを当たっても皆犯行当時アリバイがあり殺す動機も無い事。

二つの殺人は手口が同じでいずれも鋭い手術用のナイフで、鮮やかに背中の刺青は持ち去られていた事。

最初に殺された男は石破組の若衆。二番目に殺された男は鹿島興業の舎弟。二人の共通点はヤクザである事と背中の刺青だけだった。

鹿島周吾の言っていた絵画のバイヤーと言う人間は結局のところ見つからず、久我がTシャツの男を取り逃していた事が悔やまれた。

鹿島興業も石破組も両方のヤクザがその犯人を追っている事を鑑みれば、両者の対立が原因では無いだろう。

久我はこの連続殺人事件が起きてからと言うもの、ろくろく休みを取っていなかった。無論、シフトでは休みがある事になってはいたが、事件のことが気になって休む気にはなれなかったのだ。だが、このご時世、労働時間に煩いのは官も民も同じだ。業を煮やした瀬尾にいい加減休むようにと命令されてしまったのだ。

久我は一人暮らしで独身。伴侶も居なけりゃ付き合っている彼女もいない。そんな男がいきなり休みを貰ったとてやる事などそうそう見つかりはしない。

体育会系の久我としては、プールで泳ぐかジムにでも行くかと考え、久方ぶりにプールを選んだのだ。

秋という季節柄なのか、たまたまなのか幾分プールは空いていた。

人気のない更衣室は無機質なロッカーが整然と並び、ごく小さな音でアンビエントな曲が流れている。それが返って不気味さを助長しているように思われた。

簡単にシャワーを浴びる久我の体躯は日頃からの鍛錬が伺われる。普段はスーツに隠されて見えない割れたシックスパット。厚い胸板。見事な背筋や上腕筋。程よく均整の取れたセクシーな肉体美だった。

プールは全長50m。街中で見るよりその距離は長く見え、広々とした美しいこのプールを、二人の男がのんびりと往復を繰り返している。

水の匂いやエコーのかかった周囲の音が耳に心地良く、身体を動かしながら久我は早くも気の晴れる思いだった。

久我は爪先からゆっくりと水に沈んだ。筋肉は脂肪よりも重い。久我の水底に沈もうとする身体に脚や腕が浮力と推進力を与え、久我は滑るように泳ぎ出した。

緩やかなクロールでプールの中程まで来た時だ。水底に奇妙な塊が沈んでいる事に気がついた。良く見るとそれは人だ。膝を抱えるように沈んでいる。溺れたのか?驚いた久我は潜水してその沈んだ男の元へと泳いで行く。

大丈夫か?と男のその腕を掴むと、その男は慌てた様子もなくゆっくりと水中で目を開けた。髪がふわふわと水に遊び、まるで水中に暮らす生き物のように自然体で落ち着きのある眼差しがじっと久我を見ている。見覚えのある優しげな顔立ち。それはあの撫川蛍だった。

水中で見つめ合ったのはほんの一瞬だったが、久我にはスローモーションのように感じた。はっと我に帰り、久我は撫川の腕を掴んで地上へと浮上していった。


「馬鹿!溺れた人かと思っただろう?!何してるんだよあんな所で驚くじゃないか!」

「驚いたのは僕の方ですよ!せっかく気持ちよかったのに…!」

「どのくらい沈んでたんだよ!うっかりしてたら死ぬぞ!」

「引き際くらい分かります。溺れたりしませんよ。それより腕、離してください。痛い」

「え?ああ悪い」


久我が手を離すとくっきりと指の跡がついていた。


「でも、僕を助けようとしてくれたんでしょう?悪い気はしないな」


そう言って微かに笑うと撫川はプールサイドに向かって泳ぎ出した。撫川には聞いてみたい事が色々あった。久我はその後を追うようにプールサイドへと上がってきた。

水を滴らせながらコーヒーの自販機に歩いていく撫川の後ろからついて行く。撫川が腕につけたリストバンドのバーコードをかざして飲み物を買おうとするが、素早く背後から久我が自分のバーコードをかざした。


「奢る。指趾の詫びだ。何でも好きなもの頼め」


撫川は少しだけ驚いた顔をしたが「では遠慮なく」と返してココアのボタンを押した。白いカップがセットされ、自販機の中でココアが出来上がっていく。


「そんな風にぶっきらぼうだと、親切が霞みますよ?ええと…刑事さん、お名前は?」

「久我だ。ぶっきらぼうでも嫌な思いをした事など無いぞ」

「久我さんはね?周りがですよ」


撫川は出来上がったココアを取るとすかさず自分のバーコードをかざして久我を見た。


「どうぞ久我さん。お好きなものを。助けていただいたお礼です」


結局これでは自分達の飲み物をそれぞれ買ったのと同じだった。

久我は苦笑しながらブラックコーヒーのボタンを押した。


「お前、可愛く無いな。人の親切は素直に受け取れよ」

「へえ?僕、可愛くないんだ。そんな事言われたの初めてだ!」


撫川はココアを啜りながら近くの椅子へと腰掛けた。小さい丸テーブルを挟んだ向かい側に久我がコーヒーを持って座る。


「あんな所で何してたんだ?何分くらい沈んでいたんだ?いつもあんな事をしてるのか?」


矢継ぎ早の質問が飛んで来て、撫川は面食らった顔をした。


「ふふふ!流石刑事さんだなあ、日常会話なのに尋問されてるみたいだ。彼女とかにもそんな感じなの?」

「うるさい!ほっとけよ」


撫川は明らかに久我の反応を面白がっているようだった。


「息を吐き切ってしまうとね、空気を失った身体は勝手に沈むんだ。そうすると自分が太古からそこにいる水中生物のような気持ちになって、自分を人間だって感じなくなっていくようで心地いいんだ」

「でも危ないだろう?死んじまったら取り返しはつかないんだ」


撫川は眼差しをガラス張りの窓の外へと馳せ、暫くぼんやり何かを考えているようだった。少しの沈黙の後、撫川はこう言った。


「死んでしまっても別に良い。明日が無くなるなんて怖くない。元々僕なんて死んでいるようなものだもの」


そんな事を言う横顔はどことなく儚げで、強気なことばかり言う同じ人間とは思えない。久我は撫川の人間性はそう単純なものでは無いような気がした。


「…あの日。男が店にいたんだろう?何者か教えてくれないか」


不意をつく久我の質問に撫川の顔が少しだけ強張ったのを

久我は見逃さなかった。


「そろそろ帰る」


そう言って立ち上がる撫川の表情が、ある一点を見つめて急に驚きに強張った。手からまだココアが残って居るカップが滑り落ち、テーブルの上に広がった。


「どうした?!」


今度は久我が驚いてその視線の先をたどってみると、無音で流されていたテレビモニターからニュースが写し出されている。


刺青事件とは別の殺人事件が発生したと言うニュースだった。

殺された男の顔写真が映し出されている。派手なピンクの髪をした男だった。

それを目にした撫川の身体がガタガタと震え出し、その口から写真の男の名前が呟かれた。


「カオルちゃん…っ!」





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