第5話

 ちょうどいいところがある、ブンに連れられて行ったのは、ドン●ホーテから歩いて2分ほどのところに小さな公園だった。その休憩所で2人は酒盛さかもりを始めた。中川はビール、ブン太はチューハイだ。街灯がポツポツと点いているが、休憩所には街灯はなく少し薄暗い。

 そろそろ雨が降りそうだった。雨のにおいがただよい始めている。

「じゃあ、乾杯」

 中川なかがわはビールの缶を顔まで持ち上げた。ブン太もチューハイ缶を持ってそれにならう。

 湿った夜の空気を感じながら、冷えたビールが喉を通り抜けた。胸から炭酸の強いガスがせりあがってくる。


 話せば話すほど、ブン太はいい奴だった。何よりも中川と境遇が似ていた。

 新しい仕事。初めて任される大役たいやく。うまくいかない日々。やろうとすると行動を躊躇ちゅうちょしてしまう体。先輩に相談しようにもうまく言葉がつむげない。

「うちの上司は全然こっちをマネジメントなんかしてくれようともしないんだぜ」

 ビールが潤滑油じゅんかつゆになって、中川の口から言葉が滑り落ちる。目の前のブン太は、それをニマッとしながら聞いていた。

 話は方々に飛んだ。どうやって仕事を進めるか、どうすれば役をこなせるか。しかしそれらの話題も結局、愚痴ぐちで締められる。

「でも中川さんはすごいですね。上司のマネジメント、とか僕はそこまで考えられなかった」

 ブン太はしんみりとして言った。

「いいんだよ、あんな上司のことなんか考えなくても。それよりもブン太はそのイケてる笑顔で演劇をうまく成功させてくれよ」そう言って中川はブン太の背中を強くたたいた。ブン太はニマニマしながらそれを受けた。

 その笑顔を見て、中川はふと聞いてみることにした。

「だけどブン太、よく笑うよな」

「陽気な奴って言われます」ブン太は言いながらチューハイを煽った。

「怒ったり泣いたりしないの」

「できないってわけじゃないんですけど、人前だと自然と笑顔になるんですよね」

 変な奴だ。だけどそういう人もいるのかもしれない。

難儀なんぎだねぇ。もっと自分を出していこうぜ。じゃないといい役者になんかなれないでしょ」

 図星ずぼしを突かれたのか、ブン太はニマニマしながら沈黙した。

妙な沈黙が流れる。ちょっと言葉の選び方を間違えたかもしれない。中川は謝罪の言葉を口にしようとした。それに先んじるように、ブン太が立ち上がった。

「あの、すいません。お手洗いいいですか」

「ああ。もちろんどうぞ」そう言いながら中川はビールを一口流し込む。

 ブン太は、目の前の公衆トイレへと入っていった。

「悪いこと言ったかな。戻ってきたら謝ろう」中川は反省する。にわかに、雨のにおいが強くなった。

「うん。降ってきたかな」

 休憩所の外を見ると、ポツポツと雨の筋が見えた。これはそろそろ家に帰った方がいいかもしれない。なかなか戻ってこないブン太に声をかけようとトイレへ向かった。


 男性用公衆トイレには、小便器が3つ、個室トイレが2つあった。白い蛍光灯で青白く照らされた室内は、妙に薄暗く感じる。一番奥の個室トイレにカギがかかっていた。

 中川は個室トレイのドアをノックしようとした。その時、室内から何か声が聞こえた。

「電話中かな」

 それにしては小声で早口な気がする。中川は耳を澄まして、その声を聞いてみた。


「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス」


 中川は顔から血の気が引いていくのがわかった。足がもつれた。

 声の主はブン太だ。声色こわいろは低いが、ぶつぶつと呪詛じゅそのような言葉を吐き続けている。やばい。こみ上げる吐き気をこらえ、回れ右をしようとした。


「どうかしたんですか」


ふいに声を掛けられた。

体が強張こわばりうまく動かない。首だけ声の元に向けた。ブン太がたたずんでいた。

「ああ、中川さんもお手洗いですか」

 打って変わって優し気な声でニマッと笑いかけてきた。少し気が緩んだ中川は、声を吐き出した。

「そうなんだよ、いま来たんだ」

「そうなんですか」

 そう言って洗面台で手を洗い始める。

 さっきのことなどなかったかのように振る舞うブン太を見て、中川は聞き間違いかと胸をなでおろした。ブン太が体を起こし洗面台の鏡をのぞき込む。

 つられて中川も鏡をのぞき込んだ。


 鏡の中から白い目がこちらを見ていた。

 顔は青白く、目元は黒く落ちくぼみ、口には黒い大きな穴が開いていた。穴からおぞましい音が漏れ出す。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」


「うわああああああ」

 中川は駆け出した。下宿の扉に激突した。

 ドアノブを乱暴に引き、カギをかけた。

 布団を頭からかぶり、膝を抱きかかえた。


 アレは何だ。アレは何だ。アレは何だ。


 疑問は、壊れたテレビのようにぐるぐる頭を回り続ける。

 

 ピンポーン。


 不意に玄関のベルが鳴った。中川は震える手でスマホを見る。時間は夜の11時過ぎ。こんな時間に人が来るはずがない。


 ピンポーン。


 やめろ、鳴らすな。いなくなれ。


 ピンポーン。


 やめろやめろ。


 ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。


「やめてくれ」

 中川は振り絞るように叫んだ。


 途端とたんにベルの音が止む。おそるおそる布団の隙間から玄関のドアを見る。ドアの外に気配を感じる。ドアまでの廊下は薄暗く、重苦しい。

 早鐘はやがねのように打つ心臓。耳まで響く鼓動。

 ゆっくりと姿勢を変え、ふと窓辺に目を向けた。


 窓の上淵うわぶちから、目が、中川を、見ていた。

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