第4話
右折してバイパスに侵入する。
ハンドルを握る作業着の袖からは、ほのかに甘い香りが漂っている気がした。
玄関のカギを開け、滑り込むように中に入る。鞄を肩から外し、リビングへと上がり込んだ。窓ガラスからは西日の
中川は夕日を見つめ、なんとなく自分の腕に顔をうずめてみた。
少し煙臭い。しかし、瞼の裏に
中川は、作業着を脱ぐとハンガーにかけ、シャワーを浴びた。
バスタオルを首にかけ、座卓にどっかりと座り込む。気づくと、窓の外はすっかり暗くなっていた。そういえば、明日は休みだ。
なんだか無性に酒が飲みたくなった。
中川は服を着替え、夜の街へと歩き出す。
空は曇っていた。歩きながら雨の前兆を感じる。六月の終わりとはいえ、まだ梅雨は明けていない。にわか雨になるだろう。
ほどなくしてドン●ホーテに到着した。カゴを片手に目的のコーナーへやってきた。
チューハイ、ビール、カクテル。いくつかの種類を見繕って、10缶ほどカゴに入れる。おつまみは必ず徳用チータラを購入することにしていた。あれはどんなお酒にも合う。
右手の買い物袋に戦利品を詰め込み、意気揚々とドン●ホーテから出た。
バイパスは少し渋滞していた。おかげでこの周辺だけ昼のように明るい。
近くの歩道に見慣れたシルエットを見つけた。
シルクハット、半袖半ズボン、風船。
例のタイ人だ。ニマッとした満面の笑みでバイパスを走る車に向かって手を振り続けている。
ふいにタイ人がこちらを向いた。ばっちり視線が絡み合う。向こうはまるで友達と再会したかのような顔で、中川に向かって大きく手を振ってきた。
無視して家路に着こうかとも思ったが、しかし抗えず近づいた。
「こんばんは」
「こんばんは」タイ人は、清々しい笑顔で挨拶を返してきた。
意外に流ちょうな日本語だ。
「何か私にご用事ですか」中川は慎重に聞いてみた。「なんだか私に手を振っている気がしたので」
「はい。ここの交差点で信号待ちしているとき、いつも僕のことを見てくれているでしょう」
知っていたのかタイ人。
タイ人は、若干狼狽した中川の様子を見ながらニマッと陽気そうに笑って言った。
「会えて嬉しい。僕の名前はブン
「中川です。ブン太さんってことは日本人なんですか」
それを聞いたブン太ははにかみながら言った。
「あ、僕はハーフなんです。生まれと育ちは日本で日本人です」
なるほど、と中川は
「でもよかった。ぜひお名前を聞きたいと思っていたんです。いつも僕に笑いかけてくれましたよね」
「笑いかけていただなんてそんな。ブン太さんが笑いかけてくれたから、こっちも笑い返しただけですよ」
「ブン太、でいいですよ、中川さん。たぶん僕の方が年下なんで」
そうやってきゃぴきゃぴとした反応をするブン太は、どこか子犬じみていた。よく見てみれば、ブン太の顔はよく整っていた。彫りが深い目、身長は中川より高く、180センチはあるようだった。袖から
「じゃあブン太って呼ばせてもらうね。俺のことも中川でいいよ」
「わかりました、中川さん」ニマッとした笑顔がまぶしい。イケメン。
呼び捨てになってないじゃん、という中川のつっこみは
「ブン太はどうしてこんなところでそんな格好してるの」ずっと腹にためていた質問を投げかけてみた。ブン太はぽかんとしながら自分の姿を見る。
「この格好変ですか。僕は結構気に入ってるんですが」そう言いながら、紙製の茶色いシルクハットを脱いだ。中からセミロングの髪がパラパラと流れ出る。
「これ、劇の格好なんです」言いながら頭を掻いた。「風船を持った陽気な男の役でして。笑顔を振りまきながらシルクハットを被って、舞台に立つんです」
「へえ、役者さんなんだ」
「売れない役者ですけどね」
なんでその劇の格好をここでしているんだろう、という
「今回の役、ちょっと気恥ずかしくて。いろんな人に見られるような場所で練習して、恥ずかしさを克服しようと思った次第で」
「ああ、だから人通りが多いバイパスでやってたんだ」
「そうなんですよ。だけど、思った以上に皆さんこっちを見てくれなくて」しょんぼりとするブン太。そりゃそうだろう。
「でも劇での僕の役割はとても重要なんです。僕の笑顔が劇の雰囲気を作る。僕の陽気さがお客さんを魅了する」彼は熱っぽく言った。
「まだまだ経験は浅いけれど、この役は絶対やり切りたい。そう思ったんです……」
「おぉ」
中川はブン太、という男ともっと話したいと思った。
「ブン太、もう少しお喋りしないか。実はお酒とかおつまみを持ってるんだ。近くの公園で飲もう」
ブン太はニマリと笑った。
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