第2話

「今回、この設計テーマの担当になりました、中川文なかがわ あやめです。よろしくおねがいします」

 翌日、早速テーマのキックオフを行った。チームメンバーは3人だ。まず中川が自己紹介と今回の仕事への思いを話した。そのあとを継いで、先輩の白石しらいし激励げきれいしてきた。 

「よろしく中川。いいもの作ろうぜ」

「先輩ありがとうございます。神谷かみやさんもよろしくお願いします」

 中川は、白石の隣に座る女性社員へ声をかけた。神谷は、勤続年数5年の先輩社員だ。主に事務周りの仕事を担当している。

「よろしく」

 神谷は素っ気なくあいさつした。顔を少し伏せている。

 中川は神谷のことが苦手だった。目元は明るく、まっすぐな黒髪を肩まで伸ばし、いかにもデキるキャリアウーマンな神谷は、一方、人をあまり寄せ付けず、会話も単語で行うような社員だった。一部男性社員からは、鉄の女と噂されている。

「じゃ、じゃあ、今後のスケジュールをお渡しします」

 中川は気を取り直して資料を配布した。

「神谷さんどうぞ」

「ありがとうございます、あっ」

 神谷は右手で資料を受け取り、瞬間パッと手を離した。左手でぎゅっと右手を握り、胸に当て、頬に赤く染めた。

 刹那せつなの沈黙。

中川はあっけにとられ、すがるように白石へ視線を向けた。

困ったような顔で白石はおちゃらける。

「おいおい中川、俺の神谷さんに悪いことするなよなあ」

中川も持ち直した。

「ええっ。そんなことしてないですよ。先輩やだなあ」えへへと笑みを浮かべて神谷を見る。

原因はわかっていた。中川の手が神谷に触れたのだ。男女の触れ合いなんてそんなに大層なものじゃないだろうに。初心うぶなのだろうか。

 ふと気づいたように神谷が謝罪した。

「すいません中川さん。さっきまで現場にいたので少し手が汚れていたんです」

 言い訳をするようにまくしたてた後、神谷は資料を拾って席に戻った。そして何事もなかったかのように打ち合わせを続けようとする。

「さっさと続きをしましょう」

 その後、神谷の単語会話空爆たんごかいわくうばくがお見舞いされ、中川立案のスケジュールは見事ぶつ切りにされたのだった。

 

 終業のチャイムが鳴る。業務を終えたサラリーマンたちが、工場前の大通りへ流れ始める。

「じゃ、お疲れさん、中川。あとはよろしく」

 隣の席の白石は、中川へ軽く声をかけると、さっさと退場していった。中川はぶつ切りになったスケジュールを見比べてうなりつつ、「おーつかれさまでーす」と片手間に返事した。

 夕日が顔の右側に当たってまぶしい。パソコン上の表計算シートはだんだんマスが二重、三重にぶれて見えてきた。

 スケジュール表の最後の矢印を引き直し、ふと顔を上げる外はすっかり暗くなっていた。時間もよい頃合いだ。フロアに自分以外はいないようだった。しばらくぶりにパソコンディスプレイから離した目に、蛍光灯の光がまぶしい。

「中川さん」

 そろそろ帰るか、そう思って立ち上がったとき、ふいに声をかけられた。びっくりして声が聞こえた対面を見ると、向かいのパソコンディスプレイの陰から、神谷さんがこっちを覗いている。

「えっと、神谷さん、まだ残ってたんですか」

「はい。今日中に終わらせておきたい仕事があって」

「そうなんですね。何か私に用事ですか」

 そう声をかけると、神谷は黙り込んでしまった。目を伏せ、頬を少し紅潮こうちょうさせた。

「あの―」

 そのあとの言葉は、ばたん、という音でかき消された。

壁に立てかけてあった板が倒れたのだ。若干驚きつつ神谷へ向き直った。

「えーっと、神谷さんさっきは何ておっしゃいました」

 神谷は中川をじっと見つめていた。倒れた板へ目もくれず、一言。

「いえ、何でもないです。お帰りですよね。呼び止めてしまってすいません。お疲れさまでした」

 パソコンへ向き直って、一心不乱にピアノのお稽古けいこを再開し始めた。


いたたまれなくなり、中川は逃げるようにして工場から出た。

神谷の様子がなんだか変だ。いつも通り人を寄せ付けない雰囲気を出し続けているが、なんだか中川とよく視線が絡み合う。不思議な状況。

 バイパス通りの交差点を4つほど越えると、いつものように左手にドン●ホーテが見えてきた。昨日のことがあったからか。不思議と店の前を探すように視線を走らせてしまう。

 いた。

 紙製の茶色のシルクハット、首にバルーンアートのネックレス、半袖半ズボン。昨日とほとんど変わらない格好で、タイ人がバイパスを走る車に手を振っている。

顔はニマッと満面の笑みだ。

「またいるよ」

 中川は信号待ちの車内で、じっと見ていた。あの陽気な外国人は、いったいどういう目的であそこにいるのだろう。その理由になんとなく興味が湧いた。

 この交差点の信号待ちはそれなりに長い。

 中川の前後の車の運転手もあの外人を見ているのだろうか。

 そんなことを考えていたら、タイ人がこっちを見た。中川と目線を合わせ、明らかに中川へ手を振っていた。

その元気の良さ、人当たりよさそうな雰囲気に、なんとなく中川も手を振り返した。少し気持ちがほっこりした。

 信号が青になった。

 ドン●ホーテを越えてすぐの交差点を右折し、脇道へ入る。サイドミラーに見えるタイ人は、曲がり角で見えなくなるまで、手を振り続けていた。


 交差点から数分のところに中川の下宿がある。

「ただいま帰りましたよーっと」

 玄関の電気をつけると、リビング10畳の1LDKが姿を現した。

 鞄を肩から外し、玄関先に床置き。作業着を脱ぎ、口を開いた洗濯機へ投げ込む。流れるような所作でリビングに到達し、窓を開けた。夕日が照っていたのか若干生暖かい部屋に、夜風が入り込んでくる。

 振り返り、中川は部屋の中央にある座卓をじっと見た。

 この座卓は、入社して1年してから、誰かを部屋に招くかもしれないと、近所のニト●で購入を決めたものだ。なかなか高かったことを覚えているが、一方で本来の目的を果たした記憶はない。もっぱら学生時代から使っている、壁に寄せたパソコンデスクとデスクトップパソコンが現役だ。

 なんとなく、台所から布巾を持ってきて座卓を拭いた。座卓の表面には少し中川の顔が映りこんでいた。

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