(2)トロッコ問題に迷いなく答える人は怖い
リアルはキャビネットから紙とペンを出してくれた。
俺は二人が見守る中、テーブルの上で紙の真ん中にYの字に線路を描く。Yの一番下に箱を描き、二股に分かれた先端の、一方に五人の棒人間を横たわらせ、反対の先端に一人の棒人間を横たえる。
「なにこれ?」
「これは、トロッコ問題。SNSで見たんだ。知らない?」
レールの上を走るトロッコの先が二又に分かれており、一方には五人の人間、もう一方には一人の人間が横たわっている。この図はそういう図だ。線路の傍らにはレバーがあり、進路を変えることができる。
「ああ、知ってる。パラドックスの話ね」
ぱら……? 出題した俺の方がわからない。まあ物知りなリアルのことだから、この問題を知っていても不思議ではない。俺はかまわず進める。
「今、トロッコは五人のいる方に向かって走っています。あなたはレバーを引きますか? レバーを引けば、トロッコの進路が変わります」
「でも、そちらにも一人の人が……いますよね」
ウサギも絵を覗き込んでいる。
「さあ、どうする」
「どうするって。私なら、レバーは引かない」
「え?」
「そりゃそうでしょ。沢山助かる方がいいに決まってる。こんなの迷う人いるの?」
リアルはきっぱりとそう言った。
「そ、そうか……」
こいつは……。本物かもしれない。
傍らでウサギが青くなっている。
「こ、これって、一人を犠牲にするか、五人を犠牲にするか選べってことなのですか? 何て残酷な……」
「そう、それもある。もう一つあって、レバーを引かなければ五人は死ぬけど、自分は直接手を下すことにはならない。レバーを引けば一人は死に、五人は助かるけど自分が直接の加害者になる」
「お、恐ろしい! 誰がこんな恐ろしいことを……線路を爆破してはダメなのですか?」
「爆破……いや、ウサギならそういう手もあるかもしれないけど……これはクイズみたいなものだから、レバーを引くか、引かないかしかない」
ウサギは小さく震えている。この問題の難しさをかみしめると、平然と答えを選んだリアルの顔を上目づかいでのぞき込む。俺も、リアルの顔を見つめてしまう。
普通は、迷うんだ。答えが簡単に出ない問題を考えさせるのがこのクイズの目的だ。
リアルが文字通りぽかんとしてこちらを見る。
「あ……あれ? 私、間違った? え? え?」
様子がおかしい。いつも冷静なリアルが、ちょっと取り乱している?
「あああ! やっちゃった……また……!」
リアルが頭を抱えて尋常じゃなく動揺している。また?
「わ、わからないんだよ。本当に……! 私の中じゃ、多くを助けるのが当たり前すぎて……! 私の基準は人類なんだ。人類にとって良いか悪いかしかなくて、他のことはどうでもいいというか……」
「えっと……」
人類?
「だから! 一人が死ぬのは残念だけどしょうがない! 五人生きて良かったね! 死んだ人ありがとう、君の死は無駄にしないって! って考えちゃうんだよ……!」
ああ、そうか。
昔からリアルを知っているが、この高スペック女子の持つ違和感の正体がずっとわからなかった。でも、いま、ようやくわかった。
この人は……倫理観というものが欠如しているのだ。
リアルは丸くなって震えている。
「昔からそうなんだ。知ってる、私は善悪がマヒしてる。ほら、小学校の時、ハンパなく宿題を出す先生がいて、みんな困ってた。だから、私はその先生の車のタイヤを、家から持ってきたドライバーでパンクさせた。そしたら宿題がなくなると思ったんだ」
そういえばそんな事件があった。その時、俺は違うクラスで、学校中が大騒ぎになった気がする。教師も犯人の非道を非難し、ひどいいたずらをするヤツがいるな、と俺も思った記憶がある。
「結局、数日間宿題がなかったから、私の目的は達成できた。でもおかしいんだよ、宿題がなくなってみんなラッキーだったはずなのに、深刻な顔でしてさ……理解できなかった」
確かその時、犯人が誰だったかまでは公表されなかったから、きっとリアルの犯行はバレなかったのだろう。
「それから。校舎の近くの花壇にいつも蜂がいて、みんな怖がってた事があった。だから夜のうちに花を全部引っこ抜いた。蜂は花にやって来てたから、もう来なくなった。でもこれも大騒ぎになった……」
それも聞いたことがある。犯人捜しのために花壇に防犯カメラが設置された事件だ。
「それから……」
リアルは続けていくつかのエピソードを披露した。
どれも同じような話で、なるほど目的は正しい。でも手段がぶっ飛びすぎてる、そんな内容だった。ウサギもかなり引いているように見える。
「わああ、ごめん、聞かなかったことにして! そうか、普通は迷うよね。一人殺すのも五人殺すのも迷う! そう、そんな感じだ! でしょ? 普通はそんな感じでしょ?」
リアルは頭をがりがり掻いている。ピンクの髪の毛が宙を舞う。本当にわからないらしい。
「え? ちょっと待って! こんな話をしてるってことは、もしかしてユウ、ウサギ、体育館爆破っておかしい?」
自覚なかったのか……。爆破自体もおかしいし、自作自演で信者を増やすのも。
「う、うん……色々と……」
「残念ながら……私も、そう思います」
俺もウサギも素直に答えた。
リアルの口からがひっという声が漏れる。
「ああ、ごめん、私はただ、信者を増やそうと思っただけなんだ……ウサギ、ユウ……私を責めないで! 責めないでよ……」
リアルが再び頭を抱えて丸くなる。あんなに他人には攻撃的になれるし、攻撃されても何とも思わないのに、この態度はどうだ。
「友達に見捨てられるのは嫌なんだよ……。えっ? と、友達だよね!?」
リアルが心細そうにこちらを見る。と、友達だとも! と俺が言う前にウサギがリアルをひっしと抱きとめる。
「ああ、この人は……きっと愛が足りないのです。大丈夫、私はリアルを愛しています」
「わわわ……」
リアルはウサギに抱きしめられて放心している。何をやってんだこの人たちは。
「リアル、あなたは優しい人です。優しすぎるのです。いつも世の中のことを考えている。違いますか?」
「違わない。いつも人類のことを考えてる」
ウサギはリアルの方をつかんでまっすぐ見据えた。
「リアル、あなたが目指す世界はどんな世界ですか?」
「皆がお互いを尊重して、仲良く幸せに暮らす世界」
すらすらと言う。本当にいつも考えている証拠だ。
もっと突拍子もない世界が出てくるかと思ったら、意外と普通な答えが返ってきて、俺は拍子抜けした。
でも。確かにそんな世界は理想の世界だ。
「それは素晴らしい世界です。太陽と月の教も、そんな世界を目指しています」
……あれ? 何か様子がおかしい。
「リアル、あなたも本気で太陽と月の教に入ってはいかがですか?」
勧誘している! ウサギもやり手だ! リアルは顔を上げ、ニヤリとする。
「ふふ! やるじゃない、ウサギ。人の弱みにつけ込むなんて! ぐらっと来たよ」
「え! そんなつもりは……!」
「そういう所、好き」
今度はリアルがウサギを抱きしめる。この二人……やっぱり似ている。方法はそれぞれだが、世のため人のため、と心底思って疑いもない。
その日、それ以上話は進まなかった。リアルが正しいかどうか答えは出ず、リアルも何が悪いのかわからず、俺たちは迷ったまま進むしかなさそうだった。
俺たちの気持ちとは関係なく破滅はすぐそこにあり、でも滅びをただ待つのだけは避けなければならない、という部分だけは全員了解していた。
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