四日目 よみがえる上海

 新しい朝が来た。

 瀬川麗香派またいつものように憂鬱なまなざしで部屋を出た。どうしよう、また、一日が始まった。でもあいつらがいなくなったわけじゃない…。昨日は重たい気持ちで歩きだしたら、もう、どうしたらいいのか分からなくなって…みんなから離れて湖を見に行ったっけ…、そうしたら湖から自分を呼ぶ声が聞こえて…気がつくと水の中でもがいていた…苦しくて逃げようとすると、白い手が何本も出てきて体を深みへ引きずりこもうとする…もうだめだ…苦しいよう…でもその時、何かが光った。たくましい腕が、頑丈な指がしっかり自分を引き上げ、支えてくれた。しばらくは胸が苦しくて、何がなんだかわからなかったが…気がつくとやさしい声がした。

「大丈夫ですよ…もう助かりました…病院にすぐつきますから…」

 あの時のがっしりした腕とあたたかな声は今も体が覚えている。そうだ、今日は生まれ変わった気持ちで頑張ろうと誓ったばかりじゃなかったか?麗香はバンガロー村から、昨日の事故のあった岸辺をぼうっとみつめて思い出していた。その時だった。

「麗香さん、どこを見てるんです、僕と行きましょう…」

 昨日と同じたくましい温かな手が麗香の手を引いてくれた。鉄馬だった。今日も、もう、ランニングから帰ってきていた。

「ほうら、みんなのところに行きましょう。みんな麗香さんのことが大好きみたいですよ」

「麗香さあん、こっちこっち」

 歓声に迎えられてレストランに入って行くと、野菊と塔子があの麗香のまとめたパワースポットツァーの資料を持ってテーブルで待っていた。

「麗香さん、このパワースポットツァー、すごくいいんだけど、良かったら、私と塔子と三人で出かけてみませんか?」

「ええ?」

 突然の誘いにちょっと、嬉しいような驚いたような麗香だった。

『青が瀬川の渓流と滝めぐりツァー』『湖西岸の火山洞窟探検ツァー』などいろいろある。

「ほら、神沼と聖なる森のわき水ツァーなんかどうですか?」

「うん、一緒に行きましょう、ここからすぐだし、とってもいいコースなのよ。楽しみだわ!」

「うわー、また瑠璃さん、ガラッとイメチェンね!」

 妄想コスプレーヤーの瑠璃は今日も絶好調。

 今日は湖畔の男爵邸に招待された貴婦人というイメージらしい。アイボリーを基調とした美麗なロングのワンピースに、華やかで大きな帽子をかぶっている。

「いいでしょ、この帽子、こんな大きいのにコンパクトに折りたたんで持ち歩けるのよ」

 瑠璃はにこっとして、野菊たちのテーブルに座った。やはり新進ミステリー作家の先生は発想から違う。

「ってことは瑠璃さん、いよいよ男爵邸ね」

「みんなもパワースポット回ってくるんでしょ。こっちも行くわよ。ついに男爵邸よ!」

 盛り上がるバンガロー村のログハウスレストラン。だが一方、七橋たちの翼館は大変なことになっていたのだ。


 ドッカーン!! バリバリ、カチャーン!

「なんだ、何が起きたんだ?!」

 翼館の玄関で早朝から大きな音がした。

 あわてて駆け付ける翼館のメンバー! まだベッドにいた七橋も、飛び起きて、玄関へと走った。

「靴を履いていない者はしばらく近づくな!」

 御剣さんの厳しい声が飛んだ。あわてて七橋はスリッパをはいて玄関に行き、スニーカーに履き替えた。

「うわ、ひでえ、なんてことを」

 玄関に二トントラックが突っ込み、翼館の大きなガラスの扉が砕け散り、トラックは重い靴箱に当たって止まっていた。あたりにはガラスが砕け散り、去年子どもと作ったばかりと言う名札の付いた傘立てがぐしゃぐしゃにつぶれて砕けていた。

 エンジンが入りっぱなしだったトラックを武藤さんがすぐにバックさせて庭まで下がり、みんな総出で片づけを始めた。やがて高橋巡査や翼館のみんながやってくる時間になると、いろいろな状況が分かってきた。

「みんなごめん。このトラックは私がスパイスの栽培契約を頼んでいた農家から昨夜盗まれたものなんだ」

 カレーの坂本さんが頭を下げた。いや、坂本さんは何も悪くない。被害者の一人に違いない。コリアンダーというスパイスは日本の気候でも良く育ち、その葉っぱはパクチーとして需要が大きいので、湖畔の農家でもたくさん作っている。それが狙われたのだ。何者かがこのトラックを盗み、早朝に、翼館の玄関に突っ込んだのだ。たぶんもう一台仲間の車が来ていて、トラックを運転していた運転手を乗せて逃げ去ったのだろう。一番先に出てきた武藤さんも、まったく犯人を見ていなかった。こんな時一番役に立ちそうな探偵の高塚さんは、調べることがあると、昨日の夜から男爵邸の別荘に宿を移していたのだ。

「ああ、監視カメラとかあったらよかったのになあ…」

 七橋が思わずそうつぶやくと、パソコン爺さんの幸田正剛さんが思い出したように言った。

「…あるぞ。ちゃんとついとる」

「え? じゃあ、犯人わかるんですか?」

「そうじゃった、昨日駒形さんが御剣さんにフィッシングセンターのやつらの動きがどうとか言っていたら、御剣産が監視カメラを取り付けておこうと提案してな、そうしたら高塚さんが夕方の短い時間にあっという間に…」

 はっと思って玄関の周辺を見ると、通路や建物に、花が飾ってある。屋外は植木鉢だったり、玄関は花瓶やアートフラワーだったりする。

「これ、もしかして全部?」

「ああ、そうじゃ…おう、全部のカメラがきちんとわしのパソコンに画像を送ってきておる…」

 高塚賢三と幸田正剛さんのタッグはある意味最強かもしれなかった。幸田正剛さんは手慣れた手つきで衝突時刻を割り出して、その前後のすべての画面を次々に呼び出したのだった。いつの間にか、御剣産を始め、サチエさんから三職人、幸田さんや、大木宗光さん、スパイスオバチャンズのおばさんなど翼館のみんなが画面の前に集まって来た。

 まずは、道路の側の映像からだ。最初にフィッシングセンターの帽子が運転席に見えるワゴン車がやってきて、その後ろに二トントラックがついてくる。やがて、フィッシングセンターの車は止まり、後ろから来た二トン車が突っ込んでくる凄い衝撃、激突の画像が角度を変えて二カット続く。すると運転していた男がさっと降りて、なにか紙を衝突現場に置くと逃げていく。

「全身黒ずくめでマスクとサングラスで顔を隠しているが、ありゃ、黒仁田の手下の加藤に間違いないな。…。あの髪型と派手なスニーカーはごまかせない」

 武藤さんがつぶやいた。御剣さんが確認した。

「あの男が置いた紙はなんだったのかな?」

「調子に乗ってるとどうなっても知らない、夜道に気をつけろと書いてありました」

 紙を拾ったサチエさんがちょっと怖そうに言った。さすがに翼館に出入りしているおばさんや老人はかなり不安みたいだった。

「証拠がそろってるにしても…いま、ここの警察は高橋巡査だけだしねえ。困るわ」

 絵手紙のおかよさんがつぶやいた。代表の御剣さんは冷静だった。

「実は昨夜、武藤さんから報告があってから、万が一に備えて監視カメラを取り付けただけでなく、ブラックバスの袋詰めの写真や、フィッシングセンターの黒いうわさの資料などをまとめておいた。あと数分で、今見てもらった監視カメラの犯人の映像も幸田さんがプリントアウトしてくれる。もちろん警察にも届けるが、とりあえずここの関係者に被害が及ばぬよう、やつらのところに、筋を通しに行かなければならない」

 そう言って、御剣さんは、みんなを見回した。

「問題は、誰にやつらのところに行ってもらうかじゃのう…」

 そう言われてみれば、一般の人が行ってもやつらの相手をするには荷が重すぎるし、鼻っ柱の強い武藤さんが行ったら、大騒ぎになってかえってこじれる可能性さえある。けっこう人選が難しいかもしれない。するとひとりの男が手を上げた。

「…じゃあ、おれに行かせてもらえんかな?」

 なんとそれは、あの愛人と世界旅行の話をしてくれた大木宗光老人であった。

「相手はフィッシングセンターの奴らじゃろ。翼館でフィッシング、釣りと言ったらわしじゃろうが」

 なぜか大木さんは自信たっぷり、七橋にはいいのか悪いのか、全くわからなかった。でも御剣さんは、ニコニコして言った。

「そうですか、大木さんならばっちりだ。考えるほどに適任ですよ」

「そうじゃろ、そうじゃろ、わしに任しとけ。じゃあ、悪いが七橋君、運転してくれるか。すぐにやつらのところに乗り込むぞ」

「はい、わかりました」

 七橋は御剣さんや幸田正剛さんからもらった資料を軽トラックに積み込み、大木さんといろいろ打ち合わせをすると、軽トラックに乗り込んで、さっそく出発したのだった。


 その頃パワースポットツァーに出かけた野菊たち三人は神沼神社の境内に入っていくところだった。

「ええっ?! そんな裏技があったんですか?」

 野菊の言葉に、麗香がにっこりして答えた。

「そうよ、神聖なる青竜のわき水は月に一回しかもらえないけど、ここでお金を払って御祈祷した人とその付き添いは特別もらえるのよ。私、開運したいから御祈祷をお願いするけど、一緒に来れば、あなたたちも御神体も拝めるし、青竜の水も飲めるのよ。さあ、行きましょ」

「やったあ」

 そして広い境内を進み始めた時、塔子が不思議なものを見つけた。

「ちょっと、みんなあれを見て?」

 塔子の指先を見上げてみんなわが目を疑った。これから行く、本殿の上に小さな雲がぽっかり浮かんでいるのだが、良く見るとその雲が七色に輝いているではないか?!

「こういう自然現象があるってテレビで見たことがあったけど…すごい、美しすぎる…奇跡みたい…」

 祈祷をお願いしに行った時出迎えてくれた宮司の方に雲の話をすると、

「神様が喜んでいらっしゃる」

 そう言って宮司も上空を見上げてたいそう喜んでいた。

 三人は広い本殿で祈祷を受けると、そのあと御神体だという青竜の泉に案内され、霊験あらたかな湧き水をたっぷりともらった。苔むした岩の間から透き通った水が湧いてくる、めったに入れない場所で、すばらしい体験ができたのだった。

 神社側から神沼を仰ぎみれば、七色の雲のせいか、いつにもまして幽玄の佇まいで、神聖な空気に満ち溢れていた。

「この神沼はね、六月ごろに来ると天然の平家蛍が飛んでそれはそれは美しいそうよ」

 最後に麗香さんが、宮司さんに聞いた。

「あの…、湖の中にある聖地神波島には、渡れないでしょうか?」

 そして麗香は、自分の調べた、縄文時代から続く神社の歴史などをすらすらと宮司に話して頼み込んだ。宮司は最後にはニコニコして、

「よくぞそこまで御調べになった。あなたのような熱心な方はなかなかいない。いいでしょう。神波神社に渡る許可証を差し上げましょう」

 それは新しい木製のお札で、お参りすると日付を書いてもらって持ち帰りできる、一回券であった。何度も渡ることのできる手型の木札も昔はあったのだそうだが、もう今は手に入らないという…。

 三人とも神聖な気にふれ、開運パワーを存分に体に浴びて、バンガロー村への帰路を歩きだしたのだった。


 その頃男爵邸に着いた瑠璃だったが、なぜか男爵邸はしまっていた。人影もなく、また出なおそうと歩きだすと後ろから声がかかった。

「もし、お客様でいらっしゃいましたか?」

「はい、見学をさせてもらおうと思いまして…今日はお休みですか?」

 どこから出てきたのか、きちっとしたスーツを着た若い上品な男が姿を現した。

「まことにすみません。男爵邸は都合で見学はお休みさせていただいております」

「そうですか…残念です…」

 瑠璃は、長い期間調べてやっとここにたどり着いたことや、土砂崩れがあって、都合が悪いのは分かるが、少しだけでも中を見せてもらえないかと説得にかかった。

 すると、少しした時、男爵邸のん中から呼ぶ声が聞こえた。

「…省吾さん、省吾さん」

「あ、お嬢様が…すみません、ちょっとだけお待ちいただけないでしょうか?」

 瑠璃が大人しく待っていると、あの省吾という男が速足で帰って来た。

「…男爵邸は今一般の方は入れないことになっているのですが…実は明日内輪で簡単なお茶の会が開かれることになりまして…一日後なので心苦しいのですが、そちらにお客様として来ていただくのではダメでしょうか?」

 瑠璃の瞳が輝いた。男爵邸のお茶の会に招待された、望んでもいなかったことだ。

「はい、喜んで」

 瑠璃は二つ返事で快諾し、喜び勇んで帰って行った。


 その頃高塚は、男爵邸の隣の西園寺家の別荘で予期していなかった会合に出席していた。

 最初会合に入る前に高塚がその後の事件の捜査の進展はないこと、病院からの検死の分析結果がまだなので、犯人は未だ絞りきれないことをみんなに告げた。

 みんなはただ黙ってそれを聞いていた。そしていよいよ会合が始まる。

「それでは…そろそろよろしいでしょうか」

 管理人の立石と美人秘書の芦原がホールの前で椅子に座り、ほかの出席者の前で、厳粛に書類を取り出す。管理人の立石がおごそかに礼をした。

「昨日死亡が確認された旦那様は、生前より会社や財産分与のことで御取り決めをしていて、万が一の時は、死んだ翌日に遺書と言う形で取り決めを発表するように申されておりました」

 次に芦原が静かに続けた。

「実は今度の株主総会を前に、西園寺ホールディングスの新体制のことやいくつかの変更点を書き加えた新しい遺書を作る予定でございました。しかしこのような事態になったので、昨年までの、新体制の取り決めなどが昔のままの物を発表します。ご了承ください」

 社長の急死によって、まず、遺書の内容が、会社全体の新システムへの移行が早くも変わってしまった…犯人の狙いはそこにあるのか…それとも別なところに在るのか…高塚は気づかれないように全員の顔を見回していた。明らかに古い部下の赤坂や東郷は安心しきった表情になっていた。義理の妹の洋子や息子の涼の表情には緊張が漂い、看護師の緑川や秘書の芦原は、ポーカーフェイスで黙っていた。

「ではまず西園寺ホールディングスの体勢から発表します」

 みんな息を殺して静かに聞いていた。当り前だが、大きな新体制への移行はほとんどなく、現社長陣がみんな子会社の社長に残り、メイン企業の西園寺不動産だけ、死んだ社長の代わりに保守派の役員が昇格することになっていた。細かいことだが、社長が死んだあと、意外だったのは、秘書の芦原だけは特別手当の付いた退職金を受け取って、グループから離れることになっていた。西園寺グループとはつながりがなくなるのだが、あれだけ有能で美人となると、なんの心配もいらないようには思われた。

「次に湖畔の不動産などの遺産分与の件です」

 男爵邸とその周辺の良い土地はすべて市に寄贈、再開発の進む別荘地の当たりは、義理の妹の洋子や今日出席のない西園寺の親族にほぼ渡された。気になったのは息子の涼だった。会社も湖畔の土地も何一つ渡されなかった。でも文句の一つも言わずにそれを聞いていた。どんないきさつがあるのか、亡くなった社長と息子の間に何があったのか、想像するしかなかった。一通り終わったかと思われた時、あの昔の部下の赤坂が突然手を上げた。

「会社や不動産以外の小さなものもあると聞いたが…」

 その途端、全員の雰囲気ががらっと変わった…いったい?!

 すると立石は立ちあがりながら言った。

「それは、これからお見せします」

 立石がみんなの前に出したのはあのフクロウの大きな置きものだった。もともと男爵邸にあったもので、今はこの別荘の玄関に置いてあったものを持ってきたのだと言う。なんでこれが? と思っていると、立石はフクロウの背中の隠しふたをあけて、中の木をパズルのようにスライドさせて並び変えた。

「では、決められた手続きによって中を開けます。私にも何が入っているのかは知らされておりません」

 そして立石は中の隠しボタンを押した。するとシャキーンと音がして背中全体が外れて、中から大きな箱が出てきたではないか。

「…こ、こんなところに…」

 息子の涼が小さくつぶやいた。赤坂や東郷もその箱をじっと見つめていた。さっきまで無表情だった緑川やあの芦原までが興味津々で覗き込んでいる。

立石がふたを外し、中の物を取り出す。

「…?!」

 いくつか、入っているようだった。一つ目はこの湖周辺の地図のようだった。

「はて、なんでしょう? よく見ると、湖の真ん中、そして男爵邸…それから土砂崩れのあった塚森山の山頂近く、この三か所に赤でバツ印が付いています。そして湖の部分には神波島、男爵邸には、隠し部屋、塚森山には大きな扉とメモ書きがしてございます…」

 なんなのだろうこの地図は。

「…あと鍵が入っておりました。美しい金色の鍵とがっしりした、銀色の鍵…」

 赤坂がすぐに立石に聞いた。

「立石さんはその地図の印や鍵に心当たりはあるのでしょうか…」

「いいえ、ございません。男爵邸には隠し部屋があると言われておりまして…一度だけ、西園寺社長が地元の新聞社で取材を受けた時、富子お嬢様の肖像画をどこからか取り出したことがありました。あるいはそこかもしれません。私はその場所はまったく聞いておりません。あと神波島は、ここ十数年一般の人々は上陸しておりません。神聖な場所です。そして塚森山の山頂付近は、土砂崩れで近寄ることもできないし、そのあたりに扉などはもちろんなかったと存じます」

 みんな心の中は悟られぬよう、何食わぬ顔で鍵を見ていた。鍵の使い道に心当たりのある者はと、立石が問いかけても、だれも手を上げなかった。

「最後はこれでございます」

 立石が最後に取り出したのは、手のひらサイズの小さな古い木札だった。何か漢字が書かれているが色褪せてよく読めない。ますます誰にもわからない…。

 そして、他人行儀な話し合いの結果、鍵と古い板は芦原が管理することとなり、使いたいものは芦原に許可を得て、借りることとなった。芦原は、フクロウの中に入っていた箱に鍵や地図を戻し、わざとかどうか、みんなの目につく横の棚の上に箱を置いたのだった。

 西園寺家の殺人事件は、また新たな展開を見せ始めたのだった。


 七橋はその頃、大木老人とボート村から引きあげるところだった。大木さんは、鼻歌を歌いながら、堂々と先頭を切って歩いて行く。七橋はうまく交渉できたと言う痛快な気分で大木のじいさんの後をついて歩いていた。この大木宗光、中国や東南アジアで、いくつも危険な橋を渡っていたとか行きの車で言っていたのだが、現場に着くとそれ以上のやり手だった。

 最初大木宗光は、何食わぬ顔で店に一人で入って行った。実は釣り好きの大木は、翼館の手伝いをやっていることを隠し、けっこうこの店に来ていたらしい。

「なんだい、大木のじいさんかい?」

 そしてあの加藤という店員を見つけるとうまいこと言って店の外に誘い出し、

「実はこの店が気に入ったので、友達にも紹介したいんじゃ」

 とか何とか云って、加藤を店の看板の下に立たせて写真を撮ったらしい。そこで一度引きあげ、今度は御剣さんや幸田正剛さんが用意してくれた資料や写真のプリントを持って、七橋とともに店に入って行ったのだ。七橋が来たことで今度は翼館とわかると、加藤は突然怒鳴りだし、ボスの黒仁田竜二を呼びに行かせた。黒仁田は、たぶん今朝の事故の黒幕なので、最初は何も言わない。翼館が全面降伏してくるのか、それとも宣戦布告してくるのか、出方をうかがっていた。大木さんが凄かったのは、怒鳴りつける加藤たち、チンピラクラスを相手にせず、ずかずかと店に入り込み黒仁田の前に何食わぬ顔で進み出たことだ。なんと言うか、度胸があると言うか、堂々とさえしている。

 そして、突然、あの駒形さんが隠し撮りしたブラックバスの子どものプリントアウトした写真を黒仁田の鼻先に着きだしたのだ。

「…なんじゃあ、こりゃあ!」

 黒仁田は加藤を睨んで言った。

「おまえ全部消したって言ってただろが!」

 すると大木はあたかもその場にいたように嘘を言う。

「消し忘れていたんだなあ、若いのが。しょうがない、もう元はこっちにあるから、いくらでもコピーできるんだ」

 こいつ、なにしにきたんだ…と黒仁田は大木をにらみながら嘘の言い訳を並べだした。

「これは俺たちが、湖にいたブラックバスの子どもを駆除した成果だよ。このブラックバスはこの後、全部処分した。何も文句はなかろうが。だいたい、お前は何者だ」

 大木はまた平気でうそを言う。

「大木宗光、翼館のオーナーだよ。御剣に頼まれて出てきたんじゃが、いけなかったかの?」

 オーナーだと? 敵がひるんだすきに、大木は、次の写真を突きつけた。

「今朝、うちの翼館に盗難車の2トン車が突っ込んだんだが、ほら、これが犯人だよ。フィッシングセンターの若造だろうが?」

「言いがかりをつける気か? なに犯人の写真だと…そんなものあるはずないだろうが…え、何だこりゃあ?」

 黒ずくめに変装した加藤の写真だ。ちょうど、衝突の直後、運転席から降りる姿がバッチリ映っている…。

「馬鹿野郎、この写真は服は違うし、マスクしてるし、サングラスかけてるし、だれだかわからないじゃねえか、こんなもの、何の証拠にもならん!」

 でも大木はまったくひるまない。

「こいつは今さっき、店の前に立って記念撮影したんだが、髪形だけじゃねえ、オレンジ色のスニーカーまで一緒だ。こりゃあゴマかしきれないんじゃねえか?」

 黒仁田がまた加藤を睨んだ。

「なんだ加藤、お前このじいさんに写真撮らせたのか?」

「すいやせん。まさかこんなこととは」

「おい、じいさん、お前の狙いは何だ」

 すると大木はにやりとして平然と言った。

「口止め料、大負けに負けて五百万でどうだ。安いもんだろ? あんたが払えば、この写真はすべて処分して、警察には黙ってやるぜ」

「なんだとう! おめえ、自分が何言ってるのか分かっているのか? お前に払うような金は一文もねえよ」

「へえ、じゃあ、かわいそうだが、刑務所送りだな、若いの」

 さすがの加藤がビビり出し、不安な視線で黒仁田を見ている。このじいさん、筋を通すどころか、金を巻き上げようと始めちまった。

「もしも加藤が犯人でも、それはそいつが一人でやったこと、うちには関係ねえ。うちは若造一人が抜けたって、なんにも困らないぜ」

 黒仁田も口では強がっているが、かなりまずそうな表情になって来た。大木のじいさんは

「お前さんのことはどうでもいいってさ。かわいそうに、じゃあ、これから俺たちと一緒に自首してくれ、全部俺がやりましたと警察にちゃんと言うんだぞ」

 見捨てられた加藤は、大木にあおられて怒りだした。

「黒仁田さん、俺一人の犯行はないっすよ。命令したのも、段取りしたのも黒仁田さんじゃないっすか」

 加藤がそう言った途端、打ち合わせ通り、大木が目配せした。七橋は小型録音機を取り出し、大きな声で言った。

「大木さん、確かに録音できました! 命令したのも段取りしたのも黒仁田だってね」

「ちょ、ちょっと待てえええ!」

 今度は困ったのは黒仁田だった。

「やい、なんてことをしやがる、それをこっちに渡せ、早く録音を消せ」

「おっとっと、そうはいかねえ、さあ、早く行こうぜ」

 だが、大木さんは、加藤を自首させようと、無理やり引っ張って歩きだす。黒仁田を無視してだ。

「わかった、ちょっと待て、交渉しようじいさん!」

「なんだ、話がわかるじゃねえか。黒仁田さんよう…」

 でももちろん五百万などすぐには払えないと言う。すると大木はニヤッとして、

「俺だって、無理にないものを取り上げようって気はない…じゃあ、秋のフィッシングの全国大会まで待ってやるよ。それまでちょっとでもおかしなことをしてみろ、すぐに…」

「全国大会だと?! わかった、わかった…」

 その単語が出た途端、顔色が変わった。

 秋のフィッシングの全国大会は、黒仁田たちの書き入れ時だ、万が一事件が発覚して大会が取りやめになれば、それこそ一大事だ、大木はその辺も心得て駆け引きに使っているようだ。そしてこちらに一切手を出さないことで一筆書かせてケリをつけた。五百万円は玄関の修理代の実費にいつの間にか変わっていた。

 大木のじいさんは、黒仁田と加藤を仲たがいさせる作戦で、交渉を有利に進め、全国大会とからませることにより、しばらくの間相手の動きを封じてしまった…。修理代も出そうだし、とんでもないじいさんだ。しばらくはこれでやつらも何もしてこないだろうと笑っていた。

 しかし翼館はとんでもない集団だ。平気で隠し撮りする武藤さんに、あっという間に作戦を練る御剣さん、監視カメラのシステムをすぐ自分のものにし証拠写真をプリントする幸田正剛さん、2トントラックを突っ込ませる怖い男たちと互角以上に駆け引きをする大木のじいさん…すごいメンツがそろっている。

「じゃあ、七橋君、車を出してくれよ、ブワッハッハッハ…」

 あの豪快な笑いとともに、七橋たちは翼館に帰って行ったのだった。


「北条鉄馬君と言ったね。いよいよ測定データが出たよ。素晴らしい結果だ」

「ええ、本当ですか?」

 今日総合スポーツセンターに行った鉄馬は、アリーナの西側に設けられた最新機器を使っての運動能力テストを受けていた。まず驚いたのは、最初に身長や体重、体脂肪や各部の筋肉のデータなどをとるのだが、なぜかここ三年間ちっとも変らなかった身長が二センチ伸びていたのだった。あと一センチで百八十なのにその手前で身長が止まってしまって、長い間気になっていた。ところが今日は百八十一センチ、二センチ伸びていたのだ。基本的な背筋力や握力、肺活量なども高校時代よりどれも確実に伸びている。体も軽いはずだ。あとは最新の機器をつけてバスケの試合をして、スピードや反射神経、有効ジャンプ力などを測ったのだが、その結果もすこぶるいいと言うのだ。

「君は努力をしてきたんだね。もうちょっとでオリンピッククラスの数値だよ」

「本当ですか? うれしいなあ」

 鉄馬はここの素晴らしい設備のバブルバスや炭酸シャワーを浴びて、すっかりすっきりして出口へと向かって行った。

 そして、鉄馬は密かに思っていた。なんとかして沢渡野菊をここに呼ぼう、そして進化した自分を見てもらうのだ…。

 そう、心に誓ったのだった。


 その頃風間は、ナターシャと二人でエレベーターに乗ってネクサピス財団病院の最上階へと昇っていた。

「到着しましたよ、風間さん」

 最上階でエレベータのドアが開くと、そこは重厚なカーペットと大理石の壁のある広いエレベーターホールだった。ルネッサンスの彫刻の足元には、美麗な噴水が快い音を立てて水を噴き上げていた。

「黒逸仁院長は、奥の特別室でお待ちしております」

 風間はちょっと緊張して、ナターシャ前園に案内されて、廊下を奥へと進んで行った。特別室の表示のある部屋に着く。ナターシャがドアの前で手をかざすと、金属製のドアがゆっくりと開いた。

「どうぞ、こちらへ」

 中は広く、薄暗い空間で部屋の中ほどに二つの椅子が向かい合って置いてあった。風間は一つの椅子に座った。誰もいない椅子が目の前にある。ここに院長が来るのだろうか? ナターシャは部屋の隅に行ってまた手をかざす。すると床からコントロールパネルがせり上がってきて、パカンと開くと不思議な形のキーボードが、点滅を始めた。

 いったい何が始まると言うのだろう。ナターシャがおごそかに言った。

「風間さん、あなたはジャーナリストです。ジャーナリストが、偏見や先入観を持って取材に臨めば、事実は曲げられて伝わってしまいます。黒逸院長は、それを気にしています。あなたが、われわれや院長に対してどのような知識や思いを持っているのか、事前に私が聞く段取りになりました」

「私のつかんでいる情報が、事実を大きく異なっていたらどうなるんです。会えなくなるということですか?」

「いいや、私が訂正を入れます。そのあとで必ず院長に会えますのでご安心ください。いいかしら?」

「わかりました。それで結構です」

「では、私からいくつか質問します。それに答えてもらえばいいのです」

 いったい何なのだろう、なんの目的でこんなことをするのだろう? 色々考えたが分からなかった。風間の考えが、全く及びもつかないことが動き出していた。

「では、まず始めに、われわれネクサピス財団病院についてのあなたの考えを聞きましょう」

 風間は冷静にしゃべりだした。

「…まずはネクサピスという単語、これがすべての鍵です。色々調べた結果から考えました。ネクサピスとは、ネクストサピエンスの略です。つまり、最新の医学や科学技術を使って、現生人類のホモ・サピエンスを進化させて次の段階に進ませることが目的だと考えられます。アメリカにいくつかあるネクサピス財団病院ですが、私の調べたところ、本部は、ドイツにあり、超最先端の遺伝子加工技術を有する研究所を持っているはずです」

 それを聞いていたナターシャ前園は静かに答えた。

「百パーセント正解です。さすがですね、風間さん。では黒逸仁(クロイツ・ジン)についての見解をお聞きしたい」

「…一言で言って、謎の人物でした。ここの病院の人名リストには院長として記載されているのですが、詳しく調べようとすると、経歴も年齢、国籍すら分からない。私の広い人脈を使い、アメリカやドイツなども調べたのですが、長い間何もつかめなかった。でも、ドイツのネクサピスの研究所の資料を調べた時、九十年代のゲノム編集の実験体につけられた名前を見てピーンと来たんです。実験体のプロトタイプの中に、ディーン・クロイツという名前があった。黒逸仁(クロイツ・ジン)と同一人物ではないかとね。そうだとすると、ディーン・クロイツはドイツ人を父親に、日本人を母親に持つゲノム編集の実験個体として生をうけた可能性が高い」

 ナターシャは大げさに驚いて見せた。

「よく探り当てましたね、大正解です。最後にわかる範囲でいいから、黒逸院長が、どんな外見をしていて、どんな特徴を持っているか風間さんの考えを教えてほしいとおもいます」

「分かりました」

 風間は最後の質問と言われて、慎重に言葉を選びながら話しだした。

「黒逸院長は、受精卵の時代にゲノム編集の手術を受け、まず、あらゆる遺伝病や遺伝子が原因となる疾患の元を排除されている健康体です。さらに優秀な遺伝子を多数持っているため、高身長で運動神経も素晴らしく、知能指数も常人をはるかに超えているかもしれません。何カ国語もしゃべれるとか、楽器もきっと得意でしょう。外見はたぶんドイツ系の彫りの深い顔で、魅力的な印象を持っていると考えられます。一言で言うと、ホモ・サピエンスを越えた存在でしょう。と、まあ、こんな感じで考えていますが、いくつ当たっていることやら…」

 するとナターシャは拍手しながら言った。

「驚きました。事実だけを比べるなら、かなり当たっています。彼は十六カ国語を話し、医学博士と物理学博士の二つの博士号を持ち、バイオリンとピアノはプロ級の腕前です。よろしい、院長に会わせましょう…というか、院長は実は最初から風間さんの目の前にいたのです」

「え?」

 そこから先は、世界的マジシャンの、またまたイリュージョンの始まりだった。

 まず風間の前にある誰もいない椅子に上からスポットライトが当たった。するとそこに金色に輝く光の粒子が輝き始め、それがだんだん人の形になって、最後には一人の男性になって、椅子に座った形で出現したのだ。

「始めまして。黒逸仁、ディーン・クロイツです。どちらの名前で呼んでも結構ですよ。お手柔らかにお願いします」

 彼は丁寧な日本語できちんと目を見つめながら話してくれた。それは青く澄んだ瞳を持ち、しなやかな筋肉がまぶしい、高身長で聡明な美青年であった。だが自然に伸ばしたような長髪、子どものような輝くまなざし、威圧感や秘密めいた感じもない、これがネクストサピエンスなのか?!


 その頃、八岐はあのバスを白の兵団に運転させ、湖畔を農村部のある西岸にむかって走っていた。そして、なんと服装も若者風に着替え、すっかり青年のように若くなった二宮を後ろに乗せている。

 それは顔のしわやしみが消えたとか、頭髪が豊かになったとか、そんなレベルではなかった。姿勢も体幹もしっかりして、若い気力に満ち溢れていた。一体何が二宮に起きたのかもう誰も説明できなかった。

「…二宮さん…今からあなたを連れていくところは…あなたが強く望んだ場所です。細かいことはあなたには説明できません。ただあなたが何も疑わず、我々を信じてくれる限り、あなたはそこにいることができます。今日は夕方にお迎えに上がりますが、そのうち自由にこちらと向こうを行き来できるようになるかもしれません。どうしますか? なにがおころうとも、私たちを信じていただけますか?」

 二宮はしばらく八岐の顔をじっと見つめてから答えた。

「信じましょう。何も疑わずに行動しましょう」

 八岐は二宮を連れて湖畔の小さな公園に降り立った。

「あそこです。あの湖に降りる階段を下りて行ってください」

「では約束の時間に、またここで」

 二人は軽く挨拶を交わし別れて行った。


 確かあれはあの七橋青年と話したのがきっかけだった。心に残る思い出と聞かれて浮かんだのはあの町のあの出来事だった。そして体に若さが戻ってきた今、猛烈に熱い思いが込み上げて来ていた。公園の隅の石の階段を少しずつ降りる。湖へと近づいて行く。その時うっすらと霧が流れ。遠くで外洋航路の客船の霧笛が鳴り響いたように感じた。さらに階段を下りる。行き交う小舟のエンジンの音に混じって、人々のどよめき、あれは自動車の音、おお、そうだベルの音、路面電車の懐かしい音も聞こえてくる。

「おう、こ、これは…!」

 霧の向こうにフランスかと見間違うような石造りの大きな建物が並んでいるのが見える。ショーウィンドウの中には最新のファッションが鮮やかに競うように飾られている。後ろから声がする。

「二宮、待って! ほらこれ見て!」

 中国人の歌姫光夏(グアンシャ)が雑誌を持って追いついてくる。

「二宮、見てよ。今日発売の上海画報よ。フロントのタンさんがくれたのよ」

「すごい、この間のチャイナドレスの写真がばっちり載ってるねえ。きれいだ、また大人気間違いなしだな」

「本当? うまく写ってる?」

「ああ、きれいだよ、大成功だ。でも、本物の方がずっときれいだけどね」

 うれしそうにしなだれかかってくるグワンシャ。

 ホテルの階段を下まで降りると、そこは上海、そう目の前に広がっていたのは千九百三十年代の、東洋のパリともてはやされた外国人居留地の大通りだった。

「二宮の旦那さん…」

 ホテルの玄関を出ると、人力車がすーっと近づいてくる。

「おう、ハンさん、今日はまずフランス租界のあのケーキ屋、なんて言ったっけ、あ、ロアーヌ、そうだ、あそこに寄ってくれ、彼女がお土産を買いたいそうだ」

「へい、かしこまりました」

 人力車で大通りの雑踏を少し進むと広い揚子江の流れが見えてくる。さらに進むとあの美しい教会があり、そして赤レンガのケーキ屋だ。二宮とグアンシャはそこで買い物をすると、彼女はそのままケーキの箱を持ってにこにこしながら、帰って行った。

 あの当時諜報部の将校だった私は、身分を隠し、上海に潜伏して情報を収集していた。このころの上海は欧米風の建築が所狭しと並び、デパートには欧米の最新のファッションが飾られ、路面電車が走り、ダンスホールや映画館がにぎわっていた。主な任務は国際都市上海で活発に動く、反日組織の実態を暴くことだった。当時の上海は、フランス租界、協同租界など列強がそれぞれに自治区を持ち、利権を握っていて、その裏でいろいろな勢力が暗躍していたのだ。

 この人力車の車夫ハンはまじめな若者で、日本の手引きをこっそりしてくれたり、貴重な情報をくれたりする、ここ上海では一番の味方だ。

「…二宮さん、例の件で阿片窟のチャンの手下があんたを探して狙ってるという噂だ、二、三日姿を消した方がいい」

 例の件というのは、昨日、二宮がドッグレースを見に行った時のことだ。グアンシャのごひいきのグレイハウンドが大勝ちして、ついはしゃいでしまったのがいけなかった。チャンの一味に気付かれてしまったのだ。その時二宮の左腕には、上海のトップモデルのあのグアンシャがぶらさがっていた。阿片窟の顔であるチャンはグアンシャに入れ込んでいたのだが、よりによってそのチャンが買ってくれた最新のチャイナドレスを彼女が着ていたものだから、チャンの嫉妬の炎が燃え上がってしまったのだ。

「チャンの手下か…? じゃあ、今のホテルはすぐに分かっちまうし、どこにいったもんだかなあ…」

 二宮が思案を巡らせていると、ハンが急に思いついたように言った。

「いっそ、私の家へ来ませんか…あそこならだれも追いかけてきませんよ」

 二宮は急いで協同租界のホテルの部屋に戻り、身支度を整え、荷物をまとめてハンの人力車に飛び乗った。そして上海の街を少し離れた農村部にこっそり入って行く。

 当時の上海はフランス租界など、外国人居留地は独自の治安組織を持ち、治安は良かったが、一歩上海を離れると、反日組織や秘密結社が我が物顔にふるまい、二宮でもなかなか近づけなかった。でも揚子江沿いで外国人の往来も多いハンの村は比較的安全だった。租界の裏をちょっと行くともうすぐそこがハンの住んでいる村だ。放し飼いになっている鶏を蹴散らしながらハンが小さな貧しい農家へとはいって行く。まだ仕事があると言うハンは再び人力車をひいて、租界へと走って行く。二宮はリュックを背負い直し、農家へと入って行く。二宮はあの頃と同じような元気な足取りで、その家の方へとどんどん近づいていった。

 そして、家の中で待っていたのはありえない人物だった。

「…二宮さん、お久しぶり、来てくれたの、ありがとう!」

 …そうだ、自分はどうしても、どうしてもこの娘に会いたかった…。

「今、兄さんがスーファと一緒に日本軍の手伝いをしているから、あと少しで戻ると思うんだけど…、ごめんね、食べ物も何もなくて…」

「はは、そんな事だろうと思った。食料なら俺のリュックにある。ヤンファにあげようと思ってな」

 二宮はいつの間にかリュックを背負っていて、中から高級品の缶詰などが出てくる。

 ヤンファは喜び、畑から野菜を採ってきては料理を始める。

 ヤンファは十七才、ハンの自慢の妹で、よく働き、よく笑う。ここを三度目に訪れた時はハンがまじめな顔でこう言ったことがあった。

「二宮さん、うちのヤンファは、あなたが来ると朝聞いた時からそわそわして、もう、あなたが帰ると元気がないんです。どうも二宮さんのことを好きみたいです。今夜お相手させましょうか?」

 二宮は笑ってこう言った。

「はは、いつも世話になっているハンさんの大事な妹さんに手を出すなんてとてもできない、罰が当たるよ」

 するとハンはにこっとして答えた。

「…そう言うと思ってた。だから二宮さんが好きなんですよ」

 今日のように隠れ家として使ったことも何度かあった。

 ヤンファは今日も器用に畑の野菜と缶詰でおいしい昼ご飯を作ってくれた。午後は学校に行っていないヤンファに、読み書きを教えたりするのが恒例になっていた。ヤンファが頑張って少しずつ覚えると、ハンもとても喜んだ。

「じゃあ、また明日来るからな」

「必ずよ、二宮さん!」

 そして夕方、約束の時間が来る。ハンの人力車に乗って、また協同租界のホテルに戻り、あの階段を戻って行く。上まで昇って振り返れば、そこはあの湖畔の風景が広がっていた。二宮はバスに乗って八岐のいる病院へと帰って行った。


 大木宗光老人とボート村で交渉に当たっていた七橋は、あの軽トラックでやっと翼館に帰って来た。御剣さんを筆頭に翼館のみんなが集まり、もう手を出さないと一筆とったり、修理代も出す方向で話がついたと聞いて、みんなほっと胸をなでおろした。やはり、おばあさんたちは、夜道に気をつけろなどと脅されてかなり不安になっていたらしい。大木さんはヒーローとなってみんなに事細かく話をして、大はしゃぎだった。みんな居心地のいい翼館のラウンジで、サチエさんのおいしい紅茶を飲んだり、手作りのポテトチップやインド風揚げギョーザをつまんだりして大喜びだった。

 夕食が終った頃、七橋はあの武藤さんから借りた「御剣博士の恋愛の生物学」をもってラウンジに降りてきた。とても面白かったと御剣博士にお礼を言った。すると博士も喜んで、本や恋愛の話で盛り上がった。

 参考のために紹介すると、本はこんな内容になっていた。

「御剣博士の恋の生物学」

 第一章;なぜオスとメスが生まれたか。性のないゾウリムシの永遠の命、体が分裂して増えていく限り、命は終わらないが、進化も進みにくい。性が生まれることによって加速される進化、性が生まれたから老化が始まった。交配も可能になり、世代交代も進む。


 第二章;駆け引きするオスとメス;小さなオスが大きなメスの体の一部になってしまうチョウチンアンコウ、体の色をめまぐるしく変えるイカや恋のパフォーマンスをする珍しい鳥たちの例をあげ、大自然の恋の真実を探る

 第三章「人間の恋」発情、物理的要因、社会的価値観、遺伝子の多様性、理想分身…。

 この本を読破したと言う七橋に、御剣博士は、どこが面白かったかと聞いてきた。

「やっぱり第三章ですね。特に第三章の、理想分身ってのが納得しましたね」

 第三章の概要は以下の通りだ。

『恋愛には、多様な側面がある。その一つめが生物学的な要因、発情である。その時期が来て条件が整うと、オスとメスは遺伝子などに決められた手順に従ってお互いを求めあう。適齢期になると人間は季節に関係なく、一年中発情が起きる状態となる。動物によっては一生に一度、数年に一度、一年に一度の発情も多いと言うのにだ。

 また、人間は二十八日周期で妊娠も可能で、発情期間が長いことと併せて、どんどん繁殖できることが人類繁栄の戦略の一つだと考えられる。

 二つ目は物理的要因、良い子孫を残すために、体の健康で強い個体、求愛行動の上手な個体、子どもを育てるための縄張りや巣穴、経済基盤や資産をもっている個体が求められる。

 さらに三つ目は社会的価値観、人間は集団生活をする社会的生物でもあるので、生活するための色々な価値観が似ていることが大事になる。

 四つ目として、遺伝子の多様性がある。自分とは遺伝子が異なる傾向の相手を求めることも知られている。明らかに遺伝子が異なる外見の違い、体質や体臭の違いなどの条件を持つ相手を求めれば、遺伝子は多様性を増してさらに強化される。だが、社会的価値観の似ていることと遺伝子の違うこと、この二つは想反する場合も多い。たとえば、幼なじみには信頼と愛着があるが、都会から来た転校生にも新鮮な魅力を感じる状態なのだ。これは男女の仲を矛盾をはらんだ難しいものにしてしまう場合もある。

 また、文化が進み一人一人の人権が保障され、自由が増え、価値が多様化してくると、ますます男女の価値観も多様化する一方、その半面、自分とぴったりくる相手とめぐり合う確率は低くなる。先進国で離婚率が高くなったり、少子化が進むのはこの要因も大きいと思われる。

 ゆえに、人類の進化が進むと、お互いが多様な価値観を持つようになり、さらに矛盾しあう条件も抱え込み、細かい価値観までぴったり合う相手は簡単に見つからなくなっていく。それでは子孫を残せず、人類はそのうち絶滅してしまう。もちろんそれでは困るので人間は別のシステムを進化させた。その複雑な条件を単純化し、整理するために造られたと思われるのが「理想分身」である。相手の多様性を理解するのではなく、理想化したその一面を強調して分身を作り魅力を感じる心理的システムである。

「この人はやさしくていい人だなあ」

「この人は好みのタイプだなあ」

と、思うとその面が強調されて細かい不一致は目に入らない、理想化された分身を通して接するシステムだ。スター芸能人や人気スポーツ選手などは、このシステムが発達したからこそ、その人間の本質にかかわらず無条件でキャーキャー騒がれるのである。またスター自身もその分身を演じきることによって、ますますその効果は高まる。でも、これが発情と結びつくと「理想化された分身」そのものに恋するようになり、その人間の本質や多様性は無視されてしまうことも多い。いわゆる恋は盲目である。一度この状態になると、理想化された相手の一側面だけが強調されて見えてくるので、元の個体との細かい価値観の違いは無視されて恋愛行動が進み、結果として子孫を残すことができるわけである。「理想分身」があるから、多様な条件に目をつぶり子孫を残せるのだが、本人と理想化された分身の間に開きがありすぎれば、それに気付いた時、逆に悲劇も少なくない。真にその相手を理解して良い関係を築くためには、「理想分身」に振り回されず、相手の多様な価値観を理解することが大事である。

 真に相手を理解し相手の素晴らしさに触れた時、「ゆるし」や「無償の愛」によってすべてを乗り越え、真の絆にたどり着くことができるだろう』


「なんかこう、理論的に説明されると、ロマンチックな恋なんて身も蓋もないように思えたんだけれど…「理想分身」は納得しました。昔自分も、相手の細かいことを理解するのではなく、一部分だけを美化して憧れていただけなんだってね。結局その彼女とは長続きしなかったんだけれど…今から考えれば、彼女の深い部分は何も知らなかったし、分かろうとさえしていなかった。お互いに分身に憧れて、現実の相手とのギャップにどうしていいのか、対処がうまくできなかった…。「ゆるし」とか「無償の愛」と言うのはまだよく分かりませんけど…」

 夜が更けるまで、翼館の灯はともっていたのだった。

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