三日目 異世界への扉
「おはよう、おお、三崎さん、ちょっと来てくれ…」
目が覚めた早々に三崎老人は二宮老人に連れられ、バンガロー村の洗面所に連れていかれた。
「ははは、いったいどうしたっていうんだ」
「ほら、三崎さん、わしら、きのう女子大生から若返りの水をもらって飲んだだろう? どうも効果が出てきたみたいなんだ…」
「ええ? そういえば、なんだか体も軽くなったような…?」
そして洗面所に取り付けられた鏡をのぞいて見て驚いた。しわしわよれよれだった九十五才の顔はそこになかった。どう見ても七十、いいや六十と言ってもおかしくない力のみなぎる顔が鏡の中にあるではないか。
「実はな、あの後あの二人の女子大生の名まえを聞きだしたり、いろいろ話をしていたんじゃが、そのついでにもう一本ずつペットボトルをもらっておいたんだ」
「いつもながら、女関係はやることが早いなあ二宮さんは」
「レストランで冷やしてもらっていてな、朝食の時二人分がまた飲めるぞ。どうかな?」
「そりゃあいい。私もぜひ飲ましてもらいますよ、ははは…」
そう言って二宮と三崎は元気に歩いて行った。するとそんな二人を横目で見ながら、あの背の高い瀬川麗香がバンガロー村の本部からそーっと出てきた。せっかく元気になっていたのがうそのように足は重く、隣のレイクゴージャスの方を見てはため息をついている。よほどのショックのようだ。麗香はだれと挨拶を交わすわけでもなく、レイクゴージャスの建物から離れるように、湖へとひっそり歩いて行った。
その頃、バンガロー村に向かって走ってくる人影があった。そう、早起きしてランニングに出ていた鉄馬だった。でも鉄馬はそのままバンガロー村には入らず、湖畔の岩陰に座り込んだ。そしてぼうっと朝日に輝く湖を見ていた。なんとなくバンガロー村に足が向かなかった。
「沢渡…野菊…」
岸辺に打ち寄せるさざ波が遠い記憶を呼び起こす。あの日も波が打ち寄せていた。波の音だけがボート小屋の中に響いていた。三年前、二人は同じ私立高校の同級生だった。たまたま夏の合同合宿の先がバスケ部も水泳部も同じ海辺の大きなホテルだった。バスケ部の優秀なレギュラー選手と女子水泳部の地味な女の子は、お互いにあこがれを抱いていたが挨拶ぐらいしかしたことがなかった。それが合宿中にいろいろな出来事があり、あの最終日の水泳部の遠泳大会の時、運命のいたずらか、思いがけないことがあった。片づけを手伝っていた鉄馬のいたボート小屋に、野菊が荷物を運んできたのだ。椅子に乗って棚に荷物を上げようとした野菊がバランスを崩した時、鉄馬のがっしりした腕が支えてくれた。気がつくと二人っきりで波の音以外は何もなかった。自然に野菊の肩を抱き寄せてしまった鉄馬。ついあこがれの野菊にキスをしてしまった、あえてそれを受け入れてしまった野菊…。でも、その気持ちをそれ以上発展させることなく、合宿は終わり、かえって二人の間には距離ができてしまったのだった。それが、なんという偶然、少し大人になった彼女は同じバンガロー村にいるのだ。でも昨日の夕食の時は、かえって野菊と塔子に声をかけるどころか、そばで食べることもできなかった。朝食の時も顔を合わせる勇気が少し足りない。バスケではだれにも負けない自信はあるのだが、こんな局面にはめっぽう弱い自分が情けなかった。
鉄馬は時計を見てまだ余裕があることを確認し、その岩陰で湖を眺めていた。
「七橋さんは別の宿で、今こそチャンスなのに…」
野菊と楽しそうに話していた七橋、倒れそうになった野菊を助けた七橋、鉄馬の中では、七橋はすっかり最強のライバルになろうとしていた…。
「あれー、瑠璃さんでしょう、すごい、今日はセレブのマダムみたい?!」
レストランに入ってきた瑠璃を見て野菊が驚いた。塔子も感心した。
妄想コスプレイヤー、八千草瑠璃が今日もパワーさく裂だ。どうも昨日は見知らぬ土地をさまよう異邦人のイメージであの派手なエスニック風のファッションを決めていたというのだが、今日はゆったりと涼しげな感じの水色のコーディネートで、豊かな緑色の帽子と流れるような白や水色のエクステンションをつけている。
「…瑠璃さん、…もしかしてそれって滝…白滝…ってこと?」
すると瑠璃は涼しげにほほ笑んだ。
「ピンポーン!」
当たりだった。森と滝のイメージらしい。
「あれ、瀬川さんは? 鉄馬君はまたランニングかしら?」
すると野菊が、
「麗香さんかわいそうに今朝も気分がすぐれないようで…でもさっき出かける前に凄いもの置いていったのよ」
すると塔子があのパワースポットツァーの資料を取り出した。
瑠璃はさっと目を通すと、今度は自分の手帳を取り出した。
「すごーい、どこの旅行会社にもない内容が、わかりやすくまとまっているわ。ちょっと参考にさせてもらおうっと」
手帳に書き込むマイペースの瑠璃。塔子が興味深そうにのぞきこむ。
「それって、新作のネタになるかもしれないやつですか?」
「その通り、今回はいいネタが色々入ってね…」
塔子はぜったいに誰にも言わないと言う約束で、頼み込んでネタをちょっとだけ見せてもらった。
「へえ、通せんぼに、四つ辻のアヤカシ…展望台の家族に…あ、この男爵邸の富子様って言うのが凄そうですねえ…」
すると瑠璃は古い観光パンフレットを広げた。中にはちょっと色あせしているが、男爵邸に保管されている富子様の肖像画ってのが印刷されている。なるほど、清楚で本当に美しい。
「このパンフレットをもらった喫茶店のマスターに聞いたんだけど、男爵邸のどこかにその富子様の肖像画が保管してあるらしいの。今日男爵邸に行ったら、ぜひ本物を見せてもらおうかと思って…。まるで生きているような見事な肖像画らしいわ…」
その時、二人の老人が近づいてきた。
「いやあ、野菊さんに塔子さん。お礼を言いに来ましたよ」
「ええっ、うそ、お二人とも見違えるように元気になっちゃって」
「ははは、もちろんあなた方にもらった若返りの泉のおかげですよ。また今朝もたっぷり飲んじゃったから、明日はもっと若くなってるかもね」
二宮が元気に言うと三崎も頭を下げた。
「なんだか本当に体調も良くってね、これから二人で湖に行こうって話していたんですよ」
野菊も塔子もこの二人がもともと九十五歳以上の高齢者であることも知らない。二人が元気そうなのを見て心から喜んでいた。二人はさっそく楽しそうに話しながら、湖へと歩いて行った。
「さて、あんまりのんびりしていると朝ごはん食いっぱぐれちまうな。そろそろ帰るとするか…」
立ちあがった鉄馬だったが…その時、不思議なものを見たのだった。鉄馬のいるところから五十mほど離れた湖の中に不思議な光が立ち上り、ゆらゆらと揺れ出したのだ。
「いったいなんだ?」
すると光の中、岸から五mほどの水の中から光る人影のようなものがゆっくり浮かび上がり、やがて水面の上にすらりと立ちあがったのだ。
「…?!」
その人影は若い女の人で、銀色のロングドレスを着ていた。この世のものとも思えぬあやしい美しさで、鉄馬はその場から一歩も動けなかった。そしてその女の人は、岸辺に向かって手招きをした。すると一人の背の高い女性が木陰から姿を現し、引き込まれるように近づいて行ったではないか…。
「れ、麗香さん、だめだ、そっちに行っちゃだめだ!」
麗香は救いようのない暗い表情で鉄馬の声も聞こえないようだ。誰もいない早朝の湖畔を、鉄馬は一気に全速力で走り出した。
「麗香さああん!」
だが、止めるには距離がありすぎた、麗香はそのまま岸辺の岩の上から飛び込んだ。
「麗香さあん!」
それから数秒の間何がどうなったのか分からない…。気がつくと鉄馬はびしょぬれになって、麗香を抱きかかえて岸辺に立っていた…。腕の中で麗香はまだ確かに生きていた。だが何かひどくうなされているようで、苦しそうにうめき声を上げていた。
「…そうだ、病院…」
それからわずか数分後、びしょぬれの麗香を抱きかかえた鉄馬は、財団病院にたどり着いていた。麗香はネクサピス財団病院の緊急外来に運び込まれ、すぐに応急処置がとられた。
「発見者の素早い対応のおかげで、水もほとんど飲んでいないし、本人が落ち着けば退院はできます…後は心のケアですね…」
担当の医師があの女性型の医療用ロボットとやってきて、待合室の鉄馬に告げた。少しして会いに行くともう麗香はベッドで上半身を起こして少し顔色も良かった。
「鉄馬君が助けてくれたのね…」
鉄馬はなんと声をかけたらいいのか分からず、少し時間を置いてから言った。
「ダメですよ…麗香さんのような素晴らしい人が命を粗末にしちゃあ…」
「でも私みたいなデカ女、運ぶの大変だったでしょう?」
麗香は頬を紅潮させてつぶやいた。でも鉄馬の答えは予想していないものだった。
「…麗香さんを助けようと夢中だったもので…何も思わなかったです…」
すると麗香は子どものような素直な瞳でこう答えた。
「…ごめんなさい…でも、もう大丈夫、二度とこんなことはしない…本当にありがとう…」
鉄馬はしばらく麗香の顔をじっとみつめそして言った。
「…良かった…じゃあ、僕は行きます」
廊下に出ると、連絡を受けてやってきた野菊と塔子と瑠璃がそこにいた。あの黒い携帯で八岐から緊急連絡が入ったのだと言う。
「今、あって来たんだけど、かなり元気になって落ち着いているようだよ」
「よかったわ…こんなにダメージがないのは奇跡的だって先生がおっしゃっていたわ」
「鉄馬君も疲れたでしょ。あとは私たちに任せて。少し休んでね」
瑠璃がやさしく声をかけてくれた。
「あ、そうだこれ良かったら食べて」
北条鉄馬は野菊と塔子が持ってきてくれた朝食のトーストと牛乳を胃に流し込み、病院を後にした。
その時、同じ財団病院の受付で、風間も粘っていた。
「何度言われてもこればかりは…アポイントのない方はお会いできません。お引き取りください」
「じゃあ、ナターシャ前園さんをお願いします。彼女と一緒なら取材許可が下りているんです」
さすがの受け付けも風間の粘りに負けたようだった。
「…では、少しお待ちください」
しばらくすると奥から白衣のナターシャが静かにやってきた。そして風間が挨拶すると、意味ありげにほほ笑んだ。
「おはようございます。風間さん。今日は、無理難題を言って、受付の方を困らせているみたいね」
風間は、にっこりと笑って、まっすぐにナターシャの目を見た。
「…色々考えたんですが…やはり普通にやり合っていては、あなた方には全く歯がたちそうにない。そこで考えた結論がこれです。このネクサピス財団病院の院長、黒逸仁へのインタビュー取材を申請します…。もちろんナターシャ前園さん、あなたと一緒にね」
ナターシャは、風間の意外な申し出に戸惑いながらも、その場で院内専用の携帯で連絡をとり始め、最後にこう答えた。
「黒逸院長は明日、お会いになるそうです。詳しいことは、八岐から連絡が入るということです」
「やった、ありがとうございます」
風間はにこりとして、ナターシャ前園にウインクをして、今日は意気揚々と病院を引き上げていった。だが、この風間の申し出は病院側にはもうとっくに予測されていて、違う罠が動き始めていたのであった。
「え、どういうことだ?」
総合スポーツセンターで、また一人でトレーニングしようと思っていた鉄馬は驚いていた。総合スポーツセンターのアリーナでは、いるはずのない十人ほどの二十代の男性が、バスケや基本トレーニングをしていたのだった。
「あのう、すみません、あなた方はどういうグループなんですか?」
すると照井というトレーナーがやってきた。
「いやあ、我々は、ここに沢山やってくるはずだった若いアスリートたちの運動能力データをとる目的でおとといこの湖畔にやって来たんだ。運動総合化学ラボという、大学との研究をしている団体なんだが…、いやあ、この土砂崩れで誰も来なくなって、すべて予定が崩れて踏んだり蹴ったりさ。君こそどうしたんだい?」
鉄馬は、自分も高校生のバスケ部の指導のためにここに来たと話す…。
「…じゃあどうだい、我々の研究に協力してくれないかな? ここで我々のスタッフとともにバスケをやってもらって、そのデータをとらせてもらえないだろうか? そのまま大学で貴重な研究データとして使わせてもらうわけだ」
一人練習のむなしさを味わっていた鉄馬は、願ったりかなったり、二つ返事で快諾した。思いがけなく、きちんとみんなでバスケができる…。それだけでうれしかったのだった。
その頃七橋は、また湖畔パトロール用の軽トラックを運転して、高塚のいる男爵邸へと向かっていた。そしてなぜか今日は助手席に翼館のあの電気工事の武藤さんがゆられていた。
「え、じゃあ、おれはその細工をされた電動車いすをみればいいんだな」
「ええ、直さなくてもいいんですが、今はブレーキが利かない状態だということを証明してもらえばいいって言ってました。偶然故障したのか、何か部品に細工されてそうなったのか分かればいいんですけど…」
「まあ、みてみないとはっきりしたことは言えねえが、細工されたんだとすると、ある程度分かると思うよ。けっこうそういうの得意なんだ」
「あと、もう一か所見てもらいたいことがあるそうなんだけど、それはへたに動くと犯人に悟られるから男爵邸に着いてからこっそり説明すると言うことらしいです…」
「了解…ふふ、お役にたてればいいんだが…」
やがて軽トラックは男爵邸に着き、七橋と武藤はまず別荘に入って行った
管理人の立石が出迎える。
「ご苦労様です。探偵の高塚様は今、封鎖中の男爵邸であなたたちをお待ちしていますよ」
「…封鎖中なんですか?」
武藤の問いに七橋が答えた。
「今こっちの別荘にいる人のほとんど全員に犯行の疑いがかかっていて、証拠隠滅の恐れがあるので、原則捜査関係者以外は男爵邸には入れないらしいのです」
「そんな…ほぼ全員に犯行の疑いだなんて、そんなことあるのかい?」
驚く武藤。
「高塚さんも、こんな事件は初めてだって言ってましたよ」
「さあ、こちらです」
二人は立石に案内されて渡り廊下を歩き、男爵邸に入って行った。
「お呼び立てしてすみません、武藤さん」
高塚はまず案内の立石さんに三分以内に別荘に戻り、少なくても三十分は管理人室を動かないようにお願いした。立石はうなずき、静かに別荘に帰って行った。
「では、はじめましょう」
事件直後から一切手を触れていない大階段の周りで、高塚と武藤は電動車いすの本体や破損したパーツなどを丁寧に回収し、一部組み立て、検討を始めた。
「…なるほど、さすが武藤さん、間違いはないようですね…」
高塚と武藤はじきに一つの結論にたどり着いたようだった。
「…つまり、ここがアクセル、そしてここがコントロールレバーです…」
「…なるほどコントロールレバーの部品が完全に足りないわけですね…?」
「はい、暴走の原因は間違いなくこれですね。だれかが意図的に重要な部品の一部を取り外した…」
一つの結論が出たところで、高塚はもう一つの件を話し出したのだった。
「今回私がこの男爵邸のあちこちに仕掛けた監視カメラに、列席者の怪しい行動がいくつも映っていたのです。でも良く考えてみるととてもおかしなことに気付いたわけです。彼らがここに到着した時は特に事件は起こそうにも起きる可能性は限りなく低かった。それが、昨日は偶然、起こそうと思えば起こせるような状況に変わっていたのです」
高塚は事件の概要と、その時の列席者のあやしい行動を話し、さらに続けた。
「薬の袋にカッターで切りこみを入れた緑川も、薬の袋をさっと拾って隠した義理の妹の洋子も、偶然薬箱が一階に運ばれていたからそれができたのです。薬箱が最初のまま二階の社長の部屋に置かれていたら、ほとんど不可能だと考えられます。赤坂に命令されたのかどうかは分かりませんが東郷が電動車いすをいじったのも、息子の涼さんが怪しい行動をしたのも、同じです。薬が社長を眠らせたので、それがなければ東郷も涼さんも部屋に入ることさえできなかった。エレベーターが動作不良にならなければ、大階段などはなから使わなかったわけで、階段事故が起きること自体がなかったのです」
「ええっと高塚さんは何をおっしゃりたいのですか?」
七橋が訊くと高塚はこう答えた。
「たとえば私が犯人だったとしましょう。なんとか西園寺社長の命を狙おうと計画しましょう。でも、社長は、薬の管理や車いすを押すことさえ他人を信じない、一人でやっている用心深いお人です。他の人に気づかれずに、殺人を仕掛けることはなかなか難しい、いや難しかった…少なくとも土砂崩れが起きるまではね」
「…そ、そういうことか…?」
「ところが今日になってみると停電は起こる、エレベーターは使えない、薬箱は一階のテーブルの上に移動してある…。社長は都合よく眠ってしまう。まるで犯人の願いがかなうようにあちらこちらで状況が変化して行ったとしか思えない。ふたを開けてみたら突然、殺せるチャンスがあちこちに扉を開けていたようなものではないでしょうか? しかもその元をただせば自然災害なわけで…」
現実ではあり得ない不可解な世界が扉を開けているのか…?
だが、そこまで話した時、突然高塚のそばに置いてあったノートパソコンから、警戒音が鳴りだした。
「…かかったな…もしかすると犯人かもしれません」
「え、なんの音なんですか?」
「実はこの建物のあちこちに監視カメラが仕掛けてあるのです。そしてちょっと前に設定モードを変えて、この封鎖されている男爵邸に近づくものがあると警報を発する警戒モードに変えたのです。立石さんには今管理人室で動かないように言ってありますから、近づいてくる人がいれば、われわれの様子を探りに来たかもしれませんね。何らかの重要な意味を持つかもしれません」
高塚はそう言ってパソコンの画面を切り替えた。渡り廊下を歩いてくる人影が確かにある。それは七橋や武藤は見たことのない人物だった。武藤が画面を覗き込んだ。
「へえ、すっげえ美人だねえ」
それはあの社長秘書の芦原京香ではないか。芦原は、そのまま正面から堂々と男爵邸に近づき、なんのてらいもなくみんなのいる大広間に入ってきた。
「いらっしゃいませ。社長秘書の芦原と申します。そろそろお茶の時間でもと思っているのですが…いかがでしょうか?」
高塚がまだ少しかかると言うと、芦原は何事もなかったように引き揚げて行った。芦原が渡り廊下を過ぎ去って行くのを確認すると、高塚は、もう一つの依頼を武藤に話し始めた。
「…と言うわけなんですが、男爵邸のその部分とその周辺を確認していただきたいのです」
「そういうことなら、大得意ですよ。お任せください」
大柄な武藤さんは、やる気満々で大広間を出て行った。事件はまた違う展開を見せ始めたのだった。
「二宮さん…悪いね…体の調子が良くなったからには、私はやはり、あそこに行かないわけにはいかないんだ…」
昼過ぎ、湖畔の散歩から帰ってきて、バンガロー村で昼食をとっていた三崎はそわそわし始めた。
「…だが、電気も水もおいしい食べ物も世話してもらっているこんないいところから、勝手に遠くまで出かけてしまってはまずいじゃろ、だれに断っておけばいいのかな?」
そこにちょうど病院から戻ってきた野菊と塔子、そして瑠璃とお昼になって気持ちも落ち着いてきた麗香がレストランにはいってきた。二人の老人は、さっそく女子たちに挨拶した。
「あら、二宮さんと三崎さん? すごい、本当にますます若返ってしまって見るからに元気そう!」
老人たちが、遠出をしたいのだが、だれに許可をもらえばいいのか相談すると、やはり八岐だろうということになった。
「どなたじゃ、その八岐というお方は?」
「財団病院の偉い人よ、ちょっと待ってね、連絡をとってみる」
代表して瑠璃が黒い携帯で連絡を撮ると、昼食を食べ終わる頃にはもう、レストランにあの長身の八岐吉久がその姿を現した。
「…そういうことなら、こちらで全面的に支援をいたします。乗り物の手配でも、トレッキング用の服装や装備でもなんでもおっしゃってください」
二人の老人は大層喜んだ。
「このお二人のことはこちらで完全に責任を負いますので、すべてお任せください。何かあれば黒の携帯ですぐにお知らせしますよ」
二宮と三崎は、ウキウキしながら八岐と連れだって出かけていった。
さて、午後をどう過ごすかと話題になると、瑠璃が昨日見てきた湖の展望台の話を始めた。
「そう、展望台は凄いいい所よ、絶対行った方がいいって! 麗香さんも調子がいいようだし、私に任せて二人で行ってらっしゃいよ。ね!」
瑠璃は、麗香の世話を進んで引き受け、湖の展望台に行きたいと言う野菊と塔子を送り出した。
その頃男爵邸の調査が終わった七橋と武藤は、一度翼館に帰り、腹ごしらえをした。午後はあの問題のボート村だ。すると、自分で養魚場も経営している駒形さんが名乗りをあげた。
「…武藤さんはこの間も黒仁田一味と取っ組み合いのけんかをしてるから、俺が代わるよ。七橋君とボート村に行ってくるよ、いいだろ」
「ありがたい、じゃあ悪いが専門家に任せることにするよ」
駒形さんは翼館で唯一の地元の人だ。小さいころからこの湖や川、そしてあちこちの山で遊びまわっていた子どもだったそうだ。イワナなどの養魚場をやっている関係で、生物学者の御剣さんと知り合い、尊敬するようになり今では絶滅危惧種の保護や湖の環境整備にも多大な貢献をしている。いつもざっくりした作業服を着て、山や川を歩きまわっている。とてもやさしいが、背筋がピンと伸びて精悍な感じだ。家具作りも達人だが、なんと銘木は家具になっても木の心が残っていて、話もできるのだと言う。木と会話をしながら作る駒形さんの家具は、とても暖かく、心安らぐ。
実はボート村にパトロールで行くのはこれが初めて、七橋はかなり不安だった。なぜなら、あの土砂崩れの跡で病院に集合した後、騒ぎを起こして水と食料をごっそり持っていったやつらの本拠地だったからだ。
「一応水と食料が足らないことはないだろうが、困っていることはないかどうか聞いてみて対応しないとな」
駒形さんはぽつりと言って表情を硬くした。
「…あのう、駒形さん…あの黒仁田って言ううボート村の親父が、翼館と聞いて怒っていましたが、何かわけでもあるんですか?」
「翼館の代表、あの御剣さんは、有名な生物学者だ。湖畔に来てからも環境保護の活動を進めている。神沼に絶滅危惧種のタナゴの仲間がいるのを発見して保護を始めたのも、みつるぎ三なんだ。ところがあの黒仁田をはじめとするボート村のやつらは、ブラックバスなどのフィッシング関係で儲けているわけだ。ブラックバスなどは外来魚に指定されてからはあちこちで駆除が行われて言うのだが、あのボート村周辺は不思議に駆除をしても数が減らない。それどころかだんだん数が増えてきて周辺の在来種が脅かされている状態なのさ。翼館ではそれにも負けず、環境調査を行ったり、外来魚駆除をしてるんだが、それがやつらの気に食わなくてね。こっちもなんとかやつらの尻尾を捕まえようと頑張っているんだが、なぜかその日に限ってやつらはじっとしていてね。こっちは外来魚を釣り上げることによって、数を減らしているんだ、文句を言われる筋合いはないってさ。まあ、証拠がないからはっきりは言えないが、やつらの黒いうわさも聞こえてきてね…。さあ、そろそろボート村だ。気を引き締めて行けよ」
本当ならにぎわっているはずの初夏の湖畔はガラガラだった。いつもは釣り客で朝早くからいっぱいになる駐車場も、車はほとんどなく、ボート村のフィッシング通りは人影もなかった。派手な看板のあるこの通りは、バス釣り用のボートレンタルの店、釣具店、「釣ったら食べて環境保護」の看板のある各種の料理店、釣り仲間の集まる飲み屋や喫茶店までずらりと並んでいる。
「…話を聞くも何も…みんなシャッター閉めて休業状態ですね…」
「まあ、災害だから仕方がない、この地域は電気も来ていないのだからあたりまえだ」
七橋と武藤は通りの入り口から奥へとパトロールを開始した。
「どのお店もシャッター閉めて、引きあげちゃったんですかねえ、人っ子ひとりいませんねえ。湖畔の周辺にはまだ人も少し残ってはいるんですけど…」
「やはり電気が来ていないのは、商店街では致命的だな…はやくなんとかしないとな」
二人がそんなことを言いながら通りの奥に進んだ時だった。
「あ、あそこのシャッターが開いて、中に人がいるみたいですよ」
駒形さんは、ちょっと身構えた。そこはボート村観光案内・フィッシングセンターというひときわ大きな看板が出ていた。
「よりによってここのリーダー格のあの黒仁田の店だ。すいませーん、どなたかいませんか」
中にはかすかに音楽も聞こえ、人がいるような雰囲気はあるのだが、返事はない。駒形と七橋は、シャッターの奥へと入って行った。
古いラジカセが置かれ、景気のいいロックが流れていた。湖のバスの釣りポイントの地図、大きなブラックバスの魚拓、いろいろなタイプのボートの写真や、釣り竿から、仕掛け、ルアーやえさなどが所狭しと並べてある。どうやら人はいるようだが、用事で席をはずしているようだ。
「すみませーん、どなたかいらっしゃいますか、防災パトロールです」
そう言いながら、奥のドアを開けた時だった。
「な、なんだ、これは?」
「七橋君、写真を撮っておいてくれるか?」
なんと奥の事務室の床に、たくさんのビニール袋が積まれていて、中にはブラックバスの子どもが十匹ぐらいずつ入っていた。全部で百数十匹はいるみたいだ。いったい何のために? 七橋は夢中になって五枚ほどシャッターをきった。
さらに駒形は、壁に貼ってある小さな予定表を見つけると、かなりあわてて中身を確認していた。だがその時後ろで怒鳴る声がした。
「おいこら、何で人の店に勝手に入り込んでるんだ!」
あの黒仁田のオヤジが若い手下を二人ひきつれて、店に戻ってきた。ロックの音がうるさくて、帰ってきたのに気がつかなかった…。手下が叫んだ。
「黒仁田さん、この若造が写真撮ってたみたいですよ?」
「ふざけんじゃねえ!」
黒仁田のオヤジが近づいたかと思うと、突然、七橋を背中からつき飛ばした。
「な、なにをするんですか?」
駒形さんが七橋を起こしながら言った。駒形さんも、肝が座っているというか、全然動じない。
「…ボート村の黒仁田竜二さんですよね、私たちは、防災パトロールを頼まれて、湖畔をあちこち回っているんです。水や食料を配りながらね。今だって、だれかいないか確認して入ってきただけですよ」
「なんだまた翼館のやつらか?!」
黒仁田が駒形の顔を見ながら言った。
「…知らない顔じゃない、悪かったな。泥棒かと思ったぜ」
そう言って、黒仁田はにらみ返した。
「おいおい、翼館のお兄さんよう、、パトロールなのはわかった。ちょうど俺たちも用事があって二、三分店を開けていただけだよ。それもわかるよな? だが、写真を撮るとはどういうわけだ。すぐにその写真を消せ! 店の中の写真を撮らせてくださいとも聞いてねえし、もちろん許可もしてねえ。テレビでもなんでも今は許可しなきゃ撮っちゃいけねえってのは知ってるな…わかったら、その写真を今この場で消せ! おい、若造!」
七橋がさっと駒形さんを見ると、駒形さんはうなずいた。なにか作戦があるらしい。
「…すみませんでした。この中に五枚入っています」
七橋がスマホを差し出すと、ひったくるように手下がそれを取って、念入りにデータを消去していた。
「五枚ありました。全部消しましたぜ」
駒形と七橋は追い出されるように店を出て、ボート村のパトロールを終了した。帰りの軽トラックで七橋は駒形に聞いた。
「あのビニール袋に入っていたブラックバスの子どもは一体何だったんでしょうね…」
すると駒形はため息をついてからしゃべり始めた。
「おれが子どもの時から疑問に思っていたことで、最近わかりかけてきたことがある。たとえば、今、日本中に広がっているミドリガメだが、あれは昭和五十年ごろにサルモネラ菌がミドリガメから検出されたと言うニュースが広がった後に、大量のペットのカメが川や池に捨てられてしまったのが原因だと言われている。もっと昔だと、食用ガエルのえさとして養殖されていたアメリカザリガニが逃げて繁殖し、日本中に広がったと言う例もある」
さすが魚の専門家、知識は大したものだ。
「だが今外来魚として問題になっているブルーギルやブラックバスは、ペットとして飼われていたわけでも養殖されていたわけでもないのに急激に日本中に広まった。それはなぜなんだろうとずっと不思議だった。釣り好きのやつらが、悪いと知りながら個人的に外来魚をを放した程度のことかと思っていた。だが、どうもそうじゃないらしい」
「え、どういうことなんですか?」
「誰かが意図的に放流しないと広がらないような、周囲と隔離された池や沼、湖などにも急激に広がって行った。それも日本全国だ、個人的な力でできるものではない…。自分たちの儲けのために、大人数で組織的に働きかけ、計画的に外来魚の数を増やし、生息地域を広めているやつらが、いると言うことだ」
「ま、まさか?」
「さすがにやつらも土砂崩れでだれも来ないとたかをくくっていたんだろうな。ここに運び込んだのか持ちだそうとしたのかは分からないが、ブラックバスを入れた袋を見張らずに店をあけちまった」
「そうだったんですか…くそ、あの写真、わかっていれば消させなかったのに…」
「はは、七橋君のおかげだよ…」
そう言って駒形は、自分の懐から、もう一台のスマホを取り出した。なんとあのブラックバスの入った袋の別方向からの写真があった。
「君があの手下にデータを消させていた時に、おれが横からこっそり撮ったのさ。みんなあの時七橋君のスマホばかりを見ていたからな。ジャカジャカ流れていたロックの音でシャッター音もごまかせたよ」
「やりましたね。だれも気付いてませんよ」
「ああ、だがやつらもこのまま黙っちゃいないだろう。なにかあるかもしれないな。御剣さんたちに報告することにしよう」
「あ、それから駒形さん、なんか壁に貼ってあった紙を見てあわてていましたが…?」
「ふむ、そっちも重大な問題だ。あの事務所の壁に貼ってあったのは、翼館が中心でやっている環境調査や外来魚駆除の日程だ。うちらの内部資料をだれかがやつらに流しているという事実だ。あの資料はここの有力者である西園寺社長やあの財団病院の院長ぐらいにしか渡してないはずだが…。道理でやつらの尻尾をつかむことができねえはずだ。一体だれが情報を流しているんだか…?」
七橋は駒形とともに湖畔の道をぐるりと回り、蛇坂の近くの四つ辻を翼館へと帰って行った。
その頃、野菊と塔子は、美しい湖畔の散策コースを歩き、展望台方面へと行こうとしていた。キラキラ光る湖面、涼しい木陰の未知、展望台までもうすぐだ。
「ほら野菊、向こうが蛇坂で、手前に四つ辻があるわ」
二人はうっとりするような湖畔の木陰の道を進んで行った。その時、前触れなく山の斜面から深い霧が降りてきた。ほどなくして野菊と塔子の周りは幻想的な霧に包まれる。二人が四つ辻を通り過ぎた時だった。
「きゃっ!」
野菊が小さな悲鳴を上げて、塔子を振りかえった。塔子も真っ蒼な顔ををして野菊の手をたぐり寄せた。
「…塔子…今一瞬だけど何かが足にしがみついたような気がして、足元を見たらまん丸い猫みたいな生き物が見えたような気がしたの…」。
「そう? 野菊は猫だったの? 私は違ったけど…」
「え、塔子も? でも塔子は何がしがみついてきたの?」
塔子はかなり間をおいてから絞り出すように言った。
「…赤ん坊…」
二人は怖くなって、そこを急いで離れた。道はだんだん曲がりくねった坂道になっていた。
霧は濃くなったり薄くなったりして坂道を流れていく。
「私、なんかドキドキしてきた…」
何かを思い出した塔子の足がだんだん重くなる。だが野菊は逆に霧の作りだす幻想的な世界に魅了されてどんどん先に行く。
「なんかやな予感がするわ…戻ろうかなあ…」
そう言って坂道を振りかえった塔子は心臓が止まりそうになった。坂道の下の方に、手を組んだ大きな男が道に立ってどっかりと動かないでいる。自動車も通る太い道のど真ん中にいるのだ。顔は霧に隠れて見えない。
年齢も目的も分からない。なんでもないようなことだが、道の真ん中にあんな風に立っている男など良く考えればありえない。底知れぬ恐怖が塔子を包んだ。塔子は一瞬足がすくんで動けなくなったが、すぐに野菊を追いかける。
「野菊! …えっ?!」
なんと野菊は坂の上で霧の中、三人連れの人影に呼びとめられていた。
「…すいません、霧が出て、展望台への道が分からなくなって…」
そこだけ別の時間が流れているような感じがひたひた伝わってくる。
見ると小学生くらいの男の子が虫取りかごを下げ、長い網を持って、野菊に話しかけている。隣には、布でできたお人形を持った妹、二人の後ろには白っぽいワンピースを着たお母さんがついている。みんなビーチサンダルや半袖の簡単な服装で、なんと言うか…昔の白黒写真の中から出てきたような妙な雰囲気だ。
「ああ、展望台ですか? 実は私たちもそこに行くんです。よろしかったら…」
野菊が答えた時、塔子が走り込んでそれを遮った。
「…こっちの道をまっすぐ進めば展望台です。どうぞ、そちらに…」
その声が聞こえた時、三人の家族は青白い顔で塔子を一瞬にらんだ。
「お姉さん、ありがとう」
女の子の声がして、家族は歩きだし、やがて霧の中に消えていった…。
「野菊…ダメよ。案内すると言って一緒に歩き出すと、道連れにされるのよ…」
なにも知らない野菊は首をかしげて聞き返した。
「え、どういうことなの…?」
塔子はあせってまくしたてた。
「ほら、瑠璃さんに朝、手帳を見せてもらったでしょ。今度小説に書くっていうネタをね…それが、四つ辻のアヤカシ…通せんぼ、展望台の家族…みんな現実に起きているのよ。展望台につけば霧は晴れてすべて消えるはずなんだけれど…」
「うそ…!」
「どうしよう、戻ろうにも通せんぼがいるし…」
「展望台まで行けばもう全部終わりなんでしょ…展望台まで行って終わりにしようよ」
「そうね、それしかないわね…でももう一つ、最後の凄いのが出るのよ」
なんでも、展望台に行く手前であの土砂崩れのあった塚森山に通じる山道があるのだが、霧の出た日にそこを通りかかると、金属のこすれ合う音と一緒に足音が近づいてくるのだと言う。下手にそっちを振りむいたり走ったりすると、そいつは追いかけてくると言うのだ。
「そいつは落ち武者の亡霊、賽ノ介…不死身の化け物よ…」
二人は堅く手をつないで、展望台へと歩き出した
「なあんだ…何も聞こえてこないよ…塔子の考えすぎじゃないの」
「…だといいけれど…」
少しして野菊が言った。
「ほら、展望台まであと一分っていう看板があったわ。もうすぐよ」
「ってことは…」
その時、山側の小さな道から引きずるような、重いような、金属のこすれ合うような音とともに、足音が近づいてきた。
「賽ノ介…」
振り向いても走り出してもだめなのだ、逃げ出せば、猛烈なスピードで追い付いてくる…。
塔子は野菊の手を引っ張って、速足で展望台へと急ぎ始めた。だがその時目の前の霧がすうーっと流れて女の子の声が聞こえた。
「なあんだ、お姉ちゃんたち、やっぱり来てくれたんだ」
展望台に来れば、すべて消えるはずでは…?! 母親の声がする。
「ありがとうございます、では、一緒に行きましょう…私たちと…一緒に…」
やばっ! 塔子は急ぎすぎて、三人家族に追い付いてしまったのだ。
「だめよ、野菊、あいつらと一緒に行けば、展望台の崖から湖へと引きずり込まれる…!」
野菊と塔子はすぐ背後に迫る賽ノ介の足音に身震いしながらも三人家族にはそれ以上近づかなかった。するとあの虫取り網を持った男の子が展望台の突端に歩き出し、叫んだ。
「かあさん、みっちゃん、いい眺めだよ…早くおいでよ」
近付いて行く三人。だがその時霧が渦巻いた!
「うわ、手すりが、手すりが…た、助けてー!」
「ケン太、ケン太ー!」
そして三人の遠ざかる悲鳴とともにすべては終わった。いや、なにも終わってなかった。三人家族が消えた展望台の崖ではあやしい霧が渦巻き賽ノ介の足音はすぐ近くまで近付いてきた。なすすべがなく、立ちすくむ塔子。だが、こんなときに動き出したのは野菊だった。
「…もしかすると、あの家族、まだその辺にいるんじゃない? だから霧が晴れないのよ。あたし、確かめてくる」。
「ダメだよ、野菊、死んじゃうよ…行かないで!」
追いかける塔子! だがその時、崖のへりから、何本かの白い手が伸びてきて、野菊の足を引きずり落とそうとしているのをはっきりみたのだ!。
「野菊、足、あの家族すぐ下にいるから?」
塔子に言われて思わず足元を見た野菊は、息が引きつった。手すりの壊れた展望台のすぐ崖の下、目もくらむような高さの空中に、あの三人家族がふわーっと浮いて、恨めしそうな目をして浮いているのだ。そして隙あらば崖の下に引きずり降ろそうと、手を伸ばしてくるのだ。良く見ると三人ともびしょぬれで、紫色の唇をしている!
「一緒に行くのよ…お姉さん…一緒に…!」
「早く消えて! 私たちはあなたたちと一緒に行かない! 一緒に行かないから、絶対!」
大声で叫んだのは野菊だった。野菊の叫びとともに、三人家族はスィーと下に降りて行き、やがて湖の水面に消えていった。
「ああ、いったい…何だったの…」
塔子は腰が抜けたようになって、振り返りながら座り込んだ。
「…ひっ?!」
流れる霧の中に、甲冑の重い音が響いていた。流れ矢が二本突き刺さり、髪を振り乱した幽霊武者が迫ってきていた。
「野菊…こっちはまだ消えてなかった?」
すぐ後ろは手すりの壊れた崖…もうどうにも手はなかった。
「くわー、か、か、か」
霧の中で賽ノ介がしゃがれた声で笑った。兜の下に見えるその顔は…、白骨と化していた。
塔子はどこかに逃げ道はないかと、動きまわった。だが、その時野菊はちょっと違う対応をとった。
「こんなばかなことあるはずがない…そうだ!」
野菊が取り出したのはあの黒い携帯だったのだ。
「もしもし、八岐さんですか?」
なんと困った野菊は、黒い携帯で八岐に連絡を撮ったのだ。
「…はい、八岐です」
野菊は霧の中でお化けに襲われていると八岐に告げた。すると八岐はにこやかに答えた。
「ああ、毎年このあたりではあるんですよ。霧の中に入って不安になった心が作り出す幻影です…」
幻影って、そんなことはあるのだろうか? 今度は塔子が聞いた。
「とりあえず、お化けを消し去る良い方法を教えてください!」
「はい。不安を吹き飛ばせばいいのです。まだ昼間ですよ。そうだお二人のうちどちらかが、歌がうまかったんですよね。ぜひ、お歌いなさい。すべては吹き飛ぶでしょう」
本当なんだろうか、霧はますます濃くなり、足音は近づき、霧の中、恐ろしい白骨化した落ち武者がまちがいなく迫ってくる…!
「塔子、ここはあなたに任せるから、思いっきり歌って!」
「歌えって…何を歌えばいいのよ?」
「ほらあなたのバンドの一番のりのりの曲よ、早く、お願い」
もうこうなったらしょうがない。塔子はステップを踏んで、アップテンポの曲を霧に向かって歌い始めた。
♪ぼくらの翼で
いったい何があったんだ
笑顔を忘れてしまったの?
…(うん、なんか歌い出すと、やっぱ元気が出る)
それじゃあまるで鳥かごに
閉じ込められた小鳥だよ。
…(あれ?なんか霧が晴れてきたような…)
扉を開けろ、その鍵で、
勇気と言う名のその鍵で
「あれ、塔子、霧の晴れ間から日が差してきたような…!」
「…やったね、野菊、どんどん突っ走るよ」
さあ、顔をあげて飛び立とう。
だって君には翼がある
思い出すんだ羽ばたきを!
「…なんかバンドの演奏が聞こえてくるような気がするよ」
「…その調子、がんがん、跳ねて、踊って、歌うのよ!」
風に吹かれて
花を探して
光の中を
壁の向こうへ
空の彼方へ
ぼくらの翼で
ぼくらの翼で
「…もう足音が遠のいていく感じ!」
風に吹かれて
花を探して
光の中を
壁の向こうへ
空の彼方へ
ぼくらの翼で
「やったー、霧が晴れてきたよ!」
ぼくらの翼で
霧がゆっくり動いて、二人のすぐ目の前に、キラキラ光る湖面が見えてきた。振り向いても、どこを見ても、もう怪しいものはいない。二人は展望台から湖を眺めて、深呼吸した。
またもや絶景を二人占めだ!
「超気持ちいい」
「すごい絶景! きれいね、突き抜けてく感じ!」
気がつくと霧が晴れ、湖は平穏を取り戻していた。塔子が野菊に言った。
「思いだすと、野菊はいつもそうだったわね。」
「エ、どういうこと?」
「いつもは地味でおとなしいんだけど、いざとなるとエネルギー爆発だよね。今だって、怖いくらいの叫び声、あの三人家族も吹っ飛んで消えた感じね」
「ええ、そうかしら? やっぱり、塔子の歌のおかげだよね」
ふたりは元気を取り戻し、静かに湖畔の道を帰って行った。
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