二日目 男爵邸殺人事件

 まどろみの中で誰かの声がする…八岐と、もう一人の誰かが話している…。

「…ここ、事故で隔離された湖畔の世界では各自は、家庭や職場や会社などの既存の人間関係から隔離され、外部との連絡さえ途切れている。でも、だからこそ、この湖畔の世界は個人の思い通りなのだ。この世界で完結することなら、…夢や願いは実現する。これはね、夢のかなう世界の創造なのだよ」

「この世界の中で完結する夢や願いねえ…外部の干渉を受けないここでなら、前回の失敗の原因もきっと究明されるでしょう…」

 風間はまどろみの中で誰かの声を聞いていた。一人はあの謎の男八岐か? もう一人は誰だ? さっき出てこなかった院長か? わからないまま、目が覚める。それはあのバンガロー村の本館の風間の自分の部屋だった…どうやって帰ったのか…記憶が頼りない…。

「おはよう、塔子、早く起きなよ、すっごいいい天気だよ」

 野菊は気持ちのいいログハウスのバンガローで、塔子とともに目を覚ます。昨夜の記憶が少しあやふやだが気持ちのいい朝だ。もちろん本当は今日から始まるはずのボランティアスクールの仲間もいないし、もうスクールそのものも中止だ。

 でも、ここバンガロー村は防災本部のある丘の上の病院から電力供給を受けているのだ。贅沢には使えないが、水も電気もあるし、非常用食料もたっぷりある。

「立ち入り禁止なのは塚森山の周りだけで、あとは散策でも観光でもできるみたいだよ。天気もいいし、今日一日どうしようかしらね」

 二人はバンガローの外に出て本館の方にある洗面所に歩いて行った。風間や瑠璃や瀬川も洗面セットやタオルを持って集まってきていた。

 みんなで挨拶を交わす、あと五分ほどで本館のレストランで朝食が用意されると言う。

「そうだ、瀬川麗香さん、もし良ければ湖畔観光の資料見せてくれませんか? 今日一日どうしようかと思って」

 するとあの背の高い瀬川麗香は無表情で黙ったまま部屋にさっと取りに行き、ファイルを差し出した。

「……」

 どうしたのだろう、麗香は無口で、態度も何か違う。体調でも悪いのだろうか?

 二人が心配して近づくと、瀬川は他人事のように、小さなカードを二人に渡す。

「私は、職場のストレスが原因の、朝ウツとか目覚めウツって診断されている病人です。決して怒っているわけでも体調が悪いわけでもありません。昼ごろには元気になってるから、心配しないで。朝ウツが少しでも治るように旅行にきたの」

 このカードはきっと昨夜のうちに作っておいたんだ…。きっとものすごく辛いのに頑張ってカードを渡してくれたんだ…そうなんだ…二人は瀬川麗香をそっと見送った。

 朝食を食べに本館のレストランに行くとほかのメンバーはいるが、なぜか七橋幸次や探偵の高塚はいない。彼はいったいどこに?

 野菊はいつの間にか幸次のことが気になっている自分に気付く。

「ねえ、野菊、瀬川さんのこの資料、すごいよ。この湖のまわり、けっこう観光ポイントやパワースポットまであるよ」

 野菊と塔子は災害用のパンの缶詰とコーンポタージュのカップスープの簡単な朝食を食べながら、さっそく観光談義で盛り上がった。

「ちょっと私にも見せてくれる? わあ、本当にすごいのね、瀬川さんて」

 やってきたのは取材に燃える八千草瑠璃だった。

 瀬川麗香は頭痛がするのかみんなから少し離れて静かに朝食を食べていた。野菊がふと、

「あれ、そういえば北条君、鉄馬はいないのかしら?」

 七橋たちと違って、鉄馬はきのう一緒にこのバンガロー村に歩いてきたはずだ。すると、近くにいた風間が教えてくれた。

「あいつは本当のアスリートだよ。日課だって言って、もう1時間近く前に湖畔のランニングに出かけた。ちょっと前に帰ってきてシャワー浴びて着替えてくるってさ」

 するとレストランのドアが開いて、すっかりさっぱりした鉄馬がさわやかに入ってきた。

「みなさん、おはようございます。ああ、腹減った」

 そんな鉄馬を見て、朝ウツの瀬川麗香が思わず微笑んだ。

 みんなが朝食を食べ始めたころ、あの二人の老人、二宮と三崎は、老人ホームではなくバンガロー村で目を覚ます。

「おや…ここはどこだっけ…三崎さん、シルバーパレスではないな?」

「…ああ、そうだった。きのうあのカードで受付して…災害の間こっちに移ったんだった。こっちは水も電気も使い放題じゃからのう、そうじゃろう、二宮さん」

 そして二人は、ナースコールや介護士を探したが、見つからなかった。

「…でも今日は必要ないさ。なんだか調子がいい」

 二人は用意してあったタオルをつかむと、ドアを開けて、朝日を照り返す湖面を眺めながら、バンガローの階段をひょいひょいと降りて行く。二人は足取りも軽く、朝日の道を歩いて、本館へ、外の洗面所へと歩いて行く。

「なんか本当に体が軽い、調子がいいぞ」

 積極的な二宮老人が大きく伸びをする。

「たまには老人ホームを抜け出すのも悪くないようですな」

 慎重派の三崎老人もまんざらでもない。


 とりあえず野菊と塔子は、バンガロー村の山側にぁる若返りの泉にでも出かけようと、お弁当用のパンやツナの缶詰とペットボトルを持って出かけて行く。

 風間は院長に会いに再びネクサピス財団病院に行くという。北条鉄馬は、本当は大勢のバスケ部員が来るはずだった丘の上の病院のすぐそばにある総合スポーツセンターに行ってくると言って足早に出て行った。

 その頃七橋と高塚はとうに朝食を済ませ、翼館の庭で作業に入っていた。

「昨日、病院に行った時、役場の牧原さんに聞いていたんだけど、本当にドローンがあるんですねえ、翼館は」

 朝から駆け付けた高橋巡査が感心して言った。

「ドローンでこの湖周辺の美しい空撮映像を撮って観光番組を作ろうって、幸田正剛さんたちと計画していたんだけれど、まさか初仕事が災害現場の空撮になるとはねえ」

 役場の牧原さんが苦笑いをした。このちょっとおなかの出たおじさんは、しかしすごいバイタリティの人で、この災害時に飛び回っているが、もともと村おこしの担当だ。まあ村が活性化することなら何でもやるっていうおじさんなのだ。

 あのパソコンじいさん、幸田正剛さんの指示で、土砂崩れ現場を撮影する大掛かりな用意が今、まさに行われていたのだ。

 御剣さんから、どの方向、高度からどこをどのように撮影するのか撮影計画が提案され、幸田さんが映像機器の配置を七橋たちに指示、武藤さんと冷静な高塚でドローンの整備と操縦を受け持つ。

「じゃあ、ドローンツバサ1号、離陸します」

 パイロット役の武藤さんがゴーグルをつけてテイクオフだ。空撮映像はリアルタイムでみんなの前にあるモニターにも映される。

「よし、まず事故現場の道路に沿って飛んで行き…それから…」

 それからみんなは、モニターに映った悲惨な状況を見て言葉を失った。崩れた崖から転がり出たのか、いくつもの大岩が道路上に転がり、数十mに渡って土砂があたりを埋め尽くし、倒れて折れ曲がった鉄塔、引きちぎられ、半分土砂に埋まった電線、押しつぶされたアンテナなどが眼下に広がる。

「あ、あれ見てください、復旧工事がもう始まっていますよ」

 七橋の声でみんなが画面を見ると、もう、工事車両が白滝温泉側に集まってきている。

「ブルドーザーにパワーショベル、あ、ダンプカーも何台か見える…」

 よかった…もう救助の手が動き出していたのだ。

「ううむ。でもこの被害では3、4日では復旧は難しいのう。土砂崩れがこれ以上起きなくとも、一週間近くはかかりそうだな、こりゃあ…」

 御剣さんが腕を組んで考え込んだ。

 一週間近くと言う言葉を聞いてみんなちょっとがっかりした。

「よし、今度は崩れた斜面を昇って行くぞ」

 ドローンがぐぐっと方向を変えて、山の斜面を上昇して行く。

「おお、こ、これは?!」

 林業に詳しい駒形さんが注意深く観察して言った。

「やはり植林された人工林が弱かったようだ。植林部分が斜面ごと滑り落ちた感じだな…。うむ? 待てよ、こりゃ、おかしいな…ちょっとこのあたりをじっくり映してくれ…。そうそう、土砂崩れの始まった山頂の近くだ…」

 ドローンは、駒形さんの指示したあたりで速度を落としてじっくり撮影した。

「…ほら、こことここ二か所が木の倒れ方が不自然だ。こっちの斜面はおおよそ同じ方向に倒れた木の向きがそろっているが、この二か所は放射線状に木が倒れている。まるで…」

 御剣さんが続けた。

「まるで爆発でも起きたみたいな…」

 いったいどういうことだ。みんなくいいるように画面を見た。ところがその時、画面に大きなノイズが走った。

「…原因不明の電波障害だ…ドローンを緊急に呼び戻そう…」

 いったいなんだったのだろう、それから数分後、ドローンは何事もなかったように帰還したのだった。

 不可解な終わり方であったが、ドローンの撮影は当初計画していた事故現場の周辺をほぼ撮り終わり、きちんと録画もできたので、一応終了となった。

 高橋巡査や役場の牧原さんもこれで被害状況がおおよそ分かった、すぐに対策を練ろうということになった。そして話し合いの結果、事故現場周辺の道路を何箇所かに渡って封鎖することや、しばらくの間、湖の周囲に一日一回パトロールを兼ねて災害用の水や食料を積んだ車を走らせることになった。高橋巡査や役場の牧原さんと手分けして回ろうというのだ。七橋も自分から進み出た。

「キャンプ場に子どもたちも来ないのでぜひ手伝わせてください。免許も去年取ったばかりなんですけど、運転もできますから」

 探偵の高塚はそろそろ約束の時間だと言って、一足先に男爵邸へと出かけて行った。それから少しして役場の牧村さんが、役場の軽トラックに災害用の食料や水を積んで、七橋を迎えに来てくれた。

「じゃあ、七橋君とこの牧村は、今日は湖の北側の観光名所とそこを少し下った男爵邸のある北側の湖畔のパトロールに行きます。今のところ報告はないが小さな崖崩れなどがあるかもしれません。気をつけて行きましょう」

「はい。よろしくお願いします」

 七橋の運転する軽トラックは、一気に湖の北側の山の中へと走り出した。

「ううん。やはりかなりの水量だな」

 山の中を走る青瀬川という谷川の水量が、昨日の豪雨で確かに増している。いくつかの観光名所になっている大小の滝があるのだが、どの滝もゴーっと大きな音をたて、車の中から見ていてもなかなかの迫力だ。

 やがて、そこからひと山越えると養魚場、さらに『湧水百選神沼と、若返りの泉』という看板がある。ここは絶滅危惧種のタナゴなどの希少な生物がすむ保護区に指定されていて、水が澄み幽玄な佇まいの小さな沼があり、その奥の山の斜面に何箇所かちょろちょろ湧き出す若返りの泉があるのだ。いつもはペットボトルを持った観光客が押し寄せているのだが、さすがに今日はほとんど人影もない。

「ここらあたりから奥は、土砂崩れの起きた塚森山の人工林と違って、手付かずの原生林だから山がしっかりしているというか、根がしっかり張っていると言うか被害はないようだねえ」

 なるほど、こっちは水も澄んだままでわりと穏やかな感じである。

「このあたりに原生林が残っているのはなぜなんですか?」

 すると牧原さんは神沼の横を指差した。

「ほら、あそこにちいさな鳥居が見えるだろう。神沼神社だ。このあたりはきれいな水が湧くというので縄文時代から信仰の対象になっていたんだ。この奥も神社の山でね、山全体が御神体だそうだ。それで人の手が入らなかったんだよ」

 二人は周囲に異常がないのを確認すると、そのまま軽トラックで山を下って行った。だがその同じ時、神沼神社の鳥居の前から楽しそうな声が聞こえてきた。野菊と塔子だった。

「よかったね、バンガロー村から近道を通るとすぐのところに、こんないいところがあるなんてね」

「瀬川さんに感謝だね。ああ、もっと空のペットボトル持ってくるんだった。若返りの力がある冷たくて透き通った水が飲み放題、くみ放題だもんね」

「あれ、野菊、鳥居があるよ。あ、資料に書いてあった神沼神社だ。確か瀬川さんの資料だと月二回のお清めの日に来ると、神社の中の竜神様のわき水を分けてもらえるんだってさ。今日は違うけど…また来たいね」

 さらに野菊が神社の案内図を読み始める。

「塔子、すごいよ、この神沼や神社の周りにいくつもパワースポットがあるんだって」

「ここならすぐそばだからまた来られるよ。それよりほら、あっち見て!」

 木々の隙間から見下ろす湖…あの緑深い神波島も良く見える。湖畔のバンガロー村もミニチュアだ。

「きれいね。絶景二人占めってところね」

 鳥居のそばを通りかかるもなぜか野菊や塔子たちには気づかず、七橋は牧原さんと山を下り、やがて男爵邸のある、旧別荘地帯が見えてくる。

 高塚はその頃、男爵邸のすぐ横にある現代の当主、西園寺圭吾の別荘を訪ねていた。

 ここは戦前に建築された男爵邸とは異なり、鉄筋の3階建て、エレベーター付きのモダンなホテルといった感じの建物だ。男爵邸が文化財として数年前に市に寄贈されることになってから建てられた新しい建物で、今、西園寺家の実質的な別荘になっている。

「すごいなあ、旧男爵邸の庭園や湖に張り出すように作られたテラスも見事に修復してある」

 違うのは、この新しい別荘と旧男爵邸をつなぐ豪華な渡り廊下と男爵邸の二階に昇れるエレベーターである。もちろん渡り廊下もエレベーターも古風な男爵邸になじむように古風な外観で作ってある。

 別荘の玄関を入ると、戦前から男爵邸に伝わっていたという大きなフクロウの木彫りの像が迎えてくれる。

「探偵の高塚様ですね。現在のこの西園寺家の別荘の管理をしている立石でございます。この事故のさなかはるばるお越しいただきまして本当にご苦労様です。よかった。実は、男爵邸の引き渡し前の最後の晩餐パーティを行うかどうか話し合ってついさっき結論が出たところでございます。パーティは予定通り実施します」

 立石匠は現在の当主西園寺圭吾の昔からの部下の一人で、体格のがっしりした落ち着いた人物だ。

「やはり、パーティを行うんですね」

 なんでも引退を決意した西園寺社長は、来月の株主総会で発表し、西園寺ホールディングスの新体制を整えてから、新体制への大パーティーを本社ビルで大々的に開くのだという。

「現体制、新体制の関係者の方々はその大パーティーにお呼びするとして、今回のパーティーは、それ以外の人々、お世話になった人たちを集めて行います」

「西園寺社長や出席者の方たち、今日の御馳走のケータリングスタッフは昨日の事故の前、午前中にはここにきていまして…出席予定者が全員いるということ、日にちを延ばすとケータリングのごちそうがダメになってしまうということで、今日、強行となってしまったわけで…」

 そして立石は、なぜ探偵の依頼に及んだのかを話し始めた。

「…実はお恥ずかしいことですが、ウチの西園寺社長に、複数の脅迫状ともとれるものが届いていまして」

 そう言って立石は大きな封筒に入った数枚の手紙を高塚に渡した。高塚は手袋をして、そっと中を確認した。先週、都心の西園寺の自宅のポストに入っていたものだそうで、だれがどこから送ったものなのかも定かではない。

「男爵邸を人手に移し、すべてを新しくするだと。ふざけるな。約束を忘れたか。生きていられると思うな」

 どこにでもあるプリンターでプリントした文で、犯人の手掛かりも、特にはなさそうだった。

「立石さんは、犯人に心当たりはあるのですか?」

「はい、一つは社長は引退するに当たって新体制に切り替えようとしている。グループの人員を大幅に入れ替えようとしているわけです。社長の意図やどんな入れ替えをするのかは全くわかりません。でもまず沢山の役員がその椅子を失うのは確かでしょう。新体制になってほしくない人々は沢山いるはずです。それから二つ目は財産問題です。社長は沢山のグループ会社の大株主だけではなく、さらにこの湖周辺のもとの西園寺家から引き継いだ広い土地を所有しています。社長は旧男爵邸だけでなくほかの土地も市に寄贈しようと計画しています。それを快く思っていない親族もいるようです。さらに西園寺家の婿となる前は社長は金儲け優先の方でしたから、いろいろな恨みも買っているわけで…」

「わかりました。ではまず、今日の最終的な出席者から確認したいのですが…」

 立石から渡された出席者リストを見て、高塚は顔つきが変わった。

「こ、このメンバー…」

 高塚は、この日のために調べ上げてきた資料ファイルと出席者リストを比べてどんどん表情が硬くなった。

「あり得ない…なんでこの顔ぶれが集まってしまうのか…?!」

 高塚は下調べした人物のうち、社長に強い恨みを持っているものや、社長と深い利害関係を持っている人物を危険人物として、付箋を貼っておいたのだが、なんとこの別荘の管理人立石を除く全員に付箋が付いていたのだ…!


 そのころ取材活動中のミステリー作家、八千草瑠璃は、バンガロー村を出て、バブルで空き家が多くなったあの翼館もある別荘地の中をてくてく歩いていた。瑠璃はいたって自由でマイペース、あまり群れたりせず自分の興味をとことん追いかけるタイプだ。

「あ、有名な湖畔ベーカリーはやってるみたいね。巨峰のレーズンの入ったもちもちレーズンパンと全粒粉のミックスナッツパンは、かっておこうっと、確か高原の地元のおいしいと評判の高原クルミが使われているのよね」

 ここいらの別荘地には安くなった別荘を改造して、レストランや宿泊施設などにしたものも多いが、その一方、最近越してきた一人暮らしの老人も多い。古い物件だとわずか数十万から数百万で買えてしまうので、けっこう移住してくる孤独な高齢者も多いのだ。

「むむむ、このもちもちレーズンパン、やはりただものではない!」

 おいしいパンをかじりながら、さらに奥に歩いて行く。

「だれかこの辺の怖い伝説とか知ってる人はいないかなあ…。あ、すみませえん…!」

「ああら、はでな服装の方ねえ。一体どんな御用?」

 砂漠の街のバザールを想わせるエスニック調のコーディネートが人目を引く。

 一人の話し好きな御婆さんが色々教えてくれた。

「去年は別荘の広い庭で高齢者が、心筋梗塞や熱中症で死んでいたっていう事件が三回あってね…」

 さらに、この別荘地で最近オープンした喫茶店のマスターに聞くと良いという情報が入る。

 喫茶店「高橋光夫」という大きな看板がすぐに見つかる。そこは古い別荘を改造した手づくりのお店で、大きな本棚には歴史書や民俗学の本がぎっしり並ぶ、図書館のような不思議な空間だった。

「いらっしゃい。はは、事故があって開店休業状態だよ。よくぞ来てくださった。ご注文は?」

 瑠璃はにこっとして答えた。

「今日のお勧めはなんですか?」

「旬の野菜ジュースなんかどうだい? 美肌効果ばっちりだよ。ブルーベリージャムのパイとセットでお得だよ」

「じゃあ、それお願いします」

 するとマスターは自分の畑で朝収穫したばかりというフルーツトマトとパプリカを、冷蔵庫から取り出すと石臼ジューサーで絞り、さらにゆず果汁を加えてジュースを作った。

「うちのトマトは水分をぎりぎりしかやってないから、甘くて濃いぞ!」

「わあ、冷たい甘い、おいしい!」

 やがて庭のブルーベリーで作ったジャムがたっぷりのサクサクパイも焼き上がる。

「う、うんまい。超おいしいでええす」

 マスターはそんな瑠璃を見て自慢げにほほ笑んだ。

「へえ、じゃあ、マスターは歴史や民俗学にお詳しいんですね」

「はは、私はもともとバブルのころにこの別荘を買った男さ。趣味が高じて別荘があるこの地域のことを色々調べただけだよ。、へえミステリー作家さんなんだね。そうだねえ、いくつかねたになりそうなのがあるねえ」

 そう言って、高橋光夫マスターは地域の古い昔話などの資料を見せてくれた。

「へえ、この地域だけでもけっこう言い伝えや妖怪の話なんかがあるんですねえ」

 瑠璃が感心するとマスターはにこっと笑った。

「世界中どこへ行っても、それが都会でも未開の地でも、神様や怖い話は必ずあるねえ。人間生きてりゃ、予期せぬ災害にも出会うし、逆に救われることもある。それを昔の人は神や化け物にたとえてうまく付き合っていたんだろうね。ほら、ここに挿絵も載ってるぞ…」

 通せんぼ…黄昏時に蛇坂を歩いて行くと、振り返った時に道の真ん中に顔のわからない大男が立っていて道を通さない、戻れないのだそうだ。道の真ん中に得体のしれない男がどーんと立っているだけでなぜかとても怖い。

 四つ辻のあやかし…交差点の真ん中でつむじ風がくるくる回る。無理に通ろうとすると何かが足にしがみついてくる。

「あとは、都市伝説的な話もあるぞ」

 ボート部の幽霊…今から四十年ほど前、この湖で大学のボート部が練習中事故に遭って四人が死亡。今でも霧の中でボートを漕ぐ学生がいるとか…。

「あとは…展望台の家族とか…男爵邸の富子様とかいろいろあるねえ」

 原因不明の自殺をした絶世の美女、男爵邸の富子様が、透き通った湖水の中から手を振って呼ぶ…その話を聞いた瑠璃は、これだと言う閃きがあった。

「そして一番恐れられているのは、あの今度土砂崩れのあったあの塚森山だよ。あそこは戦国時代に合戦のあった近くで、落ち武者山って呼ばれていてね…賽ノ介っていう不死身の落ち武者がさまよい歩くってねえ…」

 マスターから聞いた話は単なる伝承や大雑把な都市伝説のようなものだったが、ミステリー作家の八千草瑠璃の頭の中では、次々と細かいディテールや、インパクトのあるビジュアルが構築されていく…。

 瑠璃の取材はまだまだ続いたのだった…。


 男爵邸の西園寺の別荘では、管理人の立石の話しは続いていた。

「現当主の西園寺圭吾様は、結婚した西園寺静江様と一緒になられてからは心を入れ替えて、地域の発展に尽くしました。新しい別荘地は大人気で、湖には神波島をめぐる観光船も走っていました。湖には観光客も帰ってきて、男爵家も盛り返したのです。とはいえ、その静江様も昨年、ガンでお亡くなりになると、旧西園寺家の親族との溝は深まるばかりで…」

 そして立石は出席者の控室になっている別荘のロビーに高塚を連れて行った。

 湖側に広いテラスのある、大きな窓ガラスの部屋はレースのカーテンがゆれ、外国製のソファのセットが並んでいた。

高塚は打ち合わせ通り、花屋ということで立石に紹介された。

「…みなさん、この方がさきほどお話しました、花屋の高塚さんでございます」

「フラワーアトリエケンゾーの高塚賢三と申します。これからこの別荘や御隣の男爵邸のあちこちに花を生けさせていただきます。何かとご迷惑とは思いますが、ご協力のほどよろしくお願いします」

 冷たい視線、勝手にどうぞという無愛想な息使い、高塚はそれでもまったく意に介さずお辞儀をした。そして立石の紹介で一人一人に挨拶をして回る。

 高塚は出席者の顔ぶれを見て、あらためて戦慄を覚えずにはいられなかった。グループ会社の社長や西園寺の取り巻きなどは一人もいない…誰もが、社長に恨みを持つひと癖あるメンバーが集まっているではないか。

 正面に車いすに乗った西園寺社長がいて、高塚が頭を下げると、黙ってうなずいた。西園寺社長は、やせた目つきの鋭い男だった。今年還暦を迎えたばかりでまだまだ若いのだが、心筋梗塞で一昨年、昨年と倒れていて、左半身に後遺症が残っているのだ。周囲の人間は介護や看護士をつけろと言うのだが、疑り深い社長は身の回りのことはすべてリハビリだと言いながら自分でやり、薬の管理も人に任せず、車いすも電動車いすで自分で運転している。

 今日の客の中には看護師もいるのだが、社長は話しかけもしない。

 それもうなずける因縁が緑川にもある。看護師の緑川夕子三十七才、小柄でかわいらしい感じだが、一族で経営していた中規模の病院を若いころの西園寺社長に乗っ取られ、一家は離散。ただ若い看護師として病院で働いていた夕子はそのまま看護師を続けていると言う。

 さらにそばにはもう一人のすらっとした美女がついている。瞳が大きく黒髪が美しいのが社長秘書の芦原京香、三十三才だ。西園寺ホールディングスのグループ会社を束ねる西園寺社長だが、実務はこの才媛がにぎっていると言われている。だが高塚の調査によると芦原京香の父親は、やり手の実業家だったが謎の交通事故で亡くなっている。どうもその事故に深くかかわっているのが西園寺社長らしい。

 そしてガンで亡くなった西園寺静江の妹の洋子四十九才が、パーティのスケジュールを芦原京香に聞いて何かを確認している。理知的で優しそうな女性ではあるが、西園寺社長を見る時の目は冷たい。男爵家の血を引く洋子とは、姉の静江が亡くなってから何かとぎくしゃくしているという。

 そしてみんなと離れて、窓辺で一人コーヒーを飲んでいる若い男がいる。息子の涼。西園寺の先妻との間の子。三十二才、小さなベンチャー企業の経営をしている。だがなぜか西園寺グループから一切外され、縁を切られている状態である。そして部屋の奥には見たことのある顔が並んでいた。

「ははあん、あのタクシー強奪の一味も一緒だな」

 そう、昨日、駅で騒ぎをおこしたこわもての中年男や、あの走り回っていた黒いスーツの若い男もいた。

 あのこわもての中年男が赤坂健吾五十六才、西園寺社長の古くからの部下だ。だが巨額脱税事件にからみ、社長の代わりに逮捕された過去を持つ。今は素知らぬ顔で座っているが、一時は社長を恨んで絶縁状態の期間もあったと聞く。

 そしてあの黒服の若い男たちのリーダー、東郷哲也三十四才だ。こちらは赤坂の手下で、やはり巨額脱税事件の時の実働部隊だったと聞く。赤坂がつかまったおかげでしばらくの間食うや食わずで西園寺社長には相当な恨みを持っていたと聞くが…。

「それでは晩餐会の始まる夕方までの約七時間の間、この別荘から男爵邸のあちこちに花を生けたり飾ったりして行きます。立石さん、花屋の商売道具は届いているでしょうか?」

「はい、昨日の事故の前にすべて届いてございます。いろいろな花器やお道具、花もまだ生き生きとしておりますよ」

「では、はじめましょう」


 瑠璃はその頃高橋光夫マスターから借りた地域の地図とデジカメ、手帳を持って湖畔の道を歩いていた。

「ええっと、もう少し行くと、四つ辻のあやかしがでたという昔の交差点か…」

 でも湖畔の散策路は観光客もほとんどなく、涼しい木陰を緑の風が吹き抜けるさわやかな空間であった。もともと美しい風景、白日の下でおこるミステリーが持ち味の八千草瑠璃なのだが、さすがに何か一工夫仕掛けようと頭をひねった。道の傍らのお地蔵さまや馬頭観音を撮影しながら、ふと湖側の山の斜面をみると白い霧がゆっくりと動いていく。

「そうだわ、うっとりする風景がゆっくり動く霧に包まれた時、異世界がその扉をあけるってことにすれば…」

 そして湖からの風が吹き抜ける四つ辻を通り過ぎ、鳴き始めたセミの声に呼ばれるように蛇坂と呼ばれる曲がりくねった坂を上って行く。しかし昇りきった時、瑠璃は思わず声を上げた。

「わあ、こんなにひどい土砂崩れだったんだ!」

 バンガロー村からは見えなかったが、蛇坂を上ると塚森山の崩れた斜面が奥まで見渡せた。

 斜面一帯が広い範囲に渡ってふもとへと地滑りを起こし、大きな岩や倒れた木が道路や鉄塔などを埋め尽くしていた。

 目のすぐ下には廃線になったローカル線のトンネルの湖側の口と伸びる線路が見える。

「ここから右に行けば塚森山、左が展望台への近道ね」

 さすがに塚森山への道は途中で立ち入り禁止、通行止めになっている。まだ湖側は重機もはいらず復旧工事のめども立たない。

「ええっとここで振り向くと、蛇坂の途中に通せんぼが…今は、いないわねえ」

 当たり前だが、今は気持ちのいい初夏の午前中、あやしい雰囲気はどこにもない。そして瑠璃は一度廃線の錆びたレールの上におりて、楽しそうに枕木を跳びはねながらしばらく散歩と決め込んだ。すると目の前には廃線になった塚森山のトンネルが姿を現す。瑠璃は早速、トンネルの入り口を覗き込んだ。

「真っ暗で、怖そうだけど…ここに幽霊じゃ…ちょっと当たり前ね」

 瑠璃は元の道に戻ると、湖の展望台への山道を歩いて行く。今から二十年以上前、台風の後に、展望台の手すりが壊れていて、そこから三人家族が落ちたと言う話しが伝わっているそうだ。高橋光夫マスターが古い記録を調べたが、転落事故の事実は結局見つからなかった。でも都市伝説はきちんと出来上がっていて、自殺か事故かは分からないが家族は全員死亡したということになっている。そしてこのあたりを通りかかると、見知らぬ家族が現れて展望台までの道を尋ねるのだという。あっちだよと教えると、しばらくして悲鳴とともにどこかへ消えるが、案内すると道連れにされるという話だ。

 そこをまっすぐ行くと分かれ道があり、事故のあった塚森山への山道がある。例の落ち武者の亡霊の伝説のあるところだ。

 そしてそこから下って行くと、湖の東側の小高い崖の上に設けられた観光名所の展望台、ここには木陰のベンチや、水洗トイレ、水飲み場があり、観光シーズンにはスナックや飲み物の屋台も出る。

「へえ、すごい。展望台だと遠くの火山やあの神波島、弁天岩まで良く見えるわ。そして、ここからだとはっきり見えるのね、富子様が住んでいたと言う男爵邸。明日はあっちに行ってみようかしら」

 さらに手すりまで歩いて見下ろすと、思ったよりずっと透き通った湖面とゆらゆら揺れる水陽炎が見える。瑠璃はあちこちを撮影し、そして手帳にびっしりと書き込むと、バンガロー村への道をゆっくり下って行った。


 その頃アスリートの鉄馬とジャーナリストの風間はエレベーターに乗って丘の上に登っていた。二人は丘の上で別れると、風間はネクサピス財団病院へ、鉄馬はスポーツセンターへと入って行った。鉄馬は管理人の許可を得て、がらんとしたアリーナに入って行き、たった一人のバスケットボールの練習を始めることにした。

 念入りに柔軟体操をやって、そのあとはジャンプとダッシュ、そしてドリブル、シュートといつも通りのメニューをこなしていく。

 なぜだか体が思った通りに動く…絶好調だ。今日は練習仲間もいないし、もちろん観客席も空っぽだ。

「ああ、偶然沢渡野菊とか見に来ないかなあ…」

 もちろん野菊や塔子など来るはずもない…鉄馬は一人で黙々と練習を続けるのだった。


 風間は病院で受け付けを済ませると、まっすぐにあの人間の入ったカプセルのある地下の部屋へと向かって行った。

「…こんにちは、ごきげんよう、風間さん」

 地下への階段に向かうと、階段への扉の真ん前で昨日の美女が待っていた。ナターシャ前園だ。

「あれ、今度はわざわざ美女のお出迎えですか?」

 するとナターシャは首を横に振った。

「風間さん、あなたオレゴンのネクサピス病院にも忍びこんだでしょう。ほかにも全米の七か所の施設でマークされてるわよ。そちらにも現れたら警戒せよ、要注意人物だって…、病院関係者の間では、国際指名手配の犯人ね。まあ、そのジャーナリスト根性は大したものだけれどね」

「え、じゃあ俺はここでもつまみだされちゃうわけですか?」

 するとナターシャはもう一度首を振った。

「いいえ、あなたのような不屈のジャーナリストは、かえって取材制限なんかしたらますます燃えちゃうでしょ。そこでね、院長先生と作戦会議をしたのよ」

「院長って、あの八岐吉久さん?」

「いいえ、あの人は実力者だけど院長代理。院長は黒逸仁、この病院を管理している偉大な方よ」

 黒逸仁の名まえを聞いた時、ひとなつこい風間の目が一瞬光った。

「…それで話し合いの結果、院長は決断なされた。風間潤さん、あなたが探したいところ、どこでも取材してもいいわ。ただし私が一緒に付いて行くけどね…。それで良ければ…」

 風間潤は、もう一度ナターシャ前園を見た。見れば見るほど自分好みのワールドワイドなセクシー美女だ。

「…それ、ある意味最高! じゃあ、おてやわらかに!」

 風間は、にこにこしながらナターシャと連れだって地下への階段を下りて言った。

「取材していいって言いましたよね。…ってことはカメラ撮影も可能ですか?」

「もちろん。なんなら、関係者へのインタビューも本人が許可すればオーケーね」

 本当だろうか? 昨日までの対応とはかなり違う。それとも一晩で証拠隠滅なんかをしてしまったのだろうか。そして階段を下りる。明るい通路が目の前に広がる。昨日と寸分の違いもない。

「確か、あの部屋だった…間違いない…」

 風間は人間の入ったカプセルがいくつも並んでいた部屋の前に立ち、もう一度ナターシャを見た。ナターシャは全く問題がないと言うようにほほ笑んでうなずいた。ドアのノブに手をやる。鍵はかかっていない。風間はカメラを用意してドアを開け放った。

「え…?!」

 あれだけ大きなカプセルや機械がすべてなかった。さらに確か昨日は白い壁だったのに…床も壁も木製の体育館のような材質に代わっていた。唖然とする風間…。

「どうしたの? ここは軽運動ができるリハビリルームよ?」

 やられた、道理で取材自由なわけだ…これは一晩で証拠隠滅したというレベルじゃない。世界的マジシャンが仕掛けたイリュージョン的な見事さだ。一応両隣の部屋や、向かいの部屋も見せてもらったが、レントゲン室やCT室などになっていて、どこにも何の痕跡もなかった。完璧だ。

「あら、もういいの? ごめんなさい、ご期待に添えなくて」

「いいえ…作戦を練り直してまた明日来ていいですか?」

 風間が聞くと、一瞬厳しい目をしたナターシャだったが、すぐにほほ笑んでこう言った。

「はい、楽しみに待っています。ではまた…」

 昨日、間違いなく見たはずの怪しい部屋が消滅している。いいやちょっと待て、あの部屋を見た後の記憶が定かでない…。自分はどのようにしてバンガロー村の自分の部屋に戻ったのか、なんとも記憶が頼りないのだ。

「ま、まさか…?」

 財団病院は、やつらは一体どんな手を使ったのか、一つ言えることは、あの七度死んだ日本人や、悪夢を植えつけられたアメリカ人たちと同じような、ありえない体験をしたということだ…。

 風間は大きな敗北感を感じながら…病院の外へと出たのだった。


 湖から、時折涼しい風が吹き抜けていく。あの朝ウツのOL瀬川麗香はすっかり調子が良くなり、作業を始めていた。バンガロー村の木陰にあるあずま屋にノートパソコンと調べてきた資料を持ち込み、集中して何かを作っていた。先ほどきレストランで注文したカンパリオレンジの氷が少し解けてカランと涼しい音を立てる。

「白鷺湖周辺パワースポットツァー」が、もう少しで完成だ。

 バンガロー村のみんなに声かけたら、誰か一緒に来てくれるかなあ、まあ、一人でもいいけどね…。とにかく運気もあげて、この朝うつ状態から脱出してやる。

 遠くにかすむ火山とそそり立つ崖、奇岩、初夏の燃え立つ緑、きらめく湖面、そして緑深い神波島すべてがパノラマとなって麗香の眼前に広がっていた。

 カンパリオレンジをぐっと飲み干して最後の追い込みだ。

「我ながら、いいものができそうね」

 そう、瀬川綾香は、本当に仕事のできる女なのだ。でもその苦悩は深い。

 始まりは今年の4月、数々の実績を認められて、内部出向の形を取り、本社に出て新製品の開発プロジェクトチームに入った。「家庭用定温調理器」の開発だが、みんなそれぞれの課から選りすぐられてきたからかプライドが高く、言うことを聞かないやつらばかりだった。

 煮込みモードで低めの温度にしてじっくり火を通すことができるだけでなく、フライパンモードで肉汁を内側に閉じ込めたままハンバーグやステーキを焼きあげるプロの加熱もできる便利な製品だ。

 だが、スーパーバイザーとして指導に当たっている温度センサーの権威の私立大学の教授もはっきりしない煮え切らないおやじで、全然チームをまとめられないし、担当部長の関口は丸投げ体制でほとんど顔も出さない。

 思い出せば、顔合わせの時、まずキッチン家電なのに女性が一人というチームに驚く。

 …こんな男ばっかで主婦向けの製品作れるの? と思っていたがふたを開けるとさらにひどかった。

 営業から来た佐藤は私の方が身長が2センチ高いところが気に入らないらしく、何かとデか女と口にするし、プレゼンをきっちりやると今度は鉄の女とかやっかみを必ず入れてくる。そしてこんな調子だ。

「瀬川君は独身なんだね。料理は得意なの、っていうかキッチンに立ったことあるの?」と平気で失礼なことを言ってくる。何かあるたびにデカ女とか独身女とかしつこいので、

「自分は、料理が趣味で手づくりピザ検定1級、お米マイスター、野菜ソムリエ、その他の資格を持っています」と言い返すと今度は、

「なんだ資格マニアか、まあ資格とおいしい料理が作れるかどうかは別だがなあ」とか言って、小馬鹿にしてくる。こいつはその時からパワハラ佐藤と命名した。

 温度設定会議の時もさんざんだ。

「食材の下処理の五十度洗いができる五十度モード、昆布のだしが良く出る六十度モード、肉を堅くしないで火を通し、殺菌できる六十五度モード、あとかつおだしに最適な八十五度短時間モードは基本設定メニューに入れないと…」と、私が提案した時だった。ニコニコしながらプロジェクトリーダーの塚越が

「でも、今時、だしをきちんととる主婦なんていますかねえ。我が家も、だしの素だし、瀬川君だってとったことないでしょ? ああいうのはプロの料理人が撮るものだよね?」

と、耳を疑いたくなるような意見を言い出す。

 もちろん取ったことが何度もあると言い返しても、にやにやしてまったく信じない。だいたいだしをとったことなきゃ温度の違いなんて分からないし…。そもそも主婦にはできない料亭や高級レストランのプロの料理人の火加減を実現するのが開発コンセプトだとおまえが言ったんだぞ、なんのための新製品なんだ!…この男、八方美人的な笑顔だけで言っていることがどんどんぶれてくるなと、その時からブレブレ塚越に決定。

 すると腰ぎんちゃくの坂田が「そうですよね、だしのモードは煩雑だからいらないかなあ。そうだ、昆布と、カツオの二つを一つにまとめちゃえばいいんですよ」

 抽出温度がそもそも違うのだからまとまるわけないだろう! この坂田は私のことを陰で

「瀬川さんは、女性に受けるデザイン選定のためだけにこのチームに呼ばれた人だから、機能や操作法などほかのことは口を出さなくていいんです」

 なんて言い出す失礼な奴だ。だったらデザインのコンセプト会議の時にごちゃごちゃしたボタンを並べるのはやめてシンプルなヨーロッパ風にしたらと提案した時に、反対するんじゃねえ。体も小さいが、器も小さい。上司やプロジェクトリーダーに媚びる時と、私に言うことがコロッと変わる。まるでコインの表と裏だ。よって、コイン坂田に決定。

 ほかにも職務中にナンパまがいの言動をしてくるホスト加藤や無口で冷淡なアイス片桐など、ろくなメンバーじゃない。自分なりに毎日努力しているのだが、結果が出なければすぐたたかれるし、きっちり資料を作ってよい意見を言うと鉄の女とか言われて、さらに寄ってたかって言いがかりをつけてバッシング、結果が出れば、いつの間にか塚越や坂田がおいしいところを持ち逃げだ。そしてだんだんやつらの顔を見るのもいやになり、出社が嫌になり、朝になると体調がおかしくなり、ひどい朝ウツ状態へと進行して行ったわけだ。

 でも、家庭用の定温調理器はもうすぐ世に出る。ここでやめるわけには…。そこで夏の休暇をうまく利用し、リフレッシュするためにこの湖畔一人旅と来たわけだ。

 そしてついにパワースポットツァーの計画が出来上がり、達成感とともに瀬川は立ちあがった。そして一度部屋に帰り、さっとシャワーを浴びてくつろいだ。ここに来てよかった。なんだか本当に体調も良くなってきたような気がした。

 ところがその時、外からがやがや聞こえてくる声を聞いて、すごくやな予感がして、ほんの少し窓を開けて外の様子をうかがった。

 このバンガロー村の本館の個室に麗香はいるのだが、隣はあの翼館のあるバブルのころの別荘地だ。その別荘地のこちらの端に、ビジネスホテルほどの建物がある。昔は大手の社員用の保養施設だった建物だ。それがやはり売りに出されて去年改装され、低料金の観光ホテル「レイクゴージャス」になったのだ。現在は食事は出ない素泊まり専用だが、もともと大手の保養施設だったので、大きな大理石の浴室、広い間取りと豪華な寝室、コーヒー淹れ放題のゴージャスなラウンジなど見逃せない内容だった。食事は持ち込み自由だし、名物の湖畔カレーや湖畔ベーカリーのパンなどで済ませればいいわけで、瀬川麗香も最初はこちらにしようかと資料をプリントアウトしたりして検討していたのだ。まあ、グループ向けの施設だったので結局辞めたのだが…。

「ちょっとどういうこと…ありえない…」

 窓の隙間からホテルレイクゴージャスを見て麗香は愕然とした。レイクゴージャスの入り口で男たちが何か話しをしているのだ。

「いやあ、あんな事件があってもうどうしようかと思っていたが、泊まってみたら驚いた、寝室といい、浴場といいすごい施設じゃないか坂田君」

 ブレブレ塚越の声じゃねえか?!

「いやあ、この料金でこのグレードの施設はまずありませんよ。探すのに苦労しました」

 そう、もちろんコイン坂田だ。やな予感がして麗香は自分の資料を確認してみる。確かにレイクゴージャスの資料がない。どういうことなのか自分の資料がコイン坂田の手に渡っていた…。

「でもあのデカ女の瀬川もこっちに来るって聞いてたけど…まさか泊まってるんじゃないだろうな」

 パワハラ佐藤の言葉に黙っていたアイス片桐が冷たく言い放った。

「フロントで確認した。彼女はいないぜ、安心しな」

 するとあのナンパ野郎のホスト加藤が残念そうに言った。

「なんだ麗香ちゃんやっぱ来てないのか。あのオフィスのモデルさんにここで愛のさざ波攻撃を仕掛けようとひそかに狙っていたのになあ」

 なんでやつらがここにいるのか、もうどうでもいい、考えたくもない…。ただせっかく体調も良くなってきたって言うのに。すべてがぶち壊しだ。たんに残念だとかがっかりしたとか、そんなショックではなかった。希望の糸がプツンと切れて、もうなんの感情も湧いてこなかった…。


 そんな昼過ぎ、花屋のケンゾーの仕事も八分通り終わり、別荘から男爵邸への渡り廊下、男爵邸の各部屋や通路、そして晩餐会の行われる男爵邸一階の大広間のあちこちに大小の花が、さまざまな花器で、あるいはアートフラワーで設置された。あとはパーティー会場に設置する一番大きな生け花だけだ。

 管理人の立原と美人秘書の芦原京香が、最後の見回りをして歩いていた。

「立石さんの呼んでくれた花屋のケンゾーさん、実に見事ね。仕事は早いし、的確って言うか、それぞれの部屋に合わせた花の種類や飾り方のセンスが抜群ね」

「いやはや、噂には聞いていたのですがこれほどとは、男爵邸の格調高さに響き合うような奥深い仕上がりですな」

 だが、その時、早くもトラブルが起きたのだった。

「うわっまた停電だ、まずいぞ!」

 男爵邸のあちこちでどよめきが起きた。どたどたと足音が聞こえる。

「なんかの加減でブレーカーが落ちただけみたいだ。ちょっと待っていてくれ」

 立石の声が聞こえて、少しすると電気は復活した。だが、それだけでは終わらなかった。

 芦原京香が一階と二階をつなぐ大階段をさっきから行ったり来たりし始めた。そのうち管理人の立石も呼び出された。

 高塚も階段のところに行ってみる。芦原京香が、こう説明を始めた。

「…男爵邸の二階に、社長の部屋が用意されていて、先ほど、確かに社長はエレベーターを使って渡り廊下から男爵邸の二階へ上がったのです。そこは男爵邸の主人の部屋で西園寺様は市の代表の方と、寄贈の書類のやり取りをする大事な場所です。その手続きが終わり、時間になったら一階のパーティー会場へとエレベーターで降りる予定でございました。ところが先ほどの停電の後、エレベーターの電源がついたり止まったりするようになり、もう動かなくなってしまったんです」

 原因ははっきりしないが、やはり土砂崩れで電圧などが不安定だからではないかと言うのだ。すると管理人の立石があの黒服軍団の東郷と若い男たちを引き連れてやってきた。

「…もう時間がありませんので、芦原さんの提案でエレベーターを使うのはやめにして、旦那さまと電動車いすを大階段から降ろしていただくように打ち合わせしました。旦那さまが大階段の上で電動車いすを止めて一階に声をかければ、この若い者たちが来て、旦那様と電動車いすを別々に運搬することになりました」

 さらに美人秘書の芦原京香がやってきた。手に西園寺社長の使っている、大事な薬の入った小箱を抱えている。

「社長はお食事の後にこの御薬を必ず飲まなければなりません。でも、簡単に一階と二階の行き気がしにくくなったので、部屋に置いていた薬の方を下に運んできたのです」

 それから少しして昼食の時間になった。そこで晩餐会の本番練習も兼ねて、社長の昼食を一階の大広間で食べることになった。芦原が呼びに行くと、電動車いすを使って社長が二階の部屋を出てゆき、大階段の手前で止まる。そして芦原に合図を送る。

「芦原、下に降りるぞ」

 すると芦原が声をかけ、東郷たち若いものがバラバラと二階へあがって行く、そして一人が社長をおんぶし、残りが重い電動車いすをみんなで持ち上げて静かに一階に降りるのだ。社長は一階で再び電動車いすに乗ると大広間をぐるっと回り、自分の席に着いた。

 特になんの問題もなく、速やかに社長の移動が終わる。

 そこにスタッフが軽い昼食を用意、社長は食べ終わり、さっきの薬箱から薬の入った透明な小袋を取り出し、それを破って中身を飲む。飲み間違えると命にかかわる薬もあるため、病院で種類や個数を全部確認し、封がしてある袋だ。

 飲み終わるとまた若い男たちが社長と電動車いすを二階に運ぶ。なんの問題もなく社長は男爵邸の主人の部屋へと戻って行く。良かった、これで本番も問題ないだろう…立石や芦原は、大きな変更もなく予定通り晩餐会が開かれる見通しができて、ほっと一安心だ。

 高塚もパーティー会場の最後の生け花を完成させると、一度男爵邸を離れ、隣の別荘で脅迫状の詳しい分析を始めたのだった。


「只今、ああ、楽しかったろ

 野菊と塔子はペットボトルに入れた若返りの水を持ってその頃バンガロー村に帰ってきていた。非常食のパンの缶詰やツナ缶、フルーツ缶などでピクニック気分で湖を眺めながらの昼食もおいしかったし、とても楽しい散策であった。木陰のベンチで楽しそうにおしゃべりをしていた二宮と三崎の老人たちと目が合うと、野菊が言った。

「いま、すぐ山の上で若返りの水を組んできたんですけど、いかがですか?」

 二人は大層喜び、その場でごくごくとおいしそうに飲む。

「ぷはー! いや、冷たくておいしい! こりゃ本当に若返りそうだ」

 その頃、七橋は湖畔のパトロールを終え、役場の牧原と一緒に男爵邸の前に来ていた。

「あ、高橋巡査、今日はよろしくお願いします」

 男爵邸の前では駐在所の高橋巡査が待っていた。

「牧原さん、復旧の見通しがいつつくのか分からないというので、昨日届いたケータリングのごちそうが無駄にならないよう、今日、やはり男爵邸寄贈の最後の晩餐パーティーを決行するのだそうですよ」

「じゃあ、打ち合わせの通り、おれと高橋巡査で代理出席かい?」

「はい、市の公園課長と観光課の課長は来られませんので俺らが出席です」

「…まあ、この非常事態だからしょうがないね…」

 牧原と高橋巡査は、でもニコニコしながら男爵邸に入って行った。すると花屋のケンゾーがさっと高橋巡査に駆け寄り、自分が脅迫状の件で依頼された探偵であり、ぜひ、協力をお願いしたいと申し出た。

「そうですか、それは心強い。なにせ、警察が自分一人になったもので…こちらこそよろしくお願いします」


 そして七橋は、パトロールを終えて、やっと翼館に帰って来た。サチエさんの用意してくれたアイスレモンティーを飲んでクールダウンしていると御剣さんがやってきた。

「慣れないパトロールで疲れただろう。ご苦労さん」

 七橋は、大きな問題もなくパトロールを終えたことを報告した。

「でも電気が不自由なく使えるのは財団病院とその周囲だけ、特に、ボート村周辺や農村のあたりは停電したまま見通しもつかない。もう夏だから、冷蔵庫が一番困るって言ってましたね。まだみんな、不安そうでした」

 それからしばらくはあちこちの様子について話し合った。

 話しが終わった頃、御剣さんが、ふと思い出したように言いだした。

「そう言えば、君が翼館に送ってきたアンケート用紙に添えてあった小論文、なかなかおもしろかったよ」

 御剣さんは七橋の小論文を完璧に呼んで記憶していた。おどろく七橋。

「先史時代の洞窟の古代人の壁画や女神像に込められた狩猟の成功や子孫繁栄の願いから始まり、農耕の広がり、豊作の願い、古代の王たちと巨大墳墓に込められた永遠の命、古代ギリシアでの銀貨の発明と芸術、古代ローマの浴場やコロッセオ等、時代時代の人々の娯楽や幸福がどこにあったのかと、問い続ける素晴らしい論文だのう」

「ええ? お読みいただけたのですか? うれしいなあ」

「そして、農業革命から、産業革命、戦争の時代から科学技術やネット社会は、本当に人々を幸福にしたかと言うゆるぎない視点も見事じゃが、あの三章のまとめ、『一つの便利なものは、確かに一つの幸福の果肉となるが、その裏で新たなリスクの種を残す』という言葉が秀逸だな」

 いちおうアンケートの参考資料として小論文をつけているのだが、ほとんどの人が読まないかパラパラと目を通すだけだ。こんなにきちんと読んでくれる人などかつていなかった。

「あ、そうだ、御剣さんにもアンケートを…」

 そう、肝心の御剣さんにはまだアンケートの答えをもらっていなかったのだ。七橋としても、この湖畔の賢人の考える夢や幸福には興味があった。なぜならこの翼館にいる人たち、老人も若い人もみんな生き生きして見えるからだ。ここを作った御剣さんはどんな考えなのか気になったのだ。

「私かい? 私は…夢もかなえたい幸せも特にないな。あえて言えば、今、こうして生きていて、君と話ができることが幸せだ」

 夢も幸せも特にない…まだ七橋にはその真意が分からなかった。だがその言葉の裏には壮絶な人生が秘められていたのだった。


 昨日から来ていた二名のケータリングスタッフが、一階の大広間を忙しそうに動き回っていた。大広間の中央には花屋のケンゾーが用意した大作の生け花が輝き、今度はその周りに豪華な料理が並べられていった。やがて管理人の立石匠が入場、いよいよ時間だ。

 探偵の高塚は、花屋のケンゾーとして大広間の入り口で出入りするものがいないか見張っていた。ケータリングスタッフと、電動車いすを運ぶ東郷の部下たちはこの出入り口のすぐそばの小部屋で待機している。

 美人秘書の芦原京香、看護師の緑川夕子、社長の義理の妹西園寺洋子が入場してくる。そして昔からの部下の赤坂とその手下の東郷も神妙な顔をして入場だ。最後に来賓の代理として役場の牧原さんと高橋巡査が、二階の主人の部屋での書類のやり取りを終えて、先に階段を下りてくる。

「今、寄贈のための書面の確認を終わりました。この男爵邸とバラ園のある庭園、そして周囲の散策路、さらに男爵邸に保存されていると言う美術品のすべての寄贈の手続きを確かに完了いたしました。どうも有難うございました」

 牧原さんがおごそかに頭を下げた。テーブルに着いた招待客が拍手をした。

 すると二階の社長のいる部屋のドアが静かに開いた。

「皆様、西園寺社長のご入場でございます」

 秘書の芦原の声が響く。電動車いすがゆっくり動きながら大階段へと進んでいく。決して他人には車いすを押させない。飲み薬の管理も決して他人にはやらせない。左半身に麻痺が残ろうと、社長はプライドを守り通していた。社長の車いすがゆっくり大階段に近づいて行くのをみんなは一階の大広間から見上げていた。だがその時、芦原が大きな声を出した。

「ちょっと、誰か、社長の様子がおかしいわ!」

 社長の電動車いすを運ぶために隣の部屋で控えていた黒服の若い集団が急いで部屋から飛び出してきた。だがなんと言うこと、社長の目はうつろで電動車いすのハンドルを握ろうとしているのだが、大階段に向かって突き進んだのだ。

「社長、ブレーキを!」

 誰かが叫んだが、それより早く、電動車いすは大階段を転げ落ちた。電動車いすは一瞬宙を舞い、上から三段目で大きくバウンドし、社長は頭から転げ落ち、電動車いすは大きな音を立てて、一階に転がりながら落ちて止まった。タイヤはまだゆっくりと回っていた。かけつけた東郷の部下たちによって社長は階段の途中で受け止められたが、何回か頭部を階段に打ち付け、ぐったりと動かなかった。

「みなさん、お静かに、その場を動かず、私の言うことをお聞きください」

 居合わせた高橋巡査の的確な指示で招待客は別荘に移動。西園寺社長は高橋巡査の乗ってきた車で財団病院に運ばれ、緑川と立石が付き添って行った。

 これは事故なのか、事件なのか? 高橋巡査は高塚が持っていたあり合わせのひもで大階段周辺を封鎖し、本格的な捜査に備えた。手伝ってくれた高塚に高橋巡査は聞いた。

「これは事故なんですかね…事件なんですかね…」

 すると高塚は冷静に答えた。

「脅迫を受けながら結局犯人を止められなかった。痛恨の思いです。でもこれだけは断言できる、これは単なる事故ではない。巧妙な犯人によって仕掛けられた、起きるべくしておきた事故なのです」

「…な、なにか証拠でもあるんですか?」

「はい…、1時間待っていただければ…みなさんにお見せできる証拠が手に入るでしょう…」

「…本当ですか? では1時間後に、出席者を集めましょう」

 それから高塚は、あのここに来た時もらった黒い携帯を取り出して、操作した。

 しばらくすると携帯のスクリーンに八岐吉久の顔が映った。

「…もしもしどうしました、高塚さん…」

「そちらの病院に男爵邸から重病人が行ったと思いますが…」

 八岐はすべてを理解していた。意識不明で危ないのだと言う。高塚はいくつか頼みごとをすると、次に七橋に黒い携帯で連絡を入れた。

「はい、七橋です。どうしました、高塚さん?」

 高塚賢三は男爵邸の事件のことを手短に話した。

「…え、本当ですか? それで?」

 高塚は七橋にある相談をした。

「わかりました、たぶん力になれるかと思います。すぐに交渉してみますよ」

 高塚は七橋に頼みごとをすると、荷物の中からノートパソコンを取り出した。いよいよ探偵として動き出したのであった。


 それから三十分後、立石と芦原が暗い顔をして帰って来た。まだ息はあるものの意識もなく、非常に危ない状態だと言う。さらに1時間後、今度は西園寺の新しい別荘のロビーにみんなが集められた。立石がみんなに言った。

「…実は花屋としてこの別荘に来てもらった高塚さんは私が依頼した探偵だったのです」

 みんな意外な驚きの声を上げた。

「実は今回の事故について、高塚さんから皆さんにお話があります」

 すると高橋巡査とともに高塚が入ってきた。

「少し前、病院の八岐という人から連絡が入り、西園寺社長がお亡くなりになったということです」

 みんな顔を見合わせてどよめいた。

「そして今、私高橋は高塚探偵に、ある証拠を見せてもらいました。それは事故の核心にふれる重大なものでした。そして、あの事故は、偶然の事故ではない、明らかな殺人事件だと言うことを確信しました」

 また驚きの声が上がった。義理の妹西園寺洋子が高塚に聞いた。

「…じゃあ、犯人が分かったんですか?」

「いいえ、これから説明しますが、犯人は絞り切れていません」

「なんだまだ犯人も分からないのに、どんな証拠なんですか?」

 すると高塚はみんなの前にノートパソコンの画面を広げ、みんなに画面が良く見えるように近づくように言った。そしてマウスをクリックすると、なんと西園寺社長が落下する映像が映ったではないか。いつの間に撮影していたのか?

「…?!」

 食い入るように全員が見つめる。するとそのうち社長の前妻の息子の涼があることに気付いた。

「この男爵邸は改修は行われたが、監視カメラはまだ一つもついていないはずだ…どういうことだ?」

 高塚は続けた。

「まず、一つめに注目してほしいのはこのうつろな社長の目です」

 どういうことか、その映像には社長の顔がくっきり写っている。みんなは一階から見上げていたのだが、その画像は社長の目線とほぼ同じ高さから撮られている。確かに極度に眠そうなうつろな目だ。

「高橋巡査、書類の手続きをしている時の社長の様子はいかがでした?」

「今になって思えば、だるそうと言うか、眠そうでした。でもそれが…こんなことになるなんて…」

 高塚はさらにマウスをクリックする。

「次に注目してほしいのは、社長の手元です。どうですか? 階段に向かって突き進み始めた時、ブレーキレバーを一瞬ですが、完全に引いている、ほら、ここです」

 今度は違う角度からの映像ではないか? 本当にブレーキレバーをちゃんと操作していた…どういうことだ? 息子の涼が立ちあがった。

「…二階の廊下に置いた花にカメラをしかけたのか?」

 高塚は構わず説明を続けた。

「つまり、二階から一階に降りようと電動車いすを進めた社長は、一つは心神耗弱状態だったおそれがあります。社長は強力な薬を処方されているのですが、飲み間違いがないように色々な薬が一つの透明な袋に入っていました。色々な薬に混じっていて、よく確認しないと数が増えていても減っていても、別のものが混じっていても、素人では分からないでしょう。わたしはすぐにこの数時間前に社長が飲んだ薬の袋を探しましたが、どこのごみ箱にもありませんでした」

 すると西園寺洋子が言った。

「じゃあ、だれかが薬に細工をして、薬の袋を始末したとでも言うの?」

「はい」

 高塚はまたマウスをクリックした。すると昼過ぎ、社長がリハーサルで昼食をとり、薬を飲んだ映像が映った。

「え、今度は昼か? いったいいつから撮影してるんだ?」

 こわもての赤坂が驚いた表情でつぶやいた。

 するとみんなが社長とともに二階に上がって行った時、テーブルにこそこそと近づいてきた人影があった。

「洋子さん?!」

 仲の良い芦原が驚いた。

 洋子は薬の袋を自分のポケットにさっとねじ込んだ。高橋巡査が洋子に近づき、ジャケットの中身を調べさせてくれと頼んだ。洋子は一言もしゃべらず、高橋に調べさせた。

「ありました」

 そこにはくしゃくしゃになった薬の袋があった。高橋巡査はさらに続けた。

「はい高塚さんの指摘の通り、破った後のほかに、刃物で切ったような小さな斬り込みが袋の端にあります。錠剤の中身を入れ替えた恐れがあります」

 すると管理人の立石が洋子に訊いた。

「洋子さん、まさかあなたが…こんな大それたことを…」

 でも当の洋子はまるで他人事のように言った。

「…単にテーブルの上にゴミが落ちていたから拾っただけなんだけど…」

 今度は赤坂が洋子を睨むように言った。

「ちゃんと映像が残り、あなたのポケットから切れ目のある袋が出てきたではありませんか。探偵さん、洋子さんが犯人と言うことでいいのですね?」

 でも高塚は冷静なまま、首を振った。

「まだ映像があります…こちらをご覧ください」

「まだなんかあるのか? いったいどういうことなんだ」

 赤坂の言葉をさえぎるように別の画像が始まった。さらに時間が遡る。まだ社長が昼食を摂る前の映像だ。まだテーブルの上には昼食もない。ただ芦原が運んできた薬箱があるばかりである。すると誰もいないテーブルに誰かが近づいてきた。

「カ、カッター?」

 それは看護師として今も務めている緑川夕子、おもむろにポケットから小さなカッターを取り出すと、薬箱の薬の袋を取り出し、切り込みを入れ、何か細工をしている。立石がまた言った。

「緑川さん、あんただったのか? 探偵さん緑川が犯人で間違いないですな!」

「…」

 黙り込む緑川夕子。しかし高塚はまだ首を振る。どういうことなのか?

「社長の異常な状態は薬品の確率が高くなりました。今病院では死亡原因に薬品の影響がどのくらいあったのか分析してもらっています。でも忘れてはならないのは、もう一つ、電動車いすの暴走です。おかしいと思いませんか? 社長は心身膠着状態になりながらもブレーキレバーに手をかけていた…でも電動車いすは止まらなかった…」

「ま、まさか電動車いすにもなにか細工が…」

 驚く立石、高塚のマウスはまだ止まらない。

「まだまだ見ていただく画像がございます。こちらは音声に重要な証拠がありますので、よくお聞きください」

 みんなは次の画面を見て息をのんだ。それはなんと二階の社長のいた部屋だった。そこにドアが開いて、電動車いすの社長が入ってくる。社長は奥の立派なソファの前まで電動車いすで進むと、まひのない右足で立ちあがり、その立派なソファに座り、やがてクッションにもたれてウトウトし始めた。その画面を見ながら高塚が立石に聞いた。

「社長はよくこのソファで休まれるのですか?」

 すると立石は答えた。

「社長はこの間の退院後は、昼食後、ソファでくつろぐのが慣例となっておりまして…」

「毎日ですか?」

「ほぼ毎日でございます。でも今日のようにぐっすり寝てしまわれることは今まではなかったんですが…」

 だが画面が早回しになって、約五分後の画像に変化があった。社長は眠ってしまったのか動かないが、違う人影が入ってきたのだ。なんとさきほど電動車いすを運んでいた東郷だ。

「社長、社長…! おやおやうまいことぐっすりだ…」

 東郷は、社長が寝ているのを確認すると車いすに近づき、操作ハンドルやブレーキのあたりをいじりだしたではないか?!

「…これが…赤坂さんの言っていた部品か?」

 東郷の体に隠れて良く見えないが、何か部品を触っている感じではある。

 やがて作業が終わったのか、東郷はさっと立ちあがるとこそこそと部屋を出て行った。

みんな唖然として東郷を見た。すると東郷は悪びれずにこう言った。

「いやなに…電動車いすを運んでみたんだけど、どこがブレーキだかアクセル高もまったく分からないので、確かめに行っただけですよ…」

 映像を見ていた息子の涼があることに気付いた。

「まさか、各部屋に活けたり飾ったりした生け花が全部?!」

 すると花屋のケンゾーは大きくうなずいた。

 みんなは驚いて思わずあたりを見回した。男爵邸の各部屋やあちこちに仕掛けられた花がすべて…?!

 そう、花屋のケンゾーの用意した花すべてに監視カメラが取り付けられていたのだ。

「花器や花瓶そのものにカメラが付いているタイプ、カメラを仕込んだ造花を仕込むタイプ、大きな花の内部に仕込むタイプとそれぞれの花の種類やデザインに応じて使い分けています」

 そして男爵邸に取り付けられたいくつもの花から、目の前のノートパソコンに画像が送られて自動記録されるシステムだと言う。

 息子の涼が立ちあがった。

「東郷、お前? 赤坂がやれと言ったのか?」

「…」

 さすがの威勢のいい東郷もうつむいたまま黙ってしまった…。さらに高塚は続けた。

「まだあやしい画像はいくつかありますが…最後にもう一枚だけみて終わりにします。今の東郷さんの画像から数分後の同じ社長室の画像です」

「…涼さん?」

 立石が思わずつぶやいた。息子の涼がすっと入ってきて、まず寝込んだ社長の前でしゃがみ込んだ。そして小さな声で呼びかけたが社長は起きなかった。するとやおら、両手を社長の首元に伸ばした?!

「…首を絞めようとしているのか?」

 赤坂が食い入るように見つめた。

 だが、下の階で誰かの声がしたのを聞くと、息子の涼は、くやしそうな顔をしてさっと部屋を去って行った。高塚が訊いた。

「涼さん、あなたは何をしようとこの部屋に入ったのですか?」

「…いや、別に…何も…。父と話をしようとしたのですが、寝ていて…いや、あれは肩を揺り動かして起こそうとしただけで…首に手をやったわけではありません」

 そして、涼も黙り込んでしまった。高塚が言った。

「…恥ずかしながら、まだ犯人を絞り込めません。社長の死因にどのくらい薬品が関係していたのか? 東郷や息子の涼さんが何をしたのか、電動車いすの暴走にどんな関係があったのかまだはっきりしないからです」

 管理人の立石が訊いた。

「では犯人は…?」

「病院の分析と車いすの部品の調査が終われば確定できるでしょう。もしかすると、全員が犯人かもしれないし、全く別のことも考えられます」

 すると高橋巡査が最後に言った。

「土砂崩れで通行止めの道路が復旧し、本格的な警察の捜査が始まるまで男爵邸は封鎖し、捜査関係者以外は入れないように致します。皆さんは隣の別荘で普通に過ごしてもらって結構です。別荘を離れるときは、私か管理人の立石さんに許可をお取りください」

 高橋巡査の言葉で集会は終わった。なんとも後味の悪い、暗い雰囲気が漂い、参加者はみんな、神妙な顔をして、別荘へと引き上げていった。

「社長の死にこれだけの人間がかかわっているなんて…あり得ない事件だ。何か不可解な別の力がはたらいている…。いったい、なんだ…?」

高塚は今までにない、あり得ない事件に頭を抱えた。だが、この社長の死にかかわる謎こそが、この奇妙ない世界の謎に通じる大きなカギだったのだ。

 高塚はまだそれを知らず、しかし確実に不可解な霧の中へと足を踏み入れていたのだった。


 風間はあれから病院の周囲を色々調べ、昔からの生き残り施設の熱帯植物園や総合スポーツセンターも調べてみた。白滝温泉の温泉熱を使っていると言うエコな熱帯植物園はどうだろう。巨大な温室ドームとせせらぎに沿って歩くせせらぎトンネルがあり、中は1年中温かい。よく手入れが行き届き、蘭の花が咲き乱れ、熱帯魚の泳ぐせせらぎトンネル、天井の高い温室ドームでは種々のヤシの木、木生シダの間の通路を探検するツリーハウスロードなど、結構楽しい。熱帯の金属光沢を持つ蝶が館内に放してあるほか、途中に、色鮮やかなインコやオウム、おとなしい草食性のイグアナや美しいヤモリなどもいて、見ていて飽きない。来年には温泉につかるカピバラを導入する計画もあるのだと言う。

 一つだけわかったことは、この熱帯植物園にしても一時閉園の危機に直面していたのだが、財団病院が来てからは多額の補助金が出て、かなりグレードアップしているらしいことだ。あの病院はやはり只者ではない。

 隣の総合スポーツセンターも最新のトレーニングマシンや計測機器が充実していて、ただの競技施設よりかなりグレードが高い。

「あれ?」

 アリーナの奥、窓のそばで、ゆっくりと暮れかかってきた西の空と湖を眺めながら、誰かが立っている。

「北条君? ずっと練習していたのかい?」

「風間さん?」

 振り向いた鉄馬…風間の目に間違いがなければ、北条鉄馬は目に涙を浮かべていた。でも風間は気付かないふりして声をかけた。

「練習は終わったようだね、一緒に帰るかい?」

「はい、今行きますから、入り口で待っててください」

 夕暮れは、なぜか人恋しくなる。たった一人で練習を終わらせた鉄馬はなぜか野菊に無性に会いたかった。

 鉄馬は顔を洗いながら涙の痕を消し、すっきりして風間とバンガロー村へと帰って行った。

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