会いたくて、異世界の湖畔で

セイン葉山

一日目 幸福な時間

 ローカル線の終点の待合室の乗客たちは突然のアナウンスに戸惑っていた。

「…誠にご迷惑をおかけしております。白滝温泉駅発、一時五分の白鷺湖行きのバスは車両故障のため運休となっております。午後五時五分のバスは予定通り運行する予定です」

 すぐそばの白滝温泉に行く温泉客は次々に宿屋やホテルの送迎バスで出発して行く。

 でも、温泉行きのバスはあっても、湖行きのバスが出ないのだ。

「ええ、どうする野菊? 湖行きのバス、四時間は来ないよ」

「…せっかく早く着いて、観光でもって思ってたのに…タクシーって手もあるけど…ここからだと五千円はかかるよ…」

 二人組の女子大生は頭を抱えた。ひと昔前はこのローカル線が目的地の白鷺湖まで伸びていたのだが、バブル崩壊とともに湖畔のショッピングセンターも封鎖、別荘地もガラガラになり、ローカル線はこの白滝温泉で終点となった。ここから先はタクシーかバスしか方法がないのである。

 ほかの乗客が時計を見たり、携帯で連絡を取ったりしているその時、やはり白鷺湖を目指す七橋幸次は、駅の待合室に貼られたポスターを眺めていた。一枚は湖の秋用で、鏡のような湖面に紅葉した山や切り立った崖の巨大な岩が逆さまに映り込む絶景の写真、もう一枚は春夏用のポスターで、緑燃える山の斜面から降りてきた白い霧が湖に流れ込む幻想的な写真であった。

「季節によってこんなに雰囲気が変わるのか…まるで別世界だ…」

その時駅前に数少ない貴重なタクシーが二台入ってきた。先ほどの女子大生二人組が立ち上がった。

「…じゃあ、割り勘で…」

 でも二人が駅前のタクシー乗り場の看板の前にたどり着くぎりぎりのところで、後ろから黒のスーツ姿の若い男が走ってきて、さっと二人を追い越した。

「あ、ず、ずるい!」

 男はまんまと一台目のタクシーを取った上にさらにとんでもないことをしたのだ。

「おい、みんな、タクシーが取れたぞ、急げ」

 すると後ろから五、六人の黒の上下の若い男たちと、こわもての中年紳士がどたどたとやってきて、二台目のタクシーも取ってしまったのである。

「…何で二台とも取るんですか? 私たちの方が先にここに来ていたんですよ」

 活発な塔子がすぐに言い返す。

「一台は、こっちに回してください!」

 野菊も必死で訴えた。

「…」

 黒のスーツの男たちは、あえて無視してみんなを車に乗せて出発しようとした。

 だが、タクシーのドアが閉まる直前に、それを止めようとする声がかかった。

「ぼくは見てましたよ。困っているのはみんな同じです。ぬけがけはやめてください」

 駅の待合室から走って出てきたのはジーパン姿の大学生、七橋幸次だった。七橋がタクシーのドアを閉まらないように抑え込んだ。すると男たちが降りてきて、七橋の回りを取り囲む。

「なんだ、学生か。おれたちはきちんと順番を取ったのさ。つべこべ言うんじゃねえ」

 中年紳士は黙ってそれを見ている。何を先を急いでいるのだろう。男たちも全く譲る気はないようだ。しかし七橋も、脅されてもまったく動じない、引き下がる様子もない。

 さすがに異変に気付き、他の乗客たちも出てきた。

「どうしよう塔子、やばい雰囲気だよ…」

 だが野菊と塔子が顔を見合せた時、そこにもう一人の男が入ってきた。

「みなさん、無駄な争いはおやめください」

「なんだてめえ、お前には関係…?!」

 黒のスーツの男たちがしばし黙ってしまった。いつのまにそこにいたのか、その男は身長が百九十センチ以上あり、長髪で彫りの深いその顔には何とも言えぬ風格と威圧感があった。

「お知らせがあるんですよ…今から二十分ほどで無料の臨時バスが出ることになりました。どうですか、みなさん。無料の臨時バスです。乗りませんか?」

「え、無料の臨時バス? 乗ります!」

 女子大生二人組の顔が明るくなった。普通のバスでも運賃が千五百円ほどかかる、二十分待つぐらいなんでもない。

 黒の上下の男たちと中年紳士は、これ見よがしにタクシーで出て行った。

「私は、湖畔にあるネクサピス財団病院の八岐吉久(やまたよしひさ)と申します。今、病院と連絡がとれました。この待合室のあたりで待っていてくだされば、まちがいなくバスが来ますので」

 野菊と塔子はとりあえず駅の待合室に戻った。バスに乗る客は七、八人はいるようだ。そしてさっそく七橋にお礼を言った。

「…いえいえ、結局僕は何もできませんでした。八岐さんがバスを出してくれなかったら、どうなっていたことやら」

 本人は謙虚だったが、あの男たちに囲まれても動じない頼もしさがあった。

「いいえ、あのままだったら嫌な気持ちのままでしたよ」

 打ち解けて話しだす三人。七橋は、大学三年で湖畔の休暇村であさってから開かれるキャンプスクールのインストラクターとして来たのだという。

 だがこの時、楽しそうに会話する七橋と野菊たちの声を聞いて、急に振り向いた男がいた。その若い男は何を思い出したのか、七橋と野菊たちをじっと見つめていた。

「へえ、じゃあ、七橋さんは薪を割ったり、野外料理を作ったり指導するんですか?」

 野菊が興味深そうに七橋に尋ねる。

「小さいころからキャンプ団体とかに入っていたから、そっちは得意なんです。最終日には、こともたちと、取れたての野菜で天ぷら作ったり、ダッチオーブンでビーフシチューも作るんですよ」

 塔子と野菊は中吉野大学二年生で、明日から湖畔で始まるボランティアスクールを受講するためにやってきたと話し出す。

 その時、七橋はこちらをじっと見ている若い男の視線に気付いた、いったい誰だ?!

「…この年になって、少しは社会の役に立てないかと思ったんですけど、どこからはじめたらいいのかもわからない。そうしたらここの湖畔で理論から実践までバッチリ仕込んでくれるボランティアスクールがあると聞いてさっそく塔子を誘って申し込んだんです。予定より一本早い列車で来てたんですけど、そうしたらこんなトラブルで…」

「私も最初はお付き合いで来たんですけど、まあ、野菊と一緒なら頑張れるかなって…」

 その時、駅の待合室の奥から、あのこっちを見ていた若い男がのっそりと立ち上がって。近づいてきた。けっこう背も高いし、精悍な体つきで、何かスポーツをやっている感じだ。七橋とその若い男と一瞬目があった、七橋は、いったい何だと身構えた。だが、若い男は、ちょっと視線をそらし、緊張して話し始めた。

「…あのう…沢渡野菊さんですよね…」

 若い男の目的は野菊のようだった。

「は、はいそうですが。あれ、もしかして…?」

 今度は思いがけず野菊が反応した。

「北条です、高校の時同じクラスだった北条鉄馬です」

 なんだどうやら野菊さんの同級生か…。七橋は気を休めて腰かけなおした。

 野菊と北条鉄馬、口をきいたのは、もう三年ぶりぐらいだろうか。野菊はにこっと笑って会釈した。鉄馬はバスケットの指導者の資格を取り、明日から湖畔にやってくる大勢の高校生たちにバスケの指導をするのだと言う。でも、昔話は続かなかった。野菊と鉄馬はお互いをいいなと思っていた関係ではあったが、ほろ苦い思い出があり、それっきり距離を置いていたのだった。当時水泳部だった野菊とバスケ部で活躍していた鉄馬は夏の海辺の合同合宿で一緒になり、遠泳大会の時、ひょんなことからボート小屋で二人きりになり、隠れてキスをしてしまったのだ。でもあの時の二人は、その気持ちをどうしたらいいのかわからず、気まずく別れてしまった…。しばし見つめあう二人…。

「あの…良かったら席をつめますよ」

 野菊の隣に座っていたすらっとしたお姉さんが、席をつめて一人分ずれてくれた。鉄馬は照れながら、そこに座った。かわいいだけの女子高生だった野菊は、ちょっとたくましくなって今はすぐ隣にいた。野菊と塔子そして七橋、鉄馬、さらに席をつめてくれたお姉さんも加わり、みんな打ち解けて自己紹介を始めていた。お姉さんの名前は瀬川麗香、百七十五センチの長身で、すらっと姿勢が良い、パリコレのモデルさんみたいな素敵な人だった。

「…でもねえ、私は仕事に追われて湖に逃げてきた、しがないOLなんです」

 そう言って瀬川麗香はちょっと寂しげに笑った。仕事もバリバリできそうなタイプに見えたが、それなりに悩みがあるようだ。

 鉄馬は久しぶりに会った野菊に、さっそく話しかけた。

「へえ、沢渡さんはボランティアスクールに行くって言ってたけど、どんなことをするんですか?」

「ボランティアの人は、交通手段や宿泊場所もいいかげんのまま、何も用意しないで現地に出かけ、かえってじゃまになったり迷惑かけたりすることがあるんですって。まずそんなことにならないように基本的な考えや心構えから教えてくれるみたい。そして、そのあとは…ええっと…」

 まだよくわからず、口ごもる野菊だったが、なんと意外なことに七橋が助け船を出した。

「ああ、去年キャンプに行った時偶然見たんですが、その団体はキャンプ場やバンガローを使って、避難所や仮設住宅のボランティア実習をしていましたよ。備蓄物資だけで実際に生活しながら何が必要か考え、実践力をつけるって言っていました」

「へえ、そうなんですか…」

 バスケ一筋でキャンプ場などまったく来たことのない鉄馬は、うなずくことしかできなかった。興味深そうに七橋の話しを聞く野菊。なんだろう、このもやもやした感じは…?鉄馬は七橋に嫉妬を感じ始めていた自分に驚く。

 その時、駅のすぐ外側のベンチでもバスを待つ乗客が並んで話し合っていた。

「…あの、失礼ですが、違っていたらごめんなさい」

 三十過ぎのクールな感じの男性が、カラフルなファッションの女性に話しかけた。彼女はペイズリー柄のターバンのような帽子をかぶり、エスニック調の鮮やかなコーディネートで決め、不思議な形の貝のイヤリングをしている。

「…ミステリー作家の八千草瑠璃さんですよね」

 瑠璃はかなり驚いた。普段は作家らしく取材の時なども地味で落ち着いた服や髪形を心がけている。長い髪をおろしてカラフルなファッションを決めると、まず見破られることはないのだが…。

「当たってますが、なんで分かったんですか?」

「これは大変失礼しました。私は私立探偵の高塚賢三、通称花屋のケンゾーと申します」

「え、花屋なのに探偵さん?」

 すると花屋のケンゾーはまるで手品のように荷物の中から小さな筒を取り出し、さっとかぶせた紙を取り除き、形を整えて可憐なリボンで結び直した。一瞬で開き始めたバラのつぼみの手のひらサイズの花束が出来上がり、瑠璃に渡された。

「実家が生け花の家元で、私も子どものころからフラワーデザインなども好きでして…」

「瞬間の魔法だわ。なんてみずみずしい花束…!」

 うっとりした瑠璃だったが、思い出したように再び聞いた。

「なあんだ探偵さんでしたの。それにしてもどうして分かったんですか。私はどこにでもいるような特徴のない顔で今日はメガネもかけていないし、髪形も服装も全然違えて来たのに」

 このイマジネーション豊かなミステリー作家は、その日のイメージによってコロコロファッションを変える妄想コスプレイヤーとしても密かに有名ではある。今日はあらかた旅先の異邦人といった感じだろうか。

 すると高塚は、瑠璃の手のひらを指差して言った。

「新人賞の受賞会見の時と、指輪が一緒ですね。しかも大粒のキャッツアイとスターサファイアの組み合わせはなかなかいません。それから右手首には、ラピスラズリのブレスレッドをしている。なんかで読んだ記憶があるのですが、執筆中か取材中の時にパワーを強めるためにはめるんですよね。…ということは今日は湖に取材ですか?」

 すると瑠璃はにこっと笑って答えた。

「こんなに当たると気持ちがいいわ。その通り、次回作の取材でこの湖に来たんです…」

 すると隣に座っていたもう一人の男が話しかけてきた。

「ええ、八千草瑠璃さんですか? すごいなあ、俺、作品の大ファンなんですよ」

 この人なつっこい男はフリージャーナリストの風間潤、どうやら本当に瑠璃のファンらしい。探偵の高塚がクールな二枚目風だとすると、風間は南米のサッカー選手のような陽気でワイルドな風貌だ。

「瑠璃先生の作品は、白昼のホラーの異名もあるくらいで、受賞作の『トロピカルクルーズ』ではカリブ海の原色の風景の中で怨霊が動きまわるし、『ホワイトリゾートホテル』では、白い大理石のホテルと白い砂浜で起きる怪奇現象、『回転木馬の異人』に至っては、楽しいテーマパークで真昼間に次々と人が消えて行く。陽光と美しい風景の中で進行する不気味な出来事、そのギャップがたまらないんですよねえ」

「あら、本当にお詳しいんですね、嬉しいわ。でも、先生はやめてください。そんなに年も違わないでしょう? 瑠璃さんって呼んでください」

「え、瑠璃さんでいいんですか、感激だなあ」

 そして瑠璃に何でここに来たのかと尋ねられると、風間は小さな声で打ち明けた。

「バスに乗せてもらうんで大きな声では言えないんですが、湖畔の財団病院にはいろいろ怪しい噂や謎がありましてね。その秘密取材のために湖畔に行くんですよ。大スクープを狙っているんです」

 そして風間は小声で何かを瑠璃と高塚にささやいた。すると高塚はうなずきながら言った。

「ううむ、それは興味深い。あとでくわしく聞かせてもらえませんか」

 やがてネクサピス財団病院のロゴの入ったバスがやってきた。窓も大きく、中はゆったりした快適な乗り心地だ。座席は回転して四人席にもなる高級タイプだ。野菊と塔子は四人席にして、あと七橋と鉄馬を呼んだが、シャイな鉄馬は七橋に遠慮して近くの席から車窓のに広がる温泉街の風景を見ていた。鉄馬の隣には、あのOLの瀬川麗香が腰かけた。

「このシャイな男の子鉄馬君だっけ、やっぱりあの同級生だった野菊ちゃんが好きみたいね」

 どうやら北条鉄馬は、窓ガラスに映る横の座席の野菊たちを時々眺めているようだった。

 やがて白滝温泉の温泉街が終わり、バスは農村地帯へはいっていく。

 なだらかな丘陵が続き、緑豊かなこのあたりは湖畔鶏という広い場所でのびのび育てる地鶏の産地としても有名だ。奥の高原では和牛も育てられているという。

 沢渡野菊と胡桃沢塔子は大学二年生、七橋幸次は大学三年だと言う。野菊がちょっと勇気を出して、向かい合わせになった七橋に聞いた。

「あのう、七橋さんは、大学で何を専攻してるんですか?」

「文化人類学で…ちょっと恥ずかしいけれど…人間の夢とか幸せのことを研究しているんです。古代人の楽しみや幸せは何で、時代の移り変わりとともにどう変化していったとかね。だから、今もあちこちであなたの夢や幸せはなんですかって聞いて回っているんだけれど、これがけっこう我ながら恥ずかしくって、苦労してます…」

「夢や幸せ? 私は社会や人の役に立ちたいと思ってここのボランティアスクールに来たんだけれど、七橋さんの夢とか幸福はなんなんですか?」

「まだ研究中ですが、たとえば、今度のキャンプでは、子供たちと川に入って魚穫りしたり、畑仕事で収穫体験したり、それを使って野外料理するんですけれど…そんな、大自然の中で食糧をとったり食べたりする体験の中に根源的な幸せがあるんじゃないかって、最近は考えています。今回もそのために来た感じかな」

 子供のころから七橋はネイチャーキャンプの団体に入っていて、山の中の古民家を宿舎に改造して、電気やネット、時計のない暮らしをしたり、夏の晴れた夜に高い山の上でシートを引いて一晩中寝っ転がって星を眺めたり、浅い渓流を流れながらシュノーケルで魚穫りをしたり、海で追い込み漁、投網をやったり、そして必ずそこでとれた食材を使って料理を作っていたと言う。それが、本当に楽しくて、おいしくて、心に残っているのだと言う。野菊も大学生になってから夏のっキャンプでカレーを作ったら、材料が焦げたり、水っぽくなって失敗したという話しをした。すると七橋は優しく作り方のコツを教えてくれた。

「大鍋で作ると、水分が飛びにくいから、思い切って最初は半分の水で始めるか、材料ひたひたに水を入れて煮始めるかするといいですよ。水は後からいくらでも足せるけど、逆は難しいんだ。あと、最初に材料を炒めなくても、しっかり煮込めば十分おいしくなりますよ」

 と、ていねいにコツを教えてくれた。

 そう語る七橋は自分たちより、ずっと頼もしくて大人に見えた。

 野菊はすっかり七橋のファンになり、今度カレーライスや野外料理を教えてもらう約束を取り付けた。楽しそうに笑顔で聞いていた鉄馬は、自分からは何も言いだせる話題がなくて、実はなんとももどかしい時間を過ごしていた。次に野菊は隣に座る親友の胡桃沢塔子を見て、ふいに言った。

「そういえば塔子さあ、中学のころからカラオケとか抜群にうまくて、ガールズバンドのボーカルが夢だって言ってたよね」

 すると温泉街を離れて田園の中を走り始めた風景を見ながら塔子がつぶやくように言った。

「…そうね、…いまでも夢はあきらめてないけど…」

 中学で大の親友だった二人は別々の高校に行き、野菊は水泳部、塔子は軽音楽部で活躍していた。活動的な塔子は念願のガールズバンドを始め、文化祭の華として歌い、跳びはねて拍手喝采を浴びていたという。

「ええ、今はもうガールズバンドやっていないのですか? 胡桃沢さんはけっこう美人だし、歌もうまいのなら、デビューしてもいけるんじゃないですか?」

 お世辞でもなく、思ったことを素直に言う七橋に褒められると、塔子は顔が赤くなるのが自分でもわかった。

「それが、いろいろあってね…」

「やっぱり親に反対されたとか…」

「ううん、うちの両親はなんでもあなたの思い通りに生きなさいってタイプで、反対はしなかったわ」

 実は大人気のガールズバンドだったが、高校二年の初夏のコンサートで受験のためにあえなく解散したのだという。

「それで終われば何でもなかったんだけど…巻き込まれかけたのよ。人身売買みたいな詐欺事件にね」

「えーっ、詐欺事件ですか…!」

 一つ確実に言えることは、七橋幸次は聞き上手だということだ。一生懸命聞いてくれるから今日会ったばかりなのに、ついなんでも話してしまう。

「高校二年の夏に、未練がましく大手プロダクション開催のカラオケ選手権に出て、準優勝したの。いくつかの事務所からオファーがあったんだけれど、私って人を見る目がないらしくて、変なスカウトに引っかかっちゃってさあ」

 なんでも自称フリーのプロスカウトだと言う矢沢と言う男が近づいてきた。その男が他と違ったのは、いくつかのプロダクションを紹介するから、その中で気に入ったところを選べばいいと言うのだ。選べるっていいなあと思ったのだが、お試し期間中に紹介された一つめのプロダクションからなんだかおかしかった。オーデションに受かるまで面倒みるというスパルタ式で、専門のボイストレーナーやダンスの先生がついてみっちり受かるように指導してくれるのだが、けっこうその指導料が高いのだ。

 次の老舗のプロダクションはみんな優しくて家族的なところだったが、先輩の歌手がやってきて、あなた社長に目をつけられたみたいだから、すぐやめなさいと言われたそうだった。

 三つ目の中堅どころのプロダクションは、いくつもデビューしたアイドルユニットがいる活気のあるところだったが、塔子が行った日、先輩アイドルが事務所で泣いていた。なんとなく怖くなって家に帰って両親に相談したのだと言う。すると今まで応援してくれていたと思った父親が、急にまじめな顔をして、三日間だけ芸能活動を停止してほしい、と言ってきたのだという。

「ほら、うちのパパ、大学で社会学を教えている教授でしょ、いろいろな社会問題に詳しくてピンと来たらしいのよ」

 三日後、教授はレポートを持って娘の前に現れ、そっとその調査レポートを差し出したのだという。

「パパは三日間の間、いろいろな人脈を使ってプロダクションを調べていたのよ。その結果が凄かったわ。一つ目は指導料だと言って料金をピンはねし、若い女の子から何万、何十万と金をむしり取ると問題になっていた事務所、オーデションに受かりたくてサラ金まみれになる子もいたって。二つ目は気に入ったタイプの女の子を社長がみんな愛人にしちゃうと評判の事務所、三つ目はデビューまでは面倒みるけれど、裏でアダルトビデオの制作会社とつながっていて、売れなくなってくるとアダルトビデオの会社にアイドルを売りつけるところだったの。矢沢と言う男は、そんな問題のあるプロダクションを選ばせるふりして女の子を送りつけて高いバックをとるとんでもないスカウトだったのよ」

 その事件を境に、塔子は親に感謝して、まじめに受験勉強、大学で野菊と再会、今に至ると言う。話しを聞いた野菊の方が驚いていた。

「へえ、そんな大変なことになっていたの?! 知らなかった。それで今はお堅くなってるわけね」

 三人のすぐ横ではミステリー作家の八千草瑠璃が、もう取材モードになっていて、車窓の農村風景を見ながら、もう、何か取材ノートに書き込んでいた。バスの後部座席では、みんなと離れてジャーナリストの風間と私立探偵の高塚が小さな声で話し込んでいた。

 バスはやがてのんびりした田園地帯を離れ、まだ残っているローカル線の線路と平行して、山と山の狭間を走り出す。

「湖畔にある男爵邸が今度文化財として市に寄贈されることとなり、最後の晩餐パーティーが関係者を集めてひらかれることとなったのですが、財産をめぐって、不穏な動きがあるとかで…呼ばれたのです」

 探偵の高塚がここに来たわけをこっそり教えてくれた。男爵邸とは戦前、この白鷺湖が富裕層の避暑地だった頃に建てられた西洋風の歴史的建造物で、最近修復されて観光名所にもなっている昔の別荘だ。ジャーナリストの風間も、財団病院のあやしい噂について高塚に打ち明けた。

「…なかなか信じてもらえないような話なんですが…私は七回死んだというネットの記事を書いていた、浜田美穂という女性を偶然取材する機会があって…。その女性は自殺未遂を繰り返していてしばらく入院していたうつ病の若い女性だったのですが、退院して、夢だったアメリカ旅行に出かけたわけです。でも彼女は旅先でも自殺事件を起こして入院してしまった。でも大怪我をすることもなく帰国できたのです。ところがそのオレゴン州の病院で過ごしたと言う二週間ほどの間の記憶がないというのです。一体病院で何があったか覚えていないのですが、退院するともうすっかり自殺願望は消えてしまったというのです。ただ気になって、ある催眠療法の研究所で空白の二週間の記憶を呼び戻したところ、彼女は病院で七回自殺を試みていた。しかも飛び降りても、血管を切っても、気がつくと全然体にダメージがなく生き返ってしまう。しかも耐え難い苦しみとともに目覚めると言うのです。それを何回か繰り返すうちに、もう死ぬことそれ自体が嫌になり、もう二度と死にたいと思わなくなって退院したと言うのです」

「ありえないことですね…」

「それでわたしは早速、人脈を使ってその病院を調べ、オレゴン州の山の中に出かけ、取材を始めたのです。彼女がその時入院していた病院を調べると、ほかにもこんな興味深い人たちがいたのです」

 アーネスト・ノーマン…ITベンチャーの優秀なエンジニアだったが、ナイフを使った凶悪なストーカー事件を起こし逮捕される。だが財団病院を退院してからは、今は怖くて刃物を持つこともできない。

 セレニアス・グリフィス…優秀なジャズピアニストだが、コカイン中毒患者だった。現在は薬剤を見ただけで全身に震えが来て動けなくなる。

「二人ともそんな短時間で大きく変わってしまった、しかもそれだけではなかった」

「ノーマンは刃物で刺しても相手は傷つかないどころか、バンパイアになって逆襲してくる、夜の街をどこまでも追いかけてくるという悪夢にうなされると言うのです。グリフィスは、薬物を見た途端、周り中の人間が全員ゾンビに変わって襲いかかってくるという恐ろしい悪夢が浮かんでくるそうでした。彼らは確かに依存症や中毒から短時間で見事に立ち直った。だが、心に悪夢と後遺症を背負ってしまった。彼らはすべて同じ財団の病院で奇妙な体験をした。そしてその同じ財団の病院が、日本にもできて去年からこの湖畔で開業した、ネクサピス財団病院です。そしてわたしは、病院で新しい実験が始まったと言う怪しい噂を耳に入れ、それをつきとめるためにここに来たわけです」

「それは実に興味深い」

「高塚さんのような優秀な方がいるなら、ぜひ力を借りたいところですよ」

「…ふふ、私だって、君のようなフットワークや情報網は持っていない。うらやましいですね。こっちが片付いたらぜひ、協力させてください。もちろん無料でね…」

 その時、バスのスピードがすこしゆっくりとなり、横道に入って行った。あの長身の八岐がマイクで説明した。

「皆様、バスは5分ほど寄り道し、名所、白滝の前を通過していきます。よろしければ、正面から右側の窓をご覧ください」

「ええ? あの名所が見られるの? もうけ!」

 やがて斜め前方、木陰の大きな崖に、高さ十m、長さ三十mという横長の白滝が見えてきた。なるほど、白糸のような細い滝が数十本白く光りながら滝壺に注いでいる。

「わあ、本当にきれい。塔子、私、写真撮るから!」

 すっかり盛り上がったバスはさらに奥へと進んで行く。やがて湖に近づいたバスは、崖が迫る最後の難所塚森山に差し掛かる。以前通っていたローカル線はこの山のトンネルを通り湖につながっていた。トンネルを整備して近道の道路にするという計画もあるそうだが、今は錆ついた線路がそのままトンネルの中に消えている。、バスは塚森山のふもとを崖に沿って進んでいく。落石注意の看板が目を引く。去年も大きな岩が転がり出て、三日間ほど通行禁止になったという。ここが通れなくなるとほかにはルートがないライフラインだ。電線や携帯アンテナもこの付近にあり、この周辺で大事故があれば湖は陸の孤島となるという。

「わあ、きれい、湖が見えてきたわ」

 誰かの声でみんながいっせいに外に目をやる。

 切り立った崖のその先が明るく開け、キラキラ光る湖面が見えてきた。

 気持ちのいい風に吹かれ、バスは湖の東側の湖畔に出てきた。ここにはバブルのころに建てられた別荘地がある。その当時大人気だったレイクサイドホテルは今は財団病院に代わり、周囲にはいろいろな新しい施設が作られているという。今日の湖は初夏のさわやかな風に吹かれ、さざ波がキラキラ光って気持ちがいい。

 みんなは湖を臨む小さな丘の上にある財団病院の前でバスを降りる、すぐ隣がプールやテニスコートを持つ大きなスポーツセンター、そしてガラスをきらめかせるのは、バブルの頃の唯一の生き残りの観光施設、温泉熱による熱帯植物園、丘を下ればすぐにみんなが宿泊するバンガロー村や別荘地が広がっている。

「ほら、野菊、こっちから見下ろしてみなよ、絶景だよ、すごいよ」

 バスを降りた二人は大きく深呼吸し、風の中で湖を見下ろす。遠く対岸、西側の岸には緑の中に火山やそそりたった崖がそびえ、緑深い北側には男爵邸のある旧別荘地、南側には釣り船や手漕ぎボートを貸し出す通称ボート村があり、小舟が動いているのが分かる。

「あれ、知らなかった、小さな島があるよ」

 塔子が指差すと、なるほど湖の中央近くに緑深い小さな島がある。すると後ろからやってきたあの背の高いOLがファイルを取り出しながら教えてくれた。

「神がすむと言われている神波島(かんなみじま)ね。縄文時代くらいから神聖な島だったらしいわ。立派な神社があって、昔は観光船も行っていたんだけど、今は週に一度山の中にある神沼神社の宮司が船で渡って細々と管理をしているだけみたいね」

 やっぱりこの人はできる人だ。さらりと知りたいことが分かっている。全員がバスから降りると、最後に運転席のすぐ後ろにいた、あの謎の男、八岐吉久がゆっくり出てきた。

「ここで皆さんとバスに乗り合わせたのも何かの縁です」

 そう言って八岐は黒い携帯と小さな白いカードを取り出した。

「うちの病院はこの地区の災害対策センターになっておりまして。うちの患者さんや関係者にはこれらの品物を渡すようになっております。どうぞ、お受け取りください」

 黒い携帯、それは高性能トランシーバーだった。電波状態が悪いこの湖周辺でも、かなりの確率で話が通じるという。

「ここにいるメンバーは、みんなで教え合って名前を登録してください。するとほら、電波状態が良ければ名前のところのシグナルランプがつきます。ここでスイッチを押すと、画面に向こうの顔が映り、話もできます。どうですか?」

 なるほど昔のトランシーバーと違って、ちゃんと相手の顔が映る。災害の時の状況も伝わりやすく、連絡に、かなり有効だそうだ。

「あ、本当だ、通話と同時に塔子の顔が映るよ」

 みんなその場で登録して、操作法を確認していく。

「ええっと次は鉄馬君、登録するね」

 野菊は次に隣にいた鉄馬に話しかける。二番目に登録してもらって、鉄馬はちょっぴり誇らしげだった。

 そして白い医療用のカードだが、災害の時身分確認を行い、災害時の医療費が無料になるなど、いろいろなサービスを受けられるスペシャルなカードだそうだ。なんでこんなものをくれるのかとも思ったが、とても役に立ちそうなのでみんな素直に受け取っていた。

 これで万が一の時にも連絡が取れる。やがてバリアフリーだという財団病院の屋外エレベーターに全員が荷物を持って乗る。

「このエレベーターは患者さんが車椅子でも湖畔に出られるように造ったものです。災害の時にも非常用電源がありますので、ご利用いただけますよ」

 大きなエレベーターのドアが開くと、そこは丘の下。湖の東岸までの道が広がっていた。湖に近い側にキャンプ場やバンガローなどの施設があり、左右にバブルの頃の大きな別荘地が広がっている。

 野菊と塔子は大きな荷物を持って、先頭に立ってバンガロー村へと歩き出す。予想外に大きな荷物で重そうにしていた瀬川麗香だったが、後ろから鉄馬が手伝いますと荷物をひょいと持ってくれた。マイペースな瑠璃は大きな荷物をものともせず、ガラガラ引きずりながら記録用のデジカメを片手にあちこちをパシャパシャ撮っている。風間も病院が気になるのか、振り返って周囲を小型の一眼レフで撮っている。

「あれ、高塚さんもこっちですか?」

「七橋君もこっちか、一緒に行きましょう」

 七橋と高塚はバンガロー村へのコースから外れて、別荘地へと入って行った。ここは白滝温泉の源泉から引いたお湯のラインがあり、温泉付きの別荘もあると言う、バブル当時はかなり高級な別荘地だった。

 七橋と高塚は、別荘地の中にある翼館という場所に向かう。

 このあたりはローカル線の終点が昔あった場所で、バブルの後、にぎわっていたショッピングセンターが撤退、その後建設予定とされたアウトレットも結局できず鉄道も廃線となり、一時はその七割が実質空き家となった、中古別荘地だったところだ。立派な庭のある家や、暖炉やワインセラーのある立派な家もあったが、新しい買い手もなかなかつかず、結局現在は、地元のNPO法人が地方自治体の補助金をもとに安く買いあげ、町おこしのためにいろいろな再利用を進めている。地元の食材を使った民家レストラン、宿泊もできる農業体験農園、自然農園カフェ、夏の間だけ老人が来る季節移動式老人ホームなどがある。翼館というのはその中でも珍しい統合型の施設だ。比較的元気なお年寄と技能を持ったボランティアの人たち、登校拒否の都会の子供たちが、湖畔や山村の自然と触れ合いながら、学び、体験して行くための施設なのだ。

 ちょうど今は一学期までいた子供たちが家に帰り、サマーキャンプをやる子供たちが明日から大挙してやってくると言う静かな期間だった。

「あれ、想像していたのとなんか違うぞ…」

 七橋はにこっとして広い庭へと歩いていった。なんだろう、あちこちが手づくりでいろいろ改造されて不思議なウキウキ感がある。

 子供たちと造ったと思われる手づくりの柵や風見鶏、レンガで囲まれた花壇には野草から大きな花まで咲き乱れ、手づくりの水路や小さな池には子供たちが穫ったのか小魚がスイスイ泳ぎ回っている。

 果樹園を抜けて進むとぶどう棚の下から誰かが声をかける。

「こんにちは、よく来てくれました」

 小柄なお爺さんがニコニコしながら迎えてくれた。

「…バスが事故で動かなかったんだってねえ。よくたどり着いた。大変じゃったのう」

 このやさしそうなお爺さんが、御剣壮一郎、この翼館の代表であった。

広い玄関に入ると三人のおじさんが出迎えてくれた。

「いやあ、大変でしたね。お待ちしてましたよ」

 このおじさんたちは、翼館の三職人と呼ばれている人たちで、この古い別荘のリノベーションから子供たちとの手づくり教室まで一手に引き受けているという。

 料理、内装や壁紙貼りが得意な坂本さん、家の解体・組み立てが得意な大柄の武藤さん、家具修理や木工が得意な駒形さんを紹介される。

 玄関を入ると、駒形さんの手によるカウンターキッチンがあり、手作りソファが並んで、いい感じのラウンジになっている。

「いらっしゃい。疲れたでしょう、まずは一服してね」

 翼館の語学担当講師でもあるサチエさんがおいしい紅茶とお菓子を進めてくれる。

 若い頃カナダに移住していたサチエさんは、日本語、英語のほかにフランス語も堪能なすごいおばさんだ。大好きだった旦那さんを肝臓がんで亡くし、ここにボランティアで来たまま居ついたのだという。

「あなたが夢や幸せのアンケート用紙を送ってくれた七橋さんね。ええっとそちらは…」

 高塚は一枚の写真を取り出しながら言った。

「私立探偵の高塚と申します。男爵邸のことをいろいろ調べているのですが、この方にお話をうかがいたくて来ました。三崎省吾さんというかなり高齢のお年寄りなのですが」

「ええ、昔男爵邸で秘書をやっていた三崎さんね。今もお元気で、お隣の老人ホームシルバーパレスにいますよ」

 代表の御剣さんが、さっそく連絡を取ってくれると言って出かけて行った。

 高塚はその間にさっと庭に出て、許可をもらっていろいろな花を切ってきた。そして、空き缶をさがして色紙とテープを巻いて花瓶を作ると、あっという間に、カウンターに色鮮やかなフラワーアートを飾ったのだ。

 その魔法のような手際の良さ、空間を豊かに包むような花たち、サチエさんもおどろくやら、喜ぶやら…。サチエさんのおいしい紅茶を飲んで待っていると、まずは、ここ翼館の関係の何人もの老人たちが入ってきた。みんなそれぞれに七橋のアンケートを書いて持ってきてくれたのだ。

 毎日子供たちと一緒に花壇や果樹園の世話をしている自然農のおじいさんやおばあさんたち、釣りや魚穫りの得意なおじいさんたち、子供の学習や英会話を楽しく行うサチエさんの仲間、手先が器用で特にイラストを書いたり小物作りが得意なカヨコさんとホビークラブの仲間、さらにスパイスガールズと呼ばれるおばちゃんたちもやってきた。

「え? スパイスガールズってなんですか?」

 するとおちゃめなカヨコさんが答えてくれた。

「まあ、正確にはスパイスオバチャンズね。翼館の三職人の一人、坂本さんはもともとカレーハウスのオーナーシェフなの。彼はここでスパイスの栽培をしていてね、それを手伝っているおばちゃんたちなのよ」

「ほら、よかったら沢山あるから、ここに来た記念に持っていってちょうだい」

 スパイスオバチャンズのみんなで作っているという「スパイス栞」が七橋に渡された。表がつるつるの透明なシールで、裏側が小さな穴のあいた特殊な紙でできている栞だった。透明なシールの下には、ここで栽培されたサフランやクローブ、カルダモンなどのいろいろなスパイスが入っていて、見た目にも素朴で、とてもいい香りがする栞なのだ。

 さっそく受け取ってアンケートに目を通す七橋、生年月日と性別、幸せだった思い出、夢や現在の幸せなどが書いてある。

 ここの老人の現在の幸せはかなり多岐にわたっている。

「みんなの喜ぶ料理や小物を造ること」

「仲間と料理を持ち寄り、飲み食いしたり、おしゃべりすること」

「いつまでもボケないで、子供たちといろんなことを学んでいくこと」

「健康を保ち、家族と触れ合うこと」

「パソコンでこの地域の村おこしの様子や観光スポットを全国に発信したい」

 こんなことを書いたのは、幸田正剛さん、子供たちからパソコンじいさんと親しまれている人だ。幸田さんは現役時代はまじめな技術屋だったが、退職後ボケないようにと初めて触ったパソコンにのめり込み、持ち前の研究心も加わり、今ではいろいろの最新のソフトをかなりのレベルで使いこなす達人になった人だ。最近は小型のドローンを買い、三職人の一人武藤さんと一緒にドローンの改造や運転にも取り組んでいるそうだ。

 ここの施設はいつも子どもと触れ合っているせいか、前向きで明るい人が多いように感じた。七橋は一人一人にお礼を言って握手した。すると大木さんという豪快な笑い声の老人が、もう少し話したいので部屋に来てくれと言ってきた。さっそく部屋に行く。

 大木さんは昔、海外で漢方薬の取引をしていたという目力のある人で、清濁併せ飲むタイプの人だった。

「…実はさっきアンケート用紙に書いたことは全部ウソだ。ブワッハッハハ! まあ、釣りは嫌いじゃないがの…」

 大木さんは、自室のソファに腰かけ、早速豪快に笑った。

「ええっと」

「実は…本当は…俺の幸せは、飲む・打つ・買うだよ。そんなこと紙に書けんじゃろ」

 ちなみに先ほどの用紙には、フィッシング、湖での釣りとか書いてあった。

 そしてここからその豪快な人生が語られた。

「俺はバブルが崩壊する少し前にたっぷり退職金もらってやめた口だからなあ、ドンドン稼いでどんどん使いまくったさ。それでなあ…」

 退職する最後の七年間は家族と離れて海外赴任。主に韓国や、中国、東南アジアで漢方薬を仕入れて日本で高く売ってかなり儲けたと言う。

「あの頃は韓国と上海に愛人作ってさ、当時は韓国も中国もまだ貧しかったから、毎月少しずつ金を送ってやるだけで、たまに会いに行けば大歓迎ってやつさ。韓国の女はキーセンパーティで知り合ったすんげえ美人でね料理の腕も抜群でいい思いをさせてもらった。それから、俺が行った頃の上海は、金持ちや財閥はもう香港に移っちまった後で昔のにぎわいはなかったけどさ、人の心は温かかったさ。それでな最後は上海の女がよくなって、退職金を使いこんで二人で世界旅行さ…。今でも思い出すぜ、おれが計画を手紙で知らせて、上海についた時、空港で手を振って飛びついてきてさ、かわいかったぜ」

「世界旅行に行ったんですか?」

「ああ、愛人と二人でな。しかもヨーロッパに製品を運ぶと言う口実でうまくやって、費用は全部会社持ち、愛人の費用もね。あの女は顔はまあまあなんだがあっちの方が抜群に良くてね」

「あっちの方ですか?」

 七橋が不思議そうな顔で聞くと、大木はやおら女の腰を抱くようなしぐさをしてこう言った。

「最近の若いやつは草食系とか言うんだってな、これだよ、これ。ブワッハッハハ」

 そして大木老人はまた豪快に笑ったのであった。

「それから二人で中国から今のロシアの方に出てね、大陸横断鉄道でヨーロッパで遊びまくりさ」

 のっけから凄い話が始まった。

 カジノに行く日の前日はわざと別々のホテルに泊まり、女は高いホテル、自分はビジネスホテルに泊まって、朝も別々にカジノに入るのだと言う。そして中に入っても決して顔も合わせず、言葉も掛けず、打ち合わせ通りの場所に行く。そしてここぞと言うところで分からないように秘密のサインを送り、相手の反対側に決められた金額を賭ける。ランダムにこれを繰り返し、気付かれずにやると二人のうちどちらかが儲けるわけで、決して大損にはならないそうだ。

「はは、その時一緒に連れてった俺の女が、体も抜群にいいんだが、頭もよくてよ、旅の途中で一度大きな黒字になってさ…それでカジノはやめて、あとは好き勝手やりたい放題旅行さ」

「へえ、ぱっとやめるなんてなかなかできないんじゃないですか?」

 すると大木老人はちょっと小声でこう続けた。

「いやあ、俺もあっちこっちでいろんな奴を見てきたからなあ…。カジノの周りには落ちぶれた金持ちや昔実業家っていうホームレスがごろごろしてるのさ。旅行に行くちょっと前にさ、その中に育ちのいい御曹子がいて、だんだんなじみになっていたんだ。もう、親からも見放され仕送りも打ち切られた男なんだがね。ある日、突然そいつが立派なスーツ着てカジノの前に立ってたんだよ。じつは、昨日、友人からわずかばかりの金を借りて勝負に出たら、連戦連勝、莫大な金を儲けて、親に連絡したら仲直りもできて明日故郷へ帰ることとなったんだ。と言っていた。もうすぐ金を貸してくれた友人が来るから、倍にして返そうとここで待っているそうだった」

 ところがやってきた友人は彼から倍の金をもらうと、よし俺も勝負に出るぞ、おまえの運をわけてくれといって、いやがる御曹子を無理やり引っ張ってカジノに入って行ったという。

「…それからわずか二時間後、御曹司は友人とともに大損して、あれだけの儲けを全部すっちまった。死体みたいな顔をして出てきたのには驚いた。もう、僕は故郷に帰れないと言ったきり、行方不明になっちまったよ…それで俺は今度大儲けしたら、その時にカジノはやめるって誓っていたわけだ」

「なるほど、それでやめられたんですね。じゃあ、あとは夢のヨーロッパ旅行だったんだ」

「いろんな名所を回ったが、まだ金は余ったよ。まあもともと旅費は会社持ちだしな。高い酒も豪華な料理ももう、飽きるぐらい堪能した。愛人もうまいもの喰ってますます艶っぽくなってな、もう最後の夜なんて大サービスよ。別れるときはさみしかったんだが…やりつくしたから、もういいかなって思ったよ」

 これが、この人の幸福だったんだ…今まで聞いたこともないような話しで呆然としていた七橋の耳元で大木老人はさらにささやいた。

「何を驚いてるんだよ、若いの! いいこと教えるよ、上には上がいるってね…」

「上には上ですか?」

「ふふ、千人斬りよ…」

 そしてひょんなことから七橋も大木老人の手配で、高塚と同じ、隣のシルバーパレスへと出かけることとなったのだった。

 その頃バンガロー村では野菊と塔子が同じ一つの小屋へ、瀬川麗香、八千草瑠璃、北条鉄馬、風間潤は二階建ての本館の個室へと入っていた。

 たくさんのバンガローの中心にある本館には、白滝温泉からのパイプが来ていて、。大きな温泉風呂や、おしゃれな専用レストラン、雨天用のアリーナまである。バンガローや個室の宿泊者は、この贅沢な施設が使い放題で、大評判なのだ。

 夕方のバスでボランティアスクールの参加者が、明日になればスポーツセンターに大量のアスリートたちが、湖畔のキャンプ場には大勢の子供たちがやってくる。みんな明日に備えていろいろな用意を始めたのだった。

「わあ、こっちはまた立派な建物ですねえ」

 シルバーパレスと言うのはある程度財産のある高齢者を対象とした老人ホームで、ちょっとしたホテルのような建物だ。食事やサービスも凄いらしい。古い別荘を改造した手づくり感いっぱいの翼館とは一線を画する施設なのだが、意外と交流があり、高齢者たちはけっこう自由に行き来している。七橋も、翼館のアットホームな感じの方が好きだった。

 御剣さんの案内でシルバーパレスの立派な門をくぐり、吹き抜けの広いロビーに入ると面会の孫たちに囲まれて楽しそうにしているおじいさんや、一人で妻に小言を言っているおじいさんなどいろいろな人間模様がすでにあった。

 孫に囲まれたおじいさんは、毎年ハワイに行くのが楽しみだったそうで、本当に地元の人にしか分からないようなハワイの穴場を面白おかしく孫たちに話していた。小さな孫から高校生ぐらいの孫まで、本当に楽しそうに聞いていた。

 小言のおじいさんはお気に入りの湯のみが割れたので妻が新しいのを買ってきたのだが、柄が気に食わないと言うので、今度はいいものを買ってきたら、値段が高すぎると怒っていたようだった。

「あのお孫さんたちに囲まれてるのは、和菓子屋をやっていた沖永多聞さん。あの奥さんにくどくど言ってるのは昔、大学教授だった古琴孝平さん、二人ともまじめないい人なんだが、まじめすぎる古琴さんは、どうも小さいことを気にしすぎるようだな」

 何がどう幸せなのか、七橋はまた考えさせられた。

 七橋と高塚は、エレベーターで三階へと昇って行き、そして別々の部屋をノックした。

「失礼します、大木宗光さんの紹介で参りました、七橋幸次と申します」

「…ああ、夢や幸せについて考えている若者だね。どうぞお入りなさい。大木さんから聞きましたよ」

 思ったより張りのある若い声で驚いた。最近は百歳以上の長寿も珍しくないが、紹介された二宮富士弥老人は九十五才かそれ以上だと聞いていたからだ。中に入るとさらに驚いた。

 今朝の分の新聞が全紙きれいに机上に並べられ、必要な記事を切り抜いてファイルにまとめていたようだった。部屋も几帳面に片付けられ、本棚には読みこまれた本がきっちり並び、机の横には最新版の世界地図まで貼ってあった。

「サチエさんの紅茶はおいしかったろう。コーヒーはいかがかな」

 今から七十年以上の昔、帝国陸軍の優秀な諜報部の将校だった二宮富士弥老人は、思慮深く端正な顔をした老人であった。

「…最近はネットで簡単にいい豆が手に入るそこはいい時代だとは思う」

 サイフォンで本格的なコーヒーが入る。とてもいい香りが部屋いっぱいに広がる。七橋が言いだしにくそうにしていると、二宮はコーヒーカップを出しながらすっと言った。

「あれじゃろ、大木宗光に千人斬りの話でも聞いて来いと言われたんじゃろ…」

 七橋はコーヒーを一口飲んでから言った。

「…ええっと、それは本当なんですか?」

「あの時代、日本は中国大陸から東南アジアへと戦場を広げ、わしも各国を飛び回っていた。兵隊がたくさん集まるところでは、必ず娼館がにぎわっていた。百人斬りとか千人斬りとか、男はみんな大げさにそんなことを豪語していたもんじゃ。でも、わしの場合は半分仕事みたいなもんじゃったからそんな数になった」

 仕事とは、どういうことなのだろう。二宮さんは、あくまで謙虚で上品でさえある。近くで見ると目鼻立ちがくっきりとして風格があり、若い頃はすごい美男子だったに違いない。

「諜報部の仕事は、あらゆる手段を使って敵国の内情を探ることが使命だった。そのために命がけで敵国の女を口説いたり…」

「敵国ですか?」

「たとえばあの頃中国の国民党はドイツの軍事支援を受けていてな、諜報戦の一つがドイツとの夜の駆け引きだった…」

「ドイツ人ですか…」

「それから、軍の資金に群がってきた女、高級な娼婦から、外交官の愛人なんかまでいろいろとね…。場所は中国大陸からフィリピン、東南アジア、シンガポール、ニューギニア、ああ、オーストラリアの白人の女まで、まんべんなく…」

「…二宮さんの思い出に残る女性とか、その頃の幸福をお尋ねしたいのですが…」

 すると二宮は、身分を偽り、金持ちや商人に変装して、いろいろなパーティーに潜入し、それこそ毎晩女性と恋の駆け引きを行ったことを話し始めた。

「アメリカ本土から、本物のジャズバンドやダンサーがたくさん来ていてね。いつもいい情報をくれるダンサーの女に徹底的に仕込まれてさ、踊りは自信があったね。体を密着させて踊るタンゴは、いろいろ役に立ったよ」

 ある程度深い関係にならなければ聞きだすことはできない。フランス租界の赤れんがの教会で結婚まで考えたフランスの令嬢との話、上海の実力者の娘との大きな庭園を二人だけの貸し切りにした豪華絢爛な交際…。

 その時、ノックの音がして、ここのシルバーパレスの介護士と看護師が入ってきた。二人とも七橋よりちょっと年上のきれいな女の人だった。

「すいません、お客様でしたか? 午後の検温です」

 介護士は優しそうなお姉さん、看護師はまだまだ若いかわいいタイプで検温しながら、七橋を見てにこにこしていた。二宮老人は今日は体調がいいようですぐに二人はかえって行った。すると二宮老人は、

「あの若い看護師のほうが、ずっと七橋君を見ていたぞ」

「…そうですか? わからなかったです」

 すると二宮老人はさりげなく自分の手帳を開いて今の彼女の名前から住所、携帯番号やアドレスまでさっと見せてくれた。

「わしが会話のついでに聞きだしたものじゃが、良ければ…」

「…いいえ、その…遠慮しておきます」

 いくら老人とはいえ、こんな細かいところまでよくもまあ聞きだせたもんだ。七橋はその諜報部の実力を思い知らされた感じであった。千人斬りもきっと本当だなと思った。凄い九十五才である。

 でも、その当時の二宮の心に残る思い出は、そういう駆け引きの中にはなかったという…。そう、七橋が考えていたのとはまた違う、意外な話しが始まったのだった。

 その頃高塚賢三は、戦前男爵の秘書を務めていた三崎省吾に会っていた。

 三崎省吾も二宮と同じぐらいの年齢で戦前から男爵家に仕えていた高齢者だが、やはりどこか若々しく、静かな中にも何か熱いものを持っているようだった。

 カメラが趣味だったのか、奥の戸棚には、ライカやコンタックスの名機が並び、壁には湖を背景にひっそりとたたずむ男爵邸と、男爵邸のイングリッシュガーデン風の庭園の見事な写真が飾られていた。

 探偵の高塚は、今度男爵邸が回収されて市に引き渡され、観光名所になる話をした。

「さすが、探偵さん、よくご存知で。一般の者にはなかなか詳しいことは教えてくれないんですよ、市の職員は…。昔あそこにいた私は、ずっと心配していたんです」

「…心配になりますよね。なんでも昔のままで保存したいという市民グループが運動を起こしたおかげで、すべての部屋も庭園や庭周りの散策路もすべて保存されるようですよ。新しくなったこともあります。外付けのエレベーターが取り付けられたことと、一階の大広間が高級カフェになるそうですよ。ああ、あと暖房や水周りも最新の物に改修されたようですね」

 三崎老人は大層喜んで、当時のことを色々話しだした。

「夏になると、ここは一般には知られていない避暑地としてにぎわっていました。政府の要人や外国の大使館の方々、大学の総長やご家族の方々が御忍びでやってきてここはにぎわいの季節を迎えたのです。当時は季節の山野草を見るほかにも、舟遊び、投網でのワカサギ漁など色々楽しみも多く、男爵さまは賑やかなことが大好きでしたから、その間は、よくパーティーも開かれました。戦争の足音が聞こえてくる時代に、ここだけは別世界で、一流の料理人を呼んだり、贅沢な食材を取りそろえたりして、それは華やかな会が催されたものでございます。一人娘の富子様はそれはそれは清楚で美しいお方でしたが、旦那様に似て客人をもてなすのがお好きな明るい方でした」

 男爵は独自に浮世絵の肉筆のコレクションなどを持っていたのだが、管理は富子がやっていて、ときどき解説をしてくれたと言う。

「…実は私、実家が生け花の家元で、自分も花を生けたり、飾ったりが趣味なのですが…男爵邸の庭園の写真が見事ですねえ。特にこのバラ園はすばらしい。一輪一輪のバラが輝いているように見えます…」

 高塚が壁の写真を見ながらそう言うと、三崎は遠くを見るような眼で淡々と話しだした。

「今でも思い出すのは、男爵邸の湖側に良く手入れされたバラ園とあずま屋があり、そこからの眺めは絶景でした。私が旦那様のお伴をして、帰ってくると、富子様が厨房の連中と協力して、お茶を入れてくれるんですよ。男爵さまがイギリスから取り寄せたと言う紅茶の茶葉でね…。もうこんなことはおやめくださいと言っても、春や秋の陽気のいい頃は何度も、富子様が直接入れてくれるのです。男爵さまの懐中時計で茶葉の開く時間をきちんと測ってね。初夏のバラや秋のバラのころは、あたりはバラの香りでいっぱいでね。富子様の笑顔と静かに打ち寄せるさざ波がきらめいて、涙が出るほどおいしかったです。ある意味、私の中ではあの時に時間が止まってしまっている。今は抜け殻で、生き恥をさらしているわけでございます」

 三崎は、男爵邸の当時のにぎわい、美しかった富子のことを夢見るように話した。

「それが終戦とともにこのあたりは閑散として、富子様もある事情で若くしてお亡くなりになられ、灯が消えたようになってしまいましてねえ…。男爵家の親戚が細々と男爵邸を守ってきたのだが、バブルのころに再開発ブームがあって、この男爵邸も終わりかと思った時、傾いた西園寺家に入り婿としてやってきたのが現在の当主、西園寺圭吾氏です。あまりいい評判の人物ではなかったが、その手腕は見事で、別荘地でかなり儲けて盛り返しましてね。グループ会社も大きくなり、今のボート村の元を作ったのも、若いころの西園寺圭吾氏です。でも、その西園寺氏も今年還暦を迎え、男爵邸を市に寄贈する方向で心を決めたようですね」

 三崎老人は、現在でも週に二回は介護士と湖畔を訪れ、男爵邸のたたずまいを遠くから眺めていたのだと言う。

「そうですか、男爵邸も庭園もすべて保存されるんですね。富子様との思い出のバラ園も昔のように咲き誇るんでしょうかね」

 高塚には、男爵邸の改修や思い出の復活がこの老人を若々しくしているように思われた。

 その頃、七橋はおいしいコーヒーを飲み終わり、二宮の思い出を聞いていた。

「戦争も中盤を過ぎると、もう、私の周囲では誰一人勝ち戦の話はしなくなった。最前線で情報収集をする我々諜報部にはどこよりも早く、苦戦する部隊の様子や、足並みのそろわない大日本帝国の上層部の不協和音が届いていた。あの頃の陸軍も海軍も、官僚化してしまったと言うか、戦況を見て素早く決断する力を失っていた。自分の立場を守るだけで流されていくだけだった。もちろんある程度攻めたら、いいタイミングで和平交渉が行われるつもりで我々は動いていた。しかし、誰一人有効な決断をできぬまま戦争はもうどうにも止まらず、和平交渉もそのタイミングを逸し、先が見えなくなるばかりであった」

 大日本帝国軍の周囲からだんだんオーラが消えて行き、やがて女たちの影も消えて行ったという。でもそんな時でも、そんな時だからこそ忘れられない人々や女がいると言う。

「ヤンファと言う中国の少女の忘れられない思い出があってね。上海で諜報活動をしているときに知り合ったんだが、その兄と親しかったので、よくおいしいものを持って訪れて、かくまってもらったりしていたんだ。ある時、上海ギャングの襲撃を受けて思わぬ怪我をしたことがあって、私は命からがら、ヤンファの家に逃げ込んだ。突然来たのにヤンファは喜んでくれてけがの手当ても一生懸命してくれた。自分の食べるものも、いいからいいからとみんな私にくれて…」

 そんな話がいくつか出てきたが…よく考えると千人斬りとは違う、もっと深い人間同士の絆の話だった。七橋はじっと聞いていた。

「あれ、あの時の古傷が、久しぶりにいたむなあ…」

「どうしました。看護師さんを呼びますか?」

 七橋が心配すると、二宮は断って、自分でナースコールで看護師を呼んだ。

「なに、いつものことじゃ。天気の変わり目で気圧が下がると痛むんじゃ」

「ええ? 今日は天気いいですよね?」

 七橋がふと窓から外を見ると、あれ、いつの間にか怪しい黒雲が出始めている。

「夕立じゃろ、道理で傷がうずく。降り出す前に帰った方がいいんじゃないのか?」

 七橋はまた来ますと約束して廊下に出た。探偵の高塚も天気の急変を知らせようと思って出てきたところだった。

 二人は急いでシルバーパレスの門をでて翼館に駆け込む。その途端にざーっと降ってきた。入り口にいた代表の御剣さんとサチエさんが、タオルを持って二人を迎えた。

「…あと一歩と言うところで降られちゃいました」

 ほっとしてみんなで笑った。御剣さんは、急に薄暗くなった空を見上げて言った。

「最近は異常気象が多いが、夕立にしても、かなり強い雨だなあ。何事も起きなければ良いが」

 すると玄関にいた三職人の一人駒形さんが言ったのだ。

「今朝、私の木工所からこの翼館まで山道を下ってきた時、いつもなら木の挨拶する声が聞こえるんですが、今朝はまったく聞こえなかった。ちょっと心配だなあ」

 家具修理の名人、駒形さんは、翼館では唯一の地元の人だ。山に木工所と川魚の養殖場を経営している人だ。老木や大木などと話すことができると言う信じがたい人物でもある。

 その激しい雨の中、動きだした者もいた。窓の外の強い雨を見ながら、あの謎の男八岐吉久はじっと誰かを待っていた。

「八岐様、予想以上の強い雨です。先日までの長雨もありましたし、これで条件がすべて出そろいました。ご決断を」

 それは、病院の白衣に身を包んだ、謎の美女だった。

「いいだろう、ナターシャ。作戦決行だ」

「はい、ではそのように」

 ナターシャは急いで退室して行った。雷鳴が響き渡り、薄暗い窓の外を見る八岐の顔が稲光に浮かび上がっていた。


 そして、それはついにおこった…。


七橋はその時、確かに聞いた。激しい雨の音に混ざって、雷鳴と何かが爆発するような音を?! さらに大地が震え、唸りを上げる音を!

「て、停電だ!」

「土砂崩れだ、あっちの方向はあのトンネルのある塚森山の方だぞ!」

 激しい雨の中、暗くなった部屋の中から声が聞こえた。

「た、大変だ。塚森山のライフラインがやられたとなると、簡単には復旧はしないぞ」

 やがて、レインコートを何着かつかみ、大きな懐中電灯を持って、三職人の一人、大柄な武藤拳二さんが奥から飛び出してきた。

「すまん、そこの若いの、翼館の非常用の発電機は外の倉庫なんだ。悪いが一緒に来てくれ!」

「はい、もちろん!」

 七橋と高塚はレインコートを受け取り、庭の畑の横にある大きな倉庫へと雨の中を飛び出して行った。武藤さんが暗い倉庫に飛び込み、懐中電灯で電気系統をすばやく切り替える工事を始めた。

「…は、はい、急ぎます!」

 その間に、七橋と高塚は、雨の中石油を運んで、次に倉庫の奥から配電盤のそばに発電機を運んだ。アウトドア派の七橋はこんな時頼もしかったが、一見やさ男に見える高塚は意外な力持ちで、作業を的確にこなしていった。武藤さんときたら、プロの電気工事屋真っ蒼な腕の持ち主で少しすると薄暗かった翼館のあちこちに電気が灯った。

「すごいですね、武藤さん」

 すると武藤は照れ笑いをしながら言った。

「ばれちまったらしょうがない。この翼館で面倒見てもらう前は、電気工事屋だったのさ…」


「プロパンガスはこの間補給したばかりだし、電気は節約して使えば十日ぐらいは発電できる石油が備蓄してある。水はわき水があるし、食料も明日から沢山子どもたちが来る予定だったので沢山ある」

 御剣代表を囲んでみんなで対策会議を始めた。ここは専門技能を持った人が沢山いるので意外となんとかなりそうだった。その時丘の上にある財団病院の非常用放送が響いて来た。


 夕立は二十分以上降り続き、やがてやんだ。空は明るくなってきた。初夏の日は長い。日が沈むまでまだ2時間ほどある。あの非常用エレベータを使ってみんなで丘の上の財団病院まで歩いていく。到着すると湖周辺の人々が徒歩や自動車で集まってきていた。

「現在詳しくは分かりませんが、塚森山の斜面が大きく崩れ、湖と外界を結ぶ唯一の道路も数十メートルに渡って土砂で埋まり、数百メートルが立ち入り禁止となっています。鉄塔や電柱が倒れ、アンテナステーション周辺も土砂で埋まり、交通、電気、電話ケーブル、携帯、ネットなどが切断され、今のところ復旧のめどは全く立っていません。この財団病院にこの地区の防災センターが置かれました。湖周辺を管轄する役場と駐在所の機能もしばらくここに移し、ここに来ればすべての情報がわかり、水・食料などの問題も解決できるように対処します…」

 やがて集まってきた人々は各地区に分かれ被害状況や必要な物資などの確認が行われた。その結果、幸いなことに土砂崩れに巻き込まれて死んだ人やけが人はゼロ、ただ、塚森山の周辺はまだ危険が高いため、山側の7世帯がこの防災本部がある財団病院で避難生活をおくることになった。

「…さらに病院の災害対策用の医療カードをお持ちの方は災害登録の後防災時特別検診がございます。病院の正面入り口までお越しください」

「あ、あの白いカード…」

 野菊や塔子、バンガロー村のみんなもあの八岐から渡された白いカードを持って、病院の受付に集まってきた。

「あ、野菊さんと塔子さん、無事でよかったですね」

「七橋君、けが人も出なくて良かったね」

「私の世話になっている翼館では発電機の切り替えに大騒ぎでした。土砂降りの中を走り回っていたんですよ」

「へえ、大変だったんですねえ」

 感心する鉄馬。

「でもよかった、みんな無事で」

 野菊と鉄馬は七橋とのつかの間の再会を喜んだ。その時、雲間が晴れて一瞬夕暮れの前に日が差してきた。西側の空に浮かんだ大きな雲が金色に輝いていた。ジャーナリストの風間と作家の瑠璃、身長の高い瀬川麗香と鉄馬のコンビもみんな笑顔で空を見上げた。そこに七橋を呼ぶ別の声があった。

「七橋さん、いやあ大変なことになりましたねえ…」

「あ、二宮さん…」

「三崎さんも…!」

 二人の高齢の老人が介護士に付き添われてやってきていた。さすがのシルバーパレスも発電設備がわずかしかなく、数日は不自由な暮らしを余儀なくされそうだと言う。そこで七橋はさっと閃き、近くにいた探偵の高塚にも相談して白いカードを出した。

「二宮さん、三崎さん、このカードを持っていると災害時に病院やバンガロー村で優先して面倒を見てくれるんですよ、ここなら発電設備もあるし不自由なことはほとんどない。良かったら、僕たちの代わりに使ってください…」

 二人は最初は遠慮したが、七橋と高塚がぜひにと言うのでありがたく受け取ることにした。

 もめている人たちもいた。「フィッシングセンター」のロゴの入った同じスタッフジャンパーとキャップをかぶった人たちが、大きな声を出していた。

「それじゃあ、ボート村だけがずっと停電じゃねえか、ほかんところは非常用電源があるってえのに、どうしてくれるんだ」

 それは湖の南側にあるボート村の住民たちだった。

「そっちはどうだかわからねえが、こっちは観光客の日銭暮らしだ、収入はないわ、水も食料も不足するわ、それで電気も来ないんじゃあ…」

 病院に近い東岸、歴史の古い男爵邸のある北岸には、数日で非常用電源が使えるようになる見通しがあるのだが、南と西は難しいのだと言う。まあ、自然災害なのだからどうしようもないのだが、このボート村の親父たちはなかなか引き下がらない。最後には水と食料を優先してボート村に回せとまでいい始める。だが、ちょっとがらの悪い手下もつれていて、だれも文句を言いだせない。そのうちリーダー格の黒仁田竜司と言う親父が騒ぎ出した。

「らちが明かねえな、財団病院の院長を出せや、いるんだろ、ここが本部なんだからよう」

「みんな困っている被災者なんですよ。自然災害なんだから、どうしようもないじゃあないですか!」

 さすがに放っておけないとあの大柄の武藤さんが割って入った。七橋もすぐ後ろに続いた。

「なんだ、翼館のやつらか? だいたいお前たちは自然保護とかばかり言って、おれたちのブラックバス釣りをいつも邪魔しやがる」

 かえって、火に油を注ぐような展開になってきた。こんなときにまずい雰囲気だ、

「えらそうなこと言ってんじゃねえ!」

 黒仁田の手下の加藤という男が武藤につかみかかった。だが武藤も全く負けていない、加藤の手を振りほどいて突き飛ばした。するとそこにフィッシングセンターのジャンパー軍団が、三、四人、いっぺんに突っ込んできた。そのまま倒れかかり、カードを持って並んでいた、野菊や塔子たちの列に突っ込んでいく。

「キャー!」

「ちょっと何するのよ!」

 気の強い塔子は野菊を守るように手を引いたが、とんでもない、野菊はふっとんで転んで倒れかかった。

「なんてことをするんだ」

近くにいた鉄馬がいきり立ち、助けようと走り出す。だが、野菊が倒れる寸前にすでに背中を支えて、やさしく抱き起こしてくれる人がいた。七橋だった。

「フィッシングセンターの責任者の方はどなたですか、突き飛ばされた女性が転んでしまいそうになったじゃありませんか!」

 野菊をやさしく起こしながら七橋が周囲に叫んだ。その騒ぎを聞きつけ、唯一の駐在の高橋巡査や役場の牧原さんもやってきた。フィッシングセンターのリーダー、黒仁田竜二は、さすがにまずいと軍団を引き上げた。そしてそこにその時、人ごみをかき分けて、あの男がやってきた。

「いいでしょう、ここの備蓄はまだまだ豊富にあります。ボート村の方たち、必要な量をお出ししましょう」

 そう言いながら出てきたのは院長代理を名乗るあの長身の八岐だった。

「わかりゃいいんだよ。わかりゃさあ」

 ボート村の親父たちは乗ってきたトラックにたっぷり水と食料を積み込んで去って行った。

 みんな胸をなでおろした。

「七橋君、ありがとう、おかげで怪我もしなかったみたい」

「よかった。まったく自己中なやつらだ…」

 鉄馬は、そんな二人をただじっと見つめ、立ち尽くしていた。

「…失礼します。翼館の皆さんにおりいって話があるのですが…」

 高橋巡査や役場の牧原さんたちが頭を下げてこちらにやってきた。

「…そうですか、そういうことならご協力できますよ。さっそく明日の朝にでも翼館に直接来ていただければ…用意しておきましょう」

 あの電気工事の武藤さんと、パソコン爺さんの幸田正剛さんがなにかさっそく打ち合わせを始めた。

「あ、そうだ」

 七橋はポケットからあのスパイス栞を二つ取り出して、野菊と塔子に渡した。

「ぼくの宿泊先で農家のおばちゃんたちが作っているスパイス栞です。こっちの花弁の一部とおしべがサフラン、こっちのきれいな木の皮がシナモン、どちらもここの畑や熱帯植物園で作られた地元の作物だそうです。ぜひ使ってください」

「わあ、すごい、いいにおいがする」

 野菊と塔子は列に戻った。挨拶をして去って行く七橋、これがこれからしばらく会えなくなるなんて、知るはずもない二人だった。


「初めてこのカードをご使用になられた方は、血圧、血糖値、心電図、血中のミネラルバランスなど、基本的な測定を無料で行います、中へどうぞ」

 野菊や瑠璃たちも鉄馬や風間も受け付けから奥へとどんどん入って行った。あの二宮と三崎の二人の高齢の老人も、介護士に許可を得て検査室へと進んで行った。だが、奥のエレベーターホールまで行った時、一人の男が、非常用の階段へと道をそれ、こっそりと歩いていった。ジャーナリストの風間だった。

「事前にこの病院の調査をした時、いくつかの謎があった。院長の正体が不明で、しかも地下一階から下が謎の空間となっていた。どう調べても分からないのだ。この病院に改装される前の大きなホテル、レイクサイドホテル時代には、地下一階に宴会場や会議室、地下二階に倉庫や機械室があったのに…いったい今はどうなっているのか、何を隠しているのか…突きとめてやる…?」

 風間は小型カメラや小型録音機を懐に忍ばせ、そっと地下への階段を下りて行った。地下一階はとても明るく、きれいに整備されていてさびれた感じは全くない…これがネットで調べた時には一切のっていないのだ。

「あら、あなた患者さん? こんなところでどうしたの?」

 急に後ろから声をかけられ、風間はどきんとした。振り返りながら言った。

「検査室に行こうと思って…。迷っちゃったようです」

「私はここの職員でナターシャ前園と言います。災害医療カードをちょっと見せてください」

 風間は慎重にカードを渡した。

「風間潤さん…ジャーナリストね。あなたの行く検査室は一階です。ご案内しましょう」

 風間は丁寧にお礼を言って検査室についていったが、その途中地下一階のある部屋の前を通りかかると、偶然その部屋のドアがさっと開いて、中が見えた。

 一人の白衣の職員が中から出て行くところだったが、チラリと見える部屋の奥には、見たこともない大きなカプセルのような機械がいくつも並び、中にうっすらと人間の影が見える…。

「こ、これは?!」

 だがすぐドアは閉まり、ナターシャと風間は一階の検査室へと進んでいくしかなかった。今度はエレベーターで一階に昇り、ナターシャについて検査室へと歩いて行く。だが、ここで風間は急に立ち止るとこう言った。

「あれ、地下室に忘れ物しちゃったみたいだなあ…。すいません、すぐ戻ります」

 風間はそういうと、足早に階段を下りて行った。

「風間さん、困ります、戻ってください!」

 風間は小型カメラを握りしめ、風のように地下一階への階段を下り出した。困ったナターシャは院内専用の携帯を取り出して八岐に何かを連絡し始めた。

 だがその時、速足で進む風間の前方から、白衣を着た集団が威圧感を持って近づいていた。

「なんだあいつらは…日本にもあの白の兵団がいるのか?」

 風間がアメリカの各地で取材をしている時、白衣を着た医療用ロボットの集団が、前触れなく現れ、何回も取材の妨害をされたことがあったのだ。風間はその正体不明の白衣のロボット集団を白衣の兵団と密かに名付けていた…。

 みんな白衣をきているのだが、その内側には高性能の超合金ボディを隠している。

 マリアと呼ばれる女性型のロボットは、両腕に強力なレーザーメスを装備しているし、同じ女性型のクレアは麻酔ガスや薬物の注射針を使う。怪力タイプのルークは人間の腕より関節の多い丈夫な腕を四本も持ち、やさしく、軽々と患者や医療機器を移動する。そして、どのタイプも胸に大きなモニター画面と監視カメラを持っていて、医療用だけでなく監視ロボットとしても高度な機能を持っている。たぶんやつらとやり合うことになったら、まったく風間には歯が立たないだろうと思われた。

「く、しまった!」

 白衣の兵団とナターシャにはさまれた風間は、まさしく風のように走り出し、サッカーの選手のように、フェイントをかけてさっとぎりぎりで白衣の兵団を交わし、問題の部屋へと戻ってきた。そして小型カメラを握りしめ…謎の部屋のドアを開けようとした時だった。

「風間さん、そこまでよ…」

 なぜか優しいナターシャの声が背中から聞こえた…そこから先の記憶が…。


「…それでは、今日の防災集会はこれで一度終了となります。先ほど飲み水や食料を申し込んだ人は忘れずに持ってお帰りください」

 最後に解散の放送が病院の前で鳴り響いた。そらはもう嘘のように晴れていた。

 みんなそれぞれに水や食料を手にして、まだ夕焼けの鮮やかな丘の道を帰って行った。

 七橋と高塚は夕日を照り返す美しい湖面を見ながら、翼館に着いた。

 その日の夜、七橋と高塚は翼館でお世話になることになった。高塚は明日の朝に男爵邸に行ってみると言う。

「はい、今夜は坂本さんの湖畔カレーの第1弾だぞ」

 御剣さんが、にこにこしてみんなを呼びに来た。その瞬間、サチエさんや武藤さんの顔がさっと明るくなった。なんだか凄いことらしいのだ。

「明日からのキャンプ場開きも事実上無理だし、もちろん観光客だってこの観光地周辺に一歩も入ってこられない…だからもう今シーズンのカレーはしばらくあきらめていたのに…いいんですか? 坂本さん」

 坂本五郎さんはにこっとして厨房でカレーをよそり始めた。細身で柔らかな物腰の坂本さんだが、すごい努力家だ。

 坂本さんはちょっと変わっていて、サフランやコリアンダーなどのスパイスを自分で栽培して加工するスパイス工房を自分で湖畔に作ってしまった人だ。新聞の全国紙にも「スパイスで村おこし!」と報道された有名な人だ。もとはと言えば、都内で人気カレーハウスをやっていたのだが、サフランと言う香料が高価なので、自分で作れないかと思って、この村で花の栽培をやっている農家に相談したのが始まりだそうだ。サフランはクロッカスの仲間の球根の植物で、寒さには強いが多湿には弱く、この避暑地で栽培するのに適しているということで、湖の西岸の水はけのいい扇状地で広く栽培を始めたのだった。

 そしてそれが成功するとさらにスパイスの種類を広げ、ついには、他のスパイス、クミンやコリアンダーの畑作栽培、そしてあの丘の上の熱帯植物園に協力をあおぎ、高い木になるシナモン、クローブやナツメグ、寒さに弱いカルダモンの栽培も成功させ、この一帯をスパイスの産地にしてしまったのだ。あのスパイスガールズというおばちゃんたちは、スパイス作りに関わる、このあたりの農家の人たちなのだ。

 そして坂本さんはこの湖周辺でとれたスパイスを使って、毎年乾燥や加工、調合をを工夫し、新作のカレーを作り、都心の店に加えて夏の観光シーズンだけだが、カレーハウスの湖畔店を開いていたのだった。

 その今年度の新作カレーがついにお披露目だ。

「今年の新作第一弾、湖畔のバターチキンカレーだ!」

 見事に色づいた本物のサフランライスとこの地域の地鶏を使った、スパイシーでさわやかな骨付きのチキンカレーだ。まあ、とにかくスパイスの香りが素晴らしい、地鶏のコクに負けない別次元の力強さがある。今年の新作も大評判で、今までのポークやビーフの色々なラインナップに加わるのは間違いないだろうと思われた。高塚はあまりにおいしかったので、後片付けも進んで協力し、七橋も手伝いながら、野外料理のカレーに応用できないかと坂本さんに相談していた。話しは盛り上がり、来年はスパイス作りから子どもに関わらせて一から手作りの野外カレーを作ろうと言う話になっていた。

「ここが村おこしの寄り合い所みたいになっててね、いろんな情報交換や助け合いができるのさ。私もスパイス工房のための中古別荘のリノベーションや補助金の申請でここのみんなに本当にお世話になったし、サチエさんの紅茶はおいしいし、ここのラウンジはなんてったって居心地がいいからね。顔を出しているうちに、住みついちまったわけだ」

 もう、みんなニッコニコでカレーライスをほおばりながら、さらに話しが盛り上がる。

 七橋がさっそく幸せとは何かを聞いた。坂本さんは、

「一から自分の手で組み立て、理想を追い求めること」

 と、答え、さらに、

「おいしいもので周りの人を笑顔にすること」

 と言って少し照れて笑った。

 電気工事で大活躍の武藤さんにも聞いてみた。武藤さんはこう切り出した。

「何事にも偽らず、まっとうに生きて行くことかな」

 七橋はそのあと、武藤さんの部屋に泊めてもらうことになり、武藤さんの前歴話を聞く。

 武藤さんは若いころから機械いじりが好きで、最初は大手の電気工事店に勤めていたと言う。ところがある日、ヘッドハンティングにあい、新しい職場に代わったのだそうだ。

「ところが、いい給料で引き抜かれた電気工事店がとんでもない店でね…。社長と専務の二人で立ちあげたっていう中堅の工事店だったんだけど…、金周りがなぜかとてもよくてね、給料も引き抜かれてから大幅にアップしたんだ。ところが、入ってみて一年半ほどしてその大儲けのからくりが分かった。実は少人数で大型のマンションなんかを引き受けて、工事を請け負っていたんだが、あまり使わない通路や非常灯などの工事は未完成のまま引き渡しちまうのさ。その当時の市の担当とは酒の仲間で検査もスルー、工期も短くなるし、もちろん格安でできるから仕事も次々に入る。もし、あちこちで電気がつかないってことになれば、その日のうちに駆けつけてあっという間に直しちまう、っていうより、未完成の部分をつなげるだけだ。もちろん修理代もがっぽり取るから二倍儲かる。だけど、そのためには、文句を言わせないように早く対応しなけりゃならない、フットワークのいい腕ききが必要だ。おれはそのために引き抜かれたわけさ。それを知った時、告発するかどうかしばらく悩んだ。働いていても、家に帰っても、寝ていても、自分は沢山の人をあざむいて仕事をしていると思うと心が休まらない。社長や専務はおれに良くしてくれて、給料もがっぽりくれる…そう簡単には裏切れない…。でも悩んでいるうちにあっけなくすべては終わった。金がもうかって社長は高い外車を買ったんだが、買ったその日に事故を起こしてあの世行きだ。相棒の専務はバチが当たったとうつ病になって入院しちまった。愕然として俺もしばらく何もできなかったよ。それでここで古い別荘をリニューアルするからボランティアを募集する広告が出てるのを見てきたんだが、来てみたら食べ物はおいしいし、自然がいっぱいで居心地がいいから、しばらく村おこしの仕事に付き合おうと思ってね。みんなここにいる人たちは金を儲けようなんて思っていない、本当にいい人たちばかりだしね」

 そしてもともと手先の器用な坂本さんは別荘のリノベーションをしながら壁紙を貼る技をおぼえてさらに磨きをかけ、大柄な武藤さんも電気工事だけじゃなく、家の組み立てなんかもできるようになったのだと言う。

「あと木工所や養魚場をやっている三職人の一人駒形さんは木の声が聞けるっていうし、サチエさんは三ヶ国語しゃべれるっていうし、すごい人たちが集まったんですね」

 すると武藤さんは笑いながらこう言った。

「でもなあ、みんなリタイアしたお年寄りだったり、俺みたいな人生につまずいたやつだったり、おかしな夢に取りつかれたやつらだったり、難しい悩みを持っていたんだが、それらをまとめて引き受けちまうあの御剣っていう翼館の代表の器が凄いってことかな。あの人も実は有名な科学者なんだが体をこわしてここにいるんだ。なんにも威張らないが、すごい人なんだぜ。そうだ、若い人向けの読みやすい本もあるから読んでみないか?」

 七橋が是非と言うと、武藤は、本棚から一冊取り出して渡してくれた。『御剣博士の恋愛の生物学』という生物学の本だった。

 七橋はベッドでしばらくそれを読んで、そして眠りに着いた。目まぐるしい湖畔での一日目がやっと終わる。だがその頃何人もの黒い服の男たちが、湖畔の道を何かを探して走り回っていたのだ…。

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