そういうお年頃

 六時間目の終わりを告げるチャイムが響いて、教室内に安堵の溜め息がいくつか生まれた。机に突っ伏していた男子も生き返ったように顔を上げ、きょろきょろと辺りを見回して数十分振りの現世の様子を確認している。

 少し遅れて、数学の星野先生がチョークを動かす手を止めて私たちの方へ振り返った。

 「まだ途中ですが、今回はここまでにします。しっかり復習しておくように」

 ありがとうございました、あざっしたー、ざしたー、と各々個性的な挨拶をして、六時間目の数学が終わった。一花の席まで遊びに行こうと思ったけれど、星野先生が教室から出て行くのと入れ替わりで担任の前原先生が入ってきて、それは叶わなかった。

 「まだ休み時間じゃないですよ。席に着いてください」

 教卓に分厚いファイルを置いて、廊下に出ようとする生徒を注意する。前原先生は、語尾に伸ばし棒が付きそうな微妙に間延びした話し方をする。それは先生の顔が厳つくて、やくざっぽい印象を持たれてしまうからで、私たちを怖がらせないように柔らかい話し方を心掛けているらしい。確かに、所々に白髪のある丸刈りにサングラスの良く似合いそうな鋭い目はいかにも裏世界の人間だ。

 やくざな雰囲気を漂わせる前原先生に注意されると、誰一人文句を言うことなく席に着く。言葉遣いや話し方を工夫しても、怖いものは怖い。だって私たちは中学生、まだ大人は怖いし、それが強面な男の人なら尚更。

 合唱コンクールが終わって二週間が経ち、気が抜けてると色々な先生から言われることはなくなったけれど、私は――たぶん、他の皆も――退屈していた。修学旅行も合唱コンも終わり、もう大きな行事は一つもないというのに、今はまだ二学期の真ん中。しかも三学期も残っていて、来年には高校受験も控えている。そういった些細な不安や不満が積もって、私たちは気が抜けていないように見えているだけで、授業内容はちっとも頭に入っていないし、前原先生のありがたいお話もまるで聞いていなかった。

 廊下側の冷えた自分の席から、窓の方へ顔を向ける。外は日に照らされて全体的にオレンジ色が差していて、暖かい印象を抱かせる。鳥たちが楽しげに鳴いているのを見て羨ましいなぁ、と思っていると、窓側の席にいる一花が目に留まった。先生の話を聞いている様子でもないし、私と同じようにのほほんと外を見ているわけでもなく、彼女は自分の手を見ていた。机の上で軽く握りこぶしを作って手のひらを内側に向けている様から予想するに、多分、爪を眺めている。爪に何かあるのか、と目を凝らしてみたけれど、他のクラスメイトが邪魔でいまいち見えにくい。

 「それじゃ、また明日会いましょう」

 男子の誰かが前原先生にいじられつつ、帰りの会は終わった。

 ようやく帰れるなぁ、と立ち上がって背伸びをしていると、一花が鞄も持たずに私の席に来た。可愛いデザインのポーチを片手に持って、自慢げに見せびらかしてくる。

 「どしたの、一花」

 「うふふ。この後ちょーっと、時間ないかなって」

 私が首を傾げていると、一花はポーチから小瓶を二つ取り出した。透明な液と、桃色の液が入った小瓶。私でも見たことのあるものだった。

 「じゃじゃん! 魔法のアイテム、マニキュアです!」

 ぺかー、と漫画のように大袈裟な笑顔を見せて、一花が言った。おぉ、と声を出して私は感嘆してみせた。

 「どこで買ったの」

 「ふっふ、百均」

 「なんと!」

 思わず大きな声が出てしまって、慌てて手で口許を覆った。マニキュアは高級品で、中学生のお財布事情ではとても買えないものとばかり思っていた。

 「今日は彩と一緒に大人の階段を登ろうと思って。おしゃれな爪でお菓子買いに行くの、絶対楽しいよ」

 楽しげに話す一花は外で鳴いていた鳥たちを思い出させたけれど、今度は羨ましいというより、私もその仲間に入れてもらえることが嬉しかった。

 一花はまず手本として、自分の爪を塗り始めると言った。透明な液の入った小瓶の蓋を回して開ける。これがベースコートというもので、爪を保護したり、ネイルの発色が良くなったりするため必須らしい。蓋の裏には刷毛が付いていて、液を含んで先が膨らんでいる。一花のベースコートが乾くまでの合間に、私の爪も塗られた。冷たい感触とともに透明な液が塗られていく間にも彼女の爪は乾いて、蛍光灯の光を反射して輝く大人の爪に変わった。おぉ、と溜め息を吐く私に一花が「すごいでしょ。でも驚くのはまだ早いよ」と自慢げに言う。親友は知らない間にすっかり大人の階段を登っていて、それを少し寂しく思う。

 次に、桃色の液が互いの爪に塗られた。元々の爪の色とあまり変わらない気がして、大丈夫かなぁ、と思ったけれど、一花としてはむしろその方が都合が良いらしい。

 「だって、あんまり目立たない方が先生にもバレにくいでしょ?」

 口の両端を上げて笑う一花の言葉に素直に納得して、おぉ、と唸った。今日は最低でもあと十回は同じ反応をすることになりそう。

 一花が真剣な眼差しで刷毛を動かしている。マニキュアを塗るのにも練度があるみたいで、お互いに桃色が爪の外にはみ出して不格好になってしまっていた。

 「明日には、はみ出てるのもなくなってるから、今だけ我慢して」と一花は言うけれど、そんな魔法のような話があるのだろうか。

 元の爪とあまり変わらないだろう、というのが予想だったけれど、それは大きく裏切られた。トップコートも塗って仕上がった爪はショッキングピンクでもなければ、元の薄いピンク色とも違う。外の木々を照らす陽光と同じように上品な、さりげない桃色をしていた。

 私たちは互いの爪を見比べて、おぉ、と溜め息を吐いた。

 校門を出るまでは、念のため握りこぶしの中に爪を隠して歩いた。校門の前に立つ学年主任を通り過ぎた瞬間に、私たちは手のひらをぱっと広げて、大人の爪にうっとりと見惚れた。

 気分も麗らかに、時折「きれいだねぇ」と声を漏らしながら、お気に入りの駄菓子屋へと向かった。

 引き戸を開けて店内に入ると、ちょっぴり埃っぽい臭いが鼻をくすぐった。古臭いお店ではあるけれど、穴場のような雰囲気がして私たちは気に入っている。入り口のすぐ側にあるアイスのコーナーを眺めていると奥から店主のおばあちゃんが出てきて、「いらっしゃい」と笑顔を向けてくれた。

 「こんにちは!」

 元気に挨拶を返しながら、視界に入った十円の小さな四角いチョコを手に取る。二本指で摘むと、桃色の爪が映えて可愛らしく見えた。

 「一花、見て見て、可愛いよ」

 「ほんとだ! かわいい」

 互いにチョコを一個ずつ手に取って、モデルになったつもりでポーズを取ってみた。いつもの駄菓子屋も、マニキュアを塗るとちょっと違って楽しい。

 それから私たちは、この大人可愛い爪に合うお菓子を探して店内を歩き回った。フルーツ餅やスティックゼリーのようなカラフルなお菓子との相性はもちろん良かったけれど、ココアシガレットのタバコのような渋いパッケージとの組み合わせはいかにも大人の女らしい印象で、私たちはこれらを気に入って一つずつ買った。支払いをする時におばあちゃんに爪を褒められて、舞い上がるような気持ちになった。

 いつものようにお菓子を買ったのは良いけれど、せっかくなら爪と一緒に写真を撮りたい気持ちが出てきて、私たちは食べられずにいた。どうしたものかと顎に手を添えて考えていると、

 「それじゃあさ、お互いに自分の家で写真撮りながら食べようよ。電話しながらさ」

 「そうしよ!」

 一花の名案に賛成し、私たちは解散することにした。

 また後でね、と言いながら一花が手を振る。綺麗な爪を見せつけるように手の甲を外側に向けて手を振るものだから、可笑しくて笑ってしまいながらも、私も負けじと同じように手を振った。

 帰り道、一花に塗ってもらった爪を眺めながら、大人になるのも案外悪くないな、と思った。今夜は母さんと百均に行こう。

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