大人にはわからない空気


 ――俺は至って冷静だ。心には何も感じ……、いや、待て、忘れるんだ。そうだ、小説の続きを考えるんだ。新キャラの犬の獣人が出始めたところ……、犬……ポメ子ってポメラニアンの意味か? バカ、そっちを考えるんじゃない、落ち着け、まだポメ子さんって決まったわけじゃない。


 チラリと篠塚さんを見ると、眉間のシワが一層ひどくなっている。

 小さな声でなにか呟いていた。


「……にゃ……ん太」


 俺は手がビクッとなって机の上に置いた教科書を床に落としてしまった。

 ――にゃん太は俺のペンネームだ。


 鼓動が早くなる。こんなに焦ったのはいつぶりだ? 裏切られた時とは違う。変な汗が出てきた。


 俺は教科書を拾って大きく深呼吸をした。

 ――大丈夫だ。俺と篠塚さんは友達でもない。関わり合いがない。この出来事を忘れて……。


 入り口の扉がガラガラと開いて、先生が教室へ入って来た。


「――おはよう、HRを始める」


 そうだ、大した事じゃない。読者であったとしても篠塚さんが俺に関わる事はない。

 友達なんて作らない。信じられる人なんてこの世にいない。


 ……メッセージを見てホッとした俺は、弱くなっていたんだ。


 そうだ、メッセージを消去したら心に平穏が生まれる、更に強くなれる――


 ……今はだめだ。先生が来たからスマホを出せない。メッセージは後で消そう。


 つまらない嘘を自分に吐いている感覚であった。

 本当はメッセージを消したくない自分がいるのをわかっていた。





 *****************





 今日は一日が終わるのが早かった。あっという間に終わってしまった。

 今は帰りのHRの時間。先生が今後の行事について説明をしていた。


 今日は早く帰りたい……。

 朝に面倒なことがあったから疲れた。だが、これで宮崎はもう俺に話しかけて来ないだろう。――大丈夫か? 若干不安になってきた……。宮崎は義妹ほどではないが、天然である……。よし、気持ちを切り替えよう。




 結局、俺はポメ子さんのメッセージを消すことが出来なかった。

 消そうと思ってスマホを手に持つと、気分が悪くなった。

 ――だから俺は気分が悪くなるのを理由に消さない事に決めた。そう決心したら心が安堵した。気分が悪いのが治った。


 ……まあ、これくらいいいだろう。


 隣の席の篠塚さんが黒板を睨みつけている。

 彼女は見た目不良だ。威圧感がとてもある。朝の口調も怖いものに聞こえた。


 きっと、彼女にとって人に恐怖を与える事で距離を取っているんだ。

 威圧と強い敵愾心。

 俺の偽物の笑顔や適当な返事、慎重な行動、と一緒だ。


 俺は頭を軽く振った。これ以上篠塚さんの事を考えるのはやめよう。

 関わらない方がいいんだ。



 帰りのHRの先生の話では、中間テストの後に遠足があるらしい。


 ……班作りか。毎度の事だが、非常に面倒である。

 ――中学の時の遠足を思い出してしまった。







 中学の時は、どの班も俺を入れたくない。俺が班に入ると雰囲気が悪くなる。汚いもの扱いされてしまう。控えめにいって邪魔者だ。遠足当日は、俺が班で行動する事はなかった。班の人間は俺を置いて行動をする。


 俺は大勢の生徒がいる中で、一人で行動していた。

 とてつもない孤独感だ。

 遊園地や動物園、キャンプに水族館。

 生徒だけでなく、一般のカップルや家族連れも、一人で行動する俺に憐れみの目を向けているように思えた。


 誰も気に留めてないと思っていたが、俺を気にしていた担任の先生がいた。


 その先生は新任でやる気に満ちあふれていた。

 ことある事に俺に話しかけてきて、一人ぼっちの俺を気にしてくれた。

 俺は「大丈夫です」といってもグイグイ話しかけてくる。


 あの頃は、生徒の誰も信じられなかった。……もしかして大人なら相談に乗ってくれるかも知れない、と心の片隅に思った。


 何度か相談しようと、職員室へ行こうとした。……だけど、躊躇してしまう。

 その時、先生が俺の姿を見たのかも知れない。だから――




 ある日のHRでそれが起こった――


「じゃあ連絡事項はこれでおしまい! ……えっと、一点、先生からお願いがあります」


 先生はそういいながら俺をちらりと見た。

 恐ろしく嫌な予感がした。突っ走る癖がある先生は生徒間の人間関係を見えていない。それとも、充実した青春を送っていた先生は、それが正しいと思ったのだろうか?


「このクラスで一人ぼっちの生徒がいるね? 先生は悲しいな。せっかく同じクラスになったんだから、みんな仲良くしなきゃ! 一人ぼっちは悲しいよ。勇気を出して話しかけようね!! なんかあったら相談しろよ! ……いじめは絶対許さないぞ!ははっ、冗談だ!」


 俺は絶望した。好きな人なんていらない、友達なんていらない、信じられる人なんていらない。

 ――ただ、平穏に生きたいだけだ。


 生徒の空気は重たいものに変化した。

 先生は笑顔で俺たちを見渡した。

 本当に素晴らしい青春を送っていたのだろう。最悪の一手としか言いようが無かった。


 一人ぼっちだけど、ある意味平穏だった俺の生活が先生の一言で一変した。

 関わるはずの無かった生徒たちが――


「お前チクったのか?」

「ていうか、俺達いじめてねーだろ? マジ嘘つきやろうだな」

「私達が悪いみたいじゃん。さいてー、内申下がったらどうしてくれるの?」

「犯罪者でチクリ野郎か。終わってんな」


 陰口で済んでいた事が表面化する。

 暴力事件を起こしたと思われている俺に対して、物理的な攻撃は無い。誰しも暴力が怖い。

 だけど、みんな知らない。物理的な痛みの方が全然痛くない。

 言葉の暴力は――人を殺す。


 その後、遠目から俺を見守っている先生を見かけた。――クラスメイトが俺に暴言を吐いているのを……仲良く会話している、と思ったのだろうか? 満足そうな顔をして去っていった。






 大人だからといって信用してはいけない。

 今の担任の先生は比較的冷めた人だ。嘘告白の時に二回だけ立ち会いをお願いしたけど、何回もお願いできる事じゃない。


 いきなり豹変されたら面倒になる。


 ――よし、帰ろう。


 カバンを持って席を立とうとしたら、篠塚さんが眉間にシワを寄せて睨みつけていた。威圧は感じられるが、怖くなかった。

 俺はまた偽物の笑顔が出来なかった。


「……お先に失礼――します」


 敬語を使う事も忘れるところだった。敬語は相手と距離を取る時に非常に有効である。


 篠塚さんは机をガシガシと蹴り始めた。

 何か言いたい事があるのに言えない。そんな感じだ。


「――更……いや、なに見てんだよ? 慣れ合うんじゃねーよ、ふんっ」


 鼻を鳴らして教室から出ていった。





 篠塚さんの背中を見送っていると、斉藤さんが近づいてきた。


「ねえ、篠塚さんと友達なの? みゆはあの子苦手かな〜」


「そうですね――」


 俺は適当な返事をして斉藤さんをやり過ごそうとする。流石に今日相手するには面倒で疲れる。


 メガネをかけていない斉藤さんは俺に喋り続けた。


「えっとね、前に真君とお喋りした時はショックだったけど……、みゆが前に向かなきゃ! って思ったんだよ。うん、過去は消せないよね……、みゆも真君と一緒にいた図書室が忘れられないよ。超楽しかったんだよ? へへ、みゆって地味だったから男子と喋れなくて……、でも真君は特別だったんだ……。もしかして初恋? きゃーー! 超はずい。――本当に一人で寂しくないの? あの後、色々あったのも知ってるよ? この学校にもいるよね? 妹ちゃんや宮崎さん、それに奈々子ちゃんに如月さん……。あれ? その反応って……認識してなかったのかな?」


「……そうですね――」


 なるほど、面倒な奴らがまだいたのか……。顔ごと記憶から無くなっているからわからなかった。


「だからさ、みゆたちも悪かったけど、これから一緒に仲良くしよ?」


「それは結構です――」


「あははっ、大丈夫! えっと、みゆは恋愛ゲームで勉強したもん! 悪いことをしても頑張って反省すれば大丈夫って言ってたよ!」


 なるほど、ポンコツは義妹と幼馴染だけじゃなかったのか。

 それに、斉藤さんは芯が強い。悪いと思っているけど、気にせず俺に関わろうとしている。斉藤さんに心はあるのか? 厄介な相手だ。



 斉藤さんはポケットから洒落たメガネを取り出して装着した。


「ふふ、超似合うでしょ? とっておきのメガネ――、真君が喜ぶと思ったんだよ!」


 俺はメガネ姿の斉藤さんを見て――胸の奥からこみ上げてくるものがあった。

 こんな事は久しぶり過ぎていつ以来か覚えていない。

 苛立ちと憎しみに染まりそうになる――


 中学の時の記憶一気に蘇る。

 俺が悪かったんだ。悪意に対抗しようとしちゃだめだったんだ。

 なんで俺が悪かったんだ? 俺は守ろうとしただけだ――

 誰も弁明を聞いてくれない。信じられるものなんてない。



 感情に飲み込まれるな。俺は何も心に響かない。空虚な――はずだ。

 このままでは自制できる自信がない――


 無意識であった。過去のメッセージを見て心を落ち着けようと思ったんだろう。

 スマホを取り出して――マイページに飛んでいた。


 ――え?


 赤文字のメッセージがあった。

『……えっと、ポメ子です! 色々あるけど……更新すごく楽しみにしてます! これからも……応援メッセージ送っていいですか? えっと、返事無くても送るね。♡、 ポメ子』


 短い文であった。

 だけど、文脈から想いが感じられる――何度も書き直したはずだ。二度とメッセージが来ることがないと思っていた。だって、お互い気がついてしまった。

 それでも彼女は俺にメッセージを送って来た。ただのポメ子さんとして――




 さっきとは違う感情を記憶の底から思い出した気分であった。

 目の前にいる斉藤さんの存在を忘れそうになる。


 そうか――俺はポメ子さんのメッセージを見て、『嬉しい』と思っていたのか。

 だから心がフラットになったり、落ち着いたりしたのか……。

 いつ以来だ? 嬉しいなんて……。

 ポメ子さんは俺の小説を楽しみにしてくれる。

 そこに、裏切る要素はない。むしろ俺が未完にして裏切る可能性がある。


 よし、家に帰ろう、今のままの気持ちで執筆しよう。


 俺は偽物の笑顔を剥がして斉藤さんの横を通り抜けようとした。

 そうだ、メガネの評価をしないと失礼になる。

 俺は小声で呟いた。




「――昔の方がずっと可愛いよ、斉藤さん……」




「――はうっ!? ちょっ、どういう――」


 俺の空っぽの心がメッセージによって少しだけ何かで満たされた気分であった。



 大丈夫、俺は二度と間違えたりしない――



 俺は教室の扉を開けっぱなしで出ていった。


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