勉強


 俺は遥が戻ってくる前に答案用紙を分析してどこが悪いかチェックする。

 国語や社会は二桁だが、平均点の半分を超えてない。それ以外は散々たる結果であった。


 入試の時の遥を記憶から掘り起こす。

 何があったかわからないが、凄まじい集中力で勉強をしていた覚えがある。

 ……しかしテストは来週だ。間に合うのか?


 遥が息を少し弾ませながら勉強道具を持ってきた。

 神妙な顔をして俺の前に座る。


「……も、持ってきたよ。え、えっと……わ、わたし……」

「いいか、高校は留年というものがある。……お前の友達である宮崎たちが先輩になってしまうんだ。それに学費も更にもう一年分かかる。まずは学校の勉強の必要性を――」


 俺はテスト対策の前に、遥の状況を訥々と語った。

 どれくらいヤバい状況か分かってもらわないといけない。

 いくら俺が教えた所で本人のやる気がないと意味がない。


 遥は俺の話を聞いているが、何やらもじもじしていた。

 なんだ? 気になることでもあるのか。

 遥は下を向きながら俺に恐る恐る尋ねてきた。


「お、おに……、あ、あの、わ、わたし、喋っても、いいの?」

「……なんだ? 言いたいことがあれば言ってくれ」


 遥は台所で夕飯の準備をしているお義母さんをちらりと見て、深呼吸をした。


「……あ、う、うん、やっぱり大丈夫。べ、勉強、集中する……」


 気にならないと言えば嘘になる。

 もしかして遥は俺と喋っていいのか、と聞いてきたのか?


 あの時の気持ちは忘れない。だけど、過去として俺が乗り越えなきゃいけない事なんだ。

 人の気持ちを無理やり変えるよりも、自分が変わっていくんだ。

 だから――


「……まあ、なんだ、特に用がなくてもたまに帰る事にしたんだ。俺は子供だからまだまだ保護者の世話になっているんだし――、遥の成績が悪かったらちょっと家に来づらいけどな」


 下を向いていた遥が顔を上げた。目を大きく見開いている。

 小さな声でブツブツと呟く。


「……私が頑張れば。…おに、また来てくれる。……良い成績……」


 ん? なんだか遥の様子がおかしい。そ、それに、俺の言葉を聞いていたのか? いや、聞いていないだろ?


 遥はすくっと立ち上がった。

 そして、両手で自分のほっぺたをバチンバチンと叩く。その勢いで今度は自分のお尻をスパパンと叩いた。非常にリズミカルで小気味よい。が、何をしているんだ?

 お義母さんが何事かと思い、台所から顔を出す。


 遥の目には知性が宿っていた。


「お、おに……、うん、気合入れたよ。勉強モードに切り替えたよ」

「あ、ああ。……ま、まあ座れ。ま、まずは、テストに向けた勉強の仕方を――」


 こうして俺達の勉強会が始まったのであった。






 すでに二時間は経過していた。

 俺は初めだけ勉強方法の説明やテストの山を教えた。

 途中から遥は一人でもくもくと、教科書と俺のノートを使って勉強を始めた。

 初めは、うんうん、唸っていたが、段々と――『あ、そうだ、思い出した。これって授業で……』と言い出した。なにやら覚えていくと言うよりも記憶を思い出す作業をしているみたいだ。


 遥は確かに大馬鹿だ。……過去に俺にしたことを忘れて、ズケズケと踏み込んできた。俺が拒絶しても、一晩経つとわざと忘れてしまう。

 ……遥の頭の中がどうなっているかわからないが、特殊なのは確かだ。


 遥は俺の目から見ても、恐ろしい速度で知識を吸収していくのであった。


 夕飯の時間になり、俺達は勉強を一旦中断して食卓に着いた。


 遥は夕飯を食べながら俺のノートを見ていた。昔だったらお義母さんが激怒する場面だ。

 食事中に行儀が悪いって……。

 だけど、お義母さんは……、そんな遥を見守っていた。


 こんな風にご飯を食べるのって、いつ以来なんだろう。

 俺は家にいるときは心を殺していた。

 あの日以来、俺は食卓で何を食べても美味しく感じる事ができなかった。

 ……そういえば、あの日のパンケーキ、美味しかったな。

 俺はあんりと食べたパンケーキを思い出した。俺が前に進もうと決意した日。

 俺が――あんりに対しての愛情を認識した日。


 遥はノートを見ながら小器用にカレーをスプーンですくって食べる。

 勉強に集中しすぎて別人みたいになっている。


 俺はスプーンを手に持ったが、未だにカレーには手を付けていなかった。

 わだかまりが消えたわけじゃない。過去がなくなったわけじゃない。

 

 お義母さんもカレーに手を付けていなかった。

 俺に何か言いあぐねている。


 ……あんりと出会って、俺は変わることができて前に進もうと思ったんだ。


 カレーを前にして何やら色々な感情をこみ上げて来たが、俺は目を閉じて過去のものにする。何も考えずに俺はカレーを口に運んだ。


 一口食べると――

 何も変哲のない普通のカレーが、すごく美味しく感じられた。

 先程こみ上げてきた感情が更にくっきりと俺の頭に思い浮かぶ。

 子供の頃を無邪気な俺、お義母さんに褒めれた時、子供の頃以来食べることのなかったカレー。俺の事を信じてくれなかったお義母さん。俺のせいでママ友からいじめられていたお義母さん――


 俺はゆっくりと咀嚼して飲み下した。

 大丈夫、もう自分の殻にはこもらない。……だって、あんりと約束したんだから。カッコいい所を見せなきゃな。


「……美味しいよ、おかあさん」


 俺がそう言うと、おかあさんはこみ上げたものをこらえきれずに泣き崩れてしまった。

 おかあさんが手に持っているスプーンが震えている。

 押し殺した声でおかあさんは――


「……ごめんなさい、真、ごめんなさい。……全部、私が、悪かったわ、真と……ちゃんと……、全部私のせいで――、真、ごめんなさい……、私、母親失格よ、あなたと会う資格なんて――」

 

 遥はとっさに顔を上げておかあさんを止めようとした。が、俺は遥を手で制して、おかあさんの言葉に割り込んだ。


「うん、まだ自分の気持ちがわからないけど……、ただね……カレーが美味しいよ。今はそれだけでいいんだ」


 過去の傷は消えない。だけど、向き合えば前に進めるんだ。だから――


「おかあさん、も、ゆっくりでいいから向き合って」


 おかあさんは涙をこらえて頷く。そして、壊れたスピーカーのように「真と向き合う……」と繰り返していた。




 ************



 落ち着きを取り戻したおかあさんは、少しぼうっとした顔であった。


 すごく穏やかな夕食を過ごした。

 そんな普通の事が普通じゃなかった俺の家族。


 遥はその間もずっと俺のノートを見ていた。まるで別人のような横顔である。

 そんなこんなで夜も遅くなってきたので、俺はそろそろ帰ることにした。


 遥に帰ることを告げると、教科書をほっぽり投げて俺に抱きつこうとしたが、思いとどまったらしい。


「あっ!? や、つ、つい本能が……、ご、ごめんなさい。あっ、ノ、ノート、返――」

「いや、それは明後日まで貸しておく。コピーするなりしてくれ」

「あ……、う、うん、うん! わ、私、頑張る……」


 遥は今度は下を向いていなかった。俺を真っ直ぐに見据える。

 目に魂がこもっていた。


 弱々しく、おどおどしていたおかあさんも、なんだか生気を取り戻した顔になっていた。

 心が身体に出るんだ。それが人間だ。


「……真、受け取って欲しいわ。……言葉だとうまく言えなくて……だから……」


 おかあさんはそれだけ言って、俺にダンボール箱を手渡す。

 受け取るとずしりと重みを感じる。

 多分、野菜とか食材が入っている。……ま、まあ近いから大丈夫だけど。



 こうして、俺はおかあさんと遥に見送られた、実家を出たのであった。







 俺は夜道をダンボール箱を抱えて一人歩く。

 結構重たいが運べない重さではない。

 それにしても、遥……、まさかあそこまで成績が悪かったとは。

 まああの速度でテスト前までしっかり勉強すれば平均点は確実に取れるだろう。


 やっぱり、俺達は家族なんだな。

 どこかおかあさんと遥は他人だと思っていたのかも知れない。

 俺の見えない壁があって、それを感じて、俺に間違った接し方をしていたのかもな。


 過去は過去だ。

 いまは……、ちゃんと家族として向きあう事ができる。ああ、そうだ、お父さんにも連絡をしておかなきゃ。……おかあさんと遥と一緒に夕飯食べたよって。

 全部を急に変える事なんて出来ない。俺とあんりが少しずつ仲良くなったように……。


 そんな事を考えていたら、電話がプルプルと震えた。

 俺に着信があるなんて珍しい……、あっ、あんりからの電話か?


 俺はダンボールを小脇に抱え、スマホを見る。あんりからだ。

 なんだか電話だと少しドキドキする。


 俺は緊張しながら電話に出た。


『も、もしもし――』

『あー、真君? ふぅ……、緊張しちゃったよ! で、電話なんて誰ともしたことなかったから……』

『ああ、俺も出る時緊張した……。それに、電話だと意外と声が近く感じるんだな』

『うん、そうだね……。実家大丈夫だった?』

『……カレー、食べたよ』

『え? 本当! じゃあご家族さんとも……』


 俺は歩きながらあんりと電話で話す。

 小脇に抱えているダンボールの重さを忘れるくらい浮かれているんだろう。

 心が弾む。優しい気持ちになれる。


『でね、テスト明けに新作を投稿しようと思ってね。……投稿する前に真君に見てほしくて』

『あっ、今日は前に出版した作品の……続刊が決まって、それについて家族会議で――』

『あわわ!? ま、真君、喜びすぎだよ!? だ、大丈夫、お外でしょ?』

『うふふ、そうだよね。誰も信じられなかった二人が出会うなんて不思議だよね――』

『え? は、遥さん大丈夫? い、いまから赤点回避……。わ、私も勉強教えようか?』

『そ、そう、そんなに物覚えがいいんだ……。え、興味無いことはすぐに忘れる? ふふ、変な妹さんね』

『はぁ……やっぱり真君は優しいね――』


 普通に歩けば十分。俺はそんな道のりをゆっくりと三十分かけて歩く。

 ダンボールの重さが苦にもならない。


『……じゃ、じゃあまた明日ね。明日の放課後は一緒にいようね――』

『ああ、新作、楽しみにしてる。――また明日』


 どちらからともなく電話を切ると、すでに俺の祖父の家の前に着いていた。

 

 俺は電話の余韻に浸りながら、ダンボールを開けて中に入っている野菜やお米を整理する。

 


……そこには手紙が入っていた。筆跡からおかあさんだ。


 俺はそれを読みながらコーヒーを淹れ始めた。

 綺麗な字体なのに、どこか線が歪んでいた。何度も消して書いた跡が見える。滲んでいる箇所もあった。

 言葉では伝えられない感情。この手紙には確かにおかあさんの心が込められていた。


 俺は軽く息を吐き、タブレットを起動させる。


 俺は初めて手紙と言うものを書いてみた。それは執筆と似て非なるものであった。自分の感情を手紙に乗せて、俺は書き続けた――




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