おうち


「あれだよね、田中さんと山田君っていい感じだね」

「そうなのか? あの鈍い山田が?」

「そういうものなの! もう、真君だって鈍いでしょ?」

「お、俺はそんな事はないはず……だ。え、えっと……そう言えば田中さんはテツロウが好きなんだな」

「ねっ! カバンにテツロウキーホルダーがついてたしね」


 下校中、やはりあんりと二人でいると話が止まらない。

 もちろん話さない時間もある。だけど決して気まずい沈黙ではない。

 穏やかな空気が流れて、俺はとても好きな時間だ。

 夕飯を家で一緒に食べた後とか、うちからあんりの家まで見送る時とかは緩やかな時が流れる――


「ふんふん、じゃあ今日は実家に行くんだね。……真君、何かあったらすぐに連絡してね」

「はは、荷物を取りに行くだけだ。……若干気まずいだけだから問題ないだろ」


 俺はあんりの家の前まで見送りをしていた。

 もう玄関先だけど、お互いまだ話足りないのか、立ち話をしている。

 そういえば、最近はずっとあんりと一緒だ。あんりと一緒に過ごさない放課後なんて珍しい。


「突然帰ったらびっくりするからちゃんと連絡しなきゃ駄目よ。あっ、そ、そうだ。よ、夜に電話しても……いいかな?」


 お義母さんには一応メッセージで連絡してある。

『わかりました。待ってます』とだけ返事があった。その文面からはなんとも感情を読み取れなかった。


「で、電話か……、そ、そう言えば電話で話した事はなかったな。……よし、今日は必ず電話する。何時頃が――」


 俺たちは夜に電話の約束を交わして、あんりはようやく自分の家に入っていった。

 俺は扉が閉まるまで見守る。


「よし――」


 俺は小さく気合を入れた。そうでもしないと実家に帰れる気がしなかったからだ。

 ……一旦、祖父の家に帰ってカバンを置いて、ディスティニーで買ったあれを――


 俺は早歩きで行動に移した。







 実家の玄関先に俺は立っている。

 こういう場合インターホンを押したほうがいいのか迷っている。

 ……最後に見たお義母さんは泣いている姿だったからな。


 どんな顔をして会えばいいかわからない。

 ……うん、家の鍵はあるから普通に入ってみよう。


 俺は玄関の扉を開けた――


「……ただいま」


 ……何も反応がなかった。

 靴を見ると遥はすでに帰宅しているようだ。

 俺が出ていった時と変わらない玄関先。それもそうだ。まだそんなに時間が経っていないんだから。


 返事が無いことに訝しみながら俺は靴を脱いで上がろうとした。

 もしかしたらお義母さんは俺に会いたくないのかもしれない。

 ……荷物を取って早く出ていくか。

 俺の通帳や印鑑、保険証は居間の奥に保管されてある。

 あと、契約書には保護者の自署が必要であった。一応持ってきてはいるが、それはまた今度の機会でも――


 そう思っていたらなにやら居間から声が聞こえてきた。

 俺の身体は一瞬だけ硬直したけど……。

 胸に手を当てる。


 大丈夫、もう壁なんてなくなったんだから。

 俺は今の扉を開けると――


「ご、ごめんなさいーー!!」


 遥が何故か土下座してお母さんに謝っていたのであった。


 二人は俺が入ってきたのに気がつくと、なんとも言えない表情になった。

 決して嫌がっているわけではないが、非常に気まずい空気が流れ出した……。


 俺はどうしていいかわからず、手に持っていたディスティニーのお土産を前に出した。


「こ、これ、お土産です。食べて下さい――」




 ****************




「ま、真、お茶でいいかしら? ちょ、ちょっと座っていてね」

「え、ええ、お、お構いなく……」

「……いいのよ、もう敬語は……、で、でも真の好きにして頂戴……」

「は、はい……」


 とりあえず居間のソファーに座った。俺の前にいる義妹の遥が神妙な顔をしながらスマホを見ていた。なにやら高速でタイピングしている。気にしないようにしよう。


 居間の雰囲気は全然変わっていなかった。

 ローテーブルの上には前回の中間試験のテスト用紙があった……。きっと遥のモノだろう。

 俺は何気なくそれを手に取ると――


「あひっ!? お、おにい……、えっと、その……、み、見ないでくれると、う、嬉しいかも……」


 そうは言っても手に取ってしまった……。

 丁度そのタイミングでお義母さんがお茶を持ってきた。


「……あら、見ちゃったのね。はぁ、流石に私もどうしていいかわからなくて……」


 受け取ったお茶をすすりながら俺はこの状況を推測することができた。

 といっても、単純に遥の成績が驚くほど悪くて、打つ手がない、という状況であった。

 俺は手に持っている遥のテストを再度見る。

 思わず声が漏れ出していた。


「……これは、ひどい……。二桁が一科目しかないなんて……。期末で平均以上取らないと赤点確実だ。……夏休みは補習で終わる」


 お義母さんはそれが分かっているのか、ひどく疲れた顔をしていた。


「ええ……、留年も覚悟しないといけないわね……。あっ、ま、真、せ、せっかく来てくれたのに、暗い話でごめんなさい……」


「いえ、俺は必要なモノを取ったらすぐに出ていきます」


「……そ、う。ええ、わかったわ。ちょっと待ってて頂戴、すぐに持ってきてあげるわ」


 お義母さんは立ち上がって奥の部屋へと向かった。

 なんだか良い匂いがしてきた。

 これは……、懐かしい匂いだ。


 子供の頃は夕飯が毎日楽しみであった。

 お義母さんはキャリアウーマンだったけど、再婚を機に専業主婦になった。

 何にでも完璧を求めるお義母さんの料理はとても美味しいものであった。


 ……そんなお義母さんがたまに作る手抜き料理……。市販のルーを使ったシンプルなカレー。

 おれは、それが、大好きであった。

『お義母さん! おかわり!』『今日はテストで百点取ったんだ!』『お義母さん! マラソン大会で一位だよ!』――


 テストで百点を取ったり、運動会やマラソン、習字や作文コンクール。色々なイベントで一位を取ると、お義母さんは決まって俺に聞いてきた。

『夕飯は真の好きなものでいいわよ』『じゃああのカレーがいいな!』


 その日だけはいつも厳しいお義母さんが優しかった。だから俺は頑張って一位を目指していたんだ。


 ……そんな事も忘れていた。過去の記憶を心の奥にしまい込んでいた。

 宮崎の件、それに中学の時の騒動、お義母さんは婦人会で大変な目にあったと聞いた。

 あの日以来、俺は何もお願いをしなくなった。

 そして、お義母さんのご飯を食べても美味しさがわからなくなっていた。


 俺は頭を振った。

 心にどんよりとしたものに包まれそうになったが、何故か前に座っている遥が心配そうな顔をしていた。


「いやいや、遥の方がヤバいだろ? その点数はどうやったら取れるんだ……。全く、宮崎や斉藤さんは勉強を教えてくれないのか?」


「え? あ、な……」


 俺だってわからないんだ。だけど言葉が勝手に出てしまうんだ。

 だから、いまはいいだろ?


 遥は俺の方を見ないように下を向きながら答えてくれた。


「……あ、あの、静ちゃんとみゆちゃんは平均くらいだから私に教えられないって……、それに、奈々子と如月は成績いいけど、教えるのが下手で……」


 俺は時計を見た。まだ夕食前の時間帯だ。明日の投稿分はすでに書き終わっている。

 今日は恋愛小説の続きと、イラストレーター候補をまとめようと思っていた。


 だから、時間はある。時間はあるが――、ここまで踏み込んでいいのか? 俺はまた傷つけられるんじゃないのか? あの時みたいに――


 ……下を向いている義妹の遥の姿が嫌だった。悪さして怒られて、泣いている子供の頃の遥の姿を重なってしまう。


 だから――


「――夕飯まで時間があるだろ? ……勉強……少しなら……。……全教科の教科書とノート、筆記用具を持ってきな」


 遥は顔を上げた。驚きと困惑の顔であった。

 だが、口が固く結ばれていた。目には何故か知性を宿していた。

 あっ、この顔は見たことがある。集中できる時の遥だ。


 遥は何度もコクコクと頷いて、自分の部屋までドタバタと走っていった。


 お義母さんが俺の貴重品を小さな箱に入れて持ってきた。


「あら、遥はどうしたの? ……真、これで全部よ。あとは必要なものはない?」


「……うん、ちょっと今日は遥の勉強を見てあげるから……、ゆ、夕飯を食べてもいい?」


 お義母さんは箱を落としそうになった。

 だけど、必死で箱を抱きしめて、嗚咽をこらえていた。


「え、ええ、ええ、もちろんよ……、た、食べたくなったらいつでも、言ってね……」


 俺は自分で言っておきながら、なんだか恥ずかしくて、遥の答案用紙に目を落とした。

 ……不思議な気持ちが俺の心に広がった。

 過去を忘れる事なんてできない。だけど、過去と向き合いながら進む事はできるんだ――


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