変わる朝


「あらあら、真くん〜、おはよう〜。あんりちゃんはお寝坊したからちょっと待っててね〜」


「お、おはようございます。は、はい、わかりました」


「ん、もう、敬語なんてやめて頂戴よ〜。未来の息子ちゃんなんだからね〜!」


「い、いや……」


 昨日の夜、遥たちを見送ったあと、俺はあんりの家にお呼ばれをした。

 豪勢な料理を作って待っててくれたあんりのお母さん。それに冴子さんも飲んだくれて待っててくれた。

 お母さんがあんりの子供の頃の写真を持ってきたり、冴子さんの愚痴を聞いたり、美味しい料理に舌鼓したり――、途中でお父さんがオンラインで参加したり……あれには本当にまいった。あんりのお父さんはまるで映画俳優みたいにダンディーでカッコよかった。


 あんりが優しい子に育った理由がよく分かる。

 温かい家庭っていうのはこういう事なんだな……、そう思えた。


 あんりの家を出て、一人で祖父の家に戻ると、少し寂しい気持ちになった。

 こんな事感じたことなかった。一人が普通であった。

 いまは違う。一人よりも……二人でいた方が心が落ち着く。あんりといると落ち着く。それが普通になっているんだ。


 だけど、昨日は一人で良かった。心の整理が付く。


 俺は一晩中、あんりに語った過去について考えていた。

 時折、あんりとの距離感を思い出してしまって身悶えしていたが……、まあ、忘れよう……。





 お母さんはにこにこしながら俺に喋りかけてくる。本当に若く見えて冴子さんのお姉さんと言っても問題ないだろう。


「それでね、あんりちゃんったらあの後、真君の話ばかりしてね――、あっ、冴子ちゃん? 今日は早いわね?」


「……うん、昨日は寝落ちしちゃってぐっすりだったからね。ふわぁ、新作の部数決めがあるから今日は営業と会議あるし。あっ、にゃん太先生おはよう〜」


 相変わらずゆるい空気の冴子さんである。

 だけど仕事には勤勉であるようだ。


「おはようございます。あっ、スーツに虫が付いてますよ……」


「……えっ、あ、ど、どこ? と、取って!?」


 俺は冴子さんの肩に付いたてんとう虫を取って逃してあげる。


「あっ!? お、お姉ちゃん!? な、なにしてるの!?」


 あんりがほっぺたと膨らませて冴子さんの腕を掴む。

 ……なるほど、後ろから見たら俺が冴子さんの肩を抱き寄せているように見えなくもない。

 冴子さんは振り返って意地悪そうな表情であんりを見た。


「あちゃー、変なところ見られちゃったよ! ふふふっ、にゃん太先生は私の大人な魅力にメロメロだから――」


「いや、それはない」「むむぅ……、そ、そんな事ないもん! そりゃお姉ちゃんは綺麗だけど……」


 俺はそんな光景を見るだけで微笑ましく感じる。


「――冴子さんも綺麗だけど、あんりだってすごく可愛い……。虫を取っただけだからさ。あんり、学校行こう」


「な、な、な、そ、そんな爽やかな笑顔で言われたら……、くっ、こっちが恥ずかしくなっって来たよ!?」


「えへへ、うん! 真君、一緒に学校行こ!」


「あらあら、行ってらっしゃい〜! 気を付けてね〜」


 俺たちはお母さんと冴子さんに見送られて、学校へと向かう事にした。







 教室に着き、俺たちは自分の席に座る。

 いつもどおりの日常。だけど、それはかけがえのない日常なんだ。


 あんりは席に着くなり、俺に小声で聞いてきた。

 ここは学校だからヤンキー口調になっていた。


「なあなあ、昨日は色々あって聞けなかったっけどさ、あれってどこまで進んだんだ?」


 あんりは本をポンポン叩きながら俺に聞いてきた。

 きっと書籍化の話だろう。俺は少しあんりに近づき、小声で答える。


「ああ、WEB版の区切りを決める事ができた……大体予想と同じだったから昨日の夜に、ワードに変換して加筆した一巻分の原稿を送った。後はイラストレーターの候補が送られてきた……」


 冴子さんと話し合った結果、俺の作品はあまり内容を変更せず、所どころ加筆と修正をする方針に決まった。それ以前に書籍化が決まった時から、更新の合間にワードに変換して可能な限り修正を自分でしていたんだ。


「だからか……、お姉ちゃんが驚いてたぞ……。『真君、仕事早すぎるよ!?』って。ま、まあいいんじゃね? ていうか、校正大変だと思うけどイラストレーターは楽しみだな」


 あんりも小声で答える。周りにはクラスメイトはいないけど、聞かれていたら面倒だからだ。


「……俺は絵に関しては詳しくない。……一緒に見てくれないか?」

「もちろん!」


 俺たちはそれだけ話すと、各々が好きな本を読み始めた。

 そういえば、あんりも書き溜めしているんだよな。……完成したら俺に見せてくれるって言ってたな。……楽しみだ。


 あんりの上機嫌な鼻歌が聞こえてきた。チラリと見るとスマホで俺の最新話を読んでいる。

 そろそろ教室も暑くなってきた。夏が近い。もうすぐ期末テストだ。

 ……テストは見直すだけでどうにでもなる。夏休みか……。



 いままでの夏休みは苦痛なだけであった。

 小学校の宮崎との事件以来、家族の関係はぎくしゃくしていた。

 図書館に通いつめ、宿題早く終わらせ、閉館までずっと本を読む。

 そんな毎日を送っていた。

 夏の家族旅行も中学の時から断り続けていた。


 俺が行くと空気が悪くなる――


 軽く深呼吸をする。

 昔の事を思い出すのはよくあることだ。

 過去の事を思い出すと、いつも負の感情に囚われていたが、今日はいつもと違う。

 過去を過去として見れる。前向きに考える事ができる。


 俺は傷つけられたと思っていたが……、いや、実際に心が壊れていた。

 だけど、それを理由に俺は冷たい言葉で幼馴染を義妹を同級生を傷つけた。


 感情的には理解できる。だけど、人を傷つけていい理由なんてあっちゃいけないんだ。


 義妹たちは俺に歩み寄ろうとした。壊れていた俺には許容できなかったんだ。

 如月さんなんか、俺は大勢の生徒の前で恥をかかせた。義妹だって幼馴染だって泣きじゃくっていた。


 俺は胸に手を当てる――

 うん、もう壁はない。



 教室の外の廊下からバタバタとした足音が聞こえてきた。


「みゆちゃーん!! 大変、大変!! 奈々子がうんこ踏んじゃって泣きながら帰っちゃったよ!? 如月も奈々子と一緒に帰っちゃうし……。みゆちゃんどうにかして!!」


「え、ええ!? ど、どうにかって……」


 あんりが俺の肘を突く。遥を見てクスッと笑っていた。遥は昨日の事がなかったかのように元気な様子である。

 ……まあ、あいつは少しおバカだからな。……まて、遥は如月とも親交を深めているのか……、そう言えば如月の悪い噂が聞こえてこない。……もしかして遥が食い止めているのか?


 斉藤さんはテンパりながら説明している遥を見て困っていた。

 周りにいた生徒はうんこ、うんこと叫ぶ遥に少し引き気味であった。


 遥は、はっとした顔になって声を小さくする。

 俺の方を意識して見ようとしなかった。……あれは俺も知っている、意識して人を見ない。そうすれば誰も傷つかない。

 俺もそう思っていた――


 だけど――


 俺は席から立ち上がった。あんりが小さく声をかけてくれた。


「ん、行ってらっしゃい――」


 何故だろう、あんりから言葉をもらうと本当に心から素直になれる。


 少し教室がざわついているのがわかる。

 俺が席を立って移動するなんて珍しいからな。

 だけど、しっかりと前を向かなきゃな。あんりにカッコいい所をたくさん見せなきゃ。

 いつも泣いてばかりではいられない。泣かせてばかりでは駄目だ――


 斉藤さんも遥も俺が立ち上がっていることに驚いていた。

 斉藤さんは俺を見守るような目で見つめる。そうだよな、根は優しい子だったんだ。

 昔みたいな雰囲気を身にまとっている。


 遥はおどおどして俺と目を合わせられなかった。

 過去の自分の言葉に罪を感じているんだろう。それが遥を縛っている。


「遥――」


 俺が名前を呼ぶと、遥は身体をビクッとさせた。

 顔がわしゃわしゃになって、動けないでいた。後悔と罪悪感が遥の心に刻み込まれている。

 それでも、遥は俺に呼ばれて顔をあげようとした。


「おに……」


「遥、おはよう。それに斉藤さんもおはよう。……斉藤さん、騒がしい妹だけど、よろしいくたのむ」


「え……」「いもうとっ……」


 俺は昔みたいに遥の頭を触れた。なんだか懐かしい気分になる。

 俺の心はフラットだ。負の感情へのゆらぎはない。

 だから大丈夫だ。特別仲良くなる必要はない。普通に接する事ができるようにするだけだ。


 少しずつ日常を取り戻して行くんだ――


 遥は俺に触られた頭を自分の手で触る。

 顔が真っ赤になって、斉藤さんの後ろに隠れて俺を見つめていた。

 泣きそうになるのをこらえる顔は昨日と全く同じだったけど、身体は震えていない。


 俺は最後に笑顔でその場を去ろうとした。

 偽物の笑顔じゃない。自然と出た笑顔であった。


「はうっ!? ……あわわ……あわわ……」

「ちょ、ちょっと遥!? は、鼻水付けないで!?」


「え、ヤバくない?」

「……超キレイ」

「遥ちゃんも可愛いね」

「そっか、兄妹だったんだ」

「ていうか、新庄イケメン度アップしてね?」

「嫉妬する気が起きないほどにな」

「はぁ……」


 俺が動くと何故か静かになる教室を歩き、俺はあんりの隣へと座る。

 あんりが少し口を尖らせて小さな声で俺に言った。


「……むぅ、ずるいよ。あんな笑顔……」

「あんりがいたから出来たんだよ」


 俺がそう言うとあんりは恥ずかしがって自分のスマホに視線を落とすのであった――



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