癒やす

 

 放課後になると、俺とあんりは早々と学校を出る。

 誰かに捕まるのが面倒だからだ。

 あんりはヤンキーの格好をしているけど、男子の視線を集めてしまう容姿だ。


 ……少しだけ変な気持ちになる。胸の奥がモヤっとする感覚だ。


「あん? どうした新庄? 早く行こうぜ!」


 俺は息を吐いて気持ちを切り替える。


「ああ、早く執筆したいな」


 明日の更新分は書き終わっているが、今日はまた恋愛小説に挑戦したいと思っている。あのディスティニーの時に感じた――あんりに対する気持ち。


 ――人として愛おしいと思った。……今もそう思っている。大丈夫、これは恋とかの類じゃない。友達以上の気持ちを持っただけだ。そうじゃないと、きっとあんりに迷惑がかかってしまう。


 また、胸の奥がもやっとした感覚に襲われてた。

 さっきとは違う感覚。自分を騙しているみたいだ。


 俺に笑顔を向けるあんりは……やっぱり可愛らしかった。


「なんだよ、ぼうっとしてんな? パグ子の事が心配なのか? 勉強ならどうにかなるだろ?」


「そうだ、な。きっと心配しているんだろうな……」


 あまり考えない方がいいか。

 席を立ちながら教室を見渡すと、帰り支度をしている斉藤さんと目が合ってしまった。

 斉藤さんは入学当初に比べて随分と印象が変わった。――というか、戻ったと言っていいだろう。

 クラスのリア充男子に人気なのは変わらないが、最近は違う地味系の男子グループとも普通に話しているのを見かける。


「みゆちゃん、今日はカラオケ行かないの〜」

「俺っち練習したんだぜ!」


 斉藤さんは俺から視線を切って、男子に首を振った。


「みゆは今日は他のクラスの友達と本屋に行くの。ごめんね――」


 言葉の軽さが以前よりも感じられなくなっていた。男子たちは「あっちゃー!」「仕方ねえって!」「ていうか、斉藤さん可愛くなったよな……」と言いながら教室を出ていった。

 斉藤さんは俺に穏やかな笑顔を向けて……目を閉じてお辞儀をした。

 何故かわからないけど、感謝の念が感じられた。

 遠くからでもわかる。

 ゆっくりと顔を上げて、小さく口を動かしていた。

 柔らかい笑顔のまま教室を出ていった。


 ――幸せに? そう言っていたように聞こえた。本当はどうだかわからない。

 だけど、何故か耳にその言葉が残った。


「新庄っ、は、早く行こうぜ」


 あんりはほっぺたを膨らませて、俺の袖を掴んだ。

 なんだかそんな姿がとても愛らしかった。


「な、何笑ってんだよ!」

「笑ってない、気のせいだ。ほら、行くぞ?」

「むぅ……」


 斉藤さんのあの笑顔は中学の頃の図書室を思い出してしまう。

 ……嫌な思い出だけだけど、あの時、斉藤さんと一緒にいた時間は確かにあった。


 大丈夫――あんりのおかげで心の傷は開かない。

 もう過去は振り返らない。鋼の意志で俺はあの頃を過ごしたんだ。


 幸せにか……。俺は幸せになっていいのだろうか? 






 学校を出て、家までの道のりをあんりと二人で歩く。

 周りに生徒がいないからあんりの口調は普段どおりに戻っていた。


「さ、斉藤さんって真君と昔は仲良かったんでしょ? ……き、綺麗な人だよね? 良い人そうだし……」


「良い人……、か。そうだったのかも知れない」


「……な、仲直りしなくていいの? あんな事があったけど……お友達だったんでしょ?」


 言葉ではなんと説明していいかわからない。だけど、斉藤さんと昔みたいに友達になる事はない。さっきのあれは……何かのけじめをつけているようであった。俺とは関わらない、という意思を感じた。


「あんり――」


 言葉だけでは説明出来ない。不安そうな顔のあんりを見たくない。

 俺はあんりの手を握った。


「ま、真君!? ま、まだ生徒がいるって!?」


「俺にとって一番大切なのはあんりだけだ。二人でいる時が――心が落ち着く……。もちろんパグ子も大切な友達だ……言葉には出来ないが何か質が違う」


「真君……」


 あんりの手の力が強くなる。

 俺の言葉に答えてくれているようであった。


「私も真君といると心が落ち着くよ。へへ、なんか変なこと言っちゃってごめんね。うん、おうちで執筆しよ!」


「ああ、不安にさせて悪かったな。あんりは意外と心配性なんだな」


「も、もうっ! そ、そんな事ないもん! ま、真君はかっこいいから……」


「いやいや、あんりがそれを言うか」





 ちょうど住宅街に入るところであった。

 見知らぬ男子生徒が前から歩いてきた。

 大きな身体をしている彼は……どこかで見たことがある。


 あんりが声を漏らした。


「あっ」


 大柄な生徒は俺たちを見ながら歩いている。

 俺は訝しんだ。

 無意識の内にあんりを守るような体勢になっていた。


 大柄な生徒は俺の行動を見て何故か微笑んでいた。何故だ?


 彼は軽く会釈をしてそのまま通り過ぎ去った――


 なんとも言えない優しい雰囲気であった。彼は何者なんだ?




 あんりの足が止まっていた。

 目を閉じて何かを考えている。

 あんりの知り合いなのかも知れない。あんりと昔何かあったのかも知れない。

 だけど、俺が踏み込んでいいのか? いや、過去の事は詮索しない方がいい。


 あんりは目を開けて、俺に言った


「真君……、私……」


 無理をすることはない。昔を思い出して傷を広げる必要はない。

 俺にできることは――ただそばにいて、傷をゆっくりと癒せればいい。


「あんり、無理をするな――」


 あんりは静かに頷いた。

 俺たちはお祖父ちゃんの家に向かうことにした。







 お祖父ちゃんの家に静寂が広がる。

 いや、俺とあんりのキーボードの音だけが広がる。

 心地よい空間であった、はずだ。


 だけど、俺はキーボードを打つ手をしばしば止めていた。

 俺はさっきの彼の事が気になっているのか? あんりとどんな関係にあったのか? 

 あんりの中学時代に何があったのか? 


 気にしないようにしても、心が乱れる。

 心地よい空間なのに、俺は自分の気持ちに戸惑っていた。


「あ、真君、コーヒー入れるね!」


「あ、ああ、お願いする」


 あんりが席を立って、台所でコーヒーを入れる準備をする。

 俺はその後ろ姿を見て――キーボードを打つ手を完全に止めてしまった。





 あんりはコーヒーを入れながら独り言のように喋り始めた。


「私ね……、子供の頃から男性が怖かったの。……自分勝手で、馬鹿騒ぎするし……、よく茶化されてたしね……」


「あんり?」


 コーヒーの香りが漂ってきた。


「それでね、幼馴染がいたんだ。さっきの彼なんだけど……、二階堂にかいどう君って言って、いつも私にちょっかいをかけてきてね。あっ、別にいじめとかじゃないよ。――私的にはちょっと粗暴な彼の事が苦手だったんだ」


 あんりはコーヒーをお盆に乗せてテーブルへ持ってきた。

 俺の前にコーヒーを置く。俺は黙ってあんりの話を聞く事にした。


「はい、熱いから気をつけてね。……子供の頃はまだ良かったんだけど。中学になっても二階堂君は頻繁に喋りかけてきてね。怖かったけど、そんなに悪い人じゃないし。まあいっか、って思っていたんだ。――でもね、クラスの女子はそうじゃなかったの。……二階堂君には婚約者というか彼女がいたんだ。それなのに私に喋りかけてくるでしょ? だから、だから……わた、し、クラスの女子に……」


 あんりの口調は落ち着いていた。それでも、昔のことを思い出すのか、息を吸いながら話す。話す内容とは裏腹に、非常に穏やかな顔であった。


「あんり、もうそれ以上は――」


 あんりは首を振った。ミルクコーヒーが入ったカップを優しく見つめる。


「ううん、真君には聞いて欲しいんだ。――それでね、女子って陰湿なんだよ? 二階堂君から見たら私とクラスの女子は仲良しだと思っていたんだ。実際はそんな事なかったのにね。だから、私……、彼に向かってもう関わらないで、って拒絶したんだよ。それっきり彼とは話していないし、桃ちゃんの件もあったからね。うん、それだけの話。真君みたいに冤罪にかけられたわけじゃないし、すごく辛い目にあったわけじゃないよ……」


 俺は黙って聞く事しか出来ないのか?

 俺に何ができる?

 なんでそんなに穏やかな瞳で俺を見つめるんだ。


 あんりは俺に手を見せてくれた。


「ほら、触ってみて……」


 俺は恐る恐る手を重ねる。

 温かいあんりの手。


「ねえ、震えてないでしょ? ……昔の事を思い出すと、身体が震えていたんだ。……執筆してる時は忘れられたの。……真君とフードコートにいた時は忘れられたの。でもね、一人の時、ふと思い出して身体が震えていたんだ……」



 あんりは俺から手を離して立ち上がった。

 俺は自分の無力さに打ちのめされる――


 背中に温かい感触が広がった。甘い匂いが鼻孔をくすぐる。

 あんりは後ろから、俺の肩に顔を置いた。男性が怖いなら――


「ふふっ、真君は全然怖くないよ。不器用なのに初めて会った時からすごく優しくて……」


「あんり、俺は――」


「あの日、花火の時、真君に抱きついたら――、震えが全くなくなったんだよ? 一人でいても怖くない。二階堂君とすれ違った時に確信したんだ。何も感じなかったんだよ。姿を見かけただけで昔の事を思い出しちゃうのに……。――私、心が癒えているんだって感じたんだ――すごいよ、真君は……」


 あんりの手が俺の胸を優しく包み込む。

 すごく落ち着く……。なのに……涙が出てきそうだ。

 なんでだ? 俺があんりを慰めるんじゃないのか? 俺があんりを元気づけるんだろ? なんで、俺が――いつの間にか――慰められているんだ?

 俺だって、あんりに抱きしめられて心が癒えたはずなんだ――


「真君のおかげなんだよ。――ありがとう。私は真君のそばにずっといる。うん、これから料理の勉強だってするし、お掃除もするの。一緒にパンケーキ食べて執筆して、作家さんになるんだよ? いつも私がもらってばかりだね。あっ、そうだ、海にも行きたいね! ――だから」


 だから? なんだ? 俺の顔がぐしゃぐしゃなのはなんでだ? 

 あんりと出会えて心が穏やかになったんだ。

 もう俺は大丈夫なはずだろ? 俺の心は全部壊れていなかったんだ。空虚なんかじゃないって分かったんだ。それだけで十分だろ?





「今度は私が真君の傷を癒やす番だよ――」




 あんりは俺を更に強く抱きしめた。

 今まで我慢したわけじゃない。あんりと一緒にいて幸せだと思えた。傷だって癒えたと思っていた。

 なのに――なんで――俺は――




「傷が癒えるまで何度だって抱きしめるからね――」




 心の線が切れた音がした。

 今まで我慢した事が吹き出した――


 ――みんなでサッカーをしたかった。遠足がすごく楽しみだった。一人ぼっちは寂しかった。裏切られても、もしかしたらって思っていた。話しかけてくれるだけで本当は嬉しかった。修学旅行に行きたかった。お義母さんと義妹と一緒にご飯を食べに行きたかった。馬鹿な義妹が可愛かった。卒業式はもしかしたら祝ってもらえると期待していた。――本当は誰かに抱きしめてもらいたかった。違う、こんなのは俺じゃない。俺は全部諦めた。どうでもいいと諦めた。生きるために壁を作った。鋼の意思で壁を作った。


 あんりに抱きしめられると――全部忘れられる。過去の事が頭から抜け落ちていく。


 声にならない何かが出ていた。


「――あんりの過去を知ったら壊れそうな自分が――怖かった。……自分勝手な自分が嫌いだった」


 俺が言葉を紡ぐたびにあんりは「うん、うん――」と言って頭を撫でてくれた。


「――もう、大丈夫、だと思っていた。過去なんて、関係ないって思っていた」


 そんな事は無かった。俺は過去を意識していたんだ。

 見ないようにしていたんだ。いつだって思い出していたんだ。


「真君は強すぎるんだよ。心も身体も……。だって私みたいに味方がいなかったんだよ? ……吹っ切れたように見えて、傷が私よりも深かったんだよ」


「あ、んり……、俺は駄目な男だな。……友達なんていなかったからあんりとの距離感がわからない」


「もう、真君は真面目すぎるよ。……そんなの、私達の距離感なんだから、どうだっていいの」


 あんりは自分のほっぺたを俺の顔に寄せる。

 柔らかい感触が心地よい。


「……これが私達の距離だよ」


 あんりの声が心を落ち着かせる。これが――癒やされているという事か……。

 包み込まれるような温かさが――俺の意識を遠くする。


 あんりは俺の頭を撫でた。

 まるで子供を寝かしつけるようであった。


 あんりの声が遠くから聞こえる――


「真君――このまま――寝ちゃって――私の――な――――人」











 意識が覚醒する――

 寝ぼけた目で時計を確認すると、十分くらいしか経っていなかった。

 もっと寝ていたかと思っていた。すごく身体と気持ちが楽になった。


 後ろから声をかけられた――あんりはまだ俺を抱きしめていた。


「おはよう、真君。――これから毎日抱きしめるからね。こ、心の治療だからね!」


 俺はあんりの腕を優しくほどいて、立ち上がる。

 あんりは小さく「あっ……」と呟いていた。


 俺はあんりと向き合って――自分からあんりを抱きしめた。

 小さな身体が俺の腕の中にすっぽりと入り込む。




「――まだ俺から抱きしめてないだろ? これでおあいこだ」


「……う、うん」


 緊張と安らぎが心を支配する。

 不思議な感覚だ。


 一つだけ分かった事がある。

 どうやら、俺にとって――あんりは世界で一番、愛している人なんだろう。

 この前とは意味が違う。

 ずっとそばにいたい――異性として大好きな人だ。あんりに恋をしているんだ。


「ど、どうしたの? 真君?」


「いや、なんでもない。……なんだか恋愛小説がかけそうな気分だ」


 そんな想いを胸に秘めて、俺の腕の中で微笑んでいるあんりを抱きしめた――





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