お義母さん
「ただいま帰りました――」
俺は篠塚と冴子さんに見送られて家へ帰宅した。
篠塚と俺は、お互い照れ臭さを隠しながら帰り道を歩いていた。
冴子さんは何も言わない。疲れているのもあったけど、俺達を静かに見守ってくれていた。
二人と別れて玄関を開けると、そこにはお義母さんが立っていた。
お義母さんはすでに苦い顔をしている。
「お帰りなさい……、真、なんで私には言ってくれなかったの……」
書籍化の話だとすぐに分かった。
俺はいつも通り偽りの笑顔でやり過ごそうとした、が――
笑顔がうまく張り付かない。
どうしても無表情になってしまう。
「……すみません、報告が遅れました」
お義母さんはその言葉を聞いて、拳を強く握る。
真っ白な手が赤くなっていた。
「え、ええ、おめでたい事だからいいのよ。……真は子供の頃から漫画やアニメが好きだったからね。……ライトノベルだっけ? お義母さんはよくわからないけど……怪しい出版社ではないのね?」
テレビはリビングにしか無かった。確かに子供の頃、俺はアニメが好きだった。
『お兄ちゃんだからそんなものいつまでも見てないで、勉強しなさい』
『また、漫画買ったの? ふぅ、お小遣いを無駄遣いしないで』
『そんなもの見てるなら遥の面倒見て』
学校の図書室が俺の居場所だった。区内の図書館が俺に居場所だった。
斉藤さんの事件があった後でさえ、俺は図書室に入り浸った。そこしか俺の居場所は無かった。
幸い、斉藤さんは友達ができて、俺の存在なんて忘れて図書室に来ることは無かった。
だから、俺は――家でテレビを見ていない、漫画も見ていない。
あの高校に入ったのだって、区内で一番図書室が充実している。
それだけが理由だった。
お義母さんに悪気が無いのは分かっている。
俺が……この家で漫画やアニメを一切見てないのを知っているはずだ。
お義母さんは俺に興味が無い。子供の頃から義妹だけを見守っていた。
「……なるべく迷惑はかけません。……しっかり勉強して良い成績を修めます」
でも、俺は決めたんだ。
書籍化をするって――
「だから、俺の唯一のわがままを聞いて下さい。良い大学でも、良い就職先でも、お義母さんの希望のところに行きます。……書籍化だけは……絶対」
俺は意思を込めた目でお義母さんを見つめた。
偽物の笑顔なんてもういらない。信じられるかわからなけど、俺は前に進むと決めたから。
お義母さんは何故かショックを受けた顔をしていた。
「わ、私は……そんな……。あなたのためを思って……」
それは俺のためじゃない。世間から見えるお義母さんのためだ。
「そ、そうだ! お、お祝いしましょう! ね、お義母さんと遥と一緒にご飯食べに行きましょ?」
「結構です」
「なんで……、どうして……、は、遥も喜ぶわよ? そこで改めて詳しい話を聞かせて? ……それに……なんでお義母さんじゃなかったの? ……なんでお父さんを頼ったの?」
お義母さんは自分が一番大切なんだろう。……義妹もそれが分かって馬鹿なふりをしている。……本当に馬鹿な時もあるけど。
流す事は簡単だ。だけど、それじゃあ前に進まない。
俺は正直に言った
「俺を信じてくれなかったお義母さんに言っても、書籍化の話を無しにされると思ったからだ。絶対、理解してくれないと思った」
お義母さんはふらついて後退った。
顔面が蒼白であった。
よく見ると、白髪が最近増えてきた。
「そ、そんな――」
「そんな事ある。俺は昔から『お兄ちゃんだから――』『迷惑かけないで――』『他のママさんに馬鹿にされる――』と言われてきた。それに、俺が事件を起こしても、信じてくれようとしなかった。自分の事を信じてくれない人を信じられるわけない」
「……そ、それはあなたが事件を起こして……。決して信じていなかったわけじゃないわ! わ、私の躾がいけないと思ったのよ……、だから――」
「ああ、それは信じていなかっただけだろ? ……お義母さん、自分の思い通りに行かなかっただけだ」
俺は身体を震わせているお義母さんを見つめる。
「悪いが、俺の心は壊れているみたいだ。……別にお義母さんのせいじゃない。ただ……、誰も信じてくれなかっただけだ」
「……ま、こと……」
お義母さんは力ない声を発した。
視線は俺を見ていない。昔の俺を見ているのかも知れない。
俺は少しでも自分を取り繕うために、敬語を武装した。
「……すみません、言いたいことばかり言ってしまって。……もし、俺が邪魔でしたら、この家をすぐに出ていきます――」
お義母さんが昔、俺に言った言葉。
『そんなに迷惑かけるなら出ていきなさい! うちの子じゃありません!』
もう忘れていると思う。だが、子供の頃の言葉は心に棘が刺さって抜けない。
それが、腐敗していって、言葉に縛られてしまう。
お義母さんは嗚咽を抑えながら首を横に振る。
「まこ、と、ごめんなさい……、まこと、ごめんなさい……」
何度も、何度も、俺の名前を呼んで……謝る。
だけど、俺はそれを聞いても心に何も感じない。
……お義母さんは俺を立派に育ててくれた。優しい時もあった。
けれども、お義母さんを信じる事ができない。俺の心が否定する。
俺は靴を脱いで、お義母さんの横を通り過ぎようとした。
階段からドタバタと音が聞こえた。
「まってーーーー!!! はぁはぁ、お兄ちゃん待って! 出て行くって……嫌だよ!? お兄ちゃんと離れるなんて嫌だよ!!」
義妹が泣きべそをかきながら現れた。
……大丈夫、何も感じない。
義妹は涙を必死に堪えて俺に言った。
「ひっく……、お兄ちゃ…、ひぐ……、出ていっちゃ……、離れたく……。――――ん、んんっ!」
義妹が自分のほっぺたをスパンッと叩いた。結構な強さであった。
顔が赤くなってきたが、その代わりに義妹の目つきが変わった。
「……おに……、真君、が、家を出たかったら、出てもいいと思うよ? わ、私達がいない方が、心が落ち着くなら……、ね、お母さん? ひぐっ……、お母さんは構いすぎなんだよ。私にも真君にも。……確か、亡くなったお祖父ちゃんの家があるもんね? たまに掃除に行くけど、あそこなら住めるよ? お父さんに聞いてみよ?」
義妹はお義母さんに言い聞かせるように優しい声で伝える。
「いや、いやよ……真は私の自慢の息子なのよ……、家を出てくなんて……」
「お母さん、信じなかった私達がいけないんだよ。……だから、待ってよ?」
お母さんは義妹の胸にすがりついた。
義妹はお義母さんの背中をさすりながら、俺を見て、ただ、頷いた。
「――お母さんは任せてね。……おに、真君は……誰にも邪魔されず自由に……いぎで……くだしゃ……い」
涙を堪えながら歯を食いしばっている。
そんな義妹の顔を見たのは初めてであった。
ひどく懐かしい記憶が蘇る。
お兄ちゃんお兄ちゃんと、嬉しそうに俺に駆け寄る遥。
俺の心には――何も感じない……。本当に何も感じないのか?
この懐かしい気持ちは?
だけど、俺はそれを心の奥に押し込めた。
――それは押し込めきれずに漏れ出していた。
俺は二人に近づく。
偽物の仮面はすでにない。自分がどんな顔をしているかわからない。
背中に感じた篠塚の優しいぬくもりを思い出した。
俺の身体が勝手に動く。
今にも泣き出しそうな義妹の頭を――俺は昔みたいに――撫でていた。
「ほえ……? お、に……真君?」
「――よくわからないけど、ありがとう」
言葉も勝手に出ていた。
義妹はきっと俺の事を思って、家を出る提案をしたんだろう。
心を押し殺しているのが伝わる。
微かにだが、俺の心に懐かしい記憶が蘇った。
偽物の笑顔をしていない俺の顔は、どうなっているかわからない。
きっと怖いと思う。
「……う、ん、笑顔で見送るから!! あははっ! あははっ!! ひ、ひひ……、ぐっ……」
義妹は涙なんて流していない。
ただ、俺に気持ちを押し殺した笑顔を見せてくれた。
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