第15話
あの遊園地デート以降、幻覚と幻聴に俺は悩まされるようになった。見覚えのない景色で、聞き覚えのない女性の声が、脳裏で響くのだ。その度に不快感に襲われて、時には堪えきれなくなって嘔吐したりもした。もしかしたら、どこかであの景色の場所と、この声の女性と会ったことがあるのかもしれない。そう思った日もあったが、それはいくら記憶の波を巡っても思い出すことは出来なかった。
蘭子はそんな俺に対して、献身的な姿勢を貫いていてくれた。度々幻覚や幻聴に悩まされる高校生男児など、高校生女児にとって不気味以外の何モノでもないはずなのだが、彼女曰く、
「好きなんだからしょうがない」
だそうだ。
本当、素晴らしい人と恋仲になれた。それがただ嬉しかった。幻覚幻聴に悩まされながら、蘭子の支えで、俺は辛うじて自我を保てていた。
今日もまた、俺は夢を見ていた。
随分と静かな街だった。住宅街。向こうにはたくさんの高層ビルが覗ける。いつか遊園地で見たような、近未来な世界の光景に思えた。それなのに、その街は静かだったのだ。天気は晴れだった。青と白。果ての見えない青空と、白い入道雲。夏を思わせる天気なのに、肌に伝う温度はそこまで暑くない。いつかいった、山中にある避暑地を思わせる快適な気候だった。ただなんでか、これが全て偽りなのではないかという疑問に、俺は駆られていた。
静かな街で、俺はしばらく一人で歩いた。踏み馴染みのあるアスファルトを、先日履き潰したスニーカーで歩いた。ひたすら歩いて、街の景観を冷めた視点から見つめていた。
雑木林が遠くに見えた。不思議な雑木林だった。夢に見るこの世界のこの街のことは一切見覚えがないのに、この雑木林だけには見覚えがあったのだ。
俺は雑木林に近寄った。高く聳えた木々の隙間から、風車が見えた。ところどころ塗装の剥げた風車だった。老朽化顕著な羽は、いくら風が吹いても回る見込みはないように見えた。
『正直に言えば、実は不安もあるにはあるんです』
誰かが言った。
『花畑が雑草まみれになっていなければいいな、と』
平坦な口調で言っていた。
俺は誰かの声に返事をすることなく、雑木林に向けて歩を進めた。その雑木林の目の前には、それからしばし歩いてたどり着いた。雑木林を巡るように伸びている道路を、俺は歩き出した。
向こうに、雑木林の分け目が見えた。俺はようやくこの世界からの脱出方法でも見つけたような気分で、歩調を速めた。
その時、隣から風が吹いた。目を開けることをためらうほど、強い風だった。
『遅かったですね』
どうやら俺は、誰かに駆けっこの競争を挑まれていたらしい。その誰かは、歩調を速めた俺を容赦なく全速力で走って追い抜いていったみたいだった。
雑木林の分け目に誰かが立っていた。俺を待っていた。
その女性の顔がようやく拝める。顔も知らない、名も知らない。声も。彼女の住む街も。ようやく知らない全てから解決される。彼女の顔を見て、解決される。本能的に俺はそう思っていた。
しかし、彼女の顔を拝む直前で、空を闊歩するような雲が俺の目の前に現れた。雲は俺の願いを叶えることなく、真っ白の虚無の世界に俺を導いた。
女性はもう姿一つ拝めなかった。
ふいに、肌に熱を感じた。傍で火が灯っていると錯覚するような熱さだった。
熱を感じる方に目を向けた。先ほどまでの街とは違った世界が眼前に広がっていた。
鼻腔をくすぐる灯油のような匂い。雷雲よりも分厚くどす黒い雲。そして、黄土色の砂漠。
呆然とする俺に、戦車が近寄ってきた。緑色の車体の、巨大な砲台を持った戦車だった。
戦車は、その砲台を俺に差し向けていた。
* * *
蘭子たっての希望で、俺達は学校が休みの今日、花畑に向かっていた。幻覚、幻聴に悩まされる精神的に病んだ俺に快復してもらいたい一心だったらしい。鉄骨ばかりの建築物を見るよりも、花を見たほうが心が落ち着くでしょう、とのことだった。
蘭子とは最寄り駅で合流した。それから俺達は電車にしばし揺られて、乗り換え駅で電車を降りて、ホーム内の喫茶店で軽い昼飯を取っていた。
少しずつ酷くなる幻覚、幻聴のせいで、俺は最近、慌しいというか、落ち着きの無い日々を送っていた。故に、こういう落ち着いた時間を酷く懐かしく感じていた。
サンドイッチを食べながら、向かいに座る蘭子をチラリと見ていた。彼女も、頼んだホットドッグを美味しそうに頬張っていた。途端、蘭子に対する罪悪感が胸中に広がった。迷惑ばかりかけているのだから、そういう気持ちを抱いても何らおかしくはないなと思った。
コーヒーを飲み終えると、二人分のお盆を持って、返却口へ俺は向かった。お盆を返して、外で待ってもらっていた蘭子と再会して、俺達は再び電車に揺られた。
目的地への最寄り駅には、それほど時間を要さずにたどり着いた。喧騒とするホームに降りて、スマホで地図を確認して、ホームを出て、蘭子と隣同士で目的地へと向かった。
そうして目的地へと向かう途中、俺は再び幻覚を見た。
蘭子の黒髪が、風になびいた。その途端、彼女の髪が亜麻色に見えたのだ。慌てて首を振ると、やはり彼女の髪が黒色であることを再確認させられた。
辟易とした気分を抱いていた。もうどれくらい、こんな意味のわからない幻覚、幻聴に悩まされているのだろう。ドラッグに手を出した経験は、これまで一切ありはしない。なのに、何で俺はこんな症状に悩まされなければならないのだ。
もしかすると、俺は死ぬまでこの症状に悩まなければならないのか。途方もない絶望感が俺を襲っていた。
そんな不安を覚えた俺の手を、蘭子はしっかりと握ってくれた。悩む時間が無駄であることを、おかげで思い出せた。
まもなく目的地にたどり着く頃合、目の前に雑木林が広がった。
蘭子曰く、あの雑木林の向こうに花畑があるらしい。かつて蘭子は、家族でかの花畑に足を運んだことがあるそうだ。渓流傍に咲いていたチューリップ畑が印象深かったそうだ。
雑木林の分け目に俺達はたどり着いた。そこから花畑のある公園に足を踏み入れた。
俺は感嘆の声をあげていた。
雑木林の分け目から進んだ先にあったイチョウの並木道に、心奪われていた。まだ夏のため、葉は緑一色であったが、黄色に染まる秋ごろにここに訪れると、多分もっと深い感動を得られるだろうと思った。
空を覗けないほど葉一色の並木道を歩いて、原っぱに出た。
蘭子の案内に促されて、俺達は駆け足で小高い丘を越えて、森に足を踏み入れた。
すっかりと蘭子も楽しんでくれているようで、俺も嬉しくなっていた。このまま、この穏やかな時間がずっと続けばいいのに。俺はそう思っていた。
しかし、幻覚が襲った。今の木々よりも数段高い木々が生えた光景。そして、偽りと感じる空が見えた気がした。
俺は頭を抑えた。蘭子が慌ててこちらを心配したが、俺は問題ないと手で制して先を急いだ。
頭が割れそうだった。蘭子に心配されながら、ズキズキと周期的に痛む頭を抑えて道を進んだ。
『颯太、あっちです』
誰かが言った。俺の脳内で言った。
一体、俺は今誰に手を引かれているのだろう。
わからなかった。
森を抜けた。その先で、俺は再び感嘆の声を上げていた。眼前には渓流傍に咲いた色とりどりのチューリップが広がっていた。キレイだと思った。
『キレイ……』
しかし、誰かの声が聞こえた後、俺は悶えることになった。今までで感じたことがないほど、ハンマーで頭を殴られたような痛みが何度も俺を襲った。
蘭子は取り乱した俺を心配するように抱きしめていた。嗚咽交じりだった。
視界がグルグルと回った。どうして俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。どうして今日ぐらい、この症状が治まってくれないのだ。
そんなことばかりを考えていた。
『生き物とは、無情ですね』
でも誰かの声は、俺の思いも願いも聞き入れず、自由勝手に声を紡いだ。俺に何度も痛みを与えてきたのだった。
『無情です。だって、寿命があるのですから』
声が鮮明になっていく。誰かの声が。何モノかの声が、鮮明になっていく。
俺は頭を抑えた。いっそ割ってしまいとも思った。それくらい、痛かった。目からは涙が溢れていた。
わからなかった。
この声の主のことが。
この声の主がいる世界のことが。
この声の主が、どうして俺を苦しめるのか。
わからなくて痛くて。
俺は悶えて泣き叫ぶことしか出来なかった。
『颯太、聞きたいことがあります』
――風が吹いた。
『今、あたしの胸の辺りがおかしいのです。この辺りの挙動が早くなって、脳内麻薬のような快楽にも似た感情が矢継ぎ早に押し寄せているのです』
尊い命を燃やすチューリップ達を揺らすほど、大きな風が吹いた。
『どうしたらいいのですか。あたしはどうしたらいいのですか』
……風が、運んできた。
『わかりません。ですが、受け入れることを拒否したいのです』
俺の知らない声の主のこと。
俺の知らない世界のこと。
この声の主が、今どんな気持ちを抱いているかってことを。
胸に抱いた得体の知れない感情に恐怖を抱いているってことを。
でも、心配する必要なんかない。恐れる必要なんてない。拒絶する必要なんかない。
だって、その感情は……。
『今君が抱いている感情。それは多分、喜びだよ』
俺が言った。記憶の渦で、知らない俺が誰かに向かってそう言った。
知らない俺が、誰かを慰めていた。
いいや。
いいや、違う。
俺は知っている。
この声の主を知っている。
たくさんの思い出を共有してきた。
戦車から助けてもらった。
ネズミから助けてもらった。
失意から救ってもらった。
この世界の歴史を教えてもらった。
猫を滅ぼした王国の末路を教えてもらった。
研究文献を書くAIロボットのことを教えてもらった。
図書館に連れて行ってもらった。
テニスコートに連れて行ってもらった。
花畑に連れて行ってもらった。
……知っている。
俺はこの声の主を知っている。
どこかで俺は、彼女と共に生きてきた。たくさんの想いを抱いた。恐怖。感動。慈愛。後悔。様々な想いに二人で悩んで、そして成長してきた。
誰と?
再び、強い風が吹いた。
チューリップ達が生き残るため、必死に耐えていた。茎をこれでもかと曲げながら、それでも子孫に意思を託すべく。託された命を紡ぐべく、その尊い命を燃やしていた。
俺は知っている。
あの声の主を知っている。
この光景も知っている。
どこかで俺は、似たような経験をした。
どこでだ。
『颯太』
誰かが言った。
『マタアイマショウ』
別れの言葉を言った。
「……ああ、そうか」
頭痛が止んだ。
知っている。俺は声の主のことを知っている。彼女のことを知っている。
亜麻色の髪。
透き通るような藍色の瞳。
鼻立ちの良い顔。
そして――。
『大丈夫ですか?』
平坦な声。
自らがロボットであることを示すかのような平坦な声。
思わず苦笑してしまうような、興味関心が薄そうな平坦な声。
でも、だからこそふとした時に助けられてきた平坦な声。
知っている。俺は知っている。彼女のことを。暗殺用ロボットとして生きて、俺のせいで人に似た心を持ってしまい、後悔して、悩んで、それでも平坦な声で俺を助け続けてくれた彼女のことを。
……俺は知っている。
「マナ」
声にすると、驚くほど早くその名前は俺の心に浸透した。待ち望んでいたかのように、心に浸透していったのだ。
マナ。
彼女の名前は、マナだ。
こことは別の世界で、俺と一月の時間を共にして。
俺の身の回りの世話をしてくれて。
俺に色々なことを教えてくれて。
…………。
『マタアイマショウ』
俺を助けるために死んで逝った……マナだ。
涙が溢れた。その場で、膝から崩れた。
もっと一緒にいたかった。
もっとたくさんのことを教えてほしかった……。
もっとたくさんの感情を教えたかったっ!
でも、彼女はもういない。
彼女はもう死んだ。
俺を助けるために、敵国の戦車に一人で立ち向かい、死に絶えた。
もう彼女は……死んだんだ。
涙が止まらなかった。
願いが叶わないことを理解して。
神の無情さを知って。
俺は泣き叫ぶほかなかったのだ。
後悔が胸を襲った。
無残な結末を呪った。
いくら呪っても報われない世界に、絶望した。
『俺と一緒に生きていくため、だよ』
誰かが言っていた。
『君は暗殺用ロボットなんかじゃない』
誰かがマナに言っていた。
『ようやくわかったよ』
いいや、違う。誰かじゃない。
『どうして俺がここに来たのか」
これは俺だ。俺がマナにそう言ったんだ。
『俺は君に会うためにここに来たんだ』
失意のマナを救いたかったからじゃない。心の底からそう思ったから、俺は言ったんだ。
『君に会うために生まれてきたんだよ、マナ』
……卑怯者だな、俺は。
全てを忘れたフリをして、辛い現実から目を背けて。
思い出したフリをして、絶望したと大泣きをして。
俺は結局、誰かが言ったように、卑怯者だったんだ。エゴイストだったんだ。
後悔し続けることに意味がないことは知っていた。
絶望し足を止めることで大切なモノを失うことを知っていた。
なのに俺は、再び同じ過ちを繰り返そうとしていた。
そんなこと望んでいないと涙する癖に、過ちを犯せば誰かのせいにしようとしていた。
それじゃいけない。
それじゃ、先に進めない。
『マタアイマショウ』
それじゃあ、もうマナとは二度と会えない。
マナは最後に言った。また会おうと俺に言ったんだ。あれが最後の別れではないと俺に言ったんだ。
『君はどうしたいの?』
いつか俺は、マナにそう尋ねた。ここに似た花畑で尋ねた。
マナは困惑気味に言っていた。わからないと。まだロボットであった彼女には、その感情をどうしたいのかわからなかった。
俺はどうだ?
俺は今、どうしたい?
また会おうと言ってくれて、俺のために命を投げ打ったマナと。
俺は、どうしたい?
「会いたい」
もう一度会いたい。
会って。謝って。怒って。
そして、一緒に生きたい。今度こそ、どちらかの寿命が尽きるまで。一緒に生きたい。
そう思った。
そう思ったならば。
俺は、こんなところで泣いている場合じゃないんじゃないのか。
エゴを知り。後悔して。絶望して。
それでも悩む時間が無駄であると知っている俺は、こんなところで立ち止まっていてはいけないんじゃないのか?
願いを叶えるためにはどうすればいい。
答えは、ストンと胸に落ちてきた。
――ああ、そうか。
再びマナと会うために必要なこと。
ロボットの彼女と会うために必要なこと。
それはきっと、驚くほど単純明快な答えなんだ。
……俺が、彼女を作ってあげればいいんだ。
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