第四章

第16話

 おじいちゃんとの思い出はあまり多くなかった。おばあちゃんはずっと家にいたけど、おじいちゃんはずっと仕事をしていたから。いつもそうだった。お父さんよりもずっと遅い時間に帰ってきては、お父さんよりもずっと早い時間に家を出る。そんな大変な仕事をおじいちゃんはやっていた。


 いつか、おじいちゃんがたまの休みで家でのんびりしている日があった。お母さんやお父さんは、おじいちゃんを休ませてあげなさいと言ったのだけれど、当時まだ小さかったあたしは、そんな両親の指示を無視して、自室でパソコンに向かうおじいちゃんに遊んでくれるようにねだった。ただ、ねだったは良いが、この時のあたしは少しだけ恐れていた。あまり家にいないおじいちゃんの人となりがわからなくて、怖い人だと思っていたから。それなのにも関わらず、絡みにいったのは、子供とはいえそれなりに怖いもの見たさな気持ちがあったんだと思われる。


 そんな心持で挑んだおじいちゃんとの対面だったが、そこであたしは知ることになった。おじいちゃんが意外と気さくな人、ということに。おじいちゃんは、お父さんが嫌がるおままごととかを、嫌な顔一つ、いや、むしろ鼻の下を伸ばして応じてくれた。孫に対して抱く感情というものを、当時のあたしはまるで理解していなかった。


 そんなおじいちゃんとの楽しい時間も、騒ぎを聞きつけて部屋に入ってきたお母さんによって終幕した。お母さんは、おじいちゃんに平謝りを続けていた。思わず、おじいちゃんのことが怖いのかもと思うくらい、とても慌しく、何度も頭を下げて、あたしを持ち上げて部屋を後にした。


 おじいちゃんは少し寂しそうにしていた。


 それ以降、再びおじいちゃんはあまり家に帰ってこなくなった。お父さん達にその理由を聞くと、曰くおじいちゃんは今、研究室で激務と戦っているとのことだった。激務という得体の知れないモノと戦っているおじいちゃんが、凄くかっこ良く見えた。


 そんなかっこ良いおじいちゃんが珍しく一時期、毎日のように家にいる時があった。おばあちゃんが危篤で倒れた時だった。その時のあたしは、酷く取り乱していたそうだ。おばあちゃんには良くお世話をしてもらっていたそうで、初めにおばあちゃんが倒れていることに気付いたのもあたしだったそうだ。多分、だから余計にショックしてしまったんじゃないかと、両親は後になって笑い飛ばして教えてくれた。酷い親だと思った。



 おばあちゃんはそのまま亡くなった。大往生だった。



 葬儀の場には、勿論おじいちゃんもいた。喪主を務めていた。

 あたしはその場で、おじいちゃんの傍にいたいと両親にねだった。たまに会う楽しいおじいちゃんのことが、当時のあたしは好きだったそうだ。


「もう、おじいちゃんは忙しいんだから駄目よ」


 お母さんはあたしを叱った。


「真奈美、いいよ。子供には退屈な時間だろうしさ。ほら、美和。こっちにおいで」


 おじいちゃんは優しい笑顔であたしの願いを聞き入れてくれた。


 お母さんは少しだけ呆れていて、婿養子だったお父さんはそんな母をたしなめていた。


 葬儀の時間は酷く退屈だった。坊主の読むお経は、当時のあたしでは呪文のような不気味さを覚えさせたし、参列客の見知らぬ人達との邂逅は、人見知りだったあたしには苦痛なものだった。


「颯太さん、お悔やみ申し上げます」


 喪服を着た参列客がおじいちゃんに頭を下げていた。その後は、おじいちゃんに抱えられたあたしの頭を「可愛いね」とか「大人しくしているんだよ」とか言って数度撫でて、焼香に進んでいった。


「あの人は、誰?」


「研究仲間だよ」


 短い会話の中で、あたしの中の疑問は膨らんでいった。


 そういえばこの時、あたしは祖父祖母の名前を初めて知った。おじいちゃんの名前は颯太で、おばあちゃんの名前は蘭子だったそうだ。


 二人はかつてから町で一番のおしどり夫婦と呼ばれていたそうだ。子供のあたしは、おしどりの意味がわからなかったが、お父さんにとても仲が良かったってことだよと意味を教えてもらって、鼻が高かったことを覚えている。


 葬儀は粛々と進んでいった。そして、これからあたし達は火葬場に向かうことになるそうだ。


 火葬場では、おばあちゃんが入った棺がどこかに納められていた。その様子を見て、大人達は泣いていた。


 だけど、おじいちゃんは泣いてはいなかった。


 しばらく、待合室であたし達は何かを待つことになった。今になれば火葬を待っていたのだが、この時のあたしはまだ小さくてそれがわかっていなかった。先ほどまでは涙を流していた大人達が、静かに談笑をしていた。異質な光景で、今でも脳裏に鮮明に焼きついていた。


「おじいちゃん。何か飲む?」


 そんな中あたしは、一人で椅子に座り俯いていたおじいちゃんに声をかけた。


「いいよ、大丈夫」


 おじいちゃんはそう微笑んで、あたしを自分の膝に座らせた。その後、頭を撫でられた。気持ちよかった。


「こら、美和。またおじいちゃんに迷惑をかけて」


「真奈美、大丈夫だから」


 怒りっぽいお母さんを、おじいちゃんは手で制していた。怯えたあたしの頭を、おじいちゃんはまた撫でてくれていた。


 それからあたしは、朝早くから起きていたせいもあって、急な眠気に襲われて、眠ってしまっていた。


 起こされたのは、真っ白い部屋の中でだった。大人達は、再び涙を流していた。


 おぼろげな記憶だが、あたしを抱えたおかあさんが、おとうさんと箸で白い何かを摘みあっていたのを覚えている。


 あたしが目を覚ますと、すっかりと外は暗くなっていた。先ほどまでいた親戚連中はもう帰っていったそうで、家にようやく平穏が訪れていた。


 しかし、違和感もあった。おばあちゃんがいないのもそうだが、その日はおじいちゃんも家にいたから、そう思ったのかもしれない。


 おじいちゃんは、陶器の前で座布団に腰を下ろしていた。とても寂しそうな瞳をしていたと記憶している。


「おじいちゃん、それは何?」


 あたしはおじいちゃんの見つめる陶器に指を指して聞いた。


「おばあちゃんだよ」


 とおじいちゃんは寂しそうにあたしにその陶器を見せてくれた。


「おばあちゃん、小さくなっちゃったね」


「そうだね」


「ねえ、おじいちゃんとおばあちゃんは仲が良かったの?」


「良かったよ」


 おじいちゃんはあたしの頭を撫でていた。だけど、瞳はどこか遠くを見つめていた。


「おじいちゃん、昔から変わっていてさ。それはもうおばあちゃんを苦しめたんだ。酷い奴だったよ、ホント」


 おじいちゃんの語るおじいちゃん像は、あたしの知る彼と随分と違うモノだった。


「でも、おばあちゃんは結局、俺の前から姿を消すことがなかった。呆れたように笑いながら、馬鹿なことを言うおじいちゃんの尻をよく叩いてもらったよ」


「おじいちゃん、お尻叩かれていたの?」


「そうだよ」


 おじいちゃんは苦笑していた。


「最後まで応援してくれていたよ」


 遠い目で、おじいちゃんは言っていた。何を、という質問は出来なかった。そんな質問をさせる隙を与えないほど、おじいちゃんは憂いのある顔で陶器を見つめていた。


「君は、おじいちゃんみたいになっちゃ駄目だよ」


 おじいちゃんはしばらくして、あたしにそう苦笑して伝えた。


 それからいくつかのおばあちゃんを見送る行事を経て、おじいちゃんはまた家に戻らなくなった。

 むしろ、前よりも家に寄り付かなくなった。おばあちゃんというかけがえのない存在を失ったことを、思い出したくなかったのかもしれないと、今になると思った。


   *   *   *


 夕暮れ沈む屋上で、あたしは男子に呼ばれていた。名前は知らない。興味もない。そんな興味もない相手に、あたしは告白をされた。赤裸々な告白だった。そこまで本心を吐露していいのかと思うくらいの。


 あたしはあたしと恋仲になりたいという彼の願いを丁重に断った。興味もない相手に、あたしはなびく術を知らなかった。


 家に帰ると、あたしは珍しいモノを目にした。それは、いつか誕生日プレゼントとしてあたしがおじいちゃんに贈ったスニーカーだった。それが玄関に並んでいたのだ。


 興味も無いモノになびかないあたしだが、興味のあるモノに対して、あたしは一途なのだと思う。


 ローファーを雑に脱ぎ捨てて、あたしは二階にあるおじいちゃんの部屋の扉を開けた。おじいちゃんは、パソコンに向かい仕事をしていた。


「おじいちゃん、久しぶり」


「おお、久しぶりだな。美和」


 おじいちゃんは微笑んでいた。


「すっかりと大きくなって」


「二ヶ月前に会ったばかりじゃない」


 感慨深そうなおじいちゃんに、あたしは苦笑していた。


「二ヶ月も前だったか」


「そう。全然最近」


「そんなことはないよ」


 おじいちゃんも苦笑した。


 あたしはとりあえずの再会を喜んで、おじいちゃんの膝の上に座った。おじいちゃんはいつもみたいにあたしの頭を撫でてくれた。


「もっと家に帰ってくればいいのに」


「ごめんごめん。あと少しでやりたいことが果たせそうなんだ」


「そうなんだ」


 おじいちゃんは、家に帰ってくることも珍しいが、こうして家に帰ってくると間違いなく自室に篭る。理由は聞いたことはないけど、多分あたしと同じ。口うるさいお母さんが面倒なのだろう。


「学校は楽しいかい」


「うん」


「へえ、何かあったの?」


「うん。あったよ。今日、楽しいこと」


「何かな」


「男子に告白された」


 いたずらっぽい笑顔で、あたしは言った。

 おじいちゃんの頭を撫でる手がしばらく止まった。


「そうなんだ」


「うん。でも断った」


「どうして?」


「だって、興味ない人なんだもの」


 おじいちゃんの苦笑する声が聞こえた。


「興味ない人と時間を共にするなんて、もったいないよ」


「そうかな」


「そうだよ」


 おじいちゃんはしばらく黙った。


「この年になると、色々思うところがある。興味もないと思っていた話も、ふとした時に答えに繋がることがあるんだ」


「そっか」


「うん。そういうことを思う度、思うよ。自分の興味本位だけで行動するのではなく、もっと全体を見て行動をしたほうがいいんだろうなって」


「思うだけ?」


「思うだけ」


 あたし達は苦笑しあった。


「思っても、行動するのは中々難しいね」


「そうなんだ。おじいちゃんでも、そうなんだ」


 子供の頃はわからなかった。だけど、最近知ったことがある。おじいちゃんは凄い人だということだ。不況に喘ぐこの国は、おじいちゃんの功績によって存命させられるといっても過言ではない。歴史の教科書にも、近代史でおじいちゃんの名前は現れる。それくらい、おじいちゃんは凄い人だった。


「前から気になっていたんだけど、おじいちゃんの果たしたいことって何なの?」


 それ故に、疑問もある。これだけの功績を残すおじいちゃんは、一体どうして未だに研究施設に篭る日々を送っているのだろうか、と。

 家族との時間をないがしろにしてまで、おじいちゃんは何を思って、何をしたくて、研究を続けているのだろう。


「まだ秘密だ」


 おじいちゃんはおどけて笑った。


「もう」


「もうすぐわかるよ。そうだな。次、この家に帰ってきた時には絶対にわかる。だから、その時に君を驚かせてあげるよ」


「そう」


「うん」


 おじいちゃんは遠くを眺めた。おばあちゃんが死んでから、おじいちゃんはこうして遠くを眺めることが増えた気がした。一体、何を見たくてこうしているのだろう。それは、あたしにはわからないことのかもしれない。


「思えば、随分と時間が経った」


 おじいちゃんは憂いを纏った声で呟いた。


「一つの願いを決意して。おばあちゃんと共になって。おかあさんが生まれて。

 一時は初め抱いたその願いも燻りかけた時もあったんだよ。

 だけど、おばあちゃんの死に顔を見たら、再び決意が出来た。俺ももう永くないことを悟って、最後に俺のしたいことをしたいと思ったんだよ」


「それが、遅咲きの天才と呼ばれるおじいちゃんの思いなんだ」


 あたしは茶化すようにおじいちゃんの渾名を呼んだ。親族的にも結構恥ずかしいから、多分おじいちゃんも相当恥ずかしいことだろう。


 おじいちゃんは苦笑していた。


「いいや、違うよ」


 そして、首を横に振った。


「俺は……ただのエゴイストだよ」


 エゴイスト。利己主義者。

 自らの利益のために、行動する人達のことだ。


 自らはそのエゴイストだと、おじいちゃんは言った。


 だけど、あたしはそれに疑問を抱いた。だっておじいちゃんは、人のためにたくさんの発明を行った。多少の利己は含んでいても、最終的に利他的な行いになるのなら、そんなに自嘲しながら言う必要なんてないのではないだろうか。


「でも、俺は気付いてしまった」


 そんなあたしの気持ちを代弁するためなのか、おじいちゃんは続けた。


「この世にエゴじゃないことなどないんだってさ。

 動物は生きるために動物を食する。それだってエゴだ。誰かの命を奪うんだから。

 植物は生きるために水を吸う。空気を吸う。それだってエゴなんだ。限りある資源を奪うのだから。

 自らが生きるため。

 利益のために、この世の全ての生物が生きている。それがエゴイズムでないわけがないじゃないか。

 ただ偶然、俺達は互いの利益を求める中で共生することが出来てしまった。ただ、それだけの話なんだよ」


 つまり、この世に生きていることこそが、最大のエゴ、ということだろうか。あたしには難しい話で、思わず首を傾げてしまった。



「とまあ、それらしい話をしてみたが、結局何が言いたいかと言うとだな。


 俺は結局、卑怯者だっていうことなんだ」



 そういうおじいちゃんは、形容しがたい顔をしていた。寂しさとか。後悔とか。絶望とか。様々な感情が渦巻いた顔をしているように見えた。


 おじいちゃんはお母さんに呼ばれて、部屋を後にした。


 あたしは偉大なおじいちゃんの言葉を反芻して、考えた。


 考えて考えて、思った。


 おじいちゃんは決して、卑怯者なんかではないと。


 だって、おじいちゃんを慕う人はたくさんいるから。


 あたしだって。


 研究施設の人だって。


 国民だって。


 そして、お父さんだって、お母さんだって。


 皆が、おじいちゃんのことを慕っている。皆が、おじいちゃんに期待をしている。


 不況に喘ぐこの国は、おじいちゃんの発明した技術でどんどん繁栄を続けている。空想の世界だと言われた近未来が、おじいちゃんの功績でまもなく幕を開けると喜ぶ知見者だってたくさんいる。


 そんなおじいちゃんが。


 皆のために、働くおじいちゃんが。


 卑怯者なはず、ないじゃないか。


   *   *   *


 ある日、あたしはお母さんとキッチンでご飯の支度を手伝っていた。


「ねえ、おばあちゃんとおじいちゃんってどんな人だったの?」


 包丁片手に、あたしは祖父祖母の話を持ちかけたのだった。

 いつもは喧しいくらいにうるさいお母さんが、この時ばかりは苦笑していた。


「二人とも我が強い人だった」


「そうなの?」


 全然、イメージが沸かなかった。


「本当だからね。おじいちゃんは中々帰ってこないし、おばあちゃんはそんなおじいちゃんをあたしがいくら咎めてもいいのよの一言で片付けるし、子供ながらに不満が募ったわよ」


「だから、今おじいちゃんに当たる態度がキツイんだ」


 お母さんが怒りっぽくなった人となりを知れて、あたしは苦笑した。


「それもあるけど……あの人、すぐ一人で突っ走るじゃない。だから心配なのよ。娘目線でもね」


 だけど、お母さんの感情はあたしが思うよりも複雑だったみたいだ。


「おばあちゃん曰く、昔は違ったみたいなのよね。二人が仲良くなる前は、頭はいいくらいの感情しかなかったそうなの。

 でも、ある日を境にそうなったんだって」


「それっていつなんだろうね」


「さあ。でも、おばあちゃんはその時のことを随分と複雑そうな顔で話してくれたわよ。きっと、傍にいたのね。でもその時のおばあちゃんの顔はさ、凄い複雑な顔、してたわね」


「複雑な顔かあ」


 あたしは唸った。しばらく物思いに耽った。

 そんなことをしていたら、鍋が沸騰を始めていて、泡が吹き出た。

 慌てて、あたしは火を止めた。


「ちょっと、しっかりして」


「ごめんなさい」


 あたしは申し訳なくなさそうに謝罪した。

 それからもあたし達は料理を続けた。しばらくすると、お父さんが帰ってきた。それでもおじいちゃんはやはり今日も家に帰ってくる気配はなかった。


   *   *   * 


 おじいちゃんはしばらく家に帰ってこなくなった。大好きなおじいちゃんだけど、こういう時は少しだけ疎ましい。家族なのに毎日会えないとは、なんて辛いことなのだろうと思っていた。


 いつかのおじいちゃんの言葉が蘇っていた。


『次、この家に帰ってきた時には絶対にわかる』


 おじいちゃんがおばあちゃんと結婚する前から願っていた何か。おじいちゃんは、まもなくそれを叶えるそうだ。


 一体、それは何なのだろう。

 もうまもなくに迫った運命の日まで、正直待ち遠しくてしょうがなかった。

 だけど、その前に片付けなければいけないこともあるのだろう。


「ねえ、君」


 あたしは、いつかあたしが振った男子を放課後呼びつけた。

 前までのあたしなら、そんなことは決してしなかったと思う。あたしがそうしようと思ったきっかけは、やはり偉大で卑怯者のおじいちゃんの影響だった。


『この年になると、色々思うところがある。興味もないと思っていた話も、ふとした時に答えに繋がることがあるんだ』


 おじいちゃんのいつか話していた言葉が蘇っていた。


『うん。そういうことを思う度、思うよ。自分の興味本位だけで行動するのではなく、もっと全体を見て行動をしたほうがいいんだろうなって』


 おじいちゃんが永く生きた末に導いた答えを聞いて、あたしは思っていた。


『俺は……ただのエゴイストだよ』


 あたしの行いは、エゴだったのではないのか、と。


 興味がないからと彼の思いを無下にした。その行いは、あたしの我侭なのではないのか、と。


 いつもあたしは我侭だった。


 たまに帰ってきたおじいちゃんに我侭を言って。


 おばあちゃんの葬儀ではおじいちゃんに引っ付き続けて。


 そして、彼の思いを無下にした。


 あたしは、エゴイストだった。


『この世にエゴじゃないことなどないんだってさ』




 でもおじいちゃんは言った。


 エゴじゃないことなど何もない、と。




 生きることがそもそもエゴだと。


 エゴの上で、あたし達は共生して生きているのだと。


 あたしは思った。


 なんて美しい世界なんだと、思った。


 そんな危うい世界を。

 何か一つのきっかけで崩壊しそうなこの世界を、あたしは生まれて初めて美しいと思った。


「友達から、始めましょう」


 だから、この美しい世界に生まれ、生きていく存在として、あたしはもっと共生を知っていくべきだと思った。


 それが、初めの一歩だと思ったんだ。


 男子は微笑んでた。


 どうしてかはわからない。


 だけど、つい先日泣かせてしまった……酷い仕打ちをしてしまった彼が、少しでも救われてくれたのなら、嬉しい。


 もうまもなく冬が来る。


 寒くて身が縮こまる、冬が来る。


 薄暗くなるのが随分と早くなった世界を見て、あたしは制服のジャケットのポケットに手を突っ込みながら、帰路を歩いた。


 馴染みある帰路を、歩いていた。


「ただいま」


 家に帰ると、あたしは喜んだ。


 いつかあたしがプレゼントした白色のスニーカーがあった。




 おじいちゃんが帰ってきたのだ。



 それはつまり、おじいちゃんの目的がついに果たせたことを意味するのだ。彼の孫として生まれてこれたあたしが、おじいちゃんの悲願を喜ばないはずがなかったのだ。


 早速、あたしは二階のおじいちゃんの部屋に行こうと思った。


 靴を脱いで、並べて……ようやくあたしは気がついた。




 あたしのプレゼントした白色のスニーカーの隣に、見覚えのない女物の革靴が置かれていた。

 茶色で真新しい革靴が、置かれていたのだ。




 一体誰のモノだろう?


 そんな疑問を抱きながら、あたしは階段を駆け昇った。

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