第13話
半袖のジャージを羽織って、俺は快活にクレイコートを走り回っていた。中学卒業後、一時は悩んだもののこうして再び高校でもテニス部に入部した。新たな人間関係を築くことへの不安を抱いた昨年から一年が経とうとしている。今ではすっかりと俺の不安は解消されている。同じ競技で、切磋琢磨しあう彼らと関係を築けないなど、今になれば悩むだけ損だったと思わざるを得なかった。
ラケットから伝わるボールを打つ振動が心地よかった。コートを駆けながら、黄色いボールを必死に追いかけた。
汗が滴った。随分と楽しくテニスに打ち込んだからか、体が疲労で少しだけ重かった。
練習試合に勝利して、大きな声で自らの勝利を称えた後、俺は木陰で休息を取っていた。
「よう、颯太」
木陰で俺の隣に腰掛けたのは、同級生の飯塚だった。
「お前、会田さんと付き合ったんだって?」
情報が早いなあ。
「まあね」
「上玉捕まえたな、このこの」
飯塚は肘で俺をつついた。その対応が鬱陶しくて、俺は眉をしかめていた。
「で、どこまでやったんだよ」
「下世話め。黙って練習に励め」
「まあまあ。ちっとはいいだろう」
ちっとも良くないから文句を言っているのだ。こういうデリケートな話題に首を突っ込むな。俺は俺の気持ちを理解しようとしない飯塚に大きなため息を吐いていた。勿論、話してやる気は皆無だった。
「なんだよ、つれないな」
「うるさいなあ」
俺が鬱陶しげに呟くと、俺の態度を面白がった飯塚はゲラゲラと笑い出した。
「まあ、なんだ。仲良くやれよ。会田さんを悲しませるなよ」
しばらくして、飯塚は先ほどと打って変わってまじめそうに言った。態度がコロコロ変わる奴だ。
「ありがとう。がんばるよ」
簡素な言葉を伝えると、飯塚は再び笑い出した。
「本当、お前は時々わからないからな」
「俺はお前がいつもわからないがな」
俺の返事への応答はなく、飯塚は話を続けた。
「さっきもそうだ。試合中、相手を煽ろうとしたのに、お前途中で止めただろ。去年のお前ならギャーギャー騒がしかったのに、不思議だと思ったよ」
俺はばつが悪くなり俯いた。なんてところに注目していやがんだ。まあ、事実なのだが。確かに俺は試合中、相手を故意にイラつかせようと思って煽ろうとした。テニスとはメンタルコントロールが重要なスポーツである。基本、一対一で戦うスポーツの性質上、相手をイラつかせてミスを誘うのは上等手段だった。まあ、スポーツマンシップは欠片もない行為なので、真似されたり注目されたりするのはとても嫌なのだが。恥ずかしい的な意味で。
「何でだよ。何で、煽るの止めたんだ」
だから、こうして飯塚にそれをほじくり返されるのはとても嫌だ。自らの悪癖を認めさせられることは、とても心地が悪かった。
大層不思議そうに尋ねてきた飯塚に、俺は俯いた。
「そんなところほじくり返して欲しくないんだけど」
「わかって言ってるから」
屑だな。ああ、俺も大概か。
「そもそも、俺が精神的に成長したとか考えないのか。それだと俺が卑怯者みたいじゃないか」
「お前は卑怯者だろう。自覚ないのか」
飯塚に当然のように言われて、俺は唸った。まあ、自分が卑怯者ではないとは思ったことがないことは事実だ。確か、いつかも思った。あれは、そう。どこかで何かの理由で女性を苦しめた時、自らの行いを咎められたくないと思った時も、そうだった。あの時の俺は間違いなく、卑怯者だった。
……そんなこと、あったかな。
まただ。また俺は、知らない自分をどこからか見つけていた。いつからだったか、俺はこうして、何かにつけて、知らない自分を記憶の渦の中から見つけてくるようになった。その度、胸の奥底に違和感のような不快感が湧き上がる。
俺は一体、何を忘れてしまったのか。
そんな疑問が浮かんでは消えていくのだ。
「で、何で煽らなかったんだ」
そして、これもそうだった。
俺は再び、記憶の渦から知らない俺を見つけていた。
「煽った相手にコテンパンにやられると思ったから」
相手は一年生。俺よりもテニスの実力は劣っている。それは、俺の主観的意見ではなくて、飯塚とかに聞いても同じ意見を示す客観的意見だ。俺はあの一年生よりも強いのだ。
なのに俺は、彼を煽ることで彼に負けるかもと恐れた。いつか彼に負けたことがあるからとか、そういうわけでは決してない。
記憶の奥底で思い出すのだ。
誰かを煽った後、コテンパンにテニスで負けて、コートで大の字に寝転がった自分の姿を。
思い出すのだ。
だから俺は、彼を煽れなかった。
つまるところ、これはトラウマだ。
覚えてもいない誰かに、煽ったせいでコテンパンにされたトラウマで、俺は無闇やたらに誰かを煽ることに、今恐れているのだ。
良心的なトラウマな気がした。やはり、相手の気を害することは、どんな土俵であれ褒められることではないから。
ただ、俺にそんなトラウマを植えつけてくれた人の顔は。俺をテニスでコテンパンにした誰かの顔は、今もこれからも思いだせる気がしなかった。
* * *
図書館は喧騒とする外と違い、随分と静かなものだった。談笑一つない、静かな空間だった。
心地よい気持ちを抱きながら、俺は本棚から数冊の本をピックアップして引き抜いていた。背表紙には、戦争に関するタイトルが書かれている。そんな本を数冊も腕に抱えているわけだが、別に俺は戦争肯定者ではない。むしろ、反対者だった。
こうしてこんな血生臭い本を腕に抱えているのは理由があった。毎年二年生が行う行事の修学旅行が来月に迫っていたのだ。
先日、互いの気持ちを赤裸々に語り合い恋仲になった蘭子と、俺は放課後、その修学旅行に向けての予習を行うために、今日図書館に立ち寄っていた。
俺達の向かう旅行先は、かつて敵対国と凄惨な陸上戦が行われた場所として有名だった。総死亡者数は、十万人を超していたそうだ。それほどまでに血塗られた戦地となった場所に、俺達は学生の本分である勉学のために来月足を運ぶ。
初対面こそ気軽そうなイメージを受けた蘭子だったが、その性格は意外にも生真面目そのものだった。
今だってそうだった。そんな場所には滅多に行けないんだから、予備知識を持って望むことで一度でより一層と学びを深めたいという彼女の考えで、俺達は今図書館で戦争について調べていたのだ。本当、殊勝な心がけだと思った。
そんなわけで、俺達はそこまで広くない学校の図書館に足を運んで、蘭子の言う予備知識を蓄えるための活動に勤しんでいた。
眠い目を擦りながら、俺は大きな机に積んだ本を読んでいた。
「この戦場、砲弾も手榴弾もとてつもない量使用されたみたいよ。地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたんですって」
蘭子は読んでいる本の一説をなぞりながら、俺に戦争の悲惨的な出来事を教えてくれた。
俺は蘭子の読む本を覗いた。確かに。砲弾。手榴弾。ロケット弾。どれもとてつもない数の弾が投下されたみたいだ。本にはモノクロの写真が貼られていた。多量の爆撃により更地と化した戦地の写真だった。
「惨い。どうして人はこんな酷いことをするんだろう」
蘭子は寂しそうに呟いていた。
「エゴイストだからね、人は」
「利己的だからって、人の命を奪うのは違うんじゃないのかな」
「でも、多分同じような過ちは何度でも人は繰り返すと思うよ」
蘭子の持つ本にも興味を失って、俺は自分の持つ本へ興味を戻した。
しばらくして、蘭子がいつまでも返答しないことに気がついて、俺は彼女の顔を覗いた。蘭子は目を丸めていた。彼女と恋仲になる前からも、彼女のこういう顔は度々見ていた。こういう時は大体決まっていた。
「本当、颯太は見てきたように話すね」
「そうだろうそうだろう」
俺は苦笑していた。
確かにそうだった。俺は確信めいたものを持って、今蘭子に人間の愚かさを説いていた。だけど、一体どうしてそこまで確信を持ってそれを言えたかは、言った本人でもある自分でも簡単には説明出来る気がしなかった。
それこそ、そう。
いつもと同じだ。
俺はまたいつも見たいに、俺の脳の奥底に眠る記憶の渦から、俺の知らない俺を見つけたのだ。不快感が押し寄せた。自分が知らない自分を知ると言うのは、言葉では言い表せない不快感があった。
「大丈夫?」
いつの間にか俺は、苦痛そうな顔を見せていたらしい。蘭子が心配そうに俺の顔を覗いていた。
「大丈夫かはわからないけど、まあ心配する必要はない」
遠くを眺めて、俺は言った。
蘭子は俺の曖昧な物言いに、苦笑を見せていた。
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